第47章ー第65章
第四十七章
一方で、九月下旬の四日間、ベレニスはトレガサルの絵のように美しい歴史的なものの数々を楽しんでいた。ステインは、隣接する地所に住む楽しくて面白い夫婦のロバート・ウォーラー夫妻と、この地域のとても重要な漁業団体の一つの裕福な顔役で、ずいぶん前に商人から紳士階級になっていたウォーレン・シャープレスをゲストに迎える手配をしておいた。この三人はカーター夫人をもてなす手伝いをするためにいた。
そして、ステインは自分について説明したとおりに、資金の流用を、自分のかなりの金融の利益と同等の立場に置く目立った傾向がある印象をベレニスに与えた。別の言葉で言うなら、彼は儲け方を心得ていた。トレガサルは湿地の広大な台地であり、ところどころが、森林かこの西海岸の粘板岩の岬か浜辺に続いていて、ステインは自分の領地と州の見所に対する熱い思いでいっぱいだった。ステインは、できるかぎり二人っきりになりたかったベレニスに向かって、石の円と線を指さした。それはおそらくドルイド教か他の初期の宗教に由来し、特定の場所で謎めいた明らかに先史時代の雰囲気を彼の地所に与えた。また、ローマ時代以前の銅や錫の鉱山や、マウントベイ、セントアイヴス、ペンザンスから出航する大がかりな漁船団や、自分の領内の内陸の村のいくつかで暮し、その中にはほとんど忘れられた言語を今も話す者がいる高齢で原始的な人々について語った。マウントベイには彼のヨットが停泊し、見たところ、十数人のゲストを楽しませるのに十分な広さがあった。そして、トレガサル台地の一番高いところからは、英仏海峡もセントジョージ海峡も見渡せた。
ベレニスはやがて、ステインがこの奇妙な国を、その中にある自分の領地と変わらないくらい誇りにしていることに気がついた。ステインはここで、自分は領主であり、誰からも認められ尊敬されていると感じた。もし今、酔いがさめなかったら、彼は永久にここには戻らないのではないだろうか、とベレニスは思った。しかし、ベレニスにとって、これはそれほど魅力的ではなかった。光景としては称賛するが、少し寒々としすぎるし、未開でありすぎた。トレガサルの本館は、長く、灰色で、地味であり、内装の装飾の格調の高さでベレニスに高く評価されただけだった。明るいカーテンと敷物、古いフランスの家具、フランスとイギリスの絵画、モダンな照明と配管があった。歴代の伯爵が百五十年以上かけて収集し、立派な愛書家の宝庫となっている書庫には感銘を受け、少し圧倒されさえした。
ヨットの一日と、崖の下での海水浴とピクニックの一日を含むこの訪問を通してベレニスは、快適さと物質的な完璧さに対するステインの愛情と奇妙に対照的な、ある種の無骨な素朴さにさらに感銘を受けた。ステインは木の枝で六回以上懸垂してみせるほど強靭だった。また、泳ぎも上手だった。ベレニスが疑いと驚きでしか見られない大波や砕波の奥深くに、わざわざ向かって行った。ステインは、自分を喜ばすすべてのことに関わるベレニスの反応を知りたくて絶えず質問し、一致と思えるあらゆる意見を熱烈に歓迎し、二人がいつか将来行うかもしれないことを提案して、彼女の滞在中ずっと忙しくしていた。
それでも、ステインは魅力的であり、クーパーウッドと彼の不誠実さへの当てつけとしてこの時は興味があった。しかし、よくよく考えてみると、ステインにはクーパーウッドにある燃えるような力が欠けていると判断した。彼には偉業や実力につきものの後光がなかった。彼はむしろ、創造の慌ただしさや激しい輝きの中で偉大な人物に付きものに思える、魅惑的なファンファーレや大騒ぎとは無縁な地位を求める静かな野心家だった。そして、この意味では、ベレニスは今でも、そしていつまでも、クーパーウッドに支配されるのだろう。クーパーウッドは不在で、しかも他の女性に興味を持ち、離れていたために彼という人がわからなくなっていたが、それでもベレニスがステインのあまり嫌にならない、より穏やかな性格の魅力に感動していると気づいたその時でさえ、ベレニスの考えはクーパーウッドのことでいっぱいだった。結局、ベレニスがクーパーウッドの魅力をあきらめ、ステインか彼のような人物を捕まえることによって自分の社会的立場を根本的に是正する問題に専念する選択肢はなかったのだろうか? 少なくともある程度の安全を確保したいという願望は否定できなかった。自分が、イギリスに、それもクーパーウッドと一緒にいると知ったら、アイリーンが何をしてくるか、ベレニスは考えた。おそらく、知っているのだ。〈タウン・トピックス〉の記事を送ってよこしたのはアイリーンだとベレニスはほぼ確信していた。それに、母親の過去の生活は、どうすればもみ消せるのだろう? それでも、ステインのベレニスに対する愛情に疑問の余地はなかった。おそらく、特定の問題さえ隠し通すことができれば、ステインはベレニスと結婚するだろう。ひょっとしたら、たとえすべてを知っても、二人の互いの幸せに大きく仇なすことは隠そうとして、ベレニスを助けようとするかもしれなかった。
ある日の早朝、何エーカーもの荒れ地を疾走してから、ステインと一緒にトレガサルに駆け戻る間にベレニスは考えた。ステインは実際にどれくらい強く自分の階級の慣習を基準と中心にしているのだろう、自分が本当に大切に思う人を守るために、彼はどれほど多くの犠牲を払わねばならなくなるのだろう。
第四十八章
ロンドン。クーパーウッド夫妻が戻ったことで、いつもの派手な騒ぎがあった。ベレニスは前に電報を受け取っていたから、クーパーウッドが来ることをちゃんと知っていた。クーパーウッドが本当に関心があったことは一つしかなかった。自分とベレニスの間の平和と愛情だった。
そして、ステインは、クーパーウッドの留守中に地下鉄の仕事だけでなくクーパーウッドの被後見人とも一定の進展があったので大喜びだった。事実、ステインは半分恋をしていた。ベレニスのトレガサル訪問以降、ステインは何度かプライアーズ・コーブに来ていた。そして、彼の愛情とつながっている希望が、目標を追い続けるべきだという考えに力を与えていた。かなうかもしれない。ベレニスは自分と恋に落ちて、妻になることを承諾するかもしれない。クーパーウッドもこの展開にあまり悪い顔はしないはずだ。全員のさらなる結束につながるに違いない。もちろん、ベレニスのことと、クーパーウッドとの彼女の本当の関係をもっとよく知る必要があるだろう。まだ調査に乗り出してはいなかった。しかし、たとえ彼女の経歴がそれほど完璧ではないとわかっても、ベレニスは依然としてステインがこれまでに知り合った中で最も魅力的な女性だった。ベレニスは確かに彼を誘惑しようとしていなかった。彼女を追いかけていたのは間違いなく彼の方だった。
同じ頃、ベレニスは二つの展開に一喜一憂させられた。一つは、ステインが彼女にとても関心をもっていそうであること、そしてもう一つはトレガサル訪問後に、他でもなく、ベレニス親子がクーパーウッド夫妻と一緒にステインに加わって、秋が終わらないうちにヨットのイオラ号で船の旅をしませんかと提案があったことだった。この船旅には、その頃だとエドワード国王とアレクサンドラ王妃が滞在しているかもしれないカウズへの寄港も含まれる可能性があった。ステインは喜んでみんなを両陛下に紹介するつもりだった。国王も王妃も彼の父親の昔からの友だちだった。
アイリーンに話が及ぶと、ベレニスは精神的な寒気を覚えた。アイリーンがそういう船旅をしたら、ベレニスも母親も行けなかった。もしアイリーンが行かないのなら、何かそれ相応の説明がステインになされなければならないだろう。もしクーパーウッドと彼女が一緒にこの招待を受けることになったら、完全に一致した合意ではないとしても、外交的な合意に達しなければならないことになる。すると、これは必ずしも今の彼女に望ましいことではなかった。もし彼女が彼と一緒に行かないとか、彼抜きで行ったとすれば、それは人生から彼を除外することになるかもしれない。するとそれはまた、おそらく関係者全員にとって致命的な説明と再調整が必要になるだろう。
今はクーパーウッドに憤りを感じているだけに、すぐに決断を下せる状況ではなかった。ベレニスがステインに夢を見たところで、クーパーウッドの善意がなければ、直面する様々な難題から脱出できそうもないことは明白だった。怒りが十分なら、彼は彼女など即座に破滅させることができた。関心がなくても、アイリーンや他の人たちに同じことをさせておけばいいのだ。また、このすべてを頭の中であれこれ考えているうちに、自分の気質と普遍的な観点はステインではなくクーパーウッドを求めているように思える事実に直面した。ベレニスはクーパーウッドに補完されたときが最強だった。そして、ステインに関して考慮すべきことをすべて考慮しても、彼は活力、機知、素直さ、あるいは人生への取り組み方の人間らしさにおいて、クーパーウッドに及ばないという歴然たる事実が残った。そして、ベレニスが他の誰よりもクーパーウッドと一緒にいたい、彼の声を聞きたい、彼のしぐさを観察したい、彼の活動的で一見恐れを知らぬ人生への取り組み方を感じたい、と思うようになったと気がついたのは、何よりもこういうことが原因だった。ベレニスが自分の力が大きくなったと感じるのは、クーパーウッドが彼女と一緒にいるときだった。では彼の勇猛果敢な支援がなかったら、今このすべてに対するベレニスの個人的な反応はどうなるだろう? ステインの提案をうけても、自分の後見人は時々妙にひねくれて手に負えないことがあるから、彼がイギリスに戻ってくるまでこの招待は保留せざるを得ない、と言う以外ベレニスは何もはっきりと言えなかった。同時に、微笑みながら指摘したように、彼女は大賛成だった。もしステインがこれをベレニスに任せる気があれば、もしかしたらまとめられるかもしれなかった。
ホテルに到着してみると、少し堅苦しいが、問題を微塵も感じさせないベレニスの明るい挨拶がクーパーウッドを待っていた。しかし、クーパーウッドは危険を察知できるだけでなく、自分のことで他人が活発に考えを巡らせると、かなりピンとくる人物だった。ベレニスの敵意のある態度にすでに気がついていた。実際に、イギリスに到着するずっと前から、ローナとの関係はベレニスに知られていると完全に確信していた。みぞおちのあたりで、それを感じることができた。これはクーパーウッドを警戒させて、ありとあらゆる不測の事態に備えて必死に知恵をしぼらせた。すでにクーパーウッドは、どんな形であれ回避しようとせず、むしろベレニスの気分や態度に合わせて自分の出方を探ろうと決めていた。
プライアーズ・コーブは秋の雰囲気に彩られた。葉っぱがほんのりと赤や黄色になった。彼が到着した時間は正午だというのに、川には霧が濃くかかっていた。近づくにつれて、ここでベレニスと一緒に過ごしたかもしれないすべての明るい夏の日々をありありと思い浮かべた。しかし、今すべきことは、率直に向き合って、もう一度ありのままの自分を感じてもらうことだった。この方法は他の問題で、とてもうまくいって効果があることが判明していたため、今度もそれが証明できるかもしれないと安心していた。それに、ローナがいたというのなら、ステインがいたではないか? 身に覚えがあろうとなかろうと、ベレニスだってその立場を怪しいと感じさせられるかもしれない。
クーパーウッドが乗りつけた時、手入れをしている垣根越しに姿が見えた庭師のピゴットが、お辞儀をして挨拶した。ステインの厩舎に隣接するパドックでは、馬が秋の日差しを浴びて体を温めていた。厩舎の扉付近では、馬丁が二人、馬具の手入れに追われていた。カーター夫人が芝生を横切って挨拶に来た。満面の笑みを浮かべているくらいだから、明らかにクーパーウッドと自分の娘を悩ませている問題に気づいてはいなかった。その明るい歓迎ぶりから、おそらくベレニスは母親に打ち明けていないと推測した。
「調子はいかがですか?」クーパーウッドは前に出て手を取りながらカーター夫人に声をかけた。
母親によれば、ベレニスは相変わらず元気で、今は音楽室で練習していた。開いた窓から聞こえてくるリムスキー=コルサコフの『市場の風景』が、これを裏付けた。
アイリーンの時のように、相手の出方をさぐって、いらだたしい説明の類を始めなければならないかもしれないと一瞬感じたが、そう考えているうちに、突然音楽がやんで、ベレニスがいつものようにすまして微笑みながら玄関に現れた。まあ、お帰りなさい! うれしいわ! いかがでしたか? 船旅は快適でしたか? ベレニスはクーパーウッドに会ってとても喜んだ。駆け寄ったが、気づけばキスはなく、それを除けば、気に病んでいることは何もないかのように、振る舞っていた。実際、すてきな秋の景色に間に合いましたね、と付け加えたときは、いかにも夢中な様子だった。この場所は日に日にすてきになるようだった。そして、クーパーウッドはしばらくこの芝居に付き合った。その一方で、本当の嵐が勃発するまであとどのくらいあるだろうと考えた。しかし、ハウスボートでカクテルに誘うほどベレニスの陽気な振る舞いが続いたので、クーパーウッドはさえぎった。
「川のそばを歩こうか、ベヴィ?」そして相手の腕をとって、木陰の小道に連れ出した。「ベヴィ、他のことをする前にあなたに言わなくてはならないことがある」クーパーウッドは険しく冷たい目で相手を見つめた。ベレニスは即座に態度を改めた。
「ちょっと待ってもらっていいかしら、フランク、エヴァンズさんにお話しが……」
「だめだ」クーパーウッドはきっぱりと言った。「行くんじゃない、ベヴィ。これは、エヴァンズさんや他の用事よりもはるかに重要なことなんだ。ローナ・マリスのことで話がしたい。おそらく、あなたは彼女のことを知っているだろうが、とにかく私は話したいんだ」
クーパーウッドが話す間、ベレニスは黙ったまま、穏やかに、動じることなく横を歩いた。
「ローナ・マリスのことを知っていますか?」彼は尋ねた。
「はい、知っています。切り抜きと写真が数枚、ニューヨークから送られてきました。とても美しい方ね」
クーパーウッドはベレニスの控えめな態度に気がついた。不満を言わず、詮索もしなかった。そうなってくると、彼女の本心を突き止めるのがますます急務になった。
「散々言っておきながら、突然変わってしまったね、ベヴィ?」
「はい、そう思います。でも、謝るつもりはないのでしょう」口角にほんのちょっぴり皮肉がうかがえた。
「ええ、ベヴィ、何があったか以外は話すつもりはありません。それで、あなたなら自分で判断できますからね。それについて聞きたいですか?」
「あまり聞きたくありません。でも、どうしても話したいのなら、どうぞ。どうしてそうなったのか、私にはわかると思います」
「ベヴィ!」口をつぐみ相手を見ながらクーパーウッドは叫んだ。言葉の一つ一つに称賛と本物の愛情がこもっていた。「このままでは、私たちは……少なくとも私は……どこにもたどり着けません。私があなたに話したいのはただ、あなたが何を考えていようと、私は今でもあなたのことを深く思っていることをあなたに知ってほしいからです。最後にあなた会ってから起こったすべてのことを振り返ると、薄っぺらで嘘っぽく聞こえるかもしませんが、これが真実だとあなたはわかっている、と私は信じています。肉体の美しさや性的な感覚だけでは測れない個性の値打ちがあることは、あなたも私も知っています。魅力的な女性と魅力的な女性の間と、それを判断する男性と男性の間には、常に他にも修正事項があります。性格や、理解力、目的と理想の完全な一致、それに……」
ベレニスがかなり冷淡に口を挟んだのでクーパーウッドは話をやめた。「本当かしら? 人の行い、誠実さ、節操まで変えてしまうほど重みがあるかしら?」
ベレニスの目の涙に沈みかけた光は、自分にごまかしは無駄だと警告した。
「がらっと変えてしまうんだよ、ベヴィ。私がここにいるのが見えますね? 十日前、ニューヨークで……」
ベレニスは横槍を入れた。「はい、知っています。女と一緒に楽しいひと夏を過ごして、あなたは女と別れた。もうその女は十分なのね。今度はロンドン、よりを戻そうという計画ね……」ベレニスのかわいい口が軽蔑したように曲がった。「でもね、フランク、こんなことをすべて私に説明する必要はないわ。私だって、あなたと似たようなものだもの。私だって、あなたと同じくらい上手に説明できるわ。ただ、あなたにはいろいろと恩義があります。私がそれを必要とし続ける以上、ある程度の犠牲はいといません。私はあなたよりも慎重に、ずっと慎重でないといけないんです。でなければ……」ベレニスは口ごもって相手を見つめた。クーパーウッドは腹に一撃くらった気分だった。
「しかし、ベレニス、本当のことなんだけどね。彼女とは別れたんだ。私はあなたのもとに戻ってきたんだ。説明するかしないかは、あなたの好きにしよう。しかし、やりたいことが一つあります。あなたと仲直りをして、許してもらって、これからはあなたと二人だけやっていくことです。信じないでしょうが、こういうことはもうないことを約束します。それを感じ取れませんか? あなたと公正で公平な関係に戻れるよう、協力してくれませんか? 私たちがお互いにとってどういう意味を持つのか考えてください! あなたが私と別れようが、別れまいが、私はあなたを助けることができます、そうしたいし、そうするつもりです! 信じてはくれませんか、ベヴィ?」
