第三章 -31-
堅魚の眉が曇ったのを見ると、意富加牟豆美は更に堅魚へ言った。
「身体のことだけではない。現世へ生まれ出る時に持ってきた役目を果たし終えたからこそ、死んで現世を離れるのだ。そんな魂が現世へ戻ってくればどうなると思う?」
「死んだ基皇子が生き返ってきたら、我が国の運命は変わってしまうでしょう」
もし、基皇子が死んだままであるならば、次の皇太子を決めるのは至難の技となる。
聖武帝には先頃もう一人の男子が生まれていた。
安積皇子だ。
だが、安積皇子の母は県犬養広刀自。藤原氏とは何の関係もない。
もし、安積皇子が皇太子になってしまったとしたら、藤原氏にとっては大変なことになる。
聖武帝と藤原光明子の間には、基皇子だけでなく安倍皇女という娘もいるが、せっかく男子がいるのにわざわざ女子の皇太子を立てるのは異例なことだ。
おそらく多くの反対が出るだろう。
特に、長屋王辺りからは。
それどころか、自分の血筋や姻戚関係や年齢を盾に、長屋王は自ら帝位につくことを画策してくるに違いない。
だが、もし基皇子が現世に戻ってきたら、事は簡単だ。
皇太子位はそのままだから、順当に基皇子が次の帝位につくだけ。
藤原氏にとっては、何とありがたいことだろう。
一見すれば、基皇子が甦ることで朝廷の内紛を防ぐことができるように思える。現世を平和に保つためには良いことなのかもしれない。
だが、堅魚の胸の内には、意富加牟豆美の言葉がわだかまっていた。
現世での役目を果たし終えたからこそ、人は死を迎える。
だとするならば、基皇子の役割も既に終わっているということか。
それならば、基皇子の死後の混乱こそが、天の意思だというのか。
いや、天がそのように世を乱し、右往左往する人間たちをみて楽しむなどということは考えられない。
もしかしたら、基皇子が夭折の定めを持って生まれてきたのは、本当は死ぬはずだった聖武帝の身代わりをするためだったのではないか。
或いは、聖武帝が生き返ったために生じた矛盾や混乱を、本来あるはずの形に戻すためだったのでは。
それを裏付けるかのように、意富加牟豆美は低い声で言った。
「今はみな、目先のことだけしか考えてはいないだろう。だが、運命が変わってしまうのは、甦った本人だけに留まらないのだよ。それに纏わる人々全ての運命が狂ってしまうのだ。それどころか、横道へそれた時代の流れを元に戻すために、いずれどれほど多くの命が犠牲になり、多くの血が流されるようになることか。聖武帝だけでもそうなのだ。基皇子まで現世に戻ったら、この国は一体どうなることだろう」
聖武帝が甦ったために、ただでさえ現世の状況が変わってしまっているのだ。
その上、更に基皇子の分まで付け加えられるとしたら、その利子は計り知れないものとなろう。
それを、堅魚や国盛をはじめとするこの件に関わってしまった全ての人間たち……いや、何も知らず何の罪もない幾千の民人たちまでが支払うことになるとしたら。




