表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ストイック  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
2/5

第17章ー第30章

  第十七章



この頃ロンドンでは、ジャーキンズが相棒のクローファインに、偉大なクーパーウッドがロンドンの地下全体に本格的な関心を持っている、と彼が信じる情報を印象づけようとして忙しかった! ジャーキンズはクーパーウッドの態度と言葉を述べて、同時に、これほど巨大な財産を持つ男は絶対に小さな地下鉄ひとつで悩みたがらないだろう、と思わないのが間違いだったと説明した。自分たちの鉄道の五十パーセントに彼が興味を持つようにできるだなんて、グリーヴズとヘンシャーも何ておかしなことを考えたものだ! そもそも、彼がそんな条件を受け入れるはずがないのだ。彼が五十一パーセントを完全支配する以外はないのだから! クローファインは、グリーヴズとヘンシャーがイギリス国内で自分の鉄道の資金を見つけられるとでも思ったか? 


がっしりとした、口の達者なオランダ人で、大きな投資の視野と度胸はないが、小さな実務にかけては抜け目のないクローファインは、これに答えた。


「まさか! 現状では『議会承認』が多すぎます。単線でしのぎを削っている会社が多すぎるんです。どの会社にも、よそと提携して妥当な料金で一本の直通の路線を社会に提供しようという了見がない。この私にだってわかりますよ。何しろ、何年もロンドンを乗り回してきましたからね。ほら、中心的な鉄道が二本あるでしょ。〈メトロポリタン鉄道〉と〈ディストリクト鉄道〉、それが一緒にロンドンのビジネス街のど真ん中を一回りしてるんです」……そしてクローファインはこの二つの鉄道が犯した財務と実務上の間違いと、その結果生じている問題点を指摘した。両社は合併や、給電線を作ろうとしたこともなく、電化や保有設備の近代化さえしようとしなかった。未だに蒸気機関をトンネルと開削区間に走らせていた。何らかの良識を見せた会社は〈シティ&サウス・ロンドン鉄道〉だけだった。操業区間はモニュメントからクラパム・コモンまでで、この会社には第三軌条で動く電動機関があった。走行は滑らかで照明がまともで、市内で唯一の乗客に支持された鉄道だった。しかし、それでも操業区間が短かすぎた。乗客は〈ロンドン・ループ〉に乗り換えて追加料金を払わなければならなかった。ロンドンは確かにクーパーウッドのような人物、もしくは結集して、資本を供給し、路線網を拡大しようとするイギリスの資本家グループを必要としていた。


クーパーウッドが入手しようと目論んだ鉄道に、アビントン・スカーという名のロンドンっ子に創設された〈ベーカーストリート&・ウォータールー鉄道〉があった。スカーは過去十六か月間、議会承認を持っていただけで何もしなかった。〈ディストリクト鉄道〉による路線の延長の話はあったが、どちらも資本不足だった。


「実際のところ」クローファインは結論づけた。「もしクーパーウッドが本当に〈チャリングクロス鉄道〉を欲しいのであれば、手に入れるのはそれほど大変だとは思いません。〈交通電化会社〉は二年以上前に資金調達をあきらめました。それ以来、この二人のエンジニアが所有しています。ですが、クーパーウッドへの提案がなされるまで彼らが何も努力しなかったのは確かです。おまけに、彼らは鉄道の人間でありません。彼らがクーパーウッドぐらいの資産家を見つけない限り、これをやり遂げられるか疑問ですね」


「それじゃ、彼らの心配をしても無駄だよな?」ジャーキンズは言った。


「でしょうね」クローファインは繰り返して言った。「しかし、この二本の古い中央環状線〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉の関係者か、スレッドニードル・ストリートの銀行家に当たって、何がわかるか確かめるべきだと思います。〈クローショー&ヴォークス〉のクローショーを知ってますよね。オプションを引き継いでから、彼らはグリーヴズとヘンシャーのために資金を見つけようとしてきました。当然、〈交通電化会社〉の連中が彼らの前に失敗したように彼らも失敗しました。ほしいものが大き過ぎるんです」


「〈交通電化会社〉だって?」ジャーキンズが尋ねた。「そこは元々この鉄道を持っていた会社だな。彼らはどういう人たちなんだ?」


すぐに、クローファインは彼らに関することをどんどん思い出した。シッペンスが発見したすべてには及ばなかったが、両方の男に興味をもたせるには十分だった。今のところ、クローファインの記憶の泉から出てきたのは、ステイン、ライダー、ブロック、ジョンソンだが、特にはっきり思い出したのはジョンソンとステインだった。彼らは〈チャリングクロス鉄道〉と〈ハムステッド鉄道〉の主要な創業メンバーだった。ステインは貴族の出で、〈シティ&サウス・ロンドン鉄道〉だけでなく〈ディストリクト鉄道〉の大株主だった。ジョンソンは〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉だけでなくステインの顧問弁護士であり、両社の株主でもあった。


「では、このジョンソンという男に会ってみたらどうだろう?」クーパーウッドにどやされたので、ジャーキンズは必死に耳を傾け注意して尋ねた。「彼なら、これまでにあったすべてのことによく通じているに違いない」


クローファインは窓際に立って、通りを見下ろしていた。「それだ!」ジャーキンズの方を振り向いて叫んだ。「そいつでいこう! どうだろうか? ただなあ……」今度は口ごもって、怪訝そうにジャーキンズを見た。「こんなことして問題ないのか? 私の理解では、我々にはクーパーウッドの代理を名乗る権利がない。あなたの話からすると、我々が彼に頼んだから、彼はただニューヨークでグリーヴズとヘンシャーの話を聞くことに同意しただけなんですよ。彼は我々に、彼らに関わる仕事をしろとは命じませんでしたしね」


「まあ、とにかく、このジョンソンという奴に探りを入れるのが懸命かもしれないな」ジャーキンズは答えた。「クーパーウッドか彼の知り合いのアメリカのある大富豪が、この鉄道を統合する計画に関心をもっていると教えて、もし〈チャリングクロス鉄道〉を取り戻せるなら、そっちに売却できるかもしれないと指摘してやるんだ。その場合、双方を引き合わせる仲介役として、我々はたんまりボーナスをもらえばいい。その権利はあるだろうからな。さらに、今すぐ株がうまく手に入れられるか、あるいは彼らかクーパーウッドに売れるとなれば、我々は買いでも売りでも代理人として参入すればいいさ。どうだい?」


「悪い考えじゃないな」クローファインはさらに乗り気になって言った。「電話でつかまえられるか、確認してみるよ」


クローファインはゆっくりと奥の事務所に入った。立ち止まってジャーキンズを見たときは、電話をかけようとするところだった。


「一番簡単な方法は、目の前にあるが電話では説明できないお金の問題で相談を持ちかけることだと思うんだ。向こうは自分の報酬がもらえる仕事だと思うだろう。内容を説明するまで、向うにはそう思わせておけばいい」


「名案だ!」ジャーキンズは言った。「さっそく電話しよう」


クローファインは電話でジョンソンにとても慎重に説明をしたあとで、振り向いて言った。「明日十一時に我々に会うそうだ」


「やったな!」ジャーキンズは叫んだ。「いい線いってると思うがな。とにかく、動き出したんだ。向こうに興味がなくても、興味をもっている人を知っているかもしれない」


「そうだよ、そうだとも」クローファインは繰り返した。彼のこのときの主な関心は、この件での自分の役割に与えられる当然の称賛が自分に降ってくるのを見ることだった。「彼に気がついてよかったよ。これは我々がこれまでにやり遂げた一番大きな仕事になるかもしれない」


「そうだよ、そうだとも!」ジャーキンズは繰り返した。十分に大喜びしてはいたが、もし全ての問題が彼ひとりで解決されていたら、こういう喜び方ではなかっただろう。ジャーキンズは常に自分を、この二人組の頭脳だけではなく原動力だと思っていた。




  第十八章



〈ライダー・ブロック・ジョンソン&チャンス事務所〉もステイン卿の事務所も、法曹院に隣接するストーリー・ストリートの最も薄汚れた地域の一画にあった。実際、アメリカ人には、法曹院を除いたこの地域全体は、著名な法曹界の才能ある人たちに最もふさわしくない町並みに思えるだろう。小さな改築済みの三、四階建て住宅や、かつてのロフトや店舗に、今は事務所や書庫や相談室が入っていて、一ダースもの事務弁護士、その速記者、事務員、使いっ走り、その他のアシスタントがいる。


ストーリー・ストリートはとても狭くて、二人の歩行者が仲良く腕を組んで散歩できなかった。車道は、手押し車が二台なら簡単にすれ違うが、それ以上大きな乗り物が二台だと通行できないかもしれなかった。しかしこの通りには、ストランド・ストリートや隣接した大通りへの抜け道に使う者を含めて実に多数の労働者が流れ込んだ。


〈ライダー・ブロック・ジョンソン&チャンス事務所〉はストーリー・ストリート三十三番地の四つのフロア全体を占めていた。建物は奥行きが五十フィートだが幅は二十三フィートもなかった。地階はもともと一世代前のとても引っ込み思案な判事の住居の応接間と居間だったが、現在は総合待合室と書庫だった。ステイン卿は一階の奥に小さな事務所を構えて、二階は会社の三大重要人物ライダー、ジョンソン、ブロックに当てられていた。チャンスはいろいろなアシスタントと一緒に三階を占拠した。二階の一番奥にあるエルバーソン・ジョンソンの事務所からは小さな中庭が見下ろせた。その玉石の舗装地は、かつては古代ローマの中庭の一部だったが、日々それを目の当たりにさせられる人の目にはあまりにも身近になりすぎて、その歴史的輝きは霞んでいた。


エレベーターも、イギリス流に言うと「リフト」も、なかった。かなり大きな通気孔が、二階の中央から屋根まで伸びていた。各事務所には、屋内換気の足しになればと、かなり古風な扇風機も備え付けてあった。さらに、各部屋に暖炉があった……そこでは冬の霧や雨の日に軟炭が燃やされた……これはインテリアの魅力だけでなく居心地に大きく貢献した。事務弁護士の各部屋には、広い立派な作りの机と椅子と、本と彫像が少し置かれた白い大理石のマントルピースがあった。壁には、過去のイギリス法曹界の大物やちょっとしたイギリスの風景を扱ったかなり埃をかぶった彫版が掛かっていた。


ジョンソンは、この事務所の信頼できる経済的な野心家で、基本的には実務家であり、ほとんどの場合は自分の個人的な計画に最も都合がいい独自の方針に従った。しかし、心の片隅には、宗教の価値をあれこれ考え、非国教徒の教義の振興に共感さえする複雑な面があった。高教会派の偽善と精神の停滞についてや、ジョン・ノックス、ウィリアム・ペン、ジョージ・フォックス、ジョン・ウェスリーなどの著名な宗教家が扱うこの世や天国の意義についても考えるようになった。彼は自分の複雑で好奇心の強い心の宇宙に、明らかに競合する概念、さらには対立する概念さえ隠していた。常に正当化できなくても、価値ある狡猾さで自らを前進させ、維持する支配階級は存在するべきだと考えた。イギリスではこの階級は、財産や相続や長子相続などの法律によってすでに強化されていたので、重要であり、正しく、ほば変えようがなかった。だから、心も懐も貧しい者は、服従と勤労、そして最終的には……おそらく……その者たちの面倒を見てくれる天父への信仰に身を委ねるのが一番だった。また一方で、必ずしも愚かではない貧困層と働かずとも所得がある富裕層との間の巨大な格差はジョンソンには残酷とか悪同然に思えた。この視点はときどき聖人に近づくことがある彼の切迫した信仰的な気持ちを支えた。