二人は、テムズ川に面した小さな緑の芝地の、古い木々の下に立っていた。遠くの村落の低いかやぶき屋根が見え、コテージの煙突から青い煙が渦を巻いて立ちのぼっていた。二人に関してはすべてが平和だった。しかしクーパーウッドは、やれるだけのことをやって、彼女の怒りをできるだけ鎮めようという明白な意思表示をしても、ベレニスの心は許してはいないと考えていた。同時に、クーパーウッドはベレニスを、似たような状況にいる他の女性、特にアイリーンと比べずにはいられなかった。ここには、思い悩んだり、涙を流したり、喧嘩したりする女性はいなかった。しかし彼も今、生まれて初めて思ったように、本当の愛、真実の愛は、たとえその恋人にとってどれほど破壊的なものであろうと、本当に思い悩み、泣き、喧嘩をして、それで許されるのかもしれない。
その一方で、ここには確かに、否定されたり軽んじられたりされることのない価値を伴うタイプの愛情があった。明らかに、クーパーウッドは相手の矛先を鈍らせた。そしてその瞬間に、彼は金融の会議室や交渉の席の抜け目なく、注意深く、機知に富み、精力的なクーパーウッドになった。
「いいですか、ベヴィ!」彼ははっきりと言った。「六月二十日頃。私は仕事でボルチモアに行きました……」そして、それから起こったことを正確に語った。深夜、自分の部屋に戻ると、ローナがノックした。一部始終。自分がどれほど魅了されてしまったか、どこでどんな風にローナを楽しませたか、を正確に語った。評論家の解説そのものだった。ベレニスと同じように、ローナも魔法をかけたのだと言い訳を続けた。裏切りの意図はまったくなかった。それは自分の身に降り掛かったものだった。ありのままの自分をわかってもらおうとして、クーパーウッドは今回の件や過去の他の似たような出来事で思いついた理論を展開した。官能的な欲望には何かがある。それは理性や意志に取って代わるのだから、それらよりも上位にあるに違いない。何しろ彼の場合は事前に決められた進路まで侵食して流失させたからだ。
「正直に言うなら」クーパーウッドはここで付け加えた。「おそらく、この種類の過ちを避ける唯一の方法は、魅力的な女性との密接な接触を避けることだと言わねばなりません。もちろん、そんなことは毎回できませんよ」
「それは、そうね」ベレニスは言った。
「あなたならおわかりでしょうが」クーパーウッドは先を続けることにして続けた。「ローナ・マリスのような人にいったん近づいてしまうと、抜け出すにはかなり退屈しないとならないんです。この私が言うんだから強い説得力があります」
「なるほどね」ベレニスは言った。「でも同感だわ。彼女、とても魅力的ですものね。じゃあ、他の男性との私の関係だとどうなるのかしら? 私に同じ特権を与える準備はできているんですか?」ベレニスは問いただすように相手を見つめた。それを受けてクーパーウッドも見つめ返した。
「理論的にはそうです」彼は答えた。「私はあなたを大事に思ってますから、できるかぎり、そうする必要があるかぎり、感情的にそれに耐えないとなりません。その後で、あなたが私を引きとめたくなくなれば、あなたが私を手放すように、おそらくは私もあなたを手放すことになるでしょう。でも、今私が知りたいのは、あなたがどうするかなんです。どうしたいですか? これはとても重要なことなんです。だって私はまだあなたのことがとても大事ですから」
「ねえ、フランク、あなたは今の私が本当に答えられないことを尋ねているのよ、だって本人がわからないんですから」
「でも、ほら」彼は続けた。「今回、ローナの影響は続きませんでした。続いていたら、私は今ここにいませんからね。私はこれを言い訳ではなく、事実として言っています」
「つまり」ベレニスは言った。「ローナは同じ船に乗って来なかったのね」
「冬中ずっと、ニューヨークで踊ってますよ。どのアメリカの新聞を見ても、わかることです。ベヴィ、私にとってあなたが持つ魅力は、強いだけではなく上位のものです。私にはあなたが必要なんです、ベヴィ。私たちは同じように考えて、同じように働く、二つの心と気質なんです。だから、私は今こうしてここに戻りました。ここにとどまりたいと思ってます。この別の問題はそれほど価値あるものではありませんでした。私はいつもそう感じてました。あなたが手紙をくれなくなって、自分がどれほどローナを重視していないかに気がついたんです。要するに、それだけのことです。さあ、どうしますか、ベヴィ?」
夕闇が深まる中で、クーパーウッドは徐々に距離を縮めていた。今度は、ベレニスをつかみ、唇を彼女の唇に押し当てて、しっかり抱きしめた。クーパーウッドがそうする間、ベレニスは精神的にも感情的にも自分が屈しているのを感じた。しかし同時に自分の立場をはっきりさせざるをえないと感じた。
「私もあなたのことが大事よ、フランク、確かにね。でも、あなたの場合、これってただの性欲でしょ。終わったら……終わったら……」
両者はお互いの腕の中に沈んだ。しばらくの間、弱い小さなランプに過ぎない人間の心を、欲望と感情で消し去り、まったく理性の及ばない力である人間の意志をひとまず隠した。
第四十九章
その最初の夜、もっと遅くなってからベレニスの寝室で、クーパーウッドは後見人と被後見人という自分たちの役割を一緒に続けた方がいいと自分の意見を述べた。
「だって、ベヴィ、すでにステインや他の人たちは、そういう関係だと思い込んでいますからね」
「私があなたと別れるつもりかどうか、さぐろうとしているんですか?」ベレニスは尋ねた。
「まあ、当然ですよ。私はあなたがそれを考えているかもしれないと思いました。このステインという人物は、確かにあなたに提供できるものを全部持っていますからね」
クーパーウッドはベレニスのベッドの端に座っていた。部屋は、引かれたブラインドに反射する月明かりに、わずかに照らされただけだった。ベレニスはベッドに座って枕にもたれかかりタバコを吸っていた。
「あなたほどではありません」ベレニスは言った。「もしあなたがこれまでに本当に関心を持っていたならですけど。でも、あなたが知らなければならないとすれば、私はあなた自身が私に押し付けた問題以外は何も考えていないってことです。私たちは協定を結んだのに、あなたはそれをめちゃめちゃにしたんですよ。この状況で私に何を期待するのかしら? あなたにはあらゆる自由を与えて、私は何も求めないとでもいうの?」
「あなたに嫌な思いをさせたり害になることは何も考えていません」彼の口調は攻勢だった。「私はただ、あなたがステインに関心を持つつもりなら、あなたが新しい状態に落ち着くまで、この後見人と被後見人の関係を続ける方法を考えなければならないと言っているだけです。考えようによっては」クーパーウッドは十分に正直な気持ちで付け加えた。「あなたがステインのような男性の妻の座に収まるのを見られたらうれしいですよ。その一方で、私たちが立ち上げた計画があります。あなたがそれに参加しないとなれば、ベヴィ、率直に言って、私はあまり関心が持てなくなります。続けるかもしれないし、続けないかもしれません。すべては私の感じ方次第です。ローナ・マリスと組んだので、私が自分にとって価値のある条件を簡単につくれるとあなたが考えるのはわかります。でも、私はそれをそう見ません。ローナはただの小さな出来事です。さっき話したとおり、情動であって心が通ったものではありませんでした。もしあなたが私とニューヨークに行っていたら、これは決して起きなかったでしょう。起きてしまった以上、私がやるべきなのは、あなたとできる最高の仕事のやり方を決めることです。だから、何をするべきかは、あなたが言わなければなりません」クーパーウッドは立ち上がって葉巻を探しに行った。
こう率直に迫られてベレニスは、クーパーウッドが言ったすべてのことに、自分が激しく悩まされていることに気がついた。何しろ、ベレニスはクーパーウッドをとても大事に思っていた。彼女にとっては彼の問題も仕事も、自分のものよりも重要だと言ってよかった。ベレニスの人生も、将来も、それとは対照的だった。彼女が三十五歳や四十歳になったときに、彼がいる可能性はわずかだった。クーパーウッドが待つ間、ベレニスは黙ってそこで横になって考えていた。大きな不安がないわけではなかったが、やがて答えた。そうね、続けるわ。もちろん、続けます、とにかく当分の間は。クーパーウッドの未来の動きや決断について、彼や彼女に何が言えただろう?
「あなたのような人は誰もいないわ、フランク」ベレニスはここで言った。「とにかく、私にとってはね。もちろん、ステイン卿のことは好きです。でも、本当はまだよくわかっていません。それは考えても仕方がないことですから。それでも、面白い方だわ……本当に魅力的で。もしあなたが、あなたとの半分の人生を私に任せるつもりなら、彼が本当に私と結婚すると仮定すると、私が彼を無視するのは現実的でないようにも思えるわ。そうなると、あなたに頼ることは、考えるどころじゃなくなるのよね。もちろん、あなたのもとにとどまって、私たちが計画したすべてのことをあなたと一緒にやりとげるために全力をそそいでもいいのよ。それって、私が自分を完全に信頼しているからでしょ。私はあなたに、私の青春、私の理想、私の熱意、私の愛情をささげるわ。そして見返りは何も期待しません」
「ベヴィ!」クーパーウッドはベレニスの発言の無私無欲に驚いて叫んだ。「まさか、本気じゃありませんよね!」
「じゃあ、どこが嘘なのか教えてください。もし私が続けるとして、それだとどうなるの?」
「うーん」クーパーウッドはベッドの向かいの椅子に座りながら言った。「あなたは重大な問題を提起していますね。私はあなたほど若くはありません、それに、もし私と一緒にい続けたら、確実に晒し者になって世間から爪弾きになる大きな危険を冒します。これは否定できません。私があなたに残せるものはお金しかありません。私たちが今夜何を決めるかに関係なく、すぐにその準備をする、と今私はあなたに言うことができます。それを上手に管理すれば、あなたの残りの人生を贅沢に過ごせますよ」
「わかってるわ」ベレニスは言った。「あなたが誰かを大事にするときに寛大な人だってことは、誰も否定できません。それには疑問さえ抱いていません。私の悩みは、あなたには本当の愛が欠けていることと、自分が後で愛をなくして取り残されるだけでなく、自分の愛の代償を別の形で払うことになるのがかなり確実なことなんです」
「あなたの問題はわかります、ベヴィ、私を信じてください、悪いようにはしません。それに私は、あなたが自分でやりたいと思う以上のことを、あなたに求める立場にありません。あなたは自分にとって最善だと思うことをやらなくてはなりません。でも、私はあなたに約束します、ベヴィ、もし私と一緒に続けてくれるのなら、あなたに誠実でいるように心がけると。そして、あなたが私と別れて誰かと結婚すべきだと思うのなら、干渉しないと約束します。これでいいでしょう。前にも言いましたが、私はあなたのことをとても大事に思っています、ベヴィ。わかってますね。あなたは私にとって恋人というだけでなく我が子同然なんです」
「フランク!」ベレニスは彼を自分のそばに呼び寄せた。「私があなたから離れられないことはわかっているでしょ。できないのよ、少なくとも精神的にはね」
「ベヴィ、大事なお嬢さん」そしてクーパーウッドは両腕で抱きしめた。「またあなたと一緒にいられるとは、うれしいかぎりだ!」
「でも、一つ解決しておかなければないことがあるのよ、フランク」ベレニスは乱れた髪を静かに整えながら、口を挟んだ。「このヨットの招待の件なんだけど。この件はどうしましょう?」
「まだわかりませんが、ベヴィ、でも、彼があなたに大きな関心を持っている間は、私に特に敵意を向けることはないでしょう」
「とんでもない人ね!」ベレニスは笑いながら叫んだ。「たとえ、芯まで染まった悪党だったとしても……」
「いやいや、ただの若い野心家のアメリカ人ビジネスマンが、イギリス資本の森で自分の道を見つけようとしているだけです! それは明日話し合いましょう。今は、あなた、あなたのことだけを考えたい……」
第五十章
チェスの名人のように、クーパーウッドは、地下鉄の計画で自分に敵対する完全な国粋主義で、もちろん人間的に利己主義な勢力をすべて出し抜くことを提案した。広域的で包括的な計画を進化させていて、彼の願う進展はこうだった。
まずは、既存の〈チャリングクロス鉄道〉に、完全に非現実的で敵対的な派閥争いを抱えた〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉で構成される既存の中央環状線が加えられねばならない。すべてがうまくいけば、クーパーウッド、ステイン、ジョンソンがこの問題の鍵を握ることになるが、中心はクーパーウッドだった。
次に、〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉の支配権を掌握したと仮定し……状況に応じて自分の鉄道設備建設会社と合併させるかさせずに……この全てを支配する〈ユニオン交通地下鉄会社〉を設立するつもりだった。
さらに、今の仲間の誰も知らないが、アビントン・スカーからは〈ベーカーストリート&ウォータールー鉄道〉のチャーター権、また、〈チャリングクロス鉄道〉と同じような状態にあると聞きつけた〈ブロンプトン&ピカデリー鉄道〉のチャーター権、その他からも特定の他の路線や有望な路線やチャーター権、を買収するつもりだった。
これらを確保しておけば、〈ユニオン交通地下鉄会社〉の全資産や、彼が個人的に取得するつもりでいたチャーター権や鉄道を含む、〈ロンドン地下鉄総合会社〉を作ることができると感じた。これは完全な都市の交通システムを提供すると同時に彼の資産なので、彼個人に支配権を与えるのである。ちなみに、最終的にこの巨大資産の会長職に公然と就任できなくても、少なくとも、彼がその影の支配者だとは認められるだろう。また、もし自分の取締役を置けないのであれば、運営にあたる者がこの資産を傷つけることが何もできないように準備をするつもりだった。
そして、最終的にすべてがうまくいけば、莫大な利益をあげて静かに自分の持ち株を処分し、その後はできるだけうまくやれるよう会社に任せるつもりだった。彼は事業の創立者だけでなく建設者として権利を確立し、シカゴのダウンタウンのループでそうしたように、自分の才能の足跡を残すことになる近代的で包括的な大都市のシステムをロンドンにもたらすのである。後に彼は自分の富を使って、アートギャラリーを維持し、慈善団体を作り、昔考えていた病院を建設することができ、同時に自分が恩義を感じたすべての人に疑いなく満足に報いることができた。その夢が彼をそそのかした。彼の見立てでは、すべてをやりとげるには、早くて二、三年、遅くても五、六年を要した。
しかし、この計画に関係する彼の精神的、肉体的活動のすべてを追うことは、手品師のすばしっこくて混乱を誘う思考、トリック、動作を追うのと同じだった。もちろん、ジョンソンとステインとの交渉が主なものだった。ベレニスとの和解直後にジョンソンと話をしたところ、以前よりも随分協力的なことに気がついた。ジョンソンとステインはクーパーウッドの留守中にこの問題を随分検討したと言ったが、ジョンソンはステインがいるときにこの結論を伝えたがった。
ほぼその直後にバークレー・スクエアであった別の話し合いの場でこれは終了した。そこは商談というより親睦に近い雰囲気だとクーパーウッドは気がついた。クーパーウッドが到着したとき、ジョンソンは引きとめられていて、その場にはいなかった。すぐにステインの態度が明るいことに気がついた。ステインはアメリカの情勢を尋ねた。あちらの選挙はどうなるのでしょう、ロンドンは楽しいですか、被後見人のフレミングさんはお元気ですか? それにお母さまは? クーパーウッドさんもご存知かもしれませんが、結構頻繁にプライアーズ・コーブを訪れているんですよ。親子そろって何て魅力的なんでしょうね。ステインはそんな話をしながらクーパーウッドの顔色をうかがい、上手に間をおいた。クーパーウッドはその要求に応えた。
「きっと、あなたはあの二人と私との関係が気になっているんですね」彼は穏やかに言った。
「実は、カーター夫人とは長年の知り合いなんです。夫人が私の遠縁の者と結婚し、その者が私を遺言執行人と親代わりの後見人に指名したのです。当然のことながら、私はベレニスが大好きになりました。とても才能のある娘ですからね」
「私も見てそう思いました」ステインは言った。「プライアーズ・コーブがカーター夫人親子に気に入ってもらえてよかったです」
「ええ、二人とも確かにあそこを理想的な場所だと思っているようです。本当に美しいですね」
幸い、この時、ジョンソンが到着して会話が個人的な方向に行くのを止めた。慌ただしく現れ、やむを得ない用事で引きとめられたことを詫びて、クーパーウッドの健康を気遣ってから、みんなが待ちわびる重役の態度をとった。そして彼の口からこれまでに行われたことのすべてが、現状を振り返りながら、簡潔に力強く説明された。ロンドンの地下鉄分野へのクーパーウッドの参入計画は確かに大騒ぎを引き起こしたとジョンソンは言った。一部の例外はいたが、旧ループ会社両方の取締役も株主もクーパーウッドに反対だった。
「どうやら、クーパーウッドさん、彼らはあなたのアイデアを引き継いで、自分たちでそれを実現したがっているようです。それが遅々として進まないのは、ただ一つ、彼らの間で合意が取れないからです。そして、もちろん」ジョンソンは目を輝かせて付け加えた。「それにかかる金額に少々動揺しています。彼らは、どうすれば自分たちが莫大な費用をかけずにそれができるのかわからないのです」
