第四章 -11-
堅魚は出雲を離れたくなかった。
ここには既に堅魚の家庭がある。
麻奈古がいて、もうすぐ子供まで生まれるのだ。
夫としても父親としても、彼らをここへ置き去りにすることなどできない。
しかし、都へ戻れという国盛の命令も、また無視できないものだった。
国盛は物事を自分の思い通りに運ばねば気のすまない女だ。そのためには手段を選ばない。
その点、最も父の血を濃く受け継いだ子であるとも言えよう。
誰かに対して、何か恨みに思ったり怒りを感じたりしていれば、国盛は決してそれをそのままにしておいたりはしない。
どんな手を使ってでも恨みを報じ、相手に自分の怒りを思い知らせる。
国盛がそういう類いの女であるということは、宮中でも周知の噂となっているくらいだった。
それに、こちらにも何か禍があるかもしれないと、先ほど古麻呂が口を滑らせていたではないか。
おそらく、古麻呂は他にも何か言いつかっているに違いない。
例えば、堅魚が都へ戻ることを拒否したら、大切にしている人間を人質に取ってでも、堅魚に言うことを聞かせろなどと。
もし万が一、麻奈古が傷つけられるようなことにでもなったら。
腹に子がいるのだ。いくら武術に長けた麻奈古であっても、今はほんの少しの無理が身体に障るかもしれない。
子供のことを考えれば、麻奈古には誰にも指一本触れさせたくはなかった。
それに、堅魚は諸魚のことを考えていた。
不遇の生涯を送り、たった一人でこの世を去った弟。
その最期だけでもせめて看取ってやることが、兄である堅魚の最低限の役目であったはずなのに。
諸魚のことを忘れていたわけではない。
だが、いつの間にか麻奈古の方が大事になってしまっていたことも、また堅魚にとっての正直な真実だった。
だから、堅魚はそのまま諸魚を都に置いておくことができたのである。
だが、そのせいで、諸魚が死んだのだとすれば。
堅魚は諸魚に対する申しわけない気持ちで一杯だった。
せめて、その葬式を堅魚自身の手で出してやることが、諸魚への精一杯の供養になるのではないか。
このこと一つ取っただけでも、堅魚は都へ戻らねばなるまい。
やはり、堅魚が大人しく国盛の命に従うほかないのか。
だが、一度でも都へ戻ったなら、果たしてまた出雲へ帰って来られるものか。
今まで何の連絡もして来なかった国盛が、急に帰れと命令を出したのだ。
あの女は無駄なことはしない。きっと、何か理由があるのだ。
国盛の性格を考えれば、堅魚とて生きて戻れる保証はなかった。
ましてや、諸魚の死にすら疑いがあるとするならば……。
ああ、やはり出雲を離れられない。
麻奈古の胸に顔を埋めながら、堅魚は同じことを繰り返し繰り返し考えていた。
だが、何度考えても、堂々巡りして結論が出ない。
麻奈古の肌を柔らかく、その温もりを愛しく感じれば感じるほど、堅魚の頭は乱れて収集がつかなくなる。
そして、苦悩のあまり、いつの間にか麻奈古との刹那の悦びに逃げてしまっている自分を感じるのであった。
夜が白々と開け始める頃まで、堅魚は麻奈古を離さなかった。
大事な宝物を取り上げられようとする子供が、必死にそれへしがみつくかのように。