ジョンソンは社会的に弱くて非力な下層社会の出身だったが、ずっと上流階級を目指していた。そこなら、自分ではなくても、子供たちが……二人の息子と一人の娘が……彼がとても憧れ非難した人たちと同じように安泰でいられるだろう。実際、彼は自分の称号をほしがっていた。最初は謙虚に「サー」だが、もし運が味方をするなら、その後さらに王室の配慮を賜って、高められるかもしれなかった。本人も知ってとおり、これを勝ち取るには、今あるよりも多くの金を確保するだけでなく、お金と称号を持つ人たちの支持も得なければならなかった。結果的に、彼は直観的に自分の行動を、その階級の人の野心と快適な生活に合わせた。


ジョンソンは小柄で、気取っていて、筋金入りで、高圧的だった。父親はサザークの酒好きな大工で細々と七人家族を養っていた。若い頃のジョンソンはパン屋で働き、パンの配達をした。その勤労ぶりは印刷業を営むお客の目にとまった。その客に頑張り屋と受けとられ、読書や、その後彼が抜け出すこの単調で惨めな状態から引き上げてくれる何か実用的な仕事に専念するよう勧められた。ジョンソンは熱心に言いつけを守った。いろいろな商店主や商人に印刷物を届けているうちに、ようやくルーサー・フレッチャーという名前の若い事務弁護士にたどり着いた。ロンドン州議会でサザーク地区の代表となるために選挙運動をしていた彼は、当時二十歳そこそこの若いジョンソンの中に法律家としての将来性を発見した。ジョンソンの探究心と勤勉さが通じて、フレッチャーは彼を夜間学校に通わせて法律を勉強させた。


ジョンソンの成功はここから始まった。最終的に従事することになった事務所が、彼の直観的な法律センスに感心するのに時間はかからなかった。そして彼はこの事務所が関係した法務、契約や財産権や遺言や会社設立などの細かい作業の大半をすぐに受け持つようになった。二十二歳で必要な試験に合格して事務弁護士になった。二十三歳で〈ブロック&チャンス事務所〉のバイロン・チャンスと出会った。チャンスは彼を事務所のパートナーに誘った。


ブロックは法曹院で法廷弁護士の資格をもつ人物で、友人に自分よりもっと影響力がある人脈を持つウエリントン・ライダーという事務弁護士がいた。ライダーは、たくさんの大きな財産の問題を管理していて、その中には〈ディストリクト鉄道〉の法律事務だけでなくステイン伯爵の財産もあった。ジョンソンにも興味を持つようになると、ブロックのもとを離れて自分のところへくるよう本気で説得したくなった。しかし、自分の利益と友情の両立を考え、ジョンソンを仲間に加える何か別の方法を探すことにした。ブロックと話し合ってようやく現在の事務所の統合にこぎつけ、かれこれ十年つづいていた。


ライダーと一緒にゴードン・ロデリックと、ステイン伯爵の長男ステイン卿が加わった。当時、ステインはケンブリッジを卒業したばかりだった。父親はこれできちんと世襲の爵位を引き継ぐ準備が整ったと考えた。しかし実際は、ある種の偶然と気まぐれのせいで、この青年は、自分を取り巻く世界の現実的で明らかに歴史の及ばない側面にもっと関心を持っていた。彼がこの世に誕生したのは、ちょうど単なる肩書の輝きと尊厳が疑問視されていただけでなく、多くの事例で、金融の天才に影を薄められた頃だった。ケンブリッジでは、経済学、政治学、社会学に関心がある学生で、自分が将来財産を相続するという意識を決して失うことなく、ファビアン派の社会主義者に耳を貸す傾向があった。ステインは、常に代理人として呼び出される巨大企業にしかほとんど関心がないライダー本人に出会って、未来の真の支配者は資本家になるだろう、というライダーの見解にあっさり改宗した。世界が必要とするのは、先進的な重要設備だった。その必要なものを供給することに貢献する資本家が、社会の発展の最大の要因になるのである。


ステインが〈ライダー、ブロック、ジョンソン&チャンス事務所〉で、イギリスの会社法を研究し続けたのは、こういう考えがあってのことだった。そして、エルバーソン・ジョンソンは大事な親友の一人だった。ステインはジョンソンの中に高い地位にのぼろうと決意した賢い庶民を見た。一方、ジョンソンはステインの中に、知識を蓄え、現実的な仕事に打ち込むことにした、社会的経済的特権の継承者を見出した。


ジョンソンとステインは、最初からロンドンの地下鉄分野の巨大な可能性に気がついていた。彼らの関心は、自分たちが最初に核にすえた〈交通電化会社〉の形にとどまらなかった。最新の構造を持つ〈シティ&サウス・ロンドン鉄道〉が最初に提案されたとき、彼らとその仲間たちは、当時ロンドンの中心部を走っていた二本の古い鉄道……〈メトロポリタン鉄道〉と〈ディストリクト鉄道〉……との提携が考えられるという認識でそれに投資した。アテネ市民に演説するデモステネスのように、ジョンソンは自信をもって、この二本の鉄道の普通株を買って五十一パーセントの支配権を手にするだけの資金を見つけられたら誰でも自分が経営者だと冷静に発表して、その後は好きなようにできるのです、と主張した。


父親の死後、ステインと彼の仲間の数名がジョンソンと一緒に、この方法で両方の鉄道の経営権を手に入れたいと思い、〈ディストリクト鉄道〉の普通株を支配できるだけ買おうとしたが、自分たちには荷が重すぎるとわかった。発行済株式が多すぎた。彼らでは十分な資金が調達できなかった。その上、経営が時代遅れで株は儲からず、取得した分の大部分を手放してしまった。


そして、未だに建設に至らない〈チャリングクロス鉄道〉に関しては、推進するために〈交通電化会社〉を設立したが、建設に必要な百六十六万ポンドを出すのに十分な資金を集めることも、印刷済みの株式を売却することもできなかった。結局、グリーヴズとヘンシャーを通して、この〈チャリングクロス鉄道〉を手放すか、あるいは〈メトロポリタン鉄道〉と〈ディストリクト鉄道〉を買収しようという夢の中で自分たちと組む資本家もしくは資本家のグループを見つけようとしていた。


しかし、これまでのところ何の成果もなかった。このとき、ジョンソンは四十七歳、ステイン卿は四十歳、二人ともこの大仕事に少し疲れて少なからず疑問を抱くようになっていた。




  第十九章



ジャーキンズとクローファインは極めて重要な用件でジョンソンさんと話し合いたいと言って、この問題に、そしてエルバーソン・ジョンソンの事務所に、入って行った。用件はグリーヴズとヘンシャーに関することだった。この二人は、ジョンソンも当然知っている彼らのお客フランク・クーパーウッド氏と交渉しに、ジョンソンも知っていたかもしれないが、最近ニューヨークまで出かけていた。


ジョンソンは、彼について聞いたことがあることを認めた。この紳士たちは自分に何の用があるのだろう? 


ロンドンで最高にすばらしい春の朝だった。日差しが、下のローマ時代の玉石の舗装に降り注いだ。二人が入ってきたとき、ジョンソンは〈シティ&サウス・ロンドン鉄道〉に対するある損害賠償訴訟に関する摘要書の入った籠をかき回している最中だった。そして彼はご機嫌だった。その日は暖かくて明るい日だった。〈ディストリクト鉄道〉の株価がわずかに上昇していた。前日、国際エプワース連盟に渡しておいたとても真剣な談話が、少なくとも朝刊二紙で好意的に取り上げられていたからだ。


「できるだけ、手短かに説明します」と切り出したジャーキンズは、灰色のスーツ、灰色のシルクのシャツ、鮮やかな青と白のネクタイを着用し、山高帽とステッキを手に持ち、探るような目でジョンソンを見て、この仕事は一筋縄ではいかないと判断した。ジョンソンは明らかに抜け目ない人物だった。


「ご理解していただかねばならないことがあるのです、ジョンソンさん」ジャーキンズはとっておきの微笑みを浮かべて続けた。「我々がこうしてうかがったのは、クーパーウッドさんのあずかり知らぬことです。ですが、あなたならきっと事の重大性をおわかりいだだけると思います。ご存じでしょうが、グリーヴズとヘンシャーは〈交通電化会社〉関係の仕事をしていて、あなたはそこの事務弁護士をなさってますね」


「事務弁護士のうちの一人ですね」ジョンソンは慎重に言った。「しかし、私が彼らに相談されてから、そこそこ時間がたっていますよ」


「そう、確かにそうですね」ジャーキンズは答えた。「ですが、それでもやはりあなたは関心をおもちになると思います。実は、グリーヴズとヘンシャーをクーパーウッドさんに引き合わせたのは、うちの会社なんです。ご存知でしょうが、クーパーウッドさんはものすごい資産家です。アメリカでは交通のあらゆる問題で活躍してきました。そして、シカゴの持ち株を二千万ドル以上も処分していると噂されています」


この金額を聞いたとたん、ジョンソンは耳をそばだてた。交通は交通だ……シカゴでもロンドンでも他のどこででも……それに精通し、そこから二千万ドルも引き出すということは、その人物は自分のやることについてある程度のことははっきりとわかっているに違いなかった。ジョンソンが関心を示したのが、さっそくジャーキンズに伝わった。


「それは本当なのかもしれませんが」ジョンソンは少し機嫌をそこね、さも興味がなさそうに、しらばっくれた。「それが私に何の関係があるんですか? 覚えておいていただかないとなりませんが、私は〈交通電化会社〉のただの事務弁護士の一人にすぎず、グリーヴズさんともヘンシャーさんとも一切関係ありませんよ」


「ですが、ロンドンの地下鉄問題にはいろいろと関心がおありでしょう。そうだよね、クローファイン」ジャーキンズは食い下がった。「つまりですね」ジャーキンズは駆け引きに出た。「あなたは地下鉄の開発に関心をお持ちの方々を代表していらっしゃる」


「もっと踏み込んで言いますと、ジョンソンさん」ここでクローファインが口を挟んだ。「〈シティ&サウス・ロンドン鉄道〉や〈セントラル・オブ・ロンドン鉄道〉だけでなく〈メトロポリタン鉄道〉や〈ディストリクト鉄道〉を代表する者として、あなたは時々新聞に報じられますよね」


「そのとおりです」ジョンソンは見るからに冷静で、自信満々そうに答えた。「私は法務でこれらの会社を代表しています。ですが、私にはあなた方の用件が未だにわかりませんね。〈チャリングクロス鉄道〉や〈ハムステッド鉄道〉関連の売買に関することでしたら、私が会うべき人間でないことは確かですよ」