「そのとおり」クーパーウッドは言った。「まさにそれなんです。遅れるにまかすのが一番高くつくんです。果敢に取り組めば、魅力的な予算内で仕上げられる工程表もここにあります。遅れと議論は、投機家と山師を引きつけるだけです。あいつらは出回っているどんな株でも運営権でもオプションを積み上げて、値上がりを狙って保有する連中ですから。だからこそ、一刻も早く合意に達することが重要です」
「とりあえず、私が理解するところでは」ステインは好意的に言った。「あなたの提案は、ジョンソンと私が〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉の我々の株式を一元管理して、その上で〈ディストリクト鉄道〉か〈メトロポリタン鉄道〉のいずれか一社あるいは双方の五十一パーセントを買い付けるか、あるいはあなたが管理することになる何らかの事業協定のもとでまとめるというものですね」
「そうです!」クーパーウッドは言った。
「そして、それに対してあなたは、百年なり無期限の借り上げに、五パーセントの利息を保証することに同意する」
「そうです!」
「そして、その上で、あなたかその大きくなった会社が適切と判断して作った、親会社と合併させるかもしれない、すべての子会社の株式の十パーセントと一緒に、〈チャリングクロス鉄道〉の優先株の少なくとも十パーセントの先買権を、額面価格の八パーセントで提供する」
「そうです!」
「このすべて株式の権利は、会社が完全に出来上がった時点でのすべての会社全体の資産の第一順位の先取特権になるんですね」
「それが、私の提案です」クーパーウッドは言った。
「これには何の問題もないと言わねばなりません」と言いながら、ステインはジョンソンを見つめ、ジョンソンもステインを見つめ返した。
「要するに」ジョンソンはクーパーウッドに向かって言った。「いったん私たちが役割を果たしたら、あなたは古い路線と、確保できる新しい路線の両方を、最新のやり方で改修して設備を整えて、〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉の現在の株式のすべての権利と、我々が八十で申し込みを決められる新会社か子会社の株式の十パーセントの全部も保証できるように、その全財産を抵当に入れることを誓うのですね」
「そのつもりです」とクーパーウッドは言った。
再び、ジョンソンとステインは互いに顔を見合わせた。
「では」最後にステインが言った。「我々がきっと遭遇するいろいろな問題に出くわしても、私はできるだけ早く、全力で、自分の役割を果たすことを誓います」
「それでは私も」ジョンソンは言った。「喜んでステイン卿と一致協力して仕事にあたり、これを成功に終わらすために必要なことは何でもやりましょう」
「それでは、お二方」クーパーウッドは立ち上がりながら言った。「私はこの合意にたどり着けたことがうれしいだけではなく、光栄に思います。そして、私の意図が健全であることを示すために……もちろん、お二人がこの考えに同意していただけるならばですが……ジョンソンさんに私の法律顧問になっていただき、我々の間のこのいろいろな協定をまとめた書類をすべて準備してもらいたいのです。そして、その時が来たら」彼は二人に微笑みかけて付け加えた。「あなた方お二人には取締役として活躍していだければ幸いです」
「それに関しては、時間と状況が、決定を下さねばなりません」ステインは言った。「それに限りますよ」
「全力でお二人のお役に立ててうれしいです」ジョンソンは付け加えた。
三人とも、互いに祝辞を述べ合うことになってしまったこの改まった雰囲気に少なからず気づいていたが、ステインが古いコニャックで別れの一杯を申し出たことですぐに和らげられた……このコニャックのケースは、事前に断りを入れずに、彼がセシルのクーパーウッドの部屋に運び込んでおいたものだった。
第五十一章
クーパーウッドがこの先切り抜けなくてはならない苦しい局面のひとつは、仕事のすべての部門でアシスタントにアメリカ人ではなくイギリス人を雇わねばならなかった、もしくはそうしなければならないと彼が考えていたことだった。デ・ソタ・シッペンスは最初の犠牲者だった。ロンドンが好きになっていたため、胸が張り裂けんばかりだった。いつもうまくやっていた大将と組んで、ここで輝けると思っていた。それ以上に、鉄道の仕事を何も知らない、と彼がすっかり満足していた、この自信満々で人を見下したこのイギリス人たちに、自分の知恵と力を見せつけたくて張り切っていた。しかし、クーパーウッドはそのショックをできるだけ和らげようと、彼にシカゴの財務の仕事をまかせることにした。
クーパーウッドの資本調達方法の一つは、持株会社を利用することだった。持株会社は彼が支配したい会社を買収するために潤沢な資金を供給し、同時にその支配に必要な株式を供給してくれる土台となる組織だった。今回は鉄道設備建設会社が作られた。ダミーの取締役と会長がいて、彼を加えたその全員が最終的に創業者株を所有することになった。ジョンソンは、年俸三千ポンドで事務弁護士兼法律顧問に就任した。その後、ジョンソンに作成され……クーパーウッドの弁護士たちに細心の注意を払って検討され……ジョンソン、ステイン、クーパーウッドに署名され……た私的な合意書の中で、その時点で所有している分とそれ以降取得される〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉の両方のいろいろな株式は、今後、後日組織される新会社へ移行する〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉の再編、売却を視野に入れた公式投票では一票として投票されることが明記された。そして、この新会社で彼らは旧株一株につき、そこの発行株三株を受け取ることになっていた。
そして、ジョンソンには〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉両社の分散した株式の大口分を求めて走り回る大仕事があった。その株を五十万ポンド買い付ける注文をクーパーウッドから受けたが、その名義はさまざまだった。また、旧経営陣の間に、クーパーウッドと彼の目論む計画を知ってもらい機運を盛り上げる役目もあった。ステインは、新事業でクーパーウッドと共に議決権を行使することを視野に入れ、この既存の会社の株をできるだけたくさん買うことになった。そして彼もまた、やれるところで、自分の個人的影響力を自分の知るすべてに行使することになった。
こうした活動の結果、投資家が雪崩を打ってクーパーウッドに押し寄せた。イギリスだけでなく大勢のアメリカの資本家が、彼が集めている権利の重要性に気がついて、今度は自分たちが運営権を取得しようとしたが、その時にはもう運営権はとても入手しづらくなっていた。興味を抱いた人物の一人が、やはりアメリカ人の資本家、スタンフォード・ドレイクその人に他ならなかった。彼は、もしそれが完成したらクーパーウッドの路線とかなりの距離を並走して、この地域の収入を事実上、分け合うことになる路線の運営権を議会に申請した。
これは、少なからずクーパーウッドを悩ませた。ドレイクであれクーパーウッドであれ、イギリス人はアメリカ人のこの分野への参入に反対だったから、双方にイギリスの反発をまねかないようにして、これを阻止しなければならなかった。その結果、それぞれの立場でのいつもの法廷闘争が起こった。それぞれが相手に想定される欠陥を指摘して、相手がやろうとしていることの意義を過小評価した。
クーパーウッドは、計画どおりだとドレイクの鉄道は、部分的にはかなりいい住居街を通過することになるが、採算のとれる地域に到達するまでに原野を十マイルも走らざるを得ないと指摘した。ドレイクの鉄道はトンネルが単線、つまり線路がひとつになってしまうが、自分の鉄道は全線複線になるとも指摘した。同時にドレイク陣営も、クーパーウッドの鉄道はテムズ川の堤防の下にあるが、ドレイクの鉄道はストランドやその他のビジネス街の地下にある、クーパーウッドの鉄道はビジネスとかけ離れているが、ドレイクの鉄道は人々をビジネスにつなげるものだ、と反論を続けた。しかし、クーパーウッドは、鉄道を並走させても相打ちになるだけで儲からないと付け加えた。もしドレイク陣営が鉄道の運営権を獲得することに成功したら、それがどう作られても、自分の鉄道会社にかなりの影響を及ぼすことが彼にはわかっていた。もちろん、そのときはこれを認めなかったが、その代わりに、ドレイクの会社がなぜこんな冒険に乗り出すのか理解できないと発表した。そして、できるだけ円滑に進めようとして、ドレイク当人よりドレイクの会社のロンドン支店に失策の責任があると思う、と述べた。さらに踏み込んで、ドレイクさんは立派な人物だ、問題点が明らかにされれば最終的にはそんなところへ資金を投じることはないと信じている、と言った。
こういう甘い言葉を無視して、ドレイクの弁護団は議会に運営権を求める法案を提出した。するとクーパーウッドの弁護団は彼が建設したい鉄道のために対抗する法案を提出した。その結果、議会は翌年の十一月まで両方の法案を延期し、どちらも支持しなかった。この延期は一応クーパーウッドの勝ちだった。開発計画は全体的にかなりはかどっていた。実際、多少の反対がないと、どんな計画だろうとやっていて楽しくない、愛と戦争ではすべてのことが公平だから、私は最後の最後までドレイク陣営に反対する用意がある、と言う声が聞かれた。
しかし、スタンフォード・ドレイクの関心は高まり、クーパーウッドとの本格的な戦いは必然となった。自由に使える莫大な資金を持っていた彼は、ピカデリー・サーカス駅を共有する特権としてクーパーウッドに五百万ドル出すことを提案した。この駅はクーパーウッドのものであり、ドレイクが自分のシステム内で明らかに必要なものだった。同時にクーパーウッドに対し、彼が目論む鉄道建設の許可を求めて議会に提出した申請と戦う準備をしている弁護団を即刻引き上げさせるなら、二百五十万ドル出すことも提案した。もちろん、そんな申し出はクーパーウッドに断られた。
同じ頃、ハイド・パーク・コーナーからシェパーズ・ブッシュまでの鉄道建設を計画していた〈ロンドン・ユナイテッド鉄道〉が、予備交渉を始めた。彼らはドレイクのところへ行き、自分たちの鉄道とドレイクの鉄道を統合しようと提案し、市に運営権を求めた。また、完成の暁には、その鉄道全体を運営するようドレイクに求めた。ドレイクは断った。今度は、自分たちの保線区を運営する許可を求めた。ドレイクはまたも断った。すると、彼らはまだ運営権も獲得していないのに、自分たちの保線区をクーパーウッドに持ちかけた。クーパーウッドは、イギリスとアメリカだけでなくヨーロッパ全土で手広くやっている金融会社シュパイアー&カンパニーに会うよう彼らに勧めた。この会社はこの問題を検討し、クーパーウッドに利益をもたらすことによって最終的に自分たちにも利益をもたらすことになると見て、問題の会社が持つすべての既存の権利を買収する決断を下し、その後で株式全体を組織で引き受けた。彼らの弁護士は即刻、他の問題を審議中の議会の地下鉄委員会で、運営権の申請の撤回を求めた。ドレイクは一年間、ひとつにまとめた運営権しか求めていなかったので、これが訴え全体を無効にした。ドレイクは自分たちの分の区域の運営権を認めてほしいという要望書をもって戻った。しかし、元々の請求がそういうものを一切求めておらず、委員会にもそういう法案は何もなかったので、クーパーウッドの弁護士はこの問題全体が却下されねばならないと主張した。そして、ドレイクの計画は撤回された。
この傑出した敵対者二人の間で繰り広げられた戦いの劇的な結末は、英米両国の新聞で詳細に報じられ、ロンドン全域の移動を便利にする交通システムの発展を支持するロンドン郡議会は、クーパーウッドの勝利に沸き、彼をどこででも最大の好意で受け入れられるに値する、大きくて貴重な社会的資質を備えた人物だ、と評した。
クーパーウッドは、この気運に乗じて、自分の巨大な事業がもたらす社会的利益を大いに強調した。彼のシステムは、最終的に年間二億人の乗客を運び、客車は二等、運賃は一律五セントで、乗客が地下鉄で全区間移動できる完全に接続されたシステムとなり、高速輸送、安い運賃、多くの運行数のいい実例になる、と発表した。
この頃、クーパーウッドは個人的にも大成功していたので、株集めや利益をあげる以外の問題に力を注ぐことができた。たとえば、単なる宣伝のためにターナーの絵『のろしと青い光』を七万八千ドルで購入して自分の事務所にかけた。
第五十二章
万事順調だったのに、アイリーンに関係した新しい難題が持ち上がりかけていて、それが全力でクーパーウッドに降りかかることになった。
アイリーンはパリに戻っていて、再びトリファーや彼の友人たちにもてなされ、持て囃されていた。しかし、最終的に結婚さえしたいと思うほどアイリーンがトリファーに好意を抱いていることに気がついたマリゴールド・ブレイナードが、高まり続ける関心を確かめる時期だと決心した事実があった。マリゴールドはトリファーのクーパーウッドとの関係を知っていたので、彼女の目を簡単に覚ます武器があると信じていた。ヨットの船旅でのある夜、飲みすぎたときに、トリファーがそれらしいことを打ち明けたのだった。だから、最初の機会に彼女は行動した。
トリファーが友人の部屋で開いたパリ帰還を祝うパーティーで、マリゴールドは酒を飲み過ぎて、アイリーンがトリファーと楽しそうにしているのに気がつくと、いきなり食ってかかった。
「あなたが私と同じくらいあなたの友人のことを知ったら、そんなにずっと追い回したくなくなるかもしれないわよ」マリゴールドは皮肉をこめて言った。
「あたしを確実に悩ますことをご存知なら」アイリーンは言った。「当てこすりはやめて、はっきり言ったらどうなのよ? それとも、嫉妬でつらいのかしら?」
「嫉妬ですって! この私がトリファーとあなたに嫉妬だなんて! トリファーがこれほどあなたに気を遣っている背景が何なのか、たまたま知ってるだけよ!」
アイリーンはこの突然に主張に驚いて逆上して叫んだ。「一体何が言いたいのかしら? 言ってごらんなさいよ! でなけりゃ、その嫉妬はどなたか他の人に向けるといいわ!」
「嫉妬ですって! 馬鹿馬鹿しい! あなた思いの友人が、あなたの個人的な魅力以外の理由であなたを追いかけているのかもしれないとは、きっとあなたじゃ思いつかないのね。それに、彼があなたに費やしたお金は、どこから出てると思ってんの? 私は彼とは長年の知り合いだけど、自分のお金なんて一シリングもない人よ。ご存知でしょ」
「さあ、知らなかったわ。でも、言いたいことがあるなら、言ってくれないかしら」アイリーンは言った。
「トリファーにでも聞けばいいでしょ、それとも自分のご主人の方がいいかしら。きっと、はっきり教えてくれるわよ」マリゴールドは言い捨ててアイリーンから徐々に遠ざかった。
すると、アイリーンはひどく取り乱し、部屋を出て、外套をまとい、アパートに戻ったが、この問題を頭から追い払おうとはしなかった。トリファーが! やけに熱心にひとの人生に立ち入ると思ったら! 無一文、それでいてあんなに大金を使っていた! どうしてクーパーウッドはわざわざこの二人の友情を応援し、時にはパリまで渡ってトリファーに催されたパーティーに出席したのだろう? マリゴールドの当てこすりの最も暗い一面が、突然大きな力でアイリーンを襲った。クーパーウッドは自分の人生からあたしを追い出すためにこの男を利用したのだ! この真相を突き止めねばならない。知らなければならない。
一時間もしないうちに、アイリーンがパーティーにいないことに気がついたトリファーが電話をよこした。そこでアイリーンは、至急相談しなくてはならないことがあるのですぐに来てほしいと言った。トリファーが現れたとたんに、嵐が勃発した。あたしをパリに招待して、散々気を遣い、おまけに大金まで使ったのは誰のアイデアかしら? あたしの夫かしら、それともあなたのアイデアなの?
まいったな! もしあなたが大事でなかったら、どうして私があなたにお金をかけるんですか? その問いにアイリーンは、あなたには自分の金なんてないし、もったこともないって聞きましたと答えた。それに考えてみれば、遊びに時間を費やせても、面倒な細かいことに煩わされたくない人たちにつきっきりで機嫌をとるような、個人的なサービスででもなかったら、お金を稼ぐためにあなたは何をするのかしら? まるで使用人階級扱いだったので、この侮辱はトリファーを深く傷つけた。
「そんなことはありませんよ」トリファーは弱々しく言った。
しかしその声の調子には、アイリーンを疑わせるものがあった。これはアイリーンの中に怒りを呼び覚ました。こんな情けない仕事を引き受ける人間がいるなんて! フランク・アルガーノン・クーパーウッドの妻であるこの自分が、自分の夫の陰謀のせいでその犠牲者になるなんて! 望まれない妻、自分を追い出すために自分の夫が人まで雇わねばならないほど、夫にうとまれた妻として、こうして人前でさらされようとは!
しかし、待てよ! 今ここで、いや、遅くとも明日までに、この寄生虫にしてぺてん師に、そして夫にも、こんな風に恥をかかされるいわれはないと思い知らせてやる! 今ここで、自分に関する限り、トリファーの役目は終わった。そしてクーパーウッドは、アイリーンが彼の陰謀に気づいたこと、彼とは永遠に終わったこと、ニューヨークに戻って、自分の居場所である自分の家にとどまること、もし彼が自分を追って来ようとしたら、彼を法廷に引きずり出し、新聞に暴露すること、彼の嘘、浮気、精神的虐待とはきっぱりと別れるつもりでいることを、電報で知らされることになった!
