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第一章 -9-

久しぶりの再会を喜ぶ言葉どころか、長旅を労う挨拶すらない。


ただ、鋭い声音でそう言い放つ父に、堅魚は怒りよりもまず戸惑いを覚えた。


「それは……どういうことですか。兄上は」


「豊庭はもういない」


すっかり白くなった父の眉が苦渋に歪む。


「いないって、もしかしたら……お亡くなりになったのですか」


堅魚は驚いて叫んだ。豊庭が死ぬなんて信じられない。


だが、父の返事は奇妙なものだった。


「わからないのだ。今はただ、生きているかも死んでいるかも、誰も知らぬ」


「そんな馬鹿な。兄上はどこにおられるのです」


「出雲だ」


「出雲……」


一体どういうことだろう。出雲はこの大和を遠く離れた異郷の地であり、兄とは何の縁もゆかりもありそうにない。


「どうして、そんなところに」


父はそれにはすぐに答えず、しばらくじっと堅魚の顔を眺めていた。そして、低く押し殺した声で堅魚に言った。


「今から話すことは、絶対に他人へ漏らしてはならぬ。国のまつりごとの根幹に関わる大事だ。もし他言したら、お前の命はおろか、我が石上家の命運もそれまでだと思え」


病み衰えた父の顔は、まるで黄泉を彷徨う幽鬼のようだった。父はもう一度堅魚の顔を厳しく見据え、病者とも思えぬ強い力で堅魚の手を鷲掴みにしながら問うた。


「誓えるか」


その鬼気迫る口調に、堅魚は思わず頷いていた。


父はそれを確かめると、握り締めた手に更に力を込め、堅魚を自分の病床のすぐ傍らに跪かせる。そして、堅魚の耳元へ口を寄せながら、低い声で話し始めた。


「お前は石上に篭っていて世間のことは何も知らぬと思うが、昨年宮中において変事が起こった」


「どういうことです」


「今の皇太子がどなたであるか知っているか」


おびと皇子でしょう。それくらいは、石上にいても耳に入ります」


「昨年の末、その皇太子が俄かに……死んだのだ」


「死んだ? まさか」


「いや、死にかけたと言うべきかな」


父は疲れ果てたような溜め息を漏らした。


首皇子は先先帝である文武帝の忘れ形見である。


母は、藤原不比等ふじわらのふひとの娘の宮子夫人。


不比等は、天智帝の右腕であった鎌足かまたりの息子だ。父親に勝るとも劣らぬ辣腕家で、壬申の乱で倒れかかった藤原氏を見事に建て直し、今や更にその勢力を広げつつある。


そんな不比等にとって、娘の産んだ孫である首皇子の即位は、何としても成し遂げねばならぬ悲願であった。


そのために、不比等は文武帝の他の妃をありもしない不倫をでっち上げてまで排除し、その腹に生まれた首皇子の異母兄弟を皇族の立場から蹴落としてまで、首皇子を唯一の皇位継承者にしたのである。


そして、今やその首皇子は成長し、やはり藤原不比等の娘で母の異母妹にあたる光明子を、昨年正妃に迎えばかりだった。


今はまだ皇子の伯母である元正女帝が帝位についているとはいえ、首皇子がその後を継いで即位するのは、もはや時間の問題である。


以前豊庭が石上に来た時に話してくれたことを、堅魚は少しずつ思い出していた。


父は苦しげに身を捩り、どこか痛むのかしきりに腹の辺りをさすっていたが、目だけはぎらりと光らせながら話を続ける。


「首皇子は生まれた時から病弱でな。今までも何度か体調を壊し、危篤に陥るような状態になったことがある。だが、周りの者の必死の看護で、その都度何とか持ち直してきた。首皇子は藤原氏にとって唯一の持ち駒。どんなことがあっても、死なれては困るのだ」


「でも、その皇子が」


「ああ。朝になって女官が起こしにいくと、ご自分の寝床の上でぐったりとしていて、もう既に息をしておられなかった」


「何と」


「そして、最初にそれを見つけた女官というのが、今は皇太子妃の光明子に仕えている国盛だったのだ」


国盛は堅魚の異母妹である。布留の女が産んだ娘で、乙麻呂や東人の姉に当たる。


国盛は五年ほど前に藤原不比等の息子の宇合うまかいと結婚し、その後女官として宮中に出仕し始めたと、やはり石上を訪れた豊庭から聞いていた。


「国盛はこの大事を一先ず秘し、私と夫の宇合殿にだけ知らせてきた。それで、我らは不比等殿や光明子妃といった主だった方々だけにこのことを伝え、密かに集まってこの事態をどうするか話し合った。その結果はこうだ。首皇子には何としてでも生きていて頂かなければならない」


「でも、死んでしまったものをどうして」


「生き返らせるのだ」

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