「ほんの少しだけ我慢して私の話を聞いていただけますか」ジャーキンズはさらにジョンソンの方へ体を乗り出してねばった。「要点はこれだけです。クーパーウッドさんは自分のシカゴの路面鉄道株を全部手放しています。そして雇ってくれる会社がなくなれば、やることがなくなります。引退を望むような人間ではありません。かれこれ二十五年以上もシカゴで働いてきたんです。私は、彼がどこか投資先をさがしていると言っているのではありませんよ。グリーヴズさんとヘンシャーさんはそれに気がつきました。うちの会社が、〈ジャーキンズ・クローファイン&ランドルフ〉が、お二人を彼に引き合わせました。このクローファインが、弊社のロンドン支店の責任者です」


ジョンソンはうなずいた。今度は注意深く耳を傾けた。


「もちろん」ジャーキンズは続けた。「クローファインにも私にも、クーパーウッドさんに代わって話をする権限はこれっぽっちもありません。しかし我々はこのロンドンの問題の中に、もし適切な人によって適切な形で彼の前に出されれば、それが誰であろうとそれに関わった者に大きな価値をもたらすものが存在すると感じております。そもそもクーパーウッドさんがこの〈チャリングクロス鉄道〉を断ったのは、採算が合わないと思ったからではなく、彼が常にこだわる五十一パーセントの支配権を提示されなかったからだと私は知っておりますから。そして、そのとき、彼にはこれが地下鉄全体からすれば全く重要ではなく、小さな単独資産として運営するしかないただの短い支線にしか見えなかったようです。クーパーウッドさんは都市全体の交通問題にしか興味がないですからね」


このときのジャーキンズの声は追従じみていた。


「私はクローファインに」ジャーキンズは流暢に語った。「ロンドンの地下鉄問題に最も詳しくて、クーパーウッドさんの関心を引き起こす、大事なことがわかっていそうな人物のところへ連れて行ってほしいと頼みました。もし我々が事態を正しく理解していればですが」ここで、不気味な目でジョンソンを見た。「地下鉄全体を統合して最新式にする時期が来たと感じるんです。クーパーウッドさんが交通分野の天才であることはよく知られています。まもなくロンドンに来ることになっています。彼のような人物に現地の要望をわからせることができる人物こそ、彼は会って話をするべきだと我々は思うのです。


もしあなたがこの問題に立ち入りたくなくてもですね、ジョンソンさん」ここでジャーキンズはステインと彼の噂の関係者たちを考えていた。「どなたかをご存知で、その人物の件で我々に助言できるのではないですか。もちろん、我々はブローカーです。仲介役として関与するためにも、クーパーウッドさんが関心を持つのを確認したいのです。こいうことを請け負うのが普通に業務の一部ですからね」


ジョンソンは自分の席に座ったまま、ジャーキンズでもクローファインでもなく床を見つめた。


「えへん!」と彼は切り出した。「クーパーウッドさんはアメリカの億万長者だ。シカゴやその他の地域での路面鉄道と高架鉄道の経営で、ものすごい経験をお持ちだ。私は彼にロンドンの地下鉄の問題を解決することに関心を持ってもらえばよかったんだ。そうすれば、あなた方のおかげということになる……少なくともあなた方は報酬を受けるに値する……交通分野に関心を持つ他のロンドン市民がお金を稼ぐのを、クーパーウッドさんに手伝ってもらうのですからね」ジョンソンは眉を上げて顔を上げた。ジャーキンズはしたり顔で、余計なことを言わずにじっと見つめた。


「とても現実的に話をしなくてはなりません」ジョンソンは続けた。「利益を受けられるかもしれない人が、そして受けられないかもしれない人も、かなり大勢いるのは疑いありません。ロンドンの地下鉄の問題はとても大きいのですよ。すでに計画された路線が多すぎる。調整するにも会社がばらばらで数が多すぎる。一シリングも持ってない投機筋や創業者に下された議会承認が多すぎるんです」ジョンソンは暗い表情で二人の男を見つめた。「莫大な資金が必要になるでしょうね。数百万ポンド、二千五百万は下らないと言っておきましょう」嘆くように合掌した。このすべての財務負担はそれほど巨額だった。「もちろん、我々だってクーパーウッドさんを知らないわけではありません。私の思い違いでなければ、シカゴでは彼に対してさまざまな種類の非難がありましたね……非難と言っても、あなた方お二方が提案するような大きな公共事業を推進する妨げにはならないと認めますが……それでもなお、イギリス国民の保守性を考えると……」


「ああ、シカゴでの彼の金の使い方に反対を唱えた政治的な非難のことですね」ここでジャーキンズが口を挟んで受けて立った。「単なる政治的なものですよ。彼の成功を妬んだ財界の敵対勢力のしわざです」


「わかってます、わかってます」ジョンソンは暗い表情のまま口を挟んだ。「どこの金融の人間も当然そういう対立はわかっていますし、無視します。それでも、彼はここで反対する者に出会うでしょう。何しろ、ここはとても保守的な狭い小さな島ですからね。よそ者に立ち入ってもらい、自分たちに代わって自分たちの問題を管理してもらおうとは思いません。あなたが言うように、クーパーウッドさんは明らかにとても有能な智略に富んだ方ですが、ここに彼と組みたがる者がいるかどうかは私にはわかりません。もしいたとしても、あなた方が言うような財務の一元管理を彼に許す者が少ないのは確実ですよ」ここでジョンソンは起き上がり、ズボンとベストのありもしない塵をはたいた。「彼はグリーヴズとヘンシャーの申し出を断ったそうですね?」ジョンソンは付け加えた。


「はい」ジャーキンズとクローファインは声をそろえて言った。


「二人の正確な条件はどんなものだったんですか?」


ジャーキンズは説明した。


「なるほど、なるほど、二人は自分たちの契約と五十パーセントを守りたかったわけですな。まあ、自分でこのことを考えて、同僚の一、二名とも相談する時間をいだだかないと、うんともすんとも意見の述べようがありませんね。しかし」ジョンソンは付け加えた。「彼がこちらに来たときに、有力な投資家の何人かが彼と話すことは有意義かもしれませんね」


実は、このときにはジョンソンは、クーパーウッドが状況を探るためにこの二人を派遣したと考えていた。さらには、どれほど大きな財力があろうがアメリカ人のクーパーウッドが、果たして現経営陣から五十パーセントでさえもぎ取れるかどうか、ジョンソンは疑っていた。彼がこの分野に参入するのは至難の業だろう。かと言って、自分とステインの投資のことや、依然として〈交通電化会社〉に突っ返されて投資家たちがさらに損をかぶりそうな〈チャリングクロス鉄道〉のことを考えると、さて……。


ジョンソンは、もう話は終わったとばかりに二人に言った。


「この問題はじっくり考えないとなりません。来週の火曜か水曜にでも、またお出でください。あなた方のお役に立てるかどうか、最終判断をお伝えします」


そう言ってドアまで案内してベルを鳴らし、雑用係にお客さまを玄関まで案内するように伝えた。両名が立ち去るとジョンソンは、その昔中庭だったものを見下ろす窓の一つに歩いて行った。そこでは四月の太陽がまだ明るく輝いていた。彼には考えごとをするときに、舌を頬に当て、指を下に向けた祈りの姿勢で両手を組む癖があった。このときは窓の外を眺めながら、しばらく立っていた。


そして、外のストーリー・ストリートでは、クローファインとジャーキンズが話をしていた。「やったぜ! なかなかの切れ者だったな……だが、本当は興味津々だった……向こうはこれで行くしかあるまい、もしこれを見極めるだけの分別さえあればだが……」


「だがよ、あのシカゴの件がな! どうせ出て来る話だとわかってたが!」ジャーキンズは叫んだ。「毎度のことだな。前科か、女好き……まるでそれがこれに何かの違いでも生じさせるかのようにな」


「馬鹿な話だ! 全く信じられないくらい馬鹿げてるぜ!」クローファインも同調した。


「やはり、そっちも何とかしないとならんな。何とかして新聞とおさえないとならないだろう」ジャーキンズは言った。


「ひとつ言わせてください」クローファインが結論を出した。「こっちの資産家の誰かが、クーパーウッドと組んでこの件に参入したら、新聞はすぐに都合の悪いことは公にしなくなりますよ。こっちの常識はそっちの常識と違いますからね。ここではスキャンダルが真実であればあるほど、中傷はひどくなります。そして、最も偉い人たちがそれを言われたくなかったら、とやかく言うのはとても危険なんです。あなたの国ではどうやら正反対のようですね。でも、私はここの新聞の経済面担当をほとんど知っています。もしもみ消しが必要となったら、手配できると思います」




  第二十章



ジャーキンズとクローファインが、ジョンソンとの接触でなし遂げたことの概要は、その同じ日の午後、ストーリー・ストリートのビル地階のステインの事務所で交わされたジョンソンとステイン卿の会話の中で、きちんと述べられた。


このことで、ステインがジョンソンを評価したのは、その仕事への誠実さと完全に実用的なアイデアだったと言っておかねばならない。ステインが常日頃内心思っていたように、ジョンソンは自意識過剰な、宗教的、道徳的潔癖さの化身だった。だから、独りで成功したいとどんなに強く惑わされても、それが彼をずるい、ただの法律の悪用の側に、大きく踏みはずさせはしなかった。法律にうるさい彼は、自分を利するためにも、敵を困らすためにも、利用を目的としてあらゆる抜け穴を探すことができた。「彼の道義心が彼に帳簿づけを強いるおかげで、彼は高額の請求書を送りつけることができる」と、かつて誰かが彼をそう評したことがあった。そして、ステインはそれを公平な描写だと受けとめた。同時に、彼のとても変わったところが好きで、国際エプワース連盟や、そこの日曜学校の行事や、どんな酒であれ完全な禁酒を厳格に守ることに、どうやら本気で関心を持っているらしいとよく笑った。お金にかけてはケチではなかった。自分の収入を、教会や、日曜学校や、病院や、サザーク盲人協会に惜しみなく寄付し、しかもそこの経営委員会の一員であり、無給の法律顧問まで務めた。


ジョンソンはステインのためにとても控えめな手数料で、投資や、保険料率や、彼を取り巻くどんな法律の問題でも面倒を見た。二人は一緒になって政治や国際問題を論じることもあった。ステインが気づいたように、ジョンソンはいつもすべての問題において現実の近くにいつづけた。しかし、芸術、建築、詩、手紙、女性、取得と無縁な純粋な社交の楽しみを何も知らなかった。数年前、二人ともずっと若かった頃、彼は一度ステインに、そういうものはよくわからないと告白したことがあった。「そういうものについて何も知ることを許されない環境で育ったんだ」彼は言った。「もちろん、自分の息子がイートン、娘がベッドフォードに通うのを見ればうれしいし、私としては子供たちが育む上流嗜好を否定するつもりはない。しかし、この私は事務弁護士でね。この地位にいることがとてもうれしいんだ」