それから、トリファーの方を向きながら叫んだ。
「もう行ってもいいわ。あたしを相手にする仕事は終わりよ。あたしはすぐにニューヨークに戻るわ。もしあなたと出くわしたり、どんな形であれあたしを困らせたりしたら、あたしはあなたの正体を暴露するわよ。さっさと主人のところへ行って、もっとましな仕事がもらえるか確かめるといいわ!」
そう言い放つと、アイリーンはドアまで行き、出て行かせるために開けてやった。
第五十三章
このすべてがパリでアイリーンに起こっていたのと同じ頃、まだプライアーズ・コーブにいたベレニスは、自分が本当に驚くほど立て続けに社交的な招待や紹介の対象になっていることに気がついた。そして予想をはるかに超える成功を収めた。ベレニスは、この成功のかなりの部分はクーパーウッドのおかげだと感じたが、それ以上に、ステイン卿の思い入れと、とても重要な上流社会の人たちからなる彼のサークルにベレニスを紹介したいと彼が望んだからなのをよく知っていた。
アイリーンはパリにいるから、ベレニスと自分がステインのヨットのイオラ号で船の旅をする誘いを受けても大丈夫だとクーパーウッドは判断した。乗船するゲストの中には、夫がイギリス最古の称号を持つチャドレイのクリフォード夫人、女王のお気に入りの一人でステインの大の親友の一人のマールボロ公爵夫人、宮廷生活と密接なかかわりを持つ外交官のウィンダム・ウィトレー卿がいた。
やがてイオラ号がカウズで停泊すると、ステインは王妃が滞在中で、午後、彼と友人たちをお茶に迎えるとお言葉をいただいたとゲストに知らせた。この発表は全員をとても興奮させた。特にベレニスはこれがもとで世間で注目を浴びるかもしれないので神経を尖らせた。王妃はとても寛大で、この非公式な訪問を楽しんでいるように見えた。王妃はベレニスに特別な関心を示してさまざまな質問をした。もしベレニスが正直に答えていたら、自分にとって大きな傷害となったかもしれないが、そうしなかったため、王妃からロンドンでもっとベレニスに会いたいという希望が表明された。実際、次回の宮廷レセプションに自由に出席してほしいとのことだった。王妃のこのはからいは、ベレニスを驚かせ、自分が望めば、自分のためにどんなことができるのか、さらに大きな自信になった。
これでベレニスの愛情を求めるステインの欲求はものすごく高くなった。同時に、これがクーパーウッドに与えた影響は、ステインがベレニスに与えるかもしれない影響をさらに誤解させた。
しかし、ロンドンのホテルの部屋に戻った彼を待っていたのは、もっと大きな心配事だった。ニューヨークに出航する直前に彼に宛てて出したアイリーンからの手紙があった。その内容は、
ついにあたしは、あなたの使用人のトリファーとあなたが関係している我が身の屈辱的立場の真相を知りました。あたしをのけものにして、あなたがいつものように自由奔放に振る舞えるようにするために、恥ずかしくも彼を雇いましたね。長年の献身に、何という報い方でしょう! しかし、心配は無用です。もう勝手にしてください、好きなところへ、好きなときに。自分の売春婦たちと行ってください。本日、あたしはパリをたちニューヨークへ向かいます。そこで、あなたの浮気や好き勝手から最終的に解放されることを期待します。あたしを追って来ないよう警告します。もし来れば、あたしはあなたと今の愛人たちを法廷に引きずり出し、ロンドンとニューヨークの新聞にあなたのことを暴露します。
アイリーン
これを受け、クーパーウッドはかなりの時間をかけて、自分へのこの厳しい非難から生じるかもしれない局面と結果を考えた。すぐニューヨークに戻って、もし何かあったら、大きなスキャンダルを避けるために何ができるのかを見極めた方がいいように思えた。しかし、これと密接に関係するのがベレニスの立場だった。もしアイリーンが脅しどおりに事を起こしたら、ベレニスの将来は大きく傷ついてしまう。何を犠牲にしても、そんなことは起こってほしくなかった。
したがって、最初の行動は、すぐにベレニスに会いに行くことだった。彼女はご機嫌でかなり野心に満ちた様子だった。しかし、アイリーンの最新の非難と脅しの内容を話したとたんに、表情が急変したことから、これを深刻な問題ととらえたことがわかった。どういうわけでトリファーが自分の立場を告白したのか、ベレニスは知りたかった。
「黙っていれば、どうってことなかったのに」ベレニスはぴりぴりして言った。
「あなたはアイリーンという女をわかっていませんね」クーパーウッドは皮肉っぽく答えた。「最終的な結論に至るまでじっくり問題を考える人じゃないんです。それどころか、自分にも関係者全員にも有害無益な怒りをふくらませます。実際に、どんな相手でも双方が同じくらいダメージになる自白に追い込めるほど凶暴になれるんです。現時点で私が考えられることはただ一つ、一番はやい船でニューヨークに戻り、先に現地入りすることかもしれません。その一方で、すぐロンドンに来るようトリファーにはすでに電報を打ちました。雇い続けておけば、何も言わないように簡単に手配できますからね。だけど、あなたならどんな提案をするのでしょう、ベヴィ」
「あなたと同じ意見よ、フランク」ベレニスは言った。「あなたはできるだけ早くニューヨークに戻って、アイリーンをなだめるために何ができるかを確かめるべきだと思います。あなたが話してあげれば、こんな風に爆発することがいかに無駄なことか、わかるかもしれないわ。だって、彼女はこれ以前から私や他の人たちのことを知ってたんでしょ」ここで、ベレニスは皮肉に微笑んだ。「それに、これをアイリーンに言えるのは、きっとあなただけよ。結局、今回あなたは、アイリーンに何も害を与えていません。これに関しては、トリファーもです。実際、あなたはアイリーンに誰もが望むパリの観光に最高のガイドをつけたのよ。ついでに言うと、あなたはここでの仕事にかかりっきりだったことも彼女にはっきりさせるといいわ。結局、これで何かの改善効果をもたらさないはずはないように思うんだけど。新聞は、あなたが彼女に指摘できそうな、努力と成果でいっぱいでしょ」……クーパーウッドにも決して引けは取らない知恵の爆発だった。今も言ったが、嘆かわしいのは、ステインではなく、自分が行かなくてはならないことだった。
「心配ないわよ」ベレニスは慰めるように言った。「あなたは偉大な人だから、こんなことに負けないわ。あなたがいつものように凱旋することを、私はちゃんとわかってますから。それに、私がずっとあなたと一緒にいることを、あなたはわかってるでしょ」ベレニスは両腕を彼にまわし、深々と愛情をこめて顔に微笑みかけた。
「もしそうなら、すべてがうまくいくことを私はわかっているわけだ」クーパーウッドは自信をもって言った。
第五十四章
ニューヨークに出航する前に、クーパーウッドはトリファーと話をした。トリファーはこの展開に関して自分が潔白であることを説明した。さらには、自分に関することでは口は閉じ、クーパーウッドが言ってほしいことを言うときしか開かないつもりだった。
五日後にニューヨークに到着したクーパーウッドは、小さな目録をいっぱいにするほどの質問をかかえた新聞の記者団に出迎えられた。目的は、ロンドンの地下鉄を買い増す資金集めですか、それともアメリカの路面鉄道株の残りの処分ですか? ロンドンで何の絵画を購入したんですか? ターナーの『のろしと青い光』に七万八千ドルを支払った話には何か意味があるんですか? 絵画に関連しますが、ご自分の肖像画の代金に二万ドル支払うとある画家と合意しておいて、いざ完成したら三万ドルも送ったのですか? これまでのところで、イギリス流のビジネスのやり方をどうお考えですか?
このすべてのことから、これまでにないほど自分に公人としての関心が寄せられているのに、まだ自分に関連したスキャンダルが痕跡もないことに気がついた。したがって、少なくとも、抜かりなく、できるだけ、自分を傷つけない質問には答えようという気持ちが強くなった。
クーパーウッドによると、ロンドンではすべてが順調に進んでいた。実際に、ロンドンの地下鉄は一九〇五年一月までに電化されて、運行されると思っていたので、当然のように誇らしかった。また、資本金は八千五百万ドル、路線の距離は百四十マイルになる。そして、現在、世界最大の発電所を建設中なのも事実で、それが完成すれば、ロンドンは世界一の地下鉄を持つことになる。イギリスについてクーパーウッドは、自分のような、こういう大規模な事業計画に対するイギリス人の姿勢は、アメリカ人の姿勢よりも優れている、イギリス人は大きな建設を伴う計画の重要性を理解しているようで、運営権を認める場合は、期間を限定するのではなく永続的に認められる、それが、大きな創造的目的を持つ人に、永続的なものを建設する機会を与えている、と力説した。
絵に関しては、そのとおり、前回ニューヨークに来てから何点か購入していた。ワトー、J・レーノルズ(オブライエン夫人の肖像)、フランス・ハルスを持ち帰っていた。さらに、そうです、二万ドルしか渡す必要はなかったが、問題の画家には肖像画の代金に三万ドルを支払っていた。しかし、その画家は、慈善団体に寄付してほしいと言って一万ドルを返してよこしたんです……これを聞いて記者たちは驚きの声をあげた。
新聞全紙に大々的に報じられたこうした事実の大きさは、二日前に別の名前で到着したばかりのアイリーンに感銘を与えずにはいなかった。怒りは収まらなかったが、当初の計画が妙案か考え直す気にさせられた。夫が購入している絵画が何だというのかしら? さらに美術品を収容することを視野入れて、ニューヨーク邸を拡張するかもしれないと最近話していたことを思い出した。もしそうなれば、暴露と、迫られた離婚訴訟が、自分以外の女性が有利になる計画の変更へとクーパーウッドを追いやるかもしれない。これは数年前に直面して負けた同じジレンマだった。
しかし、クーパーウッドはアイリーンの脅しを額面どおりに受けとめてニューヨーク滞在中は五番街の住居ではなくウォルドーフ=アストリアを本拠地にするのが一番いいと思った。いったん落ち着いてから、電話でアイリーンに連絡をとろうとしたが、うまくいかなかった。というのもアイリーンは、彼女にとっては許しがたく思えるクーパーウッドの犯罪のことで、クーパーウッドが来ても話さないと心に決めていて、ニューヨークの弁護士にお願いして来てもらうほどだった。しかし、クーパーウッドの行動を報じ続ける新聞を読むことで、時間が経つにつれ、感情に変化が生じた。当然、彼の成功を誇りに思ったが、それでいて嫉妬していた。その背景のどこかに愛人の一人……まぎれもないベレニス……が、疑いの余地なくクーパーウッドのこの最も虹色の時間を共有しているとわかっていたからだ。アイリーンはひと目に触れることと輝くことが大好きだった。時には、クーパーウッドに関する、いい、悪い、無関心な評判の驚きの局面に、ほとんど子供のように引きつけられた。実際、クーパーウッドがロンドンに建設している巨大発電所の新聞写真は、機嫌が悪いのを忘れさせるほどアイリーンを魅了した。それどころか、ある新聞記事で激しく攻撃されたときなどは、その同じ時期に彼女自身がクーパーウッドを攻撃する気分でいたのに、憤慨せずにはいられなかった。
クーパーウッドの帰国を迎えた計り知れないさまざまな意見と称賛を考えた後で、アイリーンの怒りはある種の憧れを覚えて困惑した。そんな揺れ動く気持ちでいるときに、クーパーウッドは静かに部屋のリビングに入り込み、アイリーンが長椅子で横になっているのを見つけた。周囲の床には明らかに読んでいた新聞が散らばっていた。クーパーウッドが入るとアイリーンは飛び起き、彼が前に立ちはだかって自分を見ている間に、自分の中にある大切な怒りを呼び起こそうとした。
「ほお、ニュースは欠かさず読んでるんだね」クーパーウッドはおおらかで屈託のない微笑みを浮かべて言った。「悪いものじゃないだろう?」
「あなた!」まるで悲鳴のように叫んだ。「よくものこのこと! せめて世間があたしと同じようにあなたのことを知ればいいのよ! この偽善者! あんまりだわ!」
「ねえ、聞いてくれよ、アイリーン」クーパーウッドはできるかぎり冷静に続けた。「よく考えてごらんよ、私はきみを傷つけてなんかいないだろ。この新聞のどれを読んだって、ロンドンに行ってから私が一日二十四時間この問題にかかりっきりで働いてきたことはわかるだろ。この男、トリファーにしたって、パリのような街であれ以上のガイドがいるだろうか? 私の記憶が正しければ、昔、きみはひどく文句を言わずに、私と一緒にあの街を通り過ぎたことがなかっただろ。何しろ、きみが面白いと思っても私には時間がなかったから、きみと一緒に名所巡りにすべての時間を使えなかったものね。そこにトリファーが現れて、とにかくパリに行くつもりだったから、私は思ったんだ。きみは彼を気に入ったようだったし、同じ時期にきみがそこへ行くというのなら、とにかく私に気兼ねせずに昔の念願だったパリ見物の願いを叶えるいい機会になるかもしれないからね。トリファーについてはそれだけのことでしかない。きみだってわかってるだろ!」
「嘘よ、嘘、嘘に決まってるわ!」アイリーンは猛然と叫んだ。「いつだって嘘ばかり! でも、今回は通じないわよ。少なくとも、あたしは世間に、あなたが本当はどんな人なのか、あたしのことをどんな風に扱ってきたのか、知らせることができるわ。そうすれば、あなたに関する記事は少し違って読めるわよ、きっと!」
「ねえ、アイリーン」クーパーウッドはさえぎった。「ちょっと道理をわきまえてくれよ。物にかけては、私がきみの欲しがるものを与えなかったことはなかっただろう。私がいなくなった後のことだって、きみが管理してくれるものだとずっと当てにしてたんだよ。ここにあるこの家だってそうだ。きみだってきっと自慢の家だろ。知ってるだろうけど、さらに美しくする方法で、私は増築を計画しているんだ。いずれ、きみのためにパームルームを拡張し、絵と彫像のためのギャラリーを増築するためにも、今、隣の家を買いたいと思っている。きみの好きなようにきみ自身を表現するために、そのすべてをきみの手に委ねるつもりでいたんだ」
しかし、持ち前の秘密主義に徹したため、ロンドンを出発する前に、問題の家をすでに購入済みであることを言いそびれた。
「パインを呼んで、いくつかプランを提出させてみるのはどうだ」クーパーウッドは続けた。「そして二人で検討してみようよ」
「そうね」アイリーンはその気になって言った。「それは面白そうね」
しかし、クーパーウッドは躊躇しなかった。「私の人生が、きみの人生から離れているなんて、アイリーン、馬鹿げた考えだよ、まったく。第一に、私たちは長過ぎるくらい一緒にやってきたんだ。大変なこともあったけど、こうしてここいるだろ。体を酷使する仕事以外、私の生活は何もないんだ。それに、私はもう若くはない。もしきみがまた私と仲良くなりたいなら、このロンドンの地下鉄を手放し次第、ニューヨークに戻って喜んでここできみと一緒に暮らすからね」
「他の六人も一緒にってことかしら?」アイリーンは皮肉をきかせて尋ねた。
「いや、今言ったとおりさ。私もいつか引退しなければならないことは、きみもわかると思う。そうなったら、それは平穏で静かな生活のためであって、さらなる仕事のためじゃない」
アイリーンは、今、追加の皮肉を言おうと準備していたが、相手を見上げると、その顔に一段と疲れてほとんど落ち込んだ表情を見つけた。これまでに見たことがないような表情だった。このせいでアイリーンの気持ちは批判の表情から予想もしなかった同情の表情に変わった。おそらく、この人は疲れていて、休息が必要なのかもしれない。何しろ、何年も順調にやってきて、やるべきことが多かった。これはクーパーウッドと一緒の何年もの間でアイリーンが経験した最も優しい考えのひとつだった。
しかし、そのとき、メイドがやって来て、弁護士のロバートソンさんから電話だと告げた。アイリーンはそれを聞いてばつ悪そうにもじもじして、それからつっかかるように言った。
「あたしなら外出したと言ってちょうだい!」
この大事な言葉をクーパーウッドは聞き逃しはしなかった。
「このことを誰かに何か話したのかい?」クーパーウッドはアイリーンに尋ねた。
「いいえ、話していないわ」アイリーンは答えた。
「よかった!」クーパーウッドは和やかに言った。
そして、いろいろなお金の問題で数日シカゴに行く用事があることを説明してから、自分が戻るまでは何もしないという約束をアイリーンから引き出すことに成功した。今言ったとおり、この時までに、二人はお互い納得して物事を解決できるとクーパーウッドは考えた。
この問題をひとまず棚上げすることにアイリーンが納得したようだったので、クーパーウッドは時計を取り出し、今ならまだ列車に間に合うと言った。戻ってきてからまた会うつもりだった。この頃にはかなり落ち着いたので、アイリーンはドアまで一緒に行き、それから戻って、さっきまで読んでいた新聞を調べた。
第五十五章
シカゴ行きは五百万ドルの融資または投資の交渉に関わる重要なものだった。そして、シッペンスに会って、保有する不動産の段階的な処分についての報告を求めた。
彼の注意を必要とするもう一つの問題は、シカゴの鉄道大手の一社に対する最近の訴訟だった。そこは数年前にクーパーウッドが最初に建設して運営していた高架鉄道のうちの二本を引き継いでいた。しかし、クーパーウッドがシカゴから撤退してロンドンに行ってしまうと、これらの路線は経営不振に陥り、それまで好調だった一般客からの収入を失っただけでなく、投資家にずっと保有されていた株式の利息をなくすほどの巨額の赤字に直面した。実際、地元では、公益法人史上、この鉄道会社ほどの完全な破綻は例がないと力説された。そして、この損失がクーパーウッドのせいにされたため、破綻は自分の責任ではなく、その資産を引き継いた者たちの不手際によるものだと投資家に明らかにする必要があった。説明後にクーパーウッドは『詐欺師』ではなく『金融の魔術師』と呼ばれるようになったが、それは彼がこの路線を運営していた当時、自社株に対して八から十二パーセントの配当を支払っていたことが周知の事実だったからである。今回は、借りに来た五百万ドルを確保しただけでなく、自分の評判を大いに高めて立ち去った。
