第68章
一方、ベレニスは自分の部屋にたどりついて、そこでぼけっと座り込み、自分に考える力がなくなっていることに気がついたが、クーパーウッドと自分のことが心配でたまらなかった。アイリーンは彼の部屋に戻ったかもしれない。それは今の彼にどれほどの悪影響を与えるだろう! 実際に死をもたらすかもしれない! 彼のために何もできないのは、どれほどつらいか! 最終的にベレニスは、ジェームズ医師のところに行って、アイリーンのこの危険で無慈悲な態度を打ち破る方法を尋ねてみようと思った。しかし、また出くわすのではないかという恐怖に引き戻された。ひょっとしたら、アイリーンは廊下かジェームズ医師の部屋にいるかもしれない! この状況は次第に耐え難いものになり、最後に実用的なアイデアが出た。電話のところに行って、ジェームズ医師にかけた。ジェームズが出たのでベレニスはほっとした。
「ジェームズ先生」声を震わせて話し始めた。「ベレニスです。もしよろしければ、すぐに私の部屋まで来ていただけないでしょうか? 大変なことになりました。すっかり動揺してそれが治まらないので、先生に相談しないとなりません!」
「いいですとも、ベレニス。すぐに行きますよ」ジェームズは答えた。
それから、ひどく不安げな声でベレニスは付け加えた。「もし廊下でクーパーウッド夫人を見かけたら、くれぐれもここまで後をつけられないでくださいね」
しかし、ここで声が途切れた。ジェームズは危険を察して、急いで電話を切り、診療セットを持って、ベレニスの部屋に直行してドアをノックした。ベレニスはドアの陰からささやくように応えた。
「先生、お一人だけですか?」
一人だけだと告げると、ベレニスはドアを開けた。ジェームズは中に入った。
「どうしました、ベレニス? 一体、これは何ごとですか?」ろくに愛想もなく、同時に相手の真っ青な顔を観察しながら尋ねた。「どうして、そんなにおびえてるんだい?」
「ああ、先生、うまく話せません」ベレニスは実際に恐怖で震えていた。「クーパーウッド夫人なんです。廊下に出たとたんにそこにいた夫人と鉢合わせしたんです。むこうも私を見ました。その表情があまりにもすさまじかったので、フランクが心配なんです。私と別れてから、彼女がフランクに会ったかどうか、ご存知ですか? アイリーンはフランクの部屋に戻ったかもしれない気がするんです」
「それはないな」ジェームズは言った。「私はそこからここに来たんだから。フランクは大丈夫、何ともないよ。だが、こっちは問題だ」ジェームズは薬箱から小さな白い錠剤を少しとり、ベレニスに一錠渡した。「これを飲んで、しばらくは何も喋らないことだ。そうすればあなたの神経は落ち着きますよ。それからすべてを話せばいい」ジェームズはソファーの方へ行きながら、ベレニスに自分の横に座るように言った。ベレニスは徐々に落ち着きを取り戻している兆しを見せた。「さあ、いいかい、ベレニス」ジェームズは言った。「ここでのあなたの立場がとても厄介なものであることはわかっている。あなたがここに来たときから、私はそれを知ってたけど、なぜそんなにピリピリするんだい? クーパーウッド夫人があなたを個人的に攻撃するとでも思うのかい?」
「いえ、ちがいます、自分のことは心配してません」ベレニスは前より冷静に言った。「私が本当に心配しているのはフランクのことです。このところ、ずいぶん具合が悪く、衰弱し、無力です。生きていたくなくなるくらいひどく傷つくことを、アイリーンが言ったりやったりするかもしれないのが心配なんです。フランクはアイリーンに、とても寛大に、善意で向き合ってきたんです。そして、今、彼が憎しみではなく愛を必要としているときに、彼がアイリーンのためにすべてのことをしたというのに、アイリーンは、私には何だかわかりませんけど、フランクが病気をこじらせるかもしれないようなとてもひどいことをやろうとしています。アイリーンは嫉妬するといつも自分の感情をコントロールできなくなるとフランクは何度も私に話してくれました」