若いステインはこの発言のシビアな現実との向き合い方を気に入って、微笑んだ。同時に彼は自分たちが異なる社会の水準を旅することに満足だった。といってもステインがジョンソンをトレガサルにある一族の所領やバークレー・スクエアのすてきな古い屋敷に時々招待するだけのことで、ほぼ毎回商用だった。


このときジョンソンは、ステインが丸い肘掛けがある背もたれの高い快適なチッペンデールの椅子に寄りかかり、長い足を伸ばして自分の前の重たいマホガニーの机にのせているのを見つけた。仕立てのいい砂色のツイードと、明るいコーヒー色のシャツと、濃いオレンジ色のネクタイを身に着けて、吸っていたタバコの灰を時々さりげなく払った。デビアスの南アフリカ・ダイアモンド鉱山報告書を研究しているところで、彼はそこに個人的に関与していた。思惑どおり、彼の持つ約二十株は年間約二百ポンドの利益をもたらしていた。大きな少し(くちばし)に似ている鼻、低い額、鋭くて黒い目、大きくて明らかに優しそうな口、わずかに反抗的な顎の、面長で血色の悪い顔だった。


「やあ、いらっしゃい!」ジョンソンがドアをノックして入ってくると、ステインは叫んだ。「今日は一体どんなご用件ですかね、メソジスト教徒の正直じいさん。今朝、スティックニーであなたの演説の記事を読みましたよ」


「ああ、あれですか」ジョンソンはステインの耳に入っていたことに少なからず気を良くし、かなり神経質そうに皺になった黒いアルパカのオフィスコートのボタンをいじりながら答えた。「あの地区の違う教会の牧師の間で、ちょっとした揉めごとがあったんで、その仲介に出向いたんです。後になって一言求めてきたので、その機会を利用して彼らの行いを諭したまでです」それを思い出す間、実に偉そうに、誇らしげに、背筋を伸ばした。ステインはその様子に気がついた。


「いっそのことあなたは、ジョンソン」ステインはさらっとつづけた。「議会か裁判所に行くべきですよ。でも、もし私のアドバイスに従うのなら、最初が議会で、裁判所はその後です。ここであなたは必要不可欠ですから、まだ裁判所に行かせられませんがね」ステインが心からの本物の親愛の笑顔を向けると、今度はジョンソンがその言葉に喜んで熱くなり、感謝の笑みを浮かべた。


「まあ、ご存知のように、私は長いこと議会について考えてきました。ここの我々の仕事にしてもそうですが、私がいることで助かるかもしれないことがたくさんありますからね。ライダーとブロックは絶えずその話をしていますよ。現に、ライダーなどは、九月の彼の地区の補欠選挙で私に立候補しろと言う始末です。私ならちょっと演説すれば勝てると思っているようです」


「じゃ、どうして出ないんですか? 他に適任者でも? それに、ご存知のように、ライダーはあそこで大きな影響力をもっていますからね。出ればいいのに。それに、もし私で何かあなたのお役に立てることがあるのなら、私だろうと私の友人だろうと、そう言ってくれるだけで済みますよ。よろこんでお力になります」


「ご丁寧なお心遣い、感謝いたします」ジョンソンは答えた。「それとですね」ここですぐにジョンソンの口調が一段と内緒話っぽくなった。「今朝がた、うちの事務所でちょっとしたことがありました。これと関係があるかもしれません」ジョンソンは話をやめてハンカチを出して鼻をかんだ。その間ステインは興味津々で相手を見ていた。


「ほお、何事ですか?」


「先ほど事務所で二人の男に会いました。ウィラード・ジャーキンズというアメリカ人と、ウィーレム・クローファインというオランダ人です。二人は仲介役のブローカーです。クローファインがロンドンで、ジャーキンズがニューヨークの人間です。そいつらが興味深い話をしてくれました。我々がグリーヴズとヘンシャーに与えた三万ポンドのオプションのことはご存知ですね?」


ステインはジョンソンの態度に、半分が好奇心と、少し面白がって、机から足を引っ込め、調べていた報告書を置き、真剣にジョンソンを見て言った。「あの〈交通電化会社〉か! あれがどうしました?」


「どうやら」ジョンソンは続けた。「あの二人はつい最近ニューヨークへ行ってこの億万長者のクーパーウッドと話し合ったようです。おまけに、鉄道建設の資金を調達するという彼の貢献に対して、あの三万ポンドのオプションの半分の権利を申し出ただけだったようです」ジョンソンは冷淡に高笑いした。「しかも当然、先方は後日、二人にエンジニアとして働いてもらうために十万ポンドを支払うことになっていました」これには二人とも新たな笑いがこみ上げるのを抑えきれなかった。「もちろん」ジョンソンは続けた。「先方はそれを断りました。なお、先方が本当に望んでいるのは、完全な支配権を取得することのようです。それを取得するか、何もしないかですね。どうやら、この連中の話からすると、先方はあなたと私が過去十年間ここで考えてきたような鉄道の統合に関心があるようです。ご存じでしょ。シカゴから追い出された人ですよ」


「ああ、知っている」ステインは言った。


「それに加えて、私はちょうど今、この二人が私のところに置いていった彼についての記事を読んでいたんです。これなんですがね」ジョンソンはポケットから〈ニューヨーク・サン〉紙のまるまる一ページを取り出した。その中央には、大きくて実に正確なペン描きのクーパーウッドの絵が載っていた。


ステインはページを広げて、絵をじっくりと観察し、それからジョンソンを見上げた。「見た目は悪い奴じゃないな、えっ? やる気満々だし!」ステインはそのときクーパーウッドの資産の一部を示す印刷されたグラフを調べていた。「二百五十マイル……これだけのものを二十年でか」それから、クーパーウッドのニューヨーク邸に関する記事に集中し、その後で付け加えた。「ちょっとした鑑定家でもあるようだ」


「その記事には」ジョンソンが口を挟んだ。「シカゴを騒がせた問題の原因が記されています。主に政治的、交友関係ですね」ステインがそれを読む間、待った。


「まあ、よく戦ったものだ!」少し読んでから、ステインは言った。「推定資産は二千万ってところか」


「あくまで、この二人組のブローカーの話を鵜呑みにすればです。しかし、二人の報告で一番肝心なのは、一、二週間のうちにその当人がここに来るということです。そして、二人のねらいは、私をクーパーウッドに会わせて、二人はどういうわけか我々が取り戻さねばならなくなると感じているのですが、この〈チャリングクロス鉄道〉だけでなく、我々が考えてきたような総合的な組織網の議論をさせることなんです」


「しかし、このジャーキンズとクローファインというのは」ステインは尋ねた。「一体何者なんですか? クーパーウッドの仲間ですか?」


「いや、いや、そんなんじゃありません」ジョンソンはすばやく説明した。「それどころか、自分たちで言っているように、二人はただの銀行の仲介屋に過ぎず、手数料が目当てで、取れる相手がグリーヴズとヘンシャーだろうが、クーパーウッドだろうが、我々だろうが、自分たちの利益になれば誰だって構わないんです。我々全員を一緒に相手にするのかもしれません。いずれにしても、二人はその男の代理人ではありません」


ステインは皮肉に肩をすくた。


「どうやら」ジョンソンは続けた。「二人はどこからか、統合する計画に我々が関心を持ってることを聞きつけたようで、この私にたくさんの投資家たちを集めさせてクーパーウッドさんをリーダーとして関心を持たせ、その上で彼の関心を引く形にしてこの統合案を提示させたがっているのです。当然、手数料がほしいのでしょう」


ステインは面白がって見つめた。「みんなが大喜びだ!」


「もちろん、そんな役目など断りしましたよ」ジョンソンは慎重に続けた。「でも、表面に現れている以上の何かがそこにはあるのかもしれないとずっと考えているんです。クーパーウッドにも、あなたや私が考えたくなる何か大事な質問があるかもしれません。何しろ、我々には依然として〈チャリングクロス〉という悩みの種があるのですから。もちろん、アメリカの大富豪がのこのこやって来て、我が国の地下鉄を取り仕切るなんて許されないのは重々承知しています。それでもまだ、ここのグループ……あなたと、エティンジ卿と、ハドンフィールド……と組んで、共同経営という形が成立する可能性はあります」ジョンソンは話をやめてこれがステインに与えた影響を観察した。


「そうだね、エルバーソン、確かにそうだ」ステインは言った。「投資家の中に数年前のような大きな関心を持つ者がまだいれば、戦いに呼び戻してもいいかもしれない。そういう連中がいなかったら、クーパーウッドといえどここでは思うように食い込めまい」


ステインは立ち上がって、窓のところへ行って外を眺めた。一方、ジョンソンは、ジャーキンズとクローファインが結論を聞きに二、三日したら戻って来ることになっていることを説明し始めた。もしこの二人がジョンソンか、あるいはジョンソンが影響を与えるかもしれない誰かとの取り引きを期待するなら、二人は秘密厳守に徹してすべてをジョンソンに任せなければならないと警告するのは得策ではないかもしれない。


「そうだな!」ステインは言った。


ジョンソンが今、付け加えたように、そんなことをしたら必然的に〈チャリングクロス鉄道〉だけではなく〈交通電化会社〉が、単独の所有者か、あるいは少なくともそこの代理人として含まれてしまう。そして、いったんステインとジョンソンが、ハドンフィールドやエティンジに打診すれば、暫定的な合意が成立するかどうかさえも最終的にはわかるかもしれないのだ。その後でならクーパーウッドが、ジャーキンズとクローファイン、あるいはグリーヴズとヘンシャーよりも、むしろステインとジョンソンと他の投資家たちを相手に取り引きしたがるのは確実だった。彼らはどうせ自分たちでは何もできないのだからただの行商人として追い払われればいいのである。


ステインはこれに完全に同意した。しかし二人が話し合いを終える前にすでに暗くなっていた。ロンドンの霧がかかっていた。ステインはお茶を、ジョンソンは法律相談を、思い出した。そして二人とも、新たな高揚をそれぞれ胸に抱いて別れた。


そういうわけで、三日後……相手に自分の重要性を印象づけるのに必要だと考えた期間が過ぎてから……ジョンソンはジャーキンズとクローファインを呼び寄せて伝えた。友人の何人かの前でこの問題を開示したところ、クーパーウッドの考えをもっと知ることに異論はなく、クーパーウッド氏側から招かれれば、会って話し合うのもいいが、そうでなければ会うつもりはないことがわかった。しかし、いかなる種類の事前の接触も打ち合わせも行われないとの条件だけはあった。彼が関わろうとしている男たちは、どんな状況でも自分たちが軽くあしらわれるのを許さない投資家だからだ。


これだけ言うと、ジョンソンは休んだ。一方、ジャーキンズとクローファインは最寄りの電報局へ急ぎ、クーパーウッドに自分たちが成し遂げた重大成果を報告し、ぜひともロンドンに来るよう促した。一方、もし実現すれば、この(きた)るべき話し合いは、その性質上包括的なものになるであろうから、他の提案の検討はすべて一時中断してほしいと申し入れた。