しかし、このシカゴ行きに関連して予期せぬ出来事があった。それはローナ・マリスの再登場だった。ローナはクーパーウッドがシカゴにいるという新聞記事を見て、自分への関心を復活させたい一心で彼を探し出した。しかし、ローナの思いは失望に終わった。このときには彼の気持ちは変わっていた。ニューヨークへ、そして最終的にはベレニスのもとへ戻りたかった。しかし、ローナの服装が、最後に会ったときよりも羽振りがよくない状況を反映していることに気がつき、近況を調べたくなり、人気の魅力も収入も減ったことを知ったので、暮らし向きに関心があるふりをして、彼女のために一定の引出金勘定を手配し、さらに演劇プロデューサーが彼女のキャリアに関心が向くように何ができるかを検討すると保証した。一連の好意はローナの本来の勇気と陽気さを効果的に再燃させた。
しかし、列車に乗り、プラットフォームに立って最後の別れを惜しんで手を振るローナの横を列車が通り過ぎると、クーパーウッドはすべての生き物と力が織り成す変化に富んだ十字模様を思わずにはいられなかった。ここで彼は、シカゴの株主たちに攻撃され、同時に日刊紙、ニューヨークのアイリーン、ロンドンの美しいベレニスに見張られていた。当然、ベレニスはアイリーンよりも彼を信じていなかった。それにしても、一体どうしてだろう? 感情、官能的な嗜好、異なるタイプの人間に対する反応は、彼が発明したものでも創造したものではなかった。
カタッ、カタッ、カタッ! と、車輪はレールの上を走った。ポッポー! ポッポー! と、エンジンが声をあげた。人生、時間、変化をぼんやりと考えながら見つめる窓の向こうで、似たような景色が、時間と同じように流れるように過ぎ去った。
第五十六章
戻ってきてニューヨークのアイリーンに会いに行くと、クーパーウッドはうれしい驚きの展開に遭遇した。彼がいなくなってから、アイリーンは家を増築するかもしれないという彼の提案と、改築に関して彼女の好みを考慮したいと彼が表明したことを重く受けとめていた。これは、クーパーウッドに言えたどんなことよりもアイリーンを喜ばせた。その結果、アイリーンはすでに建築家に用意してもらっていたいくつかの図面、デザイン、配色を持ち出して、クーパーウッドに見てもらいたがった。
クーパーウッドは、この邸宅を最初に設計したアメリカの建築家レイモンド・パインが、古い家を新しい家に調和させた変更案のスケッチを一通り作成していたことを知って喜んだ。アイリーンは、あれやこれやと芸術的な解釈をする段階が好きなことを強調した。クーパーウッドはパインに会って、この問題にはゆっくり時間をかけるよう忠告した。最後に、二人の芸術的嗜好を反映させるだけでなく、二人の社会との融和をもたらすかもしれない何かの重要な役割が与えられた気持ちにさせてアイリーンのもとを去った。
それでも、このときニューヨークやアメリカにいることは、クーパーウッドにとって容易なことではなかった。ロンドンに行ってから、彼の社会観は変わった。自分の利益を図るための努力において、イギリス人が抜け目なさや鋭さで劣ることはなかった。しかし、ステイン、ジョンソン、その仲間たちに出会ってから気づいたように、商売や取引に、休息や楽しみを織り交ぜる必要性がほぼ無意識に考慮された。しかしここアメリカでは決まり文句があるように、ビジネスはビジネスだった。
ニューヨークに到着してからずっと、仕事上のやり取りしかなかった。ここではやろうにも他には面白いことが何もないようにクーパーウッドには思えた。このため、彼の心は絶えずベレニスとプライアーズ・コーブに戻っていたが、資金源として挙げた都市をすべて回らねばならないことはわかっていた……東部中を駆け足で回る旅は、多少なりともクーパーウッドを疲れさせた。生まれて初めて、自分も年をとったのかもしれない、と感じるのではなく考えるようになった。しかし、うまい具合に、いろいろな圧力団体の活動があって、彼のいることが最も重要だと告げる、ジョンソンから緊急電報が届いたおかげで、ようやくこの問題から解放された。
アイリーンに電報を見せたところ、それを読んでから、クーパーウッドの顔に浮かんだ疲れに話を振って、結局、自分の健康が一番重要なのを覚えておくよう警告した。できることなら、ヨーロッパの仕事をやめて引退すべきだった。クーパーウッドは、そのことならすでに考えている、自分が不在の間、アイリーンがつつがなく過ごせるように、カスバートにアートコレクション全体を管理する指示を出した、彼は信頼できる判断力を持つ男だ、と答えた。
その一方で、ベレニスは、クーパーウッドがいつ戻るのだろうと思い始めていた。クーパーウッドがいないと時間が経つにつれて、どんどん孤独になることに気がついていた。ステイン卿が、より多くの友人に引き合わせるためにいろいろなレセプションや夜のパーティー、宮中のレセプションにまで連れ出したが、ベレニスは何だか奇妙な説明できない気分でクーパーウッドがいないのを寂しがった。クーパーウッドは、ベレニスの人生では支配的な力であり、ステイン卿を囲んでいる高貴な雰囲気でさえ小さく見せてしまう力だった。ステインは優しくて魅力的な仲間だとわかっていたが、プライアーズ・コーブの静けさに戻ると、いつも考えや気分、感情の中で再びクーパーウッドと一緒になった。彼は何をしていて、誰を見ているのかしら? またローナ・マリスに関心を持つかしら? それとも新しい人かしら? それとも、明らかに恋をしている自分のところに、以前に戻ったように、戻ってくるかしら? そして、彼と一緒にアイリーンも戻ってくるのかしら、それとも、彼に休息の時間を与える気にさせるくらい十分になだめることができたかしら?
女は嫉妬深い! 彼のことになると、自分まで嫉妬する!
結局は、彼が頼りなのだ! 自分だけでなく母親もそうだっだ! 学費を払ってくれたのも、その後におしゃれなパーク・アベニューのすてきなニューヨークの家をくれたのも彼だった。
精神的にも哲学的にも、ベレニスは他の誰よりも冷たい現実的な性格だった。クーパーウッドがアイリーンの脅しのせいでニューヨークに戻らざるを得なくなる直前、もしアイリーンのこの最新の急襲でよほど大きな悪影響が自分に及ばなかったら、今までとってきたよりももっと寛大な態度をステイン卿にとってもいいかもしれない、と決心したほどだった。明らかに、ステインはベレニスに深くのぼせ上がっていた。結婚を考えていると信じさせようとさえしていた。
私がちゃんと気遣いさえすれば十分だ、とこの時ベレニスは思った。ステインがあんなにイギリス的ではなく、伝統的でなければよかったのに。イギリスには、不正な手段で男性を騙した妻と離婚する男性を妨げる法律はないと聞いていた……それで女性が男性と結婚したら女性の方が悪くなってしまう。クーパーウッドがいない間ずっと、この可能性がベレニスを沈黙させ、やや距離をとらせていた。アイリーンが行動を起こすことにした場合の自分の社会的立場を考えていた。
しかし、ベレニスの不安は、ロンドンの新聞の日々沈黙と、健康と体力の急な衰えを含むさまざまな問題をざっと説明し、同時に、休養とベレニスに再会するためにイギリスに戻りたいという願いが記してあったクーパーウッドからの手紙で徐々に和らげられた。この健康に話が及んだのがきっかけで、仕事の慌ただしさから多少解放されたどこか静かで美しいところへ二人で旅行するのがいいだろう、とベレニスは思いついた。しかし、そういう場所がどこにあるだろう? 彼は随分たくさんのところ……イタリア、ギリシャ、スイス、フランス、オーストリア=ハンガリー、ドイツ、トルコ、聖地……へ旅行していたから、すでに見飽きているかもしれない。
しかし、ノルウェーはどうだろう? 今思い出す限りでは、クーパーウッドがここを話題にしたのを聞いたことがなかった。それでベレニスは、見知らぬ異国の地で休養するようクーパーウッドを説得したいという思いに駆られて、そこの目新しさと美しさを詳しく知るために、その国についての本を購入した。ベレニスは夢中でページをめくり、暗く高い崖や、厳しい容赦のない自然が切り開いた渓谷の上に何千フィートも垂直にそびえ立つ山脈や山岳や、美しい穏やかな湖の麓にある瀑布や急流の滝の写真を研究した。高い山の中腹に、難破した船員が救命いかだにしがみつくようにして、小さな農場があった。ベレニスは異国の奇妙な神々について読んだ。戦いの神オーディン、雷の神トール、戦いで死んだ人々の魂のために用意された天国のようなものヴァルハラ。
文章を読んだり写真を見る限りでは、この国は産業主義とは無縁のようだった。この土地はクーパーウッドの休養に実にちょうどいい。
第五十七章
ベレニスは、クーパーウッドがひどく疲れた様子でイギリスに到着するまでに、不思議にも彼がこれまで訪れたことがなかったノルウェーに対する自分自身の思い入れを多少は彼に植え付けることができた。
それから間もなく彼は、ジェーミソンにヨットを見つけてチャーターする役目を与えた。しかし、ヨットが見つかる前に、クーパーウッドの意向をステインから聞きつけたティルトン卿なる人物が寛大にもその目的のために自分のヨット、ペリカン号を貸すと言ってくれた。そして、いよいよ夏も本番に近づく頃、クーパーウッドとベレニスは、スタバンゲル・フィヨルドに向けてノルウェーの西海岸沿いを順調に航海していた。
ヨットはかっこいい船で、ノルウェー人の船長エリー・ハンセンは腕のいい男だった。背丈は中ぐらい以下だが、たくましい体格で、血色がよく、砂色の髪が噴き出すように額を覆っていた。目はどんな海にも海にまつわるどんな経験にも挑みそうな鋼の青だった。平地を歩くときでさえ、動きが悪天候に自然に身構えているようだった……海とはずっとある種のリズムに合わせて一体化していた。生涯を通して船乗りで、喫水線の下、数千フィートの底から真っ直ぐに数千フィートそびえ立っている神秘の山々を、迷路のように切り抜ける内陸水路を、心から愛していた。それを地表の断層か地殻が割れた結果だと言う者もいれば、火山の噴火が引き起こしたと考える者もいる。しかしエリックはこれらが、世界の他の地域への通り道を作るためにどんな障壁でも突破する力を持った強力な先史時代のバイキングに、切り開かれたことを知っていた。
しかし、ベレニスは、こうした険しい丘の斜面や、水際から遠く離れた高いところにあるコテージを見ても、その住人がどうやって通り過ぎる船のところまで降りたり再び自分たちの小さな家まで登るのか、また、どんな理由があってそんなことをするのか、想像できなかった。すべてがとても奇妙に思えた。ベレニスは山登りの技術にはくわしくなかった。それはおそらくノルウェー人が必要に迫られて、ヤギが険しい岩場から険しい岩場へと巧みに移動するのを見て身につけたのかもしれない。
「何て変わった土地なんだ」クーパーウッドは言った。「ここに連れてきてくれてありがとう、ベヴィ、確かに美しいけど、この国は大自然の風土が犯した過ちの一つだと私には思えます。夏は日があたりすぎで、冬は少なすぎますね。ロマンチックな水路が多すぎで、不毛の山も多すぎます。ですが、それがものすごく私の関心を掻き立てることを認めねばなりません」
実は、ベレニスはクーパーウッドがこの国に強い関心を持ったことに気づいていた。質問するために、彼が尊敬してやまない船長を何度も呼んだからだ。
「この町の人は、漁業の他に何で生計をたてているんですか?」彼はエリックに尋ねた。
「そうですね、ディクソンさん」……クーパーウッドはそう名乗っていた……「他にいくらでもありますよ。ヤギを飼って、ヤギのミルクを売ります。鶏がいるから、卵だって売ります。牛もいます。実際には、持ってる牛の数で、豊かさを判断することがよくありますね。それに、バターもあります。みんな、丈夫で働き者なんですよ。五エーカーの土地で信じられないほど多くの収穫をあげられますから。私はその方面の専門家じゃないから、本当は大したことは言えませんが、あなたが考えてるよりもうまくやってますよ。あとはですね」エリックは続けた。「この辺の若い衆はほとんど、航海術の訓練を受けるんです。少し大きくなると、ノルウェーに出入りして世界中の都市や海運の町を結ぶ船長や航海士やコックになるんです」
ここでベレニスが声をあげた。「量の不足を質で補っているのかしら」
「そのとおりです、奥さま」船長は言った。「それが言いたかったんです」そしてさらに熱くなって続けた。「現実に彼らは自分たちの中で快適な生き方を学んだんです。でも、本の外だけでなく中の世界も知ってますよ。我々ノルウェー人は本好きで、教育を大切にします。ここには文盲はほとんどおりません。信じられないかもしれませんが、ノルウェーはスペインやポーランドよりも電話の数だって多いんです。文学や音楽で有名な人もいます。グリーグ、ハムスン、イプセン、ビョルンソン」……この名前を聞いてクーパーウッドは言葉がつまり、この男の人生は、文学が何て小さな役割を果たしていたんだろうと思い、ベレニスに読んでいた本の何冊かをこの男にあげてはどうかと提案したくなった。
ベレニスは彼がじっと考えにひたっているのに気がつき、彼がこの不思議な世界と自分の厄介な世界とを比べているのかもしれないと疑い、会話をもう少し明るいものに切り替えることにして、ハンセン船長の方を向きながら尋ねた。
「ハンセン船長、もう少し北に行くと、ラップ人たちに会えそうかしら?」
「そうですね、奥さま」船長は答えた。「トロンヘイムの北のどこかで出くわすかもしれません。もうそこにたどりついたも同然です」
ヨットはトロンヘイムから白夜の地ハンメルフェストに向けて北上した。途中で何か所か寄港した。その一つが大きな崖の一つから岩が少し伸びているグロットという場所だった。おそらく家が十数軒しかないとても小さな場所で、主に捕鯨基地として使われていた。家は普通の石造りの小屋で、草と土とで屋根が覆われていた。
北へ行く船からも南へ行く船からも石炭や木材を買うのが、グロットの捕鯨船の習慣だった。さっそく、漁師の小さなグループがヨットに近づいてきた。石炭を渡すにしても実際に必要な量はなかったが、相手の備蓄はほんのわずかしかないと感じたので、クーパーウッドは船長に数トン分けてあげるように指示した。
朝食後にハンセン船長が上陸した。そして戻ってくると、ずっと北の方から来たラップ人の部族が到着して、グロットから半マイルほど離れた本土でキャンプを張っているとクーパーウッドに伝えた。およそ千五百頭のトナカイと、子供と犬を連れたラップ人が百人以上いると言った。これを聞いて、ベレニスはそれを見たがった。すると、ハンセン船長と航海士は、そのキャンプを訪れるために船を漕ぎ寄せた。
本土の海岸に降り立ってから、彼らは全方向に広がるテントの周りに点在するトナカイに向かって歩いた。相手の言語を多少は知っている船長がラップ人と話をした。そのうちの数名が訪問者たちの方に来た。握手をして一行を歓迎し自分たちのテントに招いた。あるテントで、大きな鍋が火にかけられていた。航海士が調べて「犬のシチューだろう」と言ったが、丸々太った肉汁たっぷりの熊だとわかった。みんなでごちそうになった。
もう一つのテントは、周辺国からの漁師や農民でいっぱいだった。実は、この集会は年に一度の見本市のようなもので、ラップ人はここでトナカイの生産品を処分して、冬に備えて必需品を買い求めた。するとそのとき、ラップ人の女性が一人、人垣をかき分けてやって来た。女性は古い知人としてハンセン船長に挨拶し、船長はその女性を部族で最も裕福なメンバーの一人だとクーパーウッドに告げた。歌ったり踊ったりするグループがついてきた。全員がそれに参加しようとした。そして、酒と食べ物がふるまわれて、周囲をたくさんの笑いで包んだあと、クーパーウッド一行は別れを告げてペリカン号に戻った。
沈まない太陽の光を浴びながら、ヨットは方向転換して船首を南に戻した。この時までに、十数頭の巨大なホッキョククジラがヨットの視界に入った。船長は、船が最も優雅にその間を航行できるようにすべての帆を張れと命じた。立ってクジラを見ている間、乗客も乗組員もものすごく興奮した。しかし、クーパーウッドは目の前の光景よりも、船長の腕前に興味があった。
「ほら、みてごらん!」彼はベレニスに言った。「どんな職業、どんな仕事、どんな種類の労働にだって、用心深さと技術が必要なんです。見ての通り、船長はヨットを完全にコントロールしてるでしょ。あれ自体が偉業なんです」
ベレニスは彼の意見に微笑んたが、何も言わなかった。一方でクーパーウッドはしばらく自分もその一部になったこの印象的な世界を考え、思索していた。この北国の景色全体で彼が一番感銘を受けたのは、これが彼のような気質の者には本当にまったく必要のない世界の、厳しい、社会的に重要でない局面である事実だった。広大な海は、大きな意味で、魚を供給することで住民を支えた。そして利益が出るときは、居住に適した十分な土の空間を構築したり作ったりして、比較的快適な生活を実現できるだけの仕事があった。それでもクーパーウッドは、この人たちは、彼や彼のような、お金をためることに懸命に取り組む何千もの人たちよりももっと多くのものを、純粋な美しさ、素朴な快適さ、魅力的な社会習慣のある生活、から得ていると感じた。なのに、自分ときたら、年をとる一方で、人生の最良の部分はすでになくなっていた。自分の前にはいったい何が待っているのだろう? さらに地下鉄に打ち込むのか? さらにアートギャラリーを増やすのか? さらに世論に苛立ちを募らせるのか?
