第四章 -10-
堅魚は急に目の前が真っ暗になるのを覚えた。
無様に倒れるのを防ごうと、堅魚は必死になって柳の幹に縋りつく。
そんな堅魚を、古麻呂は冷たい目つきで眺めていたが、やがて横柄な口調で堅魚に言い放った。
「これ以上のことを、私は何も承ってはおりません。あなたには直接会って申し上げたいことがいろいろあると、国盛様はおっしゃっておいででしたから。早々に、都へ戻られた方がよろしいでしょうよ。さもないと、こちらにも何か禍が降りかかるかもしれません。もっとも、急いで都に戻ったって、あなたもただでは済みますまいがね」
そう言って耳障りな含み笑いを残すと、古麻呂はふっと身を翻して闇の中へ消えた。
堅魚は驚いて後を振り返ったが、そこには既に古麻呂の姿はなかった。
長い間、堅魚は柳の木の下に立ち尽くし、月のない暗い夜をじっと眺めていた。
聞こえてくるのは、微かな小川のせせらぎの音だけ。
それは、ここで麻奈古に初めて出会った時のことを、堅魚に思い出させた。
麻奈古に逢いたい。
今、すぐに。
自分の心の中に、何かが指の隙間から零れ落ちていくような感覚を覚えながら、堅魚は暗闇の中を掛け出していった。
郡家に戻ってみると、堅魚たちの住む離れ家にはまだ明かりが灯っていた。
おそらく、史の方は既に眠っているであろう。堅魚は史を起こさないように、自分の部屋の戸をそっと叩く。
細く開けられていた戸が開いて、中から麻奈古が顔を出した。堅魚の姿を見ると、優しく微笑みながら言う。
「良かった。なかなか帰って来ないので心配した。遅かったけれど、寄り合いで何か揉め事でもあったのか」
その問いには答えず、堅魚はぐいと戸を押し開けると、草履を脱ぎ捨てるのももどかしげに中へ入った。そして、いきなり麻奈古を抱きすくめ、すぐ後ろにのべられていた褥の上に押し倒す。
麻奈古の腹の辺りを気にしつつも、堅魚は麻奈古の上に覆い被さり、麻奈古が夜着にしている薄物の紐を解いた。
麻奈古は少し驚いたように目を見張ったが、やがて堅魚の背へ廻していた手に力を込める。
麻奈古の白い首筋に唇を這わせながら、堅魚は心の中で叫んでいた。
この幸福を失いたくはない。
生まれて初めて味わい、そしてようやく手に入れたものなのだ。
国盛であろうと、誰であろうと、それを奪う権利などありはしない。
だが、何か逃れようのない手が、自分の側へ忍び寄っていることに、堅魚は否応なく気づかされていた。