この海外電報を受けてクーパーウッドは、ジャーキンズをこっぴどく叱り飛ばしたのを思い出しながら笑顔になった。しかし、今はとても忙しいが、四月十五日頃渡航する予定であり、到着したら喜んで彼らに会い、提案の内容についてもっと詳しく話を聞きたいと返信した。ロンドン入りすることはシッペンスにも暗号で電信を打って、グリーヴズとヘンシャーの申し出を断ったことを伝えた。しかし、彼らの〈チャリングクロス鉄道〉とは全く関係のない大がかりな包括的な提案が彼に提示されることになっているから、彼の到着は未定だ、とシッペンスなら彼らの耳に入るよう手配することが可能だった。この情報によって彼らはまともになって、他の計画がクーパーウッドに提示される前に受け入れ可能な提案をする気にさせられるかもしれなかった。そのときは、新しい相談相手に限度をわきまえさせるのに役立つ武器が手に入るだろう。


そして、この間ずっとクーパーウッドは、ベレニス、アイリーン、トリファーが演じる自分の将来の計画でのそれぞれの役割を準備していた。




  第二十一章



一方、アイリーンはまだ感情的自我の根底で暗い疑いを抱いていたが、このすべてを通して、クーパーウッドの突然の態度の変化に感動せずにはいられなかった。クーパーウッドは、ロンドンの件、ベレニス、予想される環境の変化、全てが原因で、何だかうれしくてたまらなかったので、自分がアイリーンに気を許していることに気がついた。アイリーンを一緒にイギリスへ連れて行くつもりだった。アイリーンの頭では、クーパーウッドの遺言、自宅の管理、託された遺贈の後見役のすべてが、シカゴの敗北のかなり明確な結果だと整理がついていた。アイリーンが見たところでは、人生はクーパーウッドに何かの目が覚めるような一撃を与える選択をしていた。それも彼の生涯でそれが当然、最も効果的なときを選んでいた。クーパーウッドはアイリーンのもとに戻ってきた。あるいは戻る途中だった。アイリーンが、愛情や他の人間的な感情もまだまだ捨てたもんじゃないと信頼を回復するには、このひとつの事実でほぼ十分だった。


アイリーンは旅を豪華に楽しむ準備に取りかかった。買物をした。仕立て屋、帽子店、ランジェリーショップを見て回った。最新型の旅行鞄が購入された。またしてもアイリーンは豪華な着飾りの効き目に対する過信を、自分が満足するまで、そしてこのときにはもう慣れたクーパーウッドが困惑するまで、実践し続けた。来週金曜日に出航する客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号に最高級スイートルームをとる予定が知らされると、アイリーンは自分と夫の蜜月関係はわからないとしながらも、新婦が着るようなランジェリーに夢中になった。


同じ頃、これまでアイリーンと出会う計画がうまくいかずにいたトリファーは、郵便物の中に書留封筒を見つけてほっと胸をなでおろした。中身は、同じ客船の甲板平面図と、切符と、喜びも満足も一段と大きくなる現金三千ドルだった……この効果は、新しい任務に対するトリファーの高まる意気込みと関心に即座に反映された。とりあえずトリファーは、クーパーウッドに好印象を与えることにした。見てのとおり、人生から自分の欲しいものを手に入れるやり方はよくわかっていた。そして急いで新聞に目を通し、自分がすでに感じていた疑問をすぐに確かめた。それは金曜日に出航するカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号にはクーパーウッド夫妻も乗船することだった。


ベレニスはこれまで行動の全てをクーパーウッドから知らされていたから、カイザー・ウイルヘルム号の二日前に出航するキュナード・ラインのサクソニア号で母親と一緒に出航すると伝えた。ロンドンに着いたら、すでにお馴染みのホテル、クラリッジで彼の到着を待つつもりだった。


報道陣にしつこく予定を問われたクーパーウッドは、妻と長い夏休みをとりにヨーロッパ大陸へ船旅に出かける、もうシカゴには興味がない、現状、何かすぐに事業を考えているわけではない、と記者団に語った。この発表は、彼の経歴、才能、富と技量と実力を考えると引退は愚行、など多くの社説の論評を引き出した。クーパーウッドはこの発表を歓迎した。これは予想外の賛辞であると同時に自分の行動を曖昧にして進路を決める余裕を与えてくれたからだ。


やがて出港の日になった。そして、アイリーンは、すべてが最高であることがごく普通という人らしい態度でデッキを歩いていた。


トリファーも今は乗船していて、本来の仕事に直面し、心身ともに緊張していた。クーパーウッドは彼をあちこちで見かけたが、これっぽっちも注意を払わず、知っている素振りひとつ見せなかった。トリファーはこれに気をつけて、デッキを闊歩した。見ていないようにアイリーンを見て、相手が自分を見ていることにも、関心を持っていることにも、気がついていた。トリファーの考えでは、アイリーンはあまりにも派手すぎで、センスも慎みも欠けていた。トリファーはBデッキの小さな特等室をとっていたが、船長のテーブルで食事をした。一方、アイリーンとクーパーウッドは自分たちの船室で一緒に食事をした。しかし、船長はクーパーウッド夫妻の存在を存分に認識していて、船だけでなく自分のためにこの事実を利用したくなった。トリファーが一番魅力的な人物だとすぐに気がつくと、彼にこの貴賓客の重要性を印象づけて、夫妻に紹介する場を設けようと申し出た。


そして出航して二日目に、ハインリッヒ・シュライバー船長は、クーパーウッド夫妻に儀礼的な挨拶状を送って、何か要望がないか尋ねた。なんでしたら、船内をご案内いたしましょうか。自分もふくめて、お引き合わせしたいファンの方々が何人かおります……もちろん、クーパーウッド氏のご都合がよろしければですが。


するとすかさず、トリファーが企てたことかもしれないと察知したクーパーウッドは、興味を持っている乗客と会うのは楽しいだろうとアイリーンと意見が一致した。そして、脚本家ウィルソン・スタイルス、アーカンソー州知事C・B・コートライト、ニューヨーク社交界のブルース・トリファー、同じ市の住人でロンドンの妹に合流するために航海中のアレッサンドラ・ギブンスと一緒に、船長が来るのを歓迎した。トリファーは、アレッサンドラの父親が何かの社会的な大物であることを思い出し、当人が極めて魅力的なことに留意して、あなたの友人の何人かの友人だと自己紹介した。すると、アレッサンドラはうっとりして、すすんでその嘘を鵜呑みにした。


この即席のパーティーに、アイリーンは喜んだ。みんなが部屋に入ってくると、アイリーンは座って雑誌を読んでいた椅子から立ち上がって、夫の傍らに立ち、出迎えた。クーパーウッドの目は、すぐにトリファーと連れのミス・ギブンスに留まった。令嬢のすてきな容姿と、紛れもない育ちのいい雰囲気は印象的だった。アイリーンはさっそくトリファーに目をつけた。トリファーはまるで見知らぬ人にするようにクーパーウッド夫妻に挨拶した。


「クーパーウッドさんのような著名人の奥さまにお目にかかれて光栄です」トリファーはアイリーンに話しかけた。「大陸にお出かけのようですね」


「まずはロンドンです」アイリーンは答えた。「その後でパリとヨーロッパへ行くんです。うちの主人は、どこへ行っても目が離せない投資の仕事をたくさんかかえてますから」


「確かに、そんな記事ばかりでしたね」トリファーは相手の心をつかむように微笑んだ。「これほど多才なご主人との生活は、さぞかしすばらしい経験でしょう、クーパーウッド夫人。まったく、一仕事でしょ!」


「確かに、そのとおりですね」アイリーンは言った。「本当、一仕事だわ」自分が重要そうに見えるのを喜んで、打ち解けたような笑顔を返した。


「パリでは数日、お過ごしでしょうか?」トリファーは尋ねた。


「はい、もちろんです! ロンドンに着いてからの、主人の予定まではわかりませんけど、あたしは数日立ち寄るつもりです」


「私はパリには競馬を見に行くんですよ。現地でお目にかかるかもしれません。もしあなたが同じ時間にそこにいて都合がよろしければ、一緒に午後を過ごせるかもしれませんね」


「まあ、そうなれば楽しそうですね!」相手のことが気になってアイリーンの目が輝いた。こんなすてきな男性が注意を向けるのだから、きっとクーパーウッドもあたしのことを見直すに違いない。「でも、主人とはお話したことがありませんでしょ。行きましょうか?」アイリーンはトリファーを傍らに従えて部屋を横切り、クーパーウッドが船長とコートライトと立ち話をしているところまで歩いて行った。


「ねえ、フランク」アイリーンは明るく言った。「ここにもあなたのファンがいるのよ」そしてトリファーに向かって「主人が人目につかないようにするのは無理なのよ、トリファーさん」


クーパーウッドは無表情の最たるものの視線を向けて言った。「やあ、ファンが多すぎるってことはありませんからね。あなたも春のヨーロッパ旅行に出かける口ですか、トリファーさん」演技のえの字も見えなかった。そして、トリファーは自分の流儀をクーパーウッドの流儀に合わせながら、微笑んで簡潔に答えた。


「ええ、そんなところです。ロンドンとパリには友人がいるので、後で海辺のリゾート地巡りでもしようと思っていたところです。私の友人がブルターニュに別荘をもっているんです」そして、アイリーンの方を向いて付け加えた。「ぜひ、その目でご覧になるべきですね、クーパーウッド夫人。とてもすてきなんですよ」


「まあ、ぜひ拝見したいわ」アイリーンはクーパーウッドを見ながら言った。「この夏のあたしたちの予定にブルターニュを追加できるかしら、フランク?」


「できるだろう。でも私は厳しいな、やらなくてはいけないことばかりだから。それでも短期の訪問なら調整がつくかもしれない」クーパーウッドは元気づけるように言った。「ロンドンにはどのくらいご滞在ですか、トリファーさん?」


「今のところは、予定が少しはっきりしないのですよ」トリファーは冷静に答えた。「一週間か、あるいはもう少し長くなるかもしれません」


ここで、アレッサンドラが現れた。印象づけようと頑張っていたスタイルスに退屈してしまい、この訪問を切り上げることに決めたのだ。アレッサンドラはトリファーのところに来て言った。


「あなた、私たちの予定を忘れていないかしら、ブルース?」


「ああ、そうだね。じゃ、そろそろ失礼しようか? 本当に、おいとましなくてはなりません」そしてアイリーンの方を向きながら、付け加えた。「またお目にかかれるといいですね、クーパーウッド夫人」


これを受けてアイリーンは、このあまりにも魅力的な若い婦人のよそよそしさと、でしゃばった態度に憎悪が湧くほどいらいらして声高に言った。「本当にそうですわね、トリファーさん、楽しみにしてますわ!」それから、ミス・ギブンスの顔の人を見下した微笑みを気にしながら付け加えた。「お帰りだなんて残念ですわ、ミス……ミス……」そこで、トリファーがすかさず割って入った。「ミス・ギブンス」


「そうでしたわ」アイリーンは続けた。「どうも、名前が出てこなくて」


しかし、アレッサンドラは眉をつりあげてその冷遇を受け流してトリファーの腕をとり、クーパーウッドに笑顔で別れを告げて、部屋を出た。


二人っきりになったとたんに、アイリーンは自分が感じていることを打ち明け始めた。「家族のコネ以外は何もなくって、他の人たちみんなを押しのけるか、少なくとも押しのけようとする、ああいうケチな社会の成り上がりって大嫌い!」アイリーンは叫んだ。


「でもね、アイリーン」クーパーウッドはなだめた。「私がよく言うだろう、誰だって自分の持つものを最大限に活用するんだ。彼女の場合は社会的な地位をとても重視してるんだ。だからそのことになるとむきになるってわけさ。本当は大物なんかじゃない、ただの愚か者だよ。なぜ、あんな女にいらつくんだい? 頼むから、やめてくれよ」


そのときクーパーウッドは心の中でアイリーンをベレニスと比較していた。ベレニスならどれくらい完璧にアレッサンドラをあしらっただろう! 