「ええ、私も知ってます」ジェームズは言った。「彼はとても偉大な男性だが、間違った女性と結婚してしまった。本音を言うと、私はこういうことを恐れていた。あなたが同じホテルにいることは賢明ではないと思った。しかし、愛は強い力です。それに、私はイギリスにいたときに、あなた方がどれほどお互いを深く思いやっているかを見ました。彼が奥さんとうまくいってなかったのは、多くの人と同じように私も知ってましたからね。ところで、あなたはアイリーンと何か言葉を交わしましたか?」
「いいえ」ベレニスは答えた。「エレベーターを降りたときに、会っただけですが、向うが私だと気づいたときの怒りと反発は本物で、私はそれを全身で感じました。もしできるのなら、アイリーンは私たち二人に何かひどいことをするかもしれないと思いました。それより、私は彼女がフランクの部屋に戻るかもしれないことを心配したんです」
ここでジェームズ医師は、この嵐がおさまるまで部屋にこもり、自分から知らせがあるまで待つようベレニスに勧めた。何よりも、ジェームズの指示どおり、クーパーウッドに再会しても、このことは一言も彼の耳に入れないことにした。容態が悪すぎて到底それには耐えられないからだ。とりあえず、ジェームズは気長に説明したように、クーパーウッド夫人の怒りに立ち向かって、夫人が公に何をやり何を言おうとしているのかを、可能であれば、見極めるためにも電話をするつもりだった。それから、ジェームズはベレニスと別れ、問題をよく考えるために自分の部屋に行った。
しかし、アイリーンに電話する余裕もなく看護婦の一人が部屋に来て、クーパーウッドを見に来てくれませんかと尋ねた。いつもより落ち着きがないようだった。ジェームズが行くと、クーパーウッドが居心地悪そうに、ベッドで動き回っているのに気がついた。そして、アイリーンとの面会はどうだったかと尋ねると、彼は弱々しく答えた。
「ああ、すべてうまくいったと思う。少なくとも、最も重要な点を確認したよ。だけど、何だか、ジェフ、長話をしたせいか、とても疲れた気分だ」
「それは私も予想してたことだ。次回は、こんなに長く話さないでくれよ。さあ、こいつを飲みなさい。これでしばらく休めるでしょう」そう言ってジェームズは、コップ一杯の水と粉末をクーパーウッドに渡した。医師が話を続ける間に彼はそれを飲み込んだ。「さて、今のところはこれでよし。午後、もう少ししたら、様子を見に来るからね」
それから、ジェームズは自分の部屋に戻り、アイリーンに電話をした。その頃には帰宅していた。メイドからジェームズの名前を告げられると、アイリーンはすぐ電話に出た。ジェームズは最も丁寧な口調で、ご主人との面会がどうだったかを知りたくて電話をしていると告げて、何か手伝えることはないか尋ねた。
話をするアイリーンの声は怒りで制御できなくなっていた。
「もしもし、ジェームズ先生、もしよろしければ、もうあたしに電話しないでいただけるととても助かるんですけど。あたしはやっと……ロンドンとここで……いわゆるあたしの主人とフレミングさんの間に何があったのか、わかりましたから。あの女が向こうで主人と暮らしていたことも、今だってあなたの目の前で、明らかにあなたが協力し承知の上で、主人と暮らしていることも、わかりました。それなのに、あなたはあたしが主人と満足いく話ができたかどうか、知りたいんですね! おまけに、あの女が同じホテルに隠れていたなんて! こんなひどい話はこれまで聞いたことがありません。さぞかし世間が喜んで聞きたがる話よね! まあ、楽しみにしてらっしゃい!」それから、怒りで声をからしながら付け加えた。「あなたは、お医者さまでしょ! 正しい生き方に関心があるはずの人が……」