確かに、この旅行はいい安らぎだった。しかし、クーパーウッドは今は絶えず、平和とはほど遠いたくさんのことに関わっていた。彼に続けられたところで、さらに議論が増え、弁護士が増え、新聞の批判が増え、家庭の揉めごとが増えるだけだった。クーパーウッドは内心苦笑いした。あまり考え過ぎてはいけない。物事をありのままに受けとめて、最大限に利用するのだ。結局、世界はほとんどの人のためよりも、自分のために多くのことをしてくれた。少なくとも感謝くらいはできたので感謝した。
数日後、帰りの旅でオスロに近づくと、人目につく危険を避けるために、ベレニスはそこでヨットを降りて、汽船でリバプールに帰った方がいいと提案した。リバプールからプライアーズ・コーブまでは短い距離だった。クーパーウッドはベレニスがおとなしくこの決定を受け入れてくれたのを見て喜んだ。それでも、彼女の表情から、絶えず二人の関係を支配し邪魔する力に、彼女がどれだけ憤慨しているかをクーパーウッドは感じ取ることができた。
第五十八章
ノルウェーの休暇でクーパーウッドは体調がとてもよくなったので、一九〇五年一月までに資本金一億八千五百万ドル、路線百四十マイルの敷設、地下鉄の全面電化という自分に課した目標を達成するために、集中した努力で事業を推進したかった。この仕事を完了させて、その価値を証明したいという新たな野心と願望に駆り立てられたので、プライアーズ・コーブでもどこか他の場所でも、ほどんど休めなかった。
そして、その後の数か月間は、取締役会議、関係機関や重要な投資家との話し合い、技術的な問題、そして時には夜にステイン卿とエルバーソン・ジョンソンとの個人的な会合があった。最後に、ガンツという名の男に発明された電動モーター装置を調べにウィーンに出かける用事ができた。これを使えば地下鉄の運営費用の大幅削減が見込まれた。モーターを見て機能を観察した後でその価値を確信し、すぐに電報を打って自分の意見を確認するために技術者数名をウィーンに来させた。
ロンドンへ戻る途中、パリのリッツ・ホテルに立ち寄った。そこでの最初の夜、ホテルのロビーで昔の仲間のマイケル・シャンリーに会った。一時期シカゴで雇っていた男で、パリのオペラ座のコンサートを聴きに行こうと誘ってくれた。そこで演奏されるショパンという名のポーランド人の作品のことで話が盛り上がった。クーパーウッドはその名前に何となく聞き覚えがあるだけで、シャンリーに至ってはそれ以下だったが、二人は出かけた。クーパーウッドはその曲にすっかり魅了されてしまい、ショパンがペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたことをプログラムの解説で読むと、翌日その世界的に有名な墓地に行こうと提案した。
翌朝、クーパーウッドとシャンリーはペール・ラシェーズに行って、現地でガイドを雇った。ガイドは墓地の糸杉の並木道を歩きながら英語で多くの情報を提供した。こうして二人は、この縦穴の下に、かつてその黄金の歌声でシカゴで彼を感動させたサラ・ベルナールが眠っていることを知った。少し先にはバルザックの墓があったが、その作品が偉大だと考えられていることしか知らなかった。クーパーウッドは立ち止まって見つめる間、自分のような特殊な仕事をしていると、他の多くの分野の天才の知的、芸術的価値を知らずにすごしてしまうと改めて痛感した。二人はビゼー、デ・ミュッセ、モリエールの墓を通り過ぎ、最後にショパンの眠る場所に来た。そこはリボンで結ばれたバラやユリの花束が散乱していた。
「今、考えても」シャンリーは叫んだ。「確かに、偉大な音楽家ですよ。しかし死んで半世紀以上たつというのに、ここにこれほどの花があるとは! まあ、自分には誰もこんなことをしてくれないでしょうね、きっと!」
その考えがきっかけで、たとえ死後一年でもいいが、自分の墓に花が散乱することがありえるだろうか、とクーパーウッドは疑問を抱いた……腹立たしいというより面白い発想だった。何しろ、働き者であろうがなかろうが、何年も経ったあとで花が散乱している墓はどこにもほとんどないことがよくわかったからである。
しかし、ペール・ラシェーズ墓地を去る前に、もう一つの驚きが彼を待っていた。出口に向かって南に曲がると、思いがけず、アベラールとエロイーズの美しい二人の墓に行き当たった。ガイドはそれにまつわる不運な二人の有名な悲劇のロマンスを語り始めた。エロイーズとアベラール! 精神的に優れた修道士を想う少女の愛と、十一世紀の冷酷な司教座聖堂参事会員であるその父親の野蛮な仕打ち! クーパーウッドはこの時まで、この恋人たちの話を聞いたことがなかった。しかし今、ガイドの話に聞いている間にも、明らかに上品でとても魅力的な女性が、花がいっぱいのかごを持って墓に近づき、色とりどりの花を墓の上と周りにばらまき始めた。クーパーウッドとシャンリーは、これにすっかり感動して帽子を脱ぎ、相手と目が合うとうやうやしくお辞儀をした。女性は「ありがとう、みなさん」と言って相手の気遣いを受けとめて立ち去った。
しかし、この華やかで感動的な出来事は、出会った頃の自分とアイリーンに関係する一連の思い出をクーパーウッドの頭に再現させた。生涯の一時期、フィラデルフィアで投獄されたとき、結局、実父を含む彼の敵すべてを向こうに回して、誠実に彼のもとへ通い、変わらぬ愛を宣言して、自分にできるあらゆる方法で彼の境遇をいたわってくれたのはアイリーンだった。アベラールとエロイーズのように、アイリーンが求めたのは彼だけで他の誰でもなかった。クーパーウッドが知るように、今でもそうだった。
突然、自分たち二人の墓、美しい永遠の安らぎの場、というアイデアが頭にひらめいた。そうだ、建築家を雇って、設計してもらおう。少なくとも一度はアイリーンが自分を大事に思ってくれたのと同じくらい、自分もアイリーンを大事に思っていた事実を記念する美しい墓をつくろう。
第五十九章
クーパーウッドがロンドンに戻ってきたとき、ベレニスはそのあまりの変わりように驚いた。すっかり疲れ果てた様子で、明らかに体重がおちていた。ベレニスは、彼が自分の健康管理を怠っていることと、自分がろくに彼と会っていない事実についてクーパーウッドに不満をぶつけた。
「フランク」ベレニスは愛情の込もった口調で話し始めた。「どうしてこんなことに自分の時間とエネルギーをそんなにたくさん使うの? とても張り詰めてぴりぴりしているみたいだわ。これ以上進まないうちに医者にかかって精密検査をしてもらうべきだと思わない?」
「ベヴィ」クーパーウッドはウエストに腕をまわしながら言った。「そんな心配はいりませんよ。働きすぎなのはわかってます。でも、これはすぐに終わるし、とにかく当分はこれ以上多くの仕事に煩わされる必要はなくなるでしょう」
「でも、本当に体調はいいんですか?」
「ええ、ベヴィ、大丈夫だと思います。とにかく、開発の特にこの段階はとても大事なので、私が自分で注意を払わなければならないと思うんです」
しかし、そう言いながら、クーパーウッドはまるで突然の痛みに襲われたように前かがみになった。ベレニスは叫びながらそばに駆け寄った。「フランク、どうしたの? どこが悪いの? これまでにも、こういうことがあったの?」
「いいや、全然なかったよ」クーパーウッドは言った。「でも、別に深刻なことじゃないよ、きっと」やがて、そこそこ回復した。「もちろん、こういう鋭い痛みを引き起こす原因があるにちがいない。ウェイン先生に電話して、往診してもらった方がいいかもしれないな……」と言うとさっそくベレニスが電話に向かった。
到着すると医者はクーパーウッドがあまりにもやつれた様子なので見て驚いた。ざっと検査をして、すぐに調合すべき処方箋を書き、翌朝、精密検査を受けに来るよう求めると、クーパーウッドは了承した。しかし、一週間のうちに、ロンドンの最高の専門医が二名、ウェイン医師に呼ばれ、その結論が告げられると、クーパーウッドはひどい腎臓病が進行していて比較的短期間で致命的な結末を迎えるかもしれないことを知ってショックを受けた。医師は、クーパーウッドに休養をとり、進行を遅らせるための処方薬を服用するよう命じた。
しかし、数日後に体調を報告しにウェイン医師の診療室を訪れたとき、クーパーウッドは、気分はよくなり、食欲は正常のようだと医師に伝えた。
「この病気で厄介なのはですね、クーパーウッドさん」ウェイン医師は、ここで静かに言った。「症状が変わっていて、病気による痛みが時々、一時的にとまることがあるんです。だからといって、患者が治ったわけでも、良くなったわけでもありません。痛みがぶり返すかもしれません。このせいで、我々、専門医もよく確定的で不安にさせる予測を立ててしまいます。専門医でも常に正しいとは限らないんです。それどころか、患者はよくなって何年も生きるかもしれません。その一方で、悪化するかもしれません。それがこの病気の対応を難しくしている条件のひとつなんです。だから、クーパーウッドさん、そういうわけで、私も思ったようには、はっきりと申し上げることができないんですよ」
ここで、クーパーウッドは口を挟んだ。
「私に何か言いたいことがありそうですね、ウェイン先生。それに、私が一番に、専門医の診断がどういうものか正確に知りたいんです。それがどんなものだろうと、知りたいんです。私の腎臓はそんなに悪いんですか? 命にかかわる機能障害があるんですか?」
ウェイン医師はじっと相手を見つめた。
「まあ、専門医の所見では、安静にして激しい仕事をしなければ、あなたは一年やそこらは生きていられるかもしれません。細心の注意を払えば、もっと長生きできるかもしれません。あなたのは、慢性腎炎かブライト病ですね、クーパーウッドさん。でも、説明したように、これが常に正しいとは限りません」
この慎重に考えた返答は、ほぼ健康一筋の人生で初めて、今、致命的な病気の可能性の告知に直面したにもかかわらず、冷静に、思慮深く、クーパーウッドに受けとめられた。死! おそらく余命はもう一年もない! 自分の創造性に富んだ労働のすべてが終わる! そうなるというのなら、そうなるのだ。気を引き締めて、それを受けとめなければならない。
診療室を出た後クーパーウッドは、自分の溶体よりも、人生で自分と親しい関係にあった数名の人たち、アイリーン、ベレニス、シッペンス、息子のフランク・クーパーウッド・ジュニア、最初の妻のアンナ(現ホイーラー夫人)、何年も会っていなかったが、それでも長期にわたって十分にものを与えてきた娘のアンナ、に最後の別れを告げることを気にしていた。そして、義務を負う人たちがいた。
その日遅くプライアーズ・コーブに行く途中で、クーパーウッドはすべての問題を整理する必要があると頭の中で繰り返し考えた。たとえこの専門医たちが間違っていたとしても、まず今すべきことは遺言を作ることだった。自分の身近な者全員に財産を与えなければならなかった。それから、一般に公開するつもりの秘蔵のアートギャラリーがあった。ニューヨークに作りたいといつも熱望していた病院もあった。それについて何かをしなければならなかった。いろいろな相続人や優遇した受益者に支払いを済ませた後でも、お金がなく他に頼る場所がない者全員に最高の医療を提供する病院を作れるくらいのものはまだ残るはずだった。
それと、自分とアイリーンのために建てたい墓の問題があった。建築家に相談して、美しくてふさわしい設計をしてもらわねばならなかった。これが、アイリーンを軽視しているように見えることを何かの形で補うかもしれない。
しかし、ベレニスはどうしよう? 今の状態では、公然とベレニスに遺言を残せなかった。新聞の詮索や一般大衆の避けがたい嫉妬の前に彼女をさらしたくなかった。この問題は別の方法で解決するつもりだった。すでにベレニスにはゆとりある生活を送れるだけの信託資金を設定済みで、さまざまな企業で保有していた債券や株式の追加分を現金化して、その現金を譲渡するつもりだった。数年後にお金がなくなる危機が訪れてもこれが保証してくれるだろう。
しかし、こうしているうちに、乗り物がプライアーズ・コーブに到着した。考えていたいくつもの悩みが、愛情深く微笑んで、医者の見立てを聞きたがっているベレニスの出現で中断された。しかし、いつものように、独りで、自分に厳しく、クーパーウッドはベレニスの質問をあまり大きな問題ではないとして聞き流した。
「どうってことはありません」彼は言った。「ちょっとした膀胱炎、おそらく食べすぎによるものです。処方箋をくれて、仕事を軽めにするようアドバイスしてくれました」。
「ほらね、やっぱり! 私がずっと言ってきたことだわ! もっと休むべきよ、フランク、そんなに体を酷使し続けてちゃだめよ」
しかし、ここで、クーパーウッドはうまく話題を変えた。
「酷使って言いますが」彼は言った。「このあたりの誰かが、雛鳩や、今朝あなたが話していたワインの特別なボトルのことで、何かをしているのは……?」
「ああ、救いがたい人ね! ほら、フェニエがテーブルの支度をしに来るわ。私たち、ディナーはテラスで食べているのよ」
クーパーウッドはベレニスの手をつかんで言った。「いいかい、神さまは正直者と働き者を守ってくれるんだから……」
明るく手をつないで、二人は一緒に家の中に入っていった。
第六十章
クーパーウッドはベレニスと一緒にディナーをとても楽しんだ様子だったが、思考は踏み車のように一つの輪の中をぐるぐる回っていた。それはあるところには、いろいろな商業や金融の関係者がいて、またあるところには、いろいろな人、彼がこれほど夢中になった壮大な交通システムの完成を目指して一緒に働いてきた男女、がいた。男性は基本的にとても協力的で、女性はとても楽しませてくれた。その全員がまとまって、華麗な三十年にしてくれた。クーパーウッドは今のところ、医者の診断をその額面どおりに致命的なものだと必ずしも信じなかったが、それでも、自分の余命を予測する医師の告知と、このテムズ川のほとりでベレニスと一緒にいるすてきな時間と、二人の前に広がるこの心地よい芝生のせいで、人生のはかない美しさと、つきまとう深い悲しみ、を感じずにはいられなかった。クーパーウッドの人生はとても充実していて、波乱に満ち、思い出に残るものが多かったからだ。自分だと見なすことができるもののすべてが突然終わってしまう可能性を考えさせられた今となっては、自分であり続けて楽しんだすべての価値を強調する傾向があった。ベレニス……とても若く、とても賢く、とても面白い人……は、好条件が重なれば、今後何年も自分と一緒にいられたのに。そしてこれは、彼も感じることができたように、彼女がとても明るく協力的に考え続けていることだった。今度ばかりは、生命の死に至る過程を、いつものように冷静に考えることができなかった。実際、クーパーウッドは、この時間の詩的な価値と、悲しみと悲しみ以外の何ものでもないそのはかなさ、を考えることしかできなかった。
しかし、その表面的な態度は精神的な落ち込みをまったく示さなかった。すでに彼は取り繕い、役割を演じなければならないと結論を出していた。もしこの医学的な予測があたるとしても、それがあたるぎりぎりの瞬間まで、いつものように自分の仕事をやらねばならなかった。だから、いつものように朝プライアーズ・コーブを出てオフィスに向かい、そこで決定や手続きなどでいつも見せたのと同じような冷静さと正確さで日常業務をこなした。それが今は、自分の死後に自分の個人的な願いを実現させるさまざまな手続きを始めておく必要があると思った。
そのうちのひとつが、クーパーウッドと失意のアイリーンのための墓だった。彼は秘書のジェーミソンを呼び、イギリスでもヨーロッパ大陸でもいいが、霊廟の建築で定評がある建築家の名前と確かな技術を報告するよう求めた。友人のために必要なので、できるだけ早く資料を欲しがった。これが済むと、自分の好きなこと、つまりアートギャラリーに注意を向けた。自分のコレクションが優れたものになるような絵画をそこに加えたかった。この目的のために、そういう傑作を売買する人物にたくさんの手紙を書き、最終的に非常に貴重な絵画を数点確保した。その中にあったのが、ブーグローの『キューピッドの世界へ侵入』、コローの『村への道』、フランス・ハルス『女性の肖像』、レンブラントの『聖ラザラスの復活』で、これらを船でニューヨークに送った。
しかし、こういう具体的な活動と並んで、地下鉄の計画にお決まりの細かい問題があった。要求、言いがかり、商売敵からの妨害、つまらない訴訟の数々! しかし、しばらくすると、この問題から生じる要件をすべて満たすことができた。またこの頃には、医師に相談する原因になった最初の痛みは全然深刻ではない、と自分で結論を出すほど、大幅に体調もよくなり始めていた。実際、最初にロンドンに来てからのいつよりも将来がずっとバラ色に見えた。ベレニスさえ、昔の体力が戻ったと判断した。
一方、ステイン卿は、数多くの新しい独創的なアイデアでそれ自体を表現しているクーパーウッドの創造的なエネルギーに感銘を受けて、そろそろクーパーウッドの名誉を称える社交行事を、美しい海辺の地所トレガサルで催してもいい頃だと判断した。そこは少なくとも二百人のゲストが収容できた。そして、招待される重要人物について熟考してから、日時が決まり、美しい敷地と、月明かりの輝きにも匹敵するシャンデリアを備えた巨大なダンスホールのあるトレガサルが舞踏会の舞台になった。
ステイン卿は正面玄関付近に立って、押し寄せるゲストを出迎えた。そして、そのときベレニスがクーパーウッドの腕をとって現れたのを見て、今夜は特に美しいと思った。ギリシャ風の簡素なデザインの白いトレーンドレスをまとい、ウエストを金色の紐で押さえ、赤い髪が金の花輪のようにこの衣装のてっぺんを飾っていた。そして、ステインが感極まったのは、ベレニスが近づいたときに自分を見て微笑みかけたことだった。「ベレニス! 美しい! 夢のようなかわいらしさですね!」と言うのがやっとだった。最も重要な大株主の一人と二、三言葉を交わそうと立ち止まったのに、クーパーウッドは挨拶のきっかけをつかみ損ねた。
「二回目のダンスをしなくてはなりませんね」ステインはしばらくベレニスの手を握りながら言った。すると、ベレニスは上品にうなずいた。
ステインはベレニスに挨拶してから、主賓のクーパーウッドを最も丁重に歓迎し、おびただしい数の地下鉄の職員とその妻たちが挨拶する間しばらく引き留めた。
夕食に案内されるまで、大して時間はかからなかった。ゲストは中に入って着席し、閑談したり、珍しいヴィンテージワインや、どんな舌のこえた者でも喜んでもらえるとステインが納得した特別なブランドのシャンパンを味わっていた。大きくなった笑い声や会話のざわめきは、隣の部屋から流れてくる音楽の穏やかな調べに心地よく緩和された。
ベレニスは自分がテーブルの上座近くに座っていることに気がついた。片側がステイン卿で反対側がブラッケン伯爵だった。伯爵はかなり魅力的な青年で、三品目が終わらないうちから、ダンスの順番はせめて三番目か四番目にしてほしいと求めてきた。しかし、ベレニスは関心を持たれたり、お世辞を言われながらも、目は絶えずクーパーウッドの動きを追っていた。クーパーウッドは、テーブルの向かい側の席で、片側の極めて魅力的なブルネットと陽気に会話をしていたが、明らかにもう片側のとても魅力的な美人のことも無視してはいなかった。しばらく会っていなかったので、彼がくつろいで楽しんでいる姿を見てうれしかった。