「まあ、いずれにしても」アイリーンは開き直って締めくくった。「トリファーさんは親切丁寧で十分魅力的だわ。それに、あの人の地位だってあの女のと同じくらいいいって判断すべきでしょ。そう思わない?」


「確かに、そうではないと考える理由は見当たらないな」クーパーウッドは内心ほくそ笑んで答えた。しかし、アイリーンがこうも単純で無邪気だと、気の毒というよりその逆だった。「少なくともギブンスさんは、トリファーさんを好いているようだね。だから、もしきみが彼女を社会的にこういう人だと扱うのなら、彼のことも同じように扱わなければならないと思うよ」クーパーウッドは言った。


「まあ、トリファーさんは礼儀正しく振る舞うだけの分別を持ってるわ。それは彼女よりも、いや、他の女性を相手にするときのほどんどの女性よりも多くお持ちだわ!」


「女性の問題はね、アイリーン、全員やることが同じってことなんだ。男性というか、男性の関心事はもっとさまざまだろ」


「それでもね、あたしはトリファーさんこと好きだわ。でも、あの娘は全然好きじゃない!」


「別に、きみが彼女と知り合いになる必要はないさ。まあ、彼のことは、きみが望むのであれば、私たちが彼を歓迎してはならない理由はないね。思い出してほしいな。私はこの旅行中、きみには幸せでいてほしいんだ」そしてここでクーパーウッドは魅力的にアイリーンに微笑みかけた。


一時間後、アイリーンが上部デッキに午後の散歩に出かけるために着替えている間、クーパーウッドはずる賢くアイリーンのことを考えた。今では明らかに自分にも人生にも興味を持っていた。クーパーウッドは本当にすばらしいことだと思った。相手の弱点、好み、夢についてきちんと考え、検討することによって、人は他人とどれだけ多くのことを達成できるのだろう。


しかし、ベレニスがまったく同じやり方でクーパーウッドに働きかけていた可能性はなかっただろうか? ベレニスなら、それくらいのことは完全にできた。そして今、クーパーウッドは軽く自分を褒めているのと同じように、彼女のそういうところを褒めたくなった。




  第二十二章



トリファーによって、船旅の残り少ない日々は、アイリーンの好意の中に自分を潜り込ませられるような行動の立案と実行とに費やされた。とりわけ、ミス・ギブンスが立ち入ってこないように注意しながら、二度のカード・パーティーを準備した。しかし、かなり有名な女優、クーパーウッドの妻に会うことを全く嫌がらなかった若い西部の銀行家、トリファーほどの外見とマナーを備えた相手と付き合っていれば自分の社会的な人脈が良くなると信じているバッファローから来た未亡人、つまりトリファーが加えてもいいと考えた者は誰でも加えた。


アイリーンが、この楽しくてまったく予想もしなかった社交の広がりと、特にトリファーの明らかな関心、に元気づけられたと言ってしまうのは、決して事実ではない。クーパーウッドは参加しなかったが、この付き合いをしめしめと考えていそうだったので、なおさらだった。現に、ロンドンに到着してセシルに落ち着いたら、トリファーと彼の友人たちをお茶かディナーにでも招待したらどうかと提案してくれた。時間がとれれば、少しくらい滞在しても構わないのだ。アイリーンはこの機会に感謝して跳びついた。秘密の関係を築こうと模索している人の態度や気分ではなく、夫にも好ましい人付き合いや交際が今でも自分にできることをしきりに証明したがっているみたいだった。


どうやらトリファーは彼の裁量に任せてもいい人物かもしれない、とクーパーウッドは考えた。とても賢く、駆け引きが上手で、必要な社交上の作法全般に通じているのは明らかだった。もし彼が、アイリーンを仲違いさせ、結婚に持ち込んで彼女の個人資産のいくらかでも手に入れるという考えで、アイリーンと愛し合うことまでいったとしたらどうだろう? そんなことがうまくいくとは思わなかった。アイリーンに限って他の誰かと恋愛して深みにはまることなどないからだ。


トリファーは、陰謀の後ろめたさに時々悩まされたが、これこそ自分の不遇の人生にこれまでに訪れた最高に幸運な転機の一つだと感じた。つい最近もそうだったように、女優の稼ぎを分け合って一緒にやっていけるのであれば、きっとこの女性の社交の指南や指導や同伴者を演じてだって金を受け取れるだろう。確かにアイリーンは不器用で、時々間違ったことをする可能性があり、歓心を買いたくてたまらないのだ。きっともっと優雅に着飾れるし、彼女が引き立つ特定の雰囲気や気取り方を教わっていてもよかった。少なくともアイリーンは好意的であり歓迎してくれていた。トリファーがアイリーンのためにたくさんのことができそうなのは確かだった。


この旅行に先駆けて周囲に問い合わせて知ったのだが、アイリーンはクーパーウッドの留守中に明らかにありきたりな情事にふける習慣があった。これは、彼女の曖昧な社会的地位に関係なく、クーパーウッドと彼女自身の品位をおとすことにしかなりえなかった。クーパーウッドがこれを進んで黙認しているのはどういうことだろうとトリファーは自問した。しかしアイリーンに会って、その夫の経歴をおさらいしてみると、結局クーパーウッドは最も賢明な方針をとっていると感じるようになった。何しろ、アイリーンは確かに実行力と決断力を備えた女性だった。夫がやるかもしれない自由を求める戦いでは、意図的に夫を傷つけはしないとしても、おそらく打てる手はひとつも残さないつもりなのだろう。


その一方で、もちろん、クーパーウッドがいつかトリファーを攻撃する可能性はあった。本当の理由であれでっちあげの理由であれ、アイリーンとの関係でトリファーを非難する可能性があった。この関係がアイリーンを追い出す手段をクーパーウッドに提供するのである。そうなっても、もしクーパーウッドがトリファーにこの計画を実行させたことをトリファーが証明できたら、暴露はきっとクーパーウッドの方がトリファー以上に好ましくないだろう。では、自分が失わねばらないものは何だろう? ほぼ確実にトリファーは、アイリーンの夫から告訴されない方法で、自分の行動とアイリーンの行動を調整することが可能だ。


それに、アイリーンのためにやれることはたくさんあった。この旅行中にトリファーは彼女がかなり自由にお酒を飲むのが好きなことに気がついた。そういう弱点からアイリーンを守らなくてはならないだろう。次に衣装の問題があった。パリには、彼女にきちんとした服を着せる特権を与えてくれるトリファーに感謝するドレスメーカーがいる。最後に、もちろん、アイリーンがトリファーを信頼するようになったとしてだが、アイリーンのお金があれば、アイリーンが楽しめる冒険を手配することは難しくない……エクス=レ=バン、ビアリッツ、ディエップ、カンヌ、ニース、モンテカルロ。トリファーは旧友を招待して古い負債を返済し、新たな人脈をつくることができる!


特等室で横になり、タバコをふかしてハイボールをすすりながら、トリファーはこのすべてに思いを巡らせた。この船室といい! 週給二百ドルの仕事といい! おまけに、三千ドルか! 




  第二十三章



イギリスの霧に太陽がかすかに差し込む曇った四月の朝、カイゼル・ウィルヘルム・デア・グロッセ号は、サウサンプトンまでの乗客を上陸させた。おしゃれなグレイのビジネススーツ姿のクーパーウッドは、上部デッキから静かな港と、海岸の先ののどかな家並みを眺めた。


アイリーンは春らしい最高の装いで夫の傍らに立っていた。アイリーンのメイドのウィリアムズと、クーパーウッドの世話係と、専属秘書のジェーミソンがまわりを行き来していた。眼下の桟橋には、ジャーキンズとクローファインがいた。噂についてクーパーウッドに質問をしたがっている記者団もいた。噂というのはジャーキンズにでっち上げられたもので、クーパーウッドが聞いたこともない貴族の資産の著名なアートコレクションを買うためにイギリスに来ているというものだった。


最後の瞬間になって、トリファーは自分は二人と一緒に下船せずに、シェブールまで船旅を続けてそれからパリへ向かうと知らせてきた……クーパーウッドもそう思ったが、とても巧みな行動だった。しかし、極めてざっくばらんな態度で説明したように、アイリーンのために次の月曜日か火曜日にロンドンに来るつもりなので、クーパーウッド夫妻が大陸に出発する前にお会いする楽しみがあればいいのですがと期待をうかがわせた。このときアイリーンは了解しがてらクーパーウッドをちらっと見て、これを受け入れながら、セシルに呼んでくれたらうれしいと言った。


この瞬間クーパーウッドは、大事なことと幸せが自分を取り巻いている感覚を最大限に楽しんでいた。上陸してアイリーンを片付けてしまえば、クラリッジでベレニスが母親と一緒に自分を待っている。若さを実感した。新しい、本当に謎の航海に出たユリシーズだ! このすべてのまっただ中にスペイン語の電報を持ったメッセンジャーが到着した事実によっても、クーパーウッドの気分は高められた。「太陽はあなたが足を踏み入れるイギリスを照らします。あなたの最大の偉業と最高の名誉に向かって開くのは銀の扉です。あなたのいない海はずっと灰色でした、黄金の中の黄金」もちろん、これはベレニスからのものだった。クーパーウッドはベレニスに会うことを考えてひとりで微笑んだ。


すると報道陣が現れた。「行き先はどちらでしょう?」「シカゴの株式は全部処分したのでしょうか?」「お噂どおり、イギリスへは有名人のアートコレクションを買うためにいらしたのですか?」クーパーウッドは質問のすべてに慎重に笑顔で答えた。正確に言うと、前回とってからずいぶん長いことたっているので、しばらく休暇をとるつもりでいる、と説明した。いや、シカゴの株式は処分していない。ただ入れ替えをしているだけだ。違う、フェアバンクス・コレクションを買いに来たわけではない。かつてそれを見て絶賛したことはありましたよ。しかし、それが売りに出たとは聞いたこともありません。


この間中ずっとアイリーンは、かつての存在感が復活したことを喜んで、間近で取り澄ましていた。〈イラストレイテッド・ニュース〉紙が、アイリーンのスケッチをするために人を派遣していた。