ジェームズ医師は、アイリーンの怒りの激しさを感じながらも、何とか話をさえぎって、強引だが冷静に言うだけのことは言った。
「クーパーウッド夫人、あなたの批判は当たりませんな。私は自分に関係のない状況を判断するためじゃなく、専門的な能力を買われてこの件に呼ばれたんです。それに、私のことにしてもそうだが、ろくに知らない人についての人の動機を判断する権利なんてあなたにはありませんよ。あなたが信じようが信じまいが、あなたのご主人は重病なんです。もしあなたがどんな話であれ新聞にばらすなどという大きな間違いを犯したら、ご主人やご主人の関係者を傷つけるよりも、その千倍は自分を傷つけることになりますからね。何しろ、ご主人には強力な友人だけでなくて、崇拝者がいますから、ご存知でしょうが……友人がたは、あなたがなさろうとしている行動にえらく憤慨するでしょうし、ご主人を裏切りませんからね。もしご主人が亡くなたら、まあ、そうなるかもしれませんが……あなたが考えているような公然とした攻撃がどう受けとめられるか、自分で判断してみることですね」
この痛烈な言葉は、それほど遠くない過去に自分が犯した軽率な行為の数々をアイリーンに思い出させた。話しているうちに震えんばかりだった声が急に多少勢いを失った。
「あたしは、こういう問題の私的な側面について、あなたとも、他のどなたとも議論したくありません、ジェームズ先生、何が起きようと、主人に関することはどんなことも二度とあたしに電話しないでください。どうせ、フレミングさんが見舞いに来て、あたしの主人を慰めてくれるんでしょ。あの女に任せなさいよ。そして、あたしには電話しないでください。みじめな関係にはうんざりなのよ。これが最後よ、ジェームズ先生」ここで電話がチンと鳴った。アイリーンが電話を切ったのだ。
電話に背を向けたとき、ジェームズ医師の顔にかすかな微笑みが浮かんだ。ヒステリーの女性に接してきた長年の専門的な経験から、アイリーンの怒りの力がベレニスに会って数時間経過したので消耗したのを知っていた。結局、ジェームズも知っていたように、これはアイリーンにとって新しい話ではなかった。どうせ、アイリーンの虚栄心が自由に公言させまい、とかなり確信していた。過去にそうしなかったのだから、今回もしないだろう、と感じたのだ。ジェームズはこうして自信満々にベレニスのところへ行って報告した。見たところ、彼女はまだ緊張していて、彼からの知らせを待ちわびていた。
アイリーンは吠えるだけで噛みつきゃしないと思うと説明を続ける間ジェームズはずっとにこにこしていた。アイリーンはジェームズとクーパーウッドとベレニスをさらし者にすると脅したが、話すだけ話したら彼女の怒りはおさまり、もう激発することはなさそうだ、と確かな感触を持ったからだ。アイリーンは二度と夫に会わないと最後に宣言したので、ベレニスに世話を頼まなければならなくなったように見えた。そして二人は一緒にクーパーウッドに病を乗り越えさせられないかを確かめるつもりだった。ベレニスは四時から十二時までの夜の看護を受け持ってもよくなった。
「ああ、何てすばらしいことかしら!」ベレニスは叫んだ。「彼を助けるために私にできることはすべて喜んでやるわ……私にできることは何でも! だって、先生、フランクは生きていなければならないんです! 元気になって、自分が計画したことを自由にできなくてはならないんです。そして、私たちが彼を助けなくてならないんです」
「そうしてくれると、とてもありがたいよ。彼はあなたのことをとても気にかけていますからね」ジェームズは言った。「あなたが世話をすれば、間違いなくぐんと良くなるでしょう」
「ああ、先生、私の方こそ先生には感謝しています!」ベレニスは両手で相手の両手をとって叫んだ。