しかし、食事の時間はかなり長く、シャンパンの量に制限がなかったので、クーパーウッドのことが若干心配になった。明らかにシャンパンのせいで、身振りや会話が、どんどん熱を帯びてきたことにベレニスは気がついた。これは彼女を不安にさせた。そして、最後に、ステイン卿がダンスの希望者は全員、会場に移動していいと案内して、クーパーウッドがダンスを誘いに来たときのその得意げな態度に、ベレニスはさらに悩まされた。それにしても、クーパーウッドはそこにいる誰にも引けを取らないほど、しっかりした雰囲気だった。ワルツのリズミカルな旋律にのって移動する間に、ベレニスは彼にささやいた。「幸せですか、あなた?」
「この上なく幸せだよ」クーパーウッドは答えた。「こんなに美しいあなたと一緒なんですからね!」
「あなたったら!」ベレニスはささやいた。
「だって、すばらしいじゃないですか、ベヴィ? あなたも、この場所も、この方々も! これこそ、私が生涯ずっと求めていたものです!」
ベレニスは愛情をこめて微笑みかけた。しかし、ちょうどその時、クーパーウッドがわずかに揺れたのを感じた。それから立ち止まり、手を心臓にあててつぶやいた。「いっ、息が、外へ出よう!」
ベレニスは彼の手をしっかりつかんで、海に面したバルコニーに通じる開いたドアの方へ連れて行った。促し、介助して、一番近いベンチまで行くと、クーパーウッドはベンチにぐったりと重く沈み込んだ。この時にはもう、ベレニスはひどく心配になって、トレイを持って通りかかった使用人に駆け寄って叫んだ。「お願い! 手を貸して! 誰か呼んで、この人を寝室に運ぶのを手伝ってください。とても具合が悪いんです」
驚いた使用人はすぐに執事を呼び、執事がクーパーウッドを同じ階の空き部屋に運び込み、それからステイン卿に知らせた。到着したステイン卿はベレニスが悲しんでいることにショックを受け、クーパーウッドを二階の自分の部屋へ移すよう執事に命じて、すぐに主治医ミドルトン医師を呼んだ。また、この件に関して使用人全員が口外することのないように執事は申しつけられた。
そうしている間に、クーパーウッドは動き始めていた。ミドルトン医師が来るころには用心しないといけないことに気がつくほど回復して、この件については、つまずいてころんだ以外のことは言わないほうがいい、とステインに言うほどだった。きっと朝には治ってますよ、と言った。しかし、ミドルトン医師は彼の不調については別の考えを持ち、鎮静剤を渡した。その後で、何かの合併症でもおきないか確認するためにも、せめて一日か二日、病人はこのままここにいた方がいいと助言した。ステインにも伝えたが、クーパーウッドの症状は、おそらく失神の発作よりもずっと深刻だった。
第六十一章
翌朝、ステインの部屋で目が覚めたとき、クーパーウッドはとても礼儀正しい使用人の出入りを除くと、自分がそのときひとりでいることに気がついた。あっという間に自分の身に起こったすべて出来事のかなり不穏な局面の数々を、頭の中で振り返り始めたのは、このときだった。体の健康状態については割りと安心していたのに、あまりにも突然、自分の病気を知らされて少し驚いた。
自分がこの致命的なブライト病にかかったことは、やはり事実なのだろうか? ミドルトン医師が来た時点では、自分の衰弱の問題を話し合うほど十分注意していなかった。まず、今、思い出したように、激しい息切れを感じて、最終的に体に力が入らなくなって倒れてしまったのだ。ウェイン医師が以前、解説したように、腎臓の状態のせいなのか、それとも、シャンパンの飲み過ぎ、食べ過ぎだったのだろうか? そう言えば、医師は、水以外は何も飲まないこと、食事はごく控えめに、と強く言っていた。
自分のことで自分が正しい方針をとっていることを確認するために、ニューヨークにいる旧友で主治医のジェファーソン・ジェームズに、すぐにロンドンに来てくれるよう、ベレニスに電報を打ってもらうことにした。この信頼できる友人なら、自分の本当の状態について自分を納得させてくれるだろう。
クーパーウッドがゆっくりと、やや冷静に状況を見極めていると、ドアをノックする音がした。ステイン卿が自分の登場をとても明るく優雅なものにしながら入ってきた。
「お目覚めですか!」ステインは叫んだ。「あなたがいて、美しい娘ぞろいで、シャンパンまでありましたからね! 考えてみれば! 本当に恥ずかしくないですか?」クーパーウッドは満面の笑みを浮かべた。「ついでに言いますが」ステインは続けた。「少なくとも二十四時間、あなたに厳罰をくだすよう命じられました。シャンパンは厳禁です! 代わりに水をどうぞ! キャビアも穀物も駄目です。牛肉の細切りだけです、そして水分をとってください! まあ、倒れそうになったら、薄粥と、お水でしのいでください!」
クーパーウッドは起き上がった。「それじゃ虐待ですよ」と言った。「しかし、おそらく、私に出していいのは、水とお粥と言われたのでしょう。それはさておき、ここだけの話、ミドルトン先生があなたに言ったことを教えてくれませんか」
ステインは答えた。「先生が本当に言ったことは、あなたは自分がいい歳なのを忘れていることと、シャンパンとキャビアは今のあなたでは消化できないことです。あと、日の出まで踊り明かすこともできません。だから、うちのピカピカのダンスホールの床でころんだりするんですよ。それと、ミドルトン先生があなたの様子を見に来ます。過労以外の深刻な問題は見つからないと言ってますが、それならすぐに改善できますね。それから、あなたのすてきな被後見人が間もなくいらっしゃいます。昨晩お泊りになるよう勧めたところ、そうなさったんです。もちろん、言うまでもありませんが、ミドルトン先生の診断にもかかわらす、私共々大変な心配ようでした」……これを受けてクーパーウッドはきっぱり断言した。
「でも、私には何も深刻な問題はありません。新品とまではいかないかもしれませんが、まだそれに近い状態ですよ。そして、仕事となったら、どんな問題にでもすぐに対処できます。現に、我々の問題がちゃんと管理されているかどうかは、ここまで結果から、あなた自身で判断できるはずです」
相手の口調に少し非難じみたところがあるのにステインは気がついた。
「その成果はすばらしいものでした」ステインは言った。「あなたのような提案を持ってここに来て、アメリカの投資家から二千五百万ドルの資金調達ができる人に、私からは称賛以外の何もできません。そして、あなたが関心を示し、尽力してくださったことに対し、私は喜んで自らと、我々の投資家の分まで感謝の意を表します。唯一の問題はですね、クーパーウッドさん、そのすべてが、あなたというアメリカ人の大きな双肩と、あなたが引き続き健康で元気でおられること、にかかっていることです。これは重要なことですからね」
ここで、ドアをノックする音がして、ベレニスが現れた。挨拶と軽い会話を交わしてからステインは、一週間でもひと月でも好きなだけ滞在してくださいと二人に言った。しかし、クーパーウッドは、静かな休息もいいが、際どい私生活も必要だと考え、すぐに帰ると言った。ステインがいなくなってから、ベレニスに向かって言った。
「そんなにひどい気分ではないよ。でも、どんな形であれ世間の注目を避ける必要があるから、できるだけ早くここを離れたい。もし私が選んでいいならホテルよりもプライヤーズ・コーブに行きたい。午前中にここを出られるよう、ステイン卿に話をつけておいてくれませんか?」
「わかりました」ベレニスは答えた。「あなたがそうしたいのなら。あなたが近くにいてくれた方が、私も気分がいいですもの」
「もう一つあるんだ、ベヴィ」クーパーウッドは言った。「ニューヨークにいるジェファーソン・ジェームズ先生に電報を打つよう、ジェーミソンに伝えてほしい。昔からの主治医で友人なんだ。できればロンドンに来るように頼んでほしい。ジェーミソンには極秘に暗号で伝えてください。先生とはニューヨーク医師会で連絡がとれます」
「それでは、自分でもどこか悪いところがあると感じてるんですね?」ベレニスの口調には緊張が現れていた。
「そうじゃない! いずれにしてもそんなに悪くはないが、このとおり、本当に悪い原因は自分でもよくわかりません。また、公共の仕事が関係するから、ひとりの人間がはっきりとした理由もなく突然倒れたら、誰だって、特に私の株主や投資家たちに異常事態と思われるかもしれない。昨晩のことは少し暴飲暴食だったかもしれません、特にシャンパンがね。しかし、以前はあんな風に感じなかったことも確かです。だから、どうしてもジェファーソンに会いたいんです。先生ならわかるだろうし、私に本当のことを言ってくれる」
「フランク」ここでベレニスはさえぎった。「前回ウエイン先生の診察を受けたとき、あなたは言ってくれなかったけど、先生は何て言ったの? 専門医たちの診断書には何てあったの?」
「ああ、ウエイン先生は、あの時私が感じた痛みはブライト病に少し関係があるかもしれないが、確証はない、理由はブライト病は二つ、慢性と急性がある、私のは、どちらでもない、専門医が正しい診断をくだせるようになるまでは、何らか深刻な事態に進展するかどうか、様子を見るしかない、と言ったんです」
「じゃ、それなら、ジェームズ先生に来てもらうのがいいわね。明日ジェーミソンに電報を打ってもらいましょう。いずれにせよ、ジェームズ先生が太鼓判を押してくれるまで、プライアーズ・コーブにいるといいわ」
ベレニスは窓際に行ってカーテンを引いて、朝のうち出発するのに必要な準備をすべて整えて来るまで、しばらく休んでいるようにクーパーウッドに頼んだ。しかし、その間でさえ、ベレニスの心はクーパーウッドのこの大事と戦っていた。表面的には優しく振る舞っていても内心は震えていた。
ベレニスがプライアーズ・コーブへ行くことに決めたのを報告したとき、ステインは「あなたの言うとおりです」と言った。「過去に何度も私に影響を与えてくれましたから、きっとクーパーウッドさんにも癒やしの効果がありそうですね。ましてや、お母さまもそこにいるわけですから、あなたも助かるでしょう。よろしければ、朝のうちに私がお連れいたしますよ。クーパーウッドさんは私にとっても大事な方ですから、快適ですみやかに回復するかもしれないことを見すごしにはできません」
第六十二章
こういう次第で、さらに二週間後にジェームズ医師がプライアーズ・コーブに到着した。クーパーウッドがテムズ川を一望する寝室で快適に静養しているのを見て、立ち止まって言った。「どうやら、フランク、この窓からの美しい景色を楽しめないほどのひどい病状ではなさそうですね。きみには起きてさっさとニューヨークに行ってもらって、私はここまで来た苦労から回復するまで、ここでのんびり羽根を伸ばさせてもらいたい、と提案したい気持ちが半分あるんだ。休暇なんて何年もご無沙汰だったものでね」
「旅は楽しくなかったんですか?」クーパーウッドは尋ねた。
「人生でこれほど嬉しい気分転換はありませんでしたよ。そりゃ、すばらしかった。海は穏やかだし、吟遊楽人の一座が乗り合わせていて、とても楽しませてくれました。その連中はね、聞きたいですか、ウィーンに向かってました。しかも半分は黒人でしたよ」
「ジェフは昔と同じだね!」クーパーウッドは言った。「また会えてうれしいよ! 一度思うと何度でも思うんだが、きみもここにきてイギリス人の変わったところを研究するといいですよ!」
「それにしても、そんなにひどいんですか?」ジェームズは面白がって言った。「それより、この件についてすべてを始めから話してくれませんか。どこで、どうして、こんなことになってしまったんですか?」
すると、クーパーウッドは、ウエイン医師と専門医の見解を交えて、ノルウェーから戻って以降の自分の生活や仕事の出来事をゆっくり慎重に話し始めた。
「こういうわけだから、きみに来てほしかったんだ、ジェフ」クーパーウッドは締めくくった。「きみなら、私に真実を話してくれるだろうからね。専門医はブライト病かもしれないと言いました。ウェイン先生は、専門医の診断が必ずしもいつも正しいとは限らないと言いましたが、専門医は実際に、長くても一年半以上は生きられないかもしれないと言ったんです」
「そうですか!」ジェームズ医師は力強く言った。
「ウェイン先生の意見は」クーパーウッドは続けた。「安心だと私に早合点させたのかもしれません。ステイン卿のところで祝賀会があって、私がきみに説明した不穏な出来事があるまで、そう長くはかからなかった。突然息切れして、部屋から連れ出してもらわねばならなかったんです。それでウェイン先生の診断にかなり疑問を覚えました。でも、こうしてきみがここにいるわけだから、私としては、真実を話してもらい、正しい方向に導いてほしいんです」
ここで、ジェームズ医師は前に出て、両手をクーパーウッドの胸にあてた。
「さあ、どれくらい深く息を吸い込めるかやってみてください」その指示に従ってクーパーウッドが精一杯努力をしてから、医師は言った。「なるほど、少し胃が拡張してるな。これは何とかしないといけませんね」
「命にかかわる病気にかかっていそうですか、ジェフ?」
「先走っちゃいけないな、フランク。どうせ、いくつか検査をしなくちゃいけないんだ。でも、これだけは言える。きみはすでに二人の医師と三人の専門医に診てもらい、これが原因で死ぬかもしれないし、死なないかもしれない、ことを知った。きみは知ってるだろうが、そうかもしれないとそうでないかもしれない、確実と不確実の間には常に大きな差がある。そして病気と健康の間にも常に大きな差がある。しかし、今ここできみを見て、きみの体の調子の全体を考えてみた限りでは、あと数か月、もしかしたら数年はこの辺にいそうなんだがね。きみを検査して、きみのために何が一番いいかを考える時間を私にくれないとね。それまでにだ、明日の朝、かなり早く、精密検査をしにここに戻ってきます」
「ちょっと待ってくれ!」クーパーウッドは叫んだ。「私としては、きみには私たちと一緒に、つまり私と被後見人のフレミングさんと彼女の母親と一緒に、ここにいてほしい」
「お招きはありがたいんだが、フランク、今日はいられないな。たまたまなんだが、きみに取り掛かる前に、ロンドンで見つけないとならない薬が一つ二つあるもんでね。でも、午前の十一時頃には戻ってくる。その後なら、お望みとあらば、頭はともかくせめて体がよくなるまでご一緒するよ。だけど今はシャンパンはいけないよ、現実問題として、少なくともしばらくはどんな種類の酒も駄目だ。食べ物も駄目だ、クリームスープやバターミルクをたっぷり使ったものは除くがね」
そこで、ベレニスが部屋に現れて、クーパーウッドから紹介された。ジェームズ医師は、ベレニスに挨拶してからクーパーウッドの方を向いて叫んだ。
「こんな万能薬が枕元にあるのに、よくもまあ病気になれるものだ! 朝早くここに来ますからね」
その後で、自分が戻ってきたら、お湯、タオル、隣の部屋で見かけた燃えさかる暖炉の炭が必要になると、とても専門的にベレニスに説明した。
「治療薬がここにあったのに、はるばるニューヨークから治療しにやって来るなんてね……」ジェームズは笑顔でベレニスに言った。「この世界ときたら馬鹿馬鹿しくて役に立ちゃしない」
相手がどれだけ賢くて明るいかがわかるとベレニスはすぐに気に入ってしまい、フランクがいつも自分に引き寄せている大勢の強くて面白い人たちのことを考えた。
クーパーウッドとさらに個人的な話をしてから、自分の大きな経営上の義務感それ自体が、ある種の病気を構成しているとクーパーウッドに感じさせてから、ジェームズは街に向かって出かけた。
「こういういろんな問題が、きみの心を蝕むんだよ、フランク」ジェームズは真剣にクーパーウッドに話した。「脳は思考し、創造し、指示を出す器官だ。致命的な病気もそうだが、多くの問題を引き起こす可能性がある。心配もそのひとつであり、きみは今その病気にかかっているんだと思う。私の課題は、それが真実であることと、きみにとってきみの命はどんな地下鉄のシステムが十あるよりも貴重なことを、きみにわかってもらうことなんだ。きみがあくまで仕事を第一にしたいのなら、どんな薮医者だって、その年齢なんだからきみが死ぬ可能性は高い、と正直に断言できるよ。だから今の私の課題は、きみの心を地下鉄から遠ざけて、本物の休養を取ってもらうことなんだ」
「できるだけそうするよ」クーパーウッドは言った。「だか、この重荷は、きみが想像するほど簡単には下ろせないんでね。これは、私に全幅の信頼を寄せてくれた何百人もの人たち、さらには自分たちの近所の限られた地域を越えて旅行することができなかった何百万人ものロンドン市民の利益に関係することなんだ。私の計画が実現すれば、彼らは二ペンスもあればロンドンのどこにでも電車でいけるし、自分たちの街がどんなものなのかをよくわかるようになるんですよ」
「それではきみが死んでしまうぞ、フランク! もしきみの寿命が突然尽きたら、そのときロンドン市民は、どうなるんだい?」
「私が生きていようが死のうが、私が死ぬ前に、この地下鉄の計画が完全に稼働してしまえばロンドン市民は安泰だ。そうだよ、ジェフ、私は自分よりも仕事を優先するんだ。実際、私が始めたこの事業は、すでに大きく成長したので、それに不可欠な者は誰もいません。この私でさえもね。だけど、もし私のアイデアを実現する間生きながらえることができれば、私にできることはたくさんあるんです」
第六十三章
一方で、ジェームズ医師はクーパーウッドの病気と、彼を悩ます経営責任について考えることがたくさんあった。ロンドンの医者がすぐ死に至るかもしれないと示唆したブライト病についても、何年ももった症例を知っていた。だが、クーパーウッドの症例には深刻な一面があった。一つは胃拡張で、もう一つは時々襲う激痛、確かにこれらが仕事の心労と重なれば彼に大きなダメージを及ぼすかもしれない。もう一つの不安な要因は、過去の人生のいろいろな問題について彼が心配していることだった。ジェームズは事情……最初の妻、息子、アイリーン、そして時々新聞で取り沙汰された他の愛人たち……をよく知っていた。
どうしたらいいんだ、とても大切なこの男のために何をすべきなんだ! たとえいっときでも、薬以外のどんな特別なものが、彼を回復させてくれるのだろう! 心だ! 心! もし彼が精神と、医学の面から、自分の心に影響を与えて、自分を救う方向へ進めればいいのだが! ふと、必要なアイデアを思いついたと感じた。これはクーパーウッドがのんびりと海外旅行に出かけたくなるほど強くなくてはならなかった。単に気分転換に関心を持たせるだけでなくイギリスとアメリカ両方の国民を、彼が旅行するほど元気だというニュースで驚かせてこう言わせたくなるようでなければ。「この男が病気なものか! 旅行で余暇を満喫できるほどすっかり回復しているではないか!」この効果はおそらく、クーパーウッドのやや枯渇した気力を回復させるだけでなく、自分は元気だ、少なくともかなりよくなった、と自信を持たせることになるだろう。
変な話だが、この名医がこの問題の有望な解決策として何度も考えを巡らせた場所は、リビエラ、偉大なギャンブルの中心地モンテカルロだった。もし新聞がお偉い大公やアジアの王族たちに混じってギャンブルのテーブルにつく彼を報じることにでもなれば、効果満点だ! 人の心理として、これはクーパーウッドの資本家としての地位を高めはしないだろうか? そうなることは間違いない!