話の盛り上がりが最初に一段落したところで、ジャーキンズがすぐ横にクローファインを連れてすかさず進み出て挨拶し、話をする機会ができるまでは何も発表しないようにクーパーウッドに要請した。クーパーウッドは答えた。「そうお望みなら、そうしよう」


その後ホテルで、ジェーミソンが、受け取ったさまざまな電信の報告をした。また、七四一号室ではシッペンスが呼ばれるのを待っていた。それから、ハドンフィールド卿からの手紙があった。クーパーウッドが数年前にシカゴで出会った人物で、週末にクーパーウッド夫妻をもてなして楽しくすごしたいとのことだった。また、ある著名な南アフリカの銀行家……ユダヤ人の紳士……が、そのときロンドンにいて、南アフリカに関する大事な問題について話をするために昼食に誘っていた。都合のつくときにクーパーウッド氏が大使館の晩餐に出席もらえれば幸いだとドイツ大使は賛辞をおくった。フィラデルフィアのドーラン氏のメッセージがパリからとどいた。「私と街に繰り出すことなく町を素通りしたら、国境で足止めしますよ。あなたが私をご存知なように、私だってあなたのことをよく知っているのをお忘れなく」


幸運の翼が、頭上で羽ばたいている音が聞こえた。


後でアイリーンが自分の部屋に落ち着いてくつろぐのを見とどけてから、シッペンスに使いを送り、彼が報告しなければならない内容をすべて聞いた。シッペンスは新しい春のスーツを着て、熱心に、小鳥のように、グリーヴズとヘンシャーが行き詰まっているのは間違いないと語った。クーパーウッドにとっては、彼らが支配する路線の議会承認以上に有利な突破口はなかった。翌日はシッペンスと一緒に予定のルートを調べるつもりだった。しかし、もっと重要なのはこの中央ループの完全支配だった。鉄道全体がこれにかかっていた。〈チャリングクロス鉄道〉はループに接続すれば最も収益力があった。そこを所有するか支配すれば、ループとその他の鉄道に関係する行動をとるにあたってずっと有利な立場になるのである。そのほかにも、宙ぶらりんになっている議会承認はたくさんあった。これは経営者と出資者を見つけることを後回しにした投機家によって確保されたもので、これらも全部調査されるかもしれなかった。


「そう、このすべてにどうやって取り組むかが問題なんだ」クーパーウッドは考えながら言った。「グリーヴズとヘンシャーは困っているそうですが、二人はまだ私に接触してきませんね。一方で、ジャーキンズは〈交通電化会社〉についてこのジョンソンという男に話をしたようです。そしてジョンソンが、この中央ループに関心をもっているらしいグループ……そのうちの一人が、例の男ステインですが……このグループをまとめあげる目処が立つまでに私が何もしなかったら、彼が私のためにその全員と会ってこの問題を、ループ全体の計画だと思うんですが、話し合えるように手配する、とジャーキンズと合意したそうです。しかし、それだとグリーヴズとヘンシャーを無視して、最初っからこの〈チャリングクロス鉄道〉を〈交通電化会社〉に戻さなければならなくなる。それはまさに私がやりたくないことなんです。それだと私に向かって振りかざす余計な武器を相手に渡してしまうことになるからね」


これを聞いたとたんにシッペンスが立ち上がった。


「そいつはいけません、大将!」かなり甲高い声だった。「そいつはいけませんよ! そんなことをしたら後悔することになります。ここの連中が接着剤でくつけたように団結しちゃいます! 彼らはそれぞれ単独で戦うことになるでしょうが、外国人が相手だと団結してしまいます。彼らと渡り合える材料が大将にない限り、高い代償を払わされることになりますって。明日か明後日まで待って、グリーヴズとヘンシャーから連絡があるか確認した方がいいですよ。二人はきっと今日の新聞で大将の到着の記事を読みますから、私の読みに狂いがなければ、大将に接触してきます。なにせ、二人は待っていたところで得るものはないのですから、何一つね。ジョンソンには近づかないようジャーキンズに伝えてください。そして、大将は大将がやらねばならないことを何でもやってください。まずはこの〈チャリングクロス鉄道〉の運行ルートを私と一緒に見に行きましょう」


するとそのとき、隣の部屋に待機していたジェーミソンが手紙を手に持って入って来た。封筒の表にある名前を見てクーパーウッドは微笑み、読んでから手紙をシッペンスに渡した。


「ごらんなさい、デ・ソータ! それをどう見ますか?」クーパーウッドは静かに尋ねた。手紙はグリーヴズとヘンシャーからのもので、こうあった。


拝啓、クーパーウッド様

今日の新聞で、あなたのロンドン到着を知りました。もしご都合がよろしくて、関心がおありでしたら、来週の月曜日か火曜日にでも、お会いしたいと思います。我々の用件は、もちろん、去る三月十五日ニューヨークで提案した問題について話し合うことです。

無事到着されましたことをお祝いし、快適な滞在になりますことをお祈り申し上げます。

 

シッペンスは勝ち誇ったように指を鳴らした。ほうら! 言ったそばからでしょ?」と高笑いした。「大将自身の条件でいただきですよ。しかもロンドンの最高のルートですからね。そいつを鞄に入れたら、大将、ふんぞり返って待っていればいい。特に宙ぶらりんになっている他のオプションをいくつか入手し始めたらなおさらです。何せ、向うはそれを聞きつけたら大将のもとへ来なければなりませんからね。ジョンソンめ! 自分と会うまで何もするなと大将に言ってくるとは図々しい」シッペンスは少し機嫌を損ねて付け加えた。ジョンソンが自信家で独裁者だとすでに聞き及んでいたので、相手を好きになれない下地ができていた。「もちろん、なかなか立派な人脈があるんですがね」話を続けた。「奴とこのステインには。しかし大将のお金と能力と経験がなかったら、奴らに何ができますかね? 他の鉄道はもちろん、この〈チャリングクロス鉄道〉さえうまく扱えなかったんですから! 大将抜きで奴らにできるもんですか!」


「おそらく、あなたの言うとおりですよ、デ・ソータ」クーパーウッドは忠実な仲間に優しく微笑みかけながら言った。「グリーヴズとヘンシャーには、おそらく火曜日に会うことになるでしょう。私が何一つこの指の間から取りこぼさないと信じてくれていいですよ。明日の午後にでも〈チャリングクロス鉄道〉に乗ってみましょうか? それとこのループはこの際一緒に見ておくべきだと思いますが」


「さすがは、大将! 一時でどうでしょう? すべてをお見せして、五時までにはここに戻って来られますが」


「いいな! それとなんだが、覚えてますか、ハドンフィールド、ハドンフィールド卿を? 数年前にシカゴに来て、そこで一騒動やらかした人なんだが。パーマー、フィールド、レスター家がみんなで追いかけ回していたんですがね、覚えていますか? うちでも、おもてなししたんですよ。派手で、気取った感じの人なんだが」


「もちろん、もちろんですとも! 覚えてます」シッペンスは答えた。「包装事業に参入したがった人ですね」


「それと、私の仕事にもだよ。あなたの耳には入れてなかったと思うが」


「はあ、初耳ですね」シッペンスは興味津々で言った。


「まあ、いずれにせよ、今朝、彼から電報を受け取ったんだ。彼の地元へ来てほしいと……シュロップシャーだったかな……今度の週末だそうだ」クーパーウッドは机から電報を取り上げた。「シュロップシャーのバーリトン荘園だ」


「そいつは面白そうなことで。彼は〈シティ&サウスロンドン鉄道〉の関係者の一人ですからね。株主だったか取締役だったか、そういったものです。明日中に全部調べておきます。もしかしたら、この地下鉄開発に関わっていて、その件で会いたがっているのかもしれません。もしそうで、彼が味方であるなら、確かに大将の頼りになる人物です。何しろ、異境の客ですからね」


「まあ、そうだね」クーパーウッドは言った。「まんざら悪い考えではないかもしれない。行ってみるとしよう。探れるものならそれでわかるでしょうからね。では一時にここで会いましょう」


シッペンスが慌ただしく出て行くと、ジェーミソンがまた手紙をもって入室したが、クーパーウッドは手を振って下がらせた。「月曜日までもう何もいらないよ、ジェーミソン。グリーヴズとヘンシャーに返事を書いて、火曜日十一時ならここで会えると伝えてくれ。ジャーキンズをつかまえて、私から連絡があるまで何もするなと言うんだ。ハドンフィールド卿に電報を打ち、クーパーウッド夫妻はよろこんで招待をお受けすると返信して、場所と承諾を確認してくれ。また何か来たら、私の机に置いておいてくれ、明日にでも見ておくから」


クーパーウッドは元気よく大股でドアを出て、エレベーターに乗り、辻馬車を呼んだ。目的地をオックスフォード・ストリートと告げたが、二ブロックも走らないうちに屋根を押し上げて、御者に「オックスフォードとユーベリー・ストリートの左手の角へ」と声をかけた。


そして、そこで降りてからクラリッジまでは徒歩で遠回りをした。




  第二十四章



この時、ベレニスに対するクーパーウッドの態度は、父親と恋人が入り混じったものだった。大きな年齢差と、ベレニスの精神性と美しさに対する変わらぬ称賛は、彼女を守って美しく発展させたい気持ちをクーパーウッドに抱かせた。同時に、自分の六十歳とベレニスの極端な若さを公然と仲睦まじくさせることができなかったので、時々この関係を変だと感じはしたが、ベレニスの官能的な感情を共有したのも確かだった。その一方で、内心、ベレニスの現実的な予見はしばしば自分のとも一致するように思えて、クーパーウッドにさらなる強さと誇りを感じさせた。なぜなら、ベレニスの独立性と力は、クーパーウッドの物質的に自分を拡大するという考え方よりも、彼女による気質的な、社会的な理想を実現するために利用できるかもしれない、生じうる結果の一部と結びついていたからである。だからこそロンドンにこうしてクーパーウッドがいて、本当に重大なことになった。さっそくクーパーウッドは、ベレニスが相変わらず楽天的で熱心なことに気がつくと、腕に抱いたときに、彼女の陽気さと自信を少なからず実際に吸収した。


「ロンドンにようこそ!」が、ベレニスの第一声だった。「さあ、シーザーがルビコン川を渡りました!」


「ありがとう、ベヴィ」クーパーウッドはベレニスを解放しながら言った。「手紙もうけとりました。大事にしますよ。でも、私に姿を見せてください。部屋の向こうまで歩いてごらん!」


クーパーウッドは、ベレニスが皮肉な微笑みを浮かべながら遠ざかって、ファッションモデルのようにポーズをつけながら歩き、最後にお辞儀をして言う様子を、とても満足そうに眺めた。「マダム・サリーの監修です! お値段はたったの……内緒です!」ベレニスは口を尖らせた。


