第三章 -20-
豊庭はそっと、少し離れたところにいる綾門日女の方を盗み見た。
綾門日女は意富加牟豆美を手伝うように、一緒になって横たわる麻奈古の頭の上に掌をかざしている。
それを確かめると、豊庭は再び堅魚の方へ顔を寄せ、どこか遠くを見つめるような眼差しで話し始めた。
「父上に連れられて、私が初めて石上の館へ行ったのは、私がまだ十五歳の時だった。お前の母御に引き合わされた時、こんなに美しい人がこの世にいるのかと、私は大そう驚いたものだよ。あの頃の母御は、二十歳を少し過ぎたばかりでね。世間の風に当たらずに育ったせいか、どこか少女めいて大そう愛らしかった」
そのような母の面影は、まだ堅魚の中にも僅かに残っている。
鈴のなるような可愛い笑い声、少し甘ったるいしゃべり方。
子供を持つ母親のものというよりは、人形遊びをする童女を思わせるような母の記憶。
堅魚はその微かな面影を味わおうと、瞳を閉じて俯いた。
豊庭も思い出を手繰りながら、独り言のように呟く。
「おそらく、あれが私の初恋というものだったのだろうな。もちろん、父の妻とどうこうなろうなどとは考えたこともない。そんなことだけは、私はしたくはなかった」
そう言って、豊庭は急に眉を顰めた。
だが、それはすぐに消え、また懐かしげな表情で続ける。
「ただ、時折父上の名代として届け物などをした時、お前の母御が何かと私を頼りにしてくれるのが、その頃の私にはこの上なく嬉しかった。お前の母御の頼みなら、何でも叶えて差し上げたいと思っていたものだよ。ましてや、その御遺言ならば、私にとっては絶対守らねばならないことだったのだ」
「それは」
「ご自分の息子たちのことを、母御は大そう案じていた。生まれたばかりの諸魚のこともそうだが、特に堅魚……お前のことを。父上がお前を変に疎んじていることに、母御は薄々気づいていたらしい。その理由まではわからなかったにせよな。それで、最期の息を引き取る前に、お前の母御は遺言の文を残されていた。父上にではなく……私宛てに」
「母上の遺言?」
「そうだ。ほんの走り書き程度のものだったが、その文にはこんなことが書かれていた。これからは、両親の代わりに、堅魚を可愛がってやってくれ。親の恩愛を知らずに育つであろう子供たちに情けをかけ、これから先も無事に身の立つよう計らってくれと。だから、私はお前を自分の子供だと思ってきた」
そして、少し自嘲するような笑みを浮かべながら続ける。
「私が生涯妻を娶らなかったのは、お前の母御のことが忘れがたかったからだ。誰と褥を共にしても、母御を想うほどに心惹かれることはなかった。それに、父代わりとして、私の持てるものは全てお前に残したいと、私はずっと考えてきた。だから、父上にお前を私の養嫡子にしたいと申し出たのだ」