翌日、プライアーズ・コーブに戻ってクーパーウッドの精密検査をしたときに、医師はこれを提案した。
「私は個人的に思うんだが、フランク」ジェームズは切り出した。「きみは三週間もすれば、ここを離れて悠々自適な旅をするほど元気になるよ。だから、今の私の処方箋は、きみが一時的にここの生活を捨てて、私と一緒に海外へ行くことだ」
「海外ですか?」クーパーウッドは驚きをにじませた口調で尋ねた。
「そうだよ、そのわけを知りたいかい? それはね、きみが旅行できたという事実を必ず新聞が注目するからだよ。これだろ、きみがほしいのは?」
「そのとおりだ!」クーパーウッドは答えた。「行き先はどこだい?」
「そうだな、パリかな、それとおそらく、カールズバッドに行くかもしれないな……ろくでもない海岸のリゾート地だが、きみの体には最高だ」
「頼むよ、そのあとはどこに行くんだい?」
「そうだな」ジェームズは言った。「プラハ、ブダペスト、ウィーン、リビエラ、モンテカルロも入れてもいいが、好きなのを選んでいいぞ」
「何だって!」クーパーウッドは叫んだ。「私がモンテカルロにかい!」
「そうだよ、自分を病気だと思っているきみが、モンテカルロにだ。この特別な時期にモンテカルロに現れれば、きみに関することで確実にきみの狙いどおりの反応を生み出すだろうよ。それだって、実際には、カジノの一つに顔を出して二、三千ドルをする以外のことはする必要はない。それでニュースが海外に広げられるからね。世間は、きみがそこにいることや、すった金額などきみにとっては痛くも痒くもないんだ、と話題にするよ」
「待った、待ってくれよ!」クーパーウッドは叫んだ。「その体力があれば行くよ。もし駄目だったら、契約不履行で訴えてやるからな!」
「やればいいさ」ジェームズは返事をした。
その後、ジェームズ医師がプライアーズ・コーブに住み着いて、三週間監視の目を緩めず治療に専念すると、クーパーウッドは自分でもかなり具合がよくなったのを感じた。ジェームズは日々観察して、提案された旅行の計画を実行できるほど十分に患者の体調は回復したと判断した。
しかし、ベレニスはクーパーウッドの健康状態が回復していることを知ってよろこびながらも、この旅行の計画には悩まされた。ベレニスは、不治の病と噂されればおそらく彼の事業計画全体を混乱させることはよくわかっていた。彼を愛していたので、ジェームズ医師とクーパーウッドが考えるほどには、こういう旅行に価値も効果もないかもしれないことに不安を覚えずにはいられなかった。しかしクーパーウッドは、体調は良くなったし、計画は理想的だから何も心配することはないとベレニスに保証した。
次の週末、二人は出かけた。そして、事実、ロンドンの新聞がすぐに、最近重病と噂されていたフランク・クーパーウッドが完全に回復したらしく、ヨーロッパ観光ができるようになったと報じた。少し遅れて、パリ、ブダペスト、カールズバッド、ウィーン、モンテカルロ、何とまあモンテカルロからもずっと他の新聞の記事が続いた。「つい最近病気になった不死身のクーパーウッドが、モンテカルロを娯楽と静養の場に選んだ」と報じて、新聞各紙はこの最新情報を強調した。
しかし、ロンドンに戻ると、記者たちからの質問は、とても率直で明け透けなものだった。ある記者は尋ねた。「あなたが重病だったという噂がありますが、クーパーウッドさん、事実なんでしょうか?」
「実を言うとね」クーパーウッドは答えた。「ずっと働き詰めだったから、静養が必要だと気がついたんだ。この旅行には私の医者の友人が同行しました。二人でヨーロッパをぶらついてきたところですよ」
メトロポリタン美術館に貴重な美術品の数々を遺贈したというのは本当ですか、と〈ワールド〉の特派員が尋ねたときは心から笑った。
「私の遺言の中身が知りたかったら、私が芝生の下に収まるまで待たなければなりませんよ。私には世間の慈悲が好奇心なみに強いことを願うことしかできません」
プライアーズ・コーブの広々とした芝生の上でこのコメントを読んだとき、ベレニスとジェームズ医師の顔は笑顔になった。ジェームズ医師はニューヨークと現地での診療に戻らねばならないと着実に意識していたが、自分がますますクーパーウッドとベレニスの気持ちに引き込まれているのに気がついた。クーパーウッドを一応普通の健康と体力の状態に戻したことで、二人はジェームズに計り知れないほど感謝していた。そして、医者との別れの時が来たときには、三人の間に感謝の気持ちと精神的な結びつきが生じていた。
「本当にきみには何も申し上げる言葉がないよ、ジェフ」クーパーウッドは、自分とベレニスが医者と一緒に、医者の乗る汽船のタラップまで歩くときに言った。「私がきみのためにできることは、きみの言いつけを守ることですね。私の願いはただひとつ、これまでのように私たちの友情が続くことです」
「礼には及ばんよ、フランク」ジェームズは口を挟んだ。「これまできみと知り合えたことで十分さ。できれば、ニューヨークに会いに来てくれよな。また会えるのを待ってるよ」鞄をとりながら付け加えた。「さて、船は待っててくれないな!」そう言って微笑むと、ジェームズはまた握手を交わし、ついに船に乗り込む人混みに溶け込んだ。
第六十四章
ジェームズ医師が去った今、クーパーウッドは留守中にたまった多くの仕事に直面していた。これには数か月分の集中力と注意力が必要になるだろう。一方で自分の個人的な問題の特定の項目に目を向ける必要があった。その一つがアイリーンからの手紙である。新しい増築部分で行われている変更が、建築家のパインの監督下で進められているが、手遅れになる前にその是非を判断しに、クーパーウッドができるだけ早くニューヨークに戻って全体の計画に目を通すべきだと思う、と手紙に書いて寄こした。アイリーンは、新しいギャラリーに、クーパーウッドが最近コレクションに加えた絵を展示する十分なスペースがあるのか確信が持てなかった。芸術の専門家としてカスバートの意見を尊重しはしたが、もしクーパーウッドがいたら絶対に反対するだろうと感じることが何度かあったのだ。
クーパーウッドは、これは注意を要することだと認識した。それでもこの時期に、ニューヨークへ行く余裕はないと感じた。自分が直接監督しなくてはならない地下鉄に関係した緊急性の高い政策や実務的な細かい部分があまりにも多すぎた。もちろん、よくそばにいるステイン卿が、システム全体の今後順調な進捗を請け合い、関心と努力によってさまざまな関係者の間にあったかつての摩擦を軽減することに成功した。ステインは、クーパーウッドの回復にすっかり安心して喜んでいるようだった。
「おや、クーパーウッドさん」戻ってきた最初の朝にステインは言った。「新品と同じように好調のようですね。いったいどうしちゃったんですか?」
「私は何もしてませんよ」クーパーウッドは答えた。「みんな旧友のジェフ・ジェームズのおかげです。過去にも数回私を病気から救ってくれましたが、今度は仕事の危機からも同じように救ってくれましたよ」
「こうしているわけですからね」ステインは言った。「確かに見事な方法で大衆を騙しましたね」
「あれはジェフの名案でした。彼は疑惑や噂を鎮めるために私を旅行に連れ出しただけでなく、旅をしながら治療までしてくれました」クーパーウッドは言った。
この時、彼が個人的に気にかけねばならなかったもう一つの問題は、レクスフォード・リンウッドとの打ち合わせだった。彼はクーパーウッドが建設するつもりだった墓のことで、ジェーミソンに提案された三人のアメリカの彫刻家の一人だった。リンウッドの能力がクーパーウッドに気に入られたのは、最近亡くなった南部の州のひとつの知事の墓を表す墓石と像に贈られた賞の中で、彼のデザインが、その表面のひとつにその男性が生まれた小屋を再現していたのと、苔に覆われたオークの大木の根もとに、故人が南北戦争のさまざまな戦いで乗っていた馬の輪郭が描かれていたからだった。クーパーウッドはそれを見て、デザイン全体の哀愁と簡素さに惹かれた。
後日、巨大な作業机の向こう側のリンウッドと対峙して座ったとき、クーパーウッドはこの男性の古典的な顔立ち、深くくぼんだ目、背の高い角ばった姿に感銘を受けた。現に、たちまち相手を好きになった。
クーパーウッドがリンウッドに説明したように、彼が墓について考えていたことは、その純粋な墓の概念には収まらず、ギリシャ・ローマ風の建造物に近かった。むしろ、細部のデザインに多少の独創性を持たせて修正したものにしたかった。常に宇宙のことを考えるのが好きだったので、そこは広くして、豊かな質感をもつペブルグレーの花崗岩で作られる予定だった。片方の端には窓となる細い切り込みをつけ、二人の石棺の収納場所には、開くと墓の中に入れる二つの重い青銅の扉をつけたかった。リンウッドは了承し、この建物を作る機会に恵まれたことを喜びさえした。リンウッドはクーパーウッドの話に沿って、いくつかの図案を描いた。これがまたクーパーウッドを大喜びさせた。契約が成立して、直ちに仕事を始めるように指示された。リンウッドは図案を集めて書類入れに収め、一呼吸置いてクーパーウッドのことを見た。
「では、クーパーウッドさん」リンウッドは帰り際に言った。「あなたの様子から判断すると、これが必要になるのは、まだずっと先になると思います。少なくとも、私は心からそう願っています」
「それは、どうもありがとう」クーパーウッドは言った。「でも、それを当てにしないでください」
第六十五章
この間、クーパーウッドは、一日が終わったらプライアーズ・コーブとベレニスのところに戻るという心地よい考えの中で主に暮らしていた。クーパーウッドは何年かぶりに、本物の家庭の素朴さを満喫していた。ここはベレニスが注いだ精神のおかげで、チェッカーゲームからテムズ川沿いの短い散歩まで、何でもあらゆることが、色彩も感情も豊かに思え、それが永遠に続けばいいと彼に願わせた。こういう環境で過ごすことができたら、年をとることでさえそれほどの試練にはならないだろう。
しかし、仕事に復帰して五か月ほど経ったある午後、オフィスでアイリーンに手紙を書いていたときに、突然、これまでに病気で経験した中でも最大の激痛に襲われた。それは、左の腎臓のあたりに鋭いナイフを突き刺されてえぐられた感触に似てなくもない。そしてそこから心臓へ飛び移ったようだった。椅子から立ち上がろうとしても、立ち上がれなかった。実際、トレガサルのときと同じで、息が苦しそうだった。動けなかった。しかし、痛みはすぐに収まり、ジェーミソンを呼び出す押しボタンに手を伸ばすことができた。しかし、ボタンを押そうとしたが手を引っ込め、おそらくこれが、あると警告されていたただの激痛のひとつで、これ自体は命にかかわるものではないと保証されていたものだと判断した。自分は治っていないという明らかな証拠に極度に落ち込んで、最終的にこのまま終わるのではないかと恐れながら、しばらく座っていた。さらに悪いことに、打ち明けられる相手が誰もいなかった。これが世に知れたら自分の公の立場が、以前とまったく同じ状態に戻ってしまう。ベレニス! ステイン! アイリーン! 新聞! そしてベッドにいる日が増えていく!
こうなったらニューヨークに戻るしかない。あそこなら、ジェームズ医師が近くにいるし、アイリーンに再会して、彼女を悩ませている問題を解決することができる。もし死ぬのであれば、片付けておくべきことがあった。ベレニスには、この最新の発病を全部話さずに必要なことを説明して、彼女にもニューヨークに戻ってもらえばよかった。
クーパーウッドはこの決定に達してから、とても慎重に椅子から立ち上がった。そして数時間後には何も悪いところがないふりをしながら、プライアーズ・コーブに戻ることができた。しかし、ディナーの後で、特に楽しい気分でいたベレニスが、すべては順調にいってますかと尋ねた。
「いや、そうとも言えないんだ」クーパーウッドは答えた。「ニューヨークの問題で不満を言っている手紙をアイリーンから受け取りました。家の改築に関係することなんですがね。アイリーンは、私がコレクションに加えた絵画を収めるのに十分な空間が残されていない、と思っているんです。そして、改修作業をのぞいた画商の中にも、パインの意見とは関係なく、アイリーンと同じ意見の者が数名いるようなんです。理由はこれだけでなく、前回行ったときにしてもらった融資のことで、いくつかの継続を確認するためにも行くべきだという気がしています」
「旅行できるだけの体力はあるのかしら?」ベレニスは目に不安の色を浮かべて尋ねた。
「大丈夫」クーパーウッドは答えた。「実は、数か月ぶりにいい調子なんです。それに、ずっとニューヨークと連絡を取らないわけにはいきませんからね」
「私はどうしましようか?」ベレニスは困った口調で尋ねた。
「あなたには同行してもらいます。むこうについたら便宜上、ウォルドルフに滞在すればいい、もちろん、身元は知られないようにします」……顔の悲しそうな表情が変わったのが返事だった。
「でも、いつもみたいに別々の船なんでしょ?」
「残念ながら、それが最善の方法ですね。考えるだけでもつらいことですが。世間に知られたら危険なのは、よくわかってますね」
「はい、わかってます。あなたの気持ちはわかってます。あなたが行かなければならないのなら、行くしかないですね。私は次の船ですぐ後を追います。出発はいつですか?」
「ジェーミソンの話では、次の船は水曜日に出るそうです。それまでに準備ができますか?」
「必要なら明日であろうと準備は整えられます」ベレニスは答えた。
「あなた! いつも積極的で、助かります……あなたがいなかったら私の人生はどうなるかわかりませんよ……」
クーパーウッドがそう言うと、ベレニスは近寄って、両腕をまわして、ささやいた。「愛しているわ、フランク。だって、あなたを助けるためですもの、できることは何でもやるべきじゃないかしら……」