ベレニスは、首とガードルの要所要所に小さな真珠をあしらい、プリンセススタイルで仕上げた、濃い青のビロードのフロックを着ていた。


クーパーウッドはその手をとって、ちょうど二人分の大きさの小さなソファーに連れて行った。「実にすばらしい!」彼は言った。「またあなたと一緒にいられることが、どれほどうれしいか、言葉では言い表せません」それから母親の様子を尋ねて続けた。「これは私にとって新しい感覚ですよ、ベヴィ。実はこれまでロンドンなどあまり気にしたことがありませんでした。しかし今回はあなたがここにいることを知っていますから、ロンドンを見て楽しんでいる自分がわかるんです」


「それで、他のことはどうなの?」ベレニスは尋ねた。


「もちろん、あなたに会うこともですよ」クーパーウッドは微笑んでキスをした。いちゃいちゃするのはもっと後になってからよ、と最後にベレニスが警告を発するまで、唇と指で、彼女の目や髪や口に触れていた。さしあたってこれを受け入れざるを得なかったので、旅の簡単な説明と、あったことのすべてを話し始めた。


「アイリーンはセシルで私と一緒です」クーパーウッドは続けた。「新聞用にスケッチされてましたよ。そして、アイリーンが楽しく過ごせるように、あなたの友人のトリファーが頑張っていろいろ取り計らってくれたことは言わねばなりませんね」


「私の友人ですって! あんな人、知るもんですか!」


「もちろん、知らんでしょう。でも、とにかく、とても賢い人だとわかりました。彼がニューヨークで私のところへ来たときとか、洋上で再会したときに会っておくべきでしたね。アラジンと魔法のランプにはお金がかかりましたよ! ところで彼はパリに向かいました。まあ、足跡を残さないためなんでしょうが。もちろん、しばらく不自由しない資金が十分に渡るようにしておきました」


「船で会ったんですか?」ベレニスは尋ねた。


「ええ、船長に紹介されましたよ。でも、そういう事の手配を自分できてしまうタイプの人なんですね。それに、女性に取り入ることにかけては間違いなく才能があるようだ。魅力的なご婦人をすべて事実上独占していましたからね」


「あなたと一緒になって? そんな話を私が信じるとでも思ってますか?」


「奇跡としか言いようがない。しかし、あの男は只者じゃない。何が必要なのかを正確に感じ取れるようでした。私は少ししか会わなかったんですが、彼は何とかアイリーンに好感をもたせましたよ……アイリーンが私たちと一緒の食事に彼を誘いたがるほどにです」


クーパーウッドは真剣な表情でベレニスを見た。今度はベレニスがお祝いするように見つめ返し、しばらくしてから言った。「うれしいわ、本当によ。アイリーンにはこういう変化が必要なんだわ。ずっと前にあってもよかったのよ」


「そうですね」クーパーウッドは言った。「私がアイリーンの理想になれないのなら、誰か他の人がなればいいんですよね? とにかく、トリファーには冷静に続けてほしいです。彼ならそうしてくれると思いますけど。アイリーンはすでにパリに買物に行く計画を立てていますよ。だから物事は順調に進んでいると思います」


「結構なことだわ」ベレニスは笑顔で言った。「私たちの計画はうまくいきそうですね。誰のせいなのかしら?」


「まあ、あなたではないし、私でもありません。起こるべくして起こったことのひとつです……あなたが来るとはちっとも予期していなかった去年のクリスマスにあなたが来てくれたのと同じです」


クーパーウッドは再び愛撫し始めたが、ベレニスは自分の計画に興味があったので「ねえ、ねえ、ロンドンの話を聞きたいわ。それに私にだってあなたに話すことがあるのよ」と言って抵抗した。


「ロンドンですか? これまでのところ、すべてがかなりいい線いってるみたいです。グリーヴズとヘンシャーという二人の男のことと、その話を断った経緯はニューヨークで話しましたね。ついさっきホテルで、出かける前に、その二人から手紙がありました。二人が面会を求めて来たんです。だから私は会うことにしました。もっと大きな計画についでですと、ここには私が話をする予定でいるグループがひとつ存在します。何かがはっきりと決まり次第すぐに知らせますよ。でもそれまでの間、私はあなたと一緒にどこかへ雲隠れしたいですね。これに取りかかる前に、少しくらい休暇をとれてもいいはずですよ。当然、アイリーンはいます。厄介払いするまでは……」クーパーウッドは間をおいた。「私の計画は、もちろん、アイリーンをパリに出かけるように仕向けるというものです。そうすれば、私たちはノース岬でも地中海でも船旅に出られるでしょ。私の代理人の一人が、夏の間リースできる心当たりがあるヨットの話をしてくれましてね」


「ヨット! ヨットですって!」ベレニスは興奮して叫んで、同時にクーパーウッドの唇に指をあてた。「だめよ、だめですからね! もう、あなたったら、私の計画が台無しじゃない。私がやりたいことをやっている最中なのに。あなたはね……」


しかしベレニスが言い終えないうちに、クーパーウッドがつかまえてキスをして黙らせた。


「せっかちなんだから!」ベレニスは優しく言った。「でも、待ってちょうだい……」隣の部屋の開いた窓のそばにあるテーブルへと彼を案内した。「さあ、旦那さま、二人の饗宴です。お招きするのは、あなたの奴隷です。席に着いて、私と一緒に飲み物を飲み、お行儀よくすれば、私のことをお話します。信じようが、信じまいが、私はすべてを解決しました!」


「すべてをですか!」クーパーウッドはからかうように言った。「それも、こんなに早く? せめて、私がそのやり方さえ知っていればよかったのですが!」


「まあ、ほぼすべてよね」クーパーウッドのお気に入りのワインの入ったデカンターを取り、それそれの分を注ぎながら、ベレニスは話を続けた。「ねえ、不思議に思えるかもしれませんが、私はずっと考えていました。そして、私が考えていたら……」ベレニスは話をやめて天井を見上げた。クーパーウッドはベレニスが持っていたグラスをつかんで、彼女にキスをした。ベレニスは彼がそう来ると思っていた。


「お下がり、シーザー!」ベレニスはからかった。「お飲み物はおあずけです。そこへ座ってください。私はここに座ります。それではすべてをお話します。告白することがあるんです」


「いたずらっこ! 真面目にやってください、ベヴィ」


「これほど真面目なことはありません」ベレニスは言った。「ねえ、聞いてください、フランク! こういうことなんです。私たちの汽船にイギリス人の乗客が六人いました。若者も老人もいて、その全員がハンサムでした。少なくとも私のお相手はハンサムでした」


「まあ、そうだろうね」クーパーウッドは寛容に言ったが、それでも少し疑っていた。「それで?」


「ねえ、あなた、すべてを許してくれるのなら言いますが、すべてはあなたのためのたわむれだったんです。別に信じてくれなくてもいいけど、罪のないものです。実はロンドンから三十マイルと離れていないテムズ川に、ボンベニイと言う少し田舎っぽい場所あることがわかりました。アーサー・タビストックっていう一番魅力的な独身の青年が、私にそこの話をしてくれました。母親のレディ・タビストックと、そこで暮らしているんですって。彼ったら私も母親を好きなるって信じてるんです。うちの母も彼をとても気に入ってます。それでね……」


「それで、私たちはボンベニイで暮らすんですね、お母さんと私も」クーパーウッドの言葉はほどんど皮肉だった。


「そのとおり!」ベレニスは混ぜっ返した。「そして、そこがまた重要なところなの……あなたと母が、ってことよ。これからは、たっぷり母に気を遣っていただかないとなりません。私にはほんの少しでいいです。もちろん、私の後見人としては別ですが」ベレニスはクーパーウッドの耳を引っ張った。


「言い換えると、後見人にして家族の友人のクーパーウッドだね」そっけなく微笑んだ。


「正解です!」ベレニスは続けた。「それとね、私はすぐにアーサーとパント船に乗ることになってるのよ。そしてもっといいことがね」ここで、ベレニスはくすくす笑った。「彼が、母と私にぴったりのすてきなハウスボートを知っているのよ。そして、月明かりの夜、お茶の時間の天気がいい午後、そんな中、うちの母と彼の母は座って編み物か、お庭の散歩で、あなたはタバコを吹かして読書、アーサーと私は……」


「ああ、わかった。すてきな生活を一緒におくるんですね、ハウスボート、恋人、春、後見人、お母さん。実に理想的な夏ですね」


「これ以上のものはありえません」ベレニスは熱く語った。「天幕の説明までしてくれたわ、赤と緑なんですって。それと友だちのこともみんな話してくれたわ」


「私も赤と緑だと思いますね」クーパーウッドは言った。


「まあ、実際はフランネルとブレザーでしょうけど。それにすべてが完全に上品なんです。彼が母にそう言いました。母と私が紹介してもれえるお友だちも多数いるんですって」


「すると、結婚式の招待状は?」


「遅くとも、六月までには何とか」


「私が新婦を引き渡す役でいいですか?」


「もちろん、いいですけど」ベレニスはにこりともせずに答えた。


「まったくもって!」クーパーウッドは大笑いした。「船旅は大成功でしたね!」


「あなたは、まだこれっぽっちも聞いてないわよ」ベレニスは露骨に、まるで議論でもふっかけるように続けた。「これっぽっちもよ! メイデンヘッドってところがあるのよ……自分で言っといて恥ずかしいけど」


「あなたが? そのことは覚えておきましょう」


「王族だか何だかの、ホークスベリイ大佐のことはまだ話していませんでしたね」ベレニスは愚かを装って言った。「連隊の関係者の一人なんですけど、テムズ川のどこかの公園か何かに、コテージをお持ちのいとこがいる同僚の士官をご存知なんですって」


「コテージが二軒とハウスボートが二軒ですか! それとも、あなたには二重に見えるんですか?」


「とにかく、これはめったにない貸家だわ。空くのは、この春がほぼ初めてなんですって。それに完全に理想的でしょ。いつもは友人に貸し出されるそうよ。でも、母と私は……」


「今度は連隊の娘になりました!」


「じゃあ、大佐はここまでです。今度はウィルトン・ブライスウエイト・ライアススリーね、発音はロティスリー。この上なく完全な小さい口髭で、背丈は六フィート、そして……」


「ねえ、ベヴィ! 親しい人がずいぶんいますね! 私は疑い始めてますよ!」


「ウィルトンは違います! 絶対に! 大佐はいいかもしれないけど、ウィルトンはないわね!」ベレニスはくすくす笑った。「とにかく、長い話が五倍長くなるけど、私はすでにテムズ川沿いのハウスボート四軒だけではなく、ロンドンの最高級住宅街やその近郊で完全な設備の家を四軒知ってるわ。そして、その全てがシーズンでも一年でも、あるいはもしここに永住する決心がつくのなら永久にでも使えるのよ」


「あなたがそう言うならばそうしよう、ベレニス」クーパーウッドは口を挟んだ。「しかし、なかなかの女優だね!」


「そして、これ全部」相手の褒め言葉を無視して、ベレニスはつづけた。「もし私がちゃんとロンドンの住所を知らせたら……まだ知らせてませんけど……私のファンの一人、あるいは全員が、私に紹介してくれるのよ」


「ほお! 大したものだ!」クーパーウッドは叫んだ。


「でも、まだ何も約束してないし、巻き込まれてもないわ」ベレニスは付け加えた。「でも、母と私はバークレー・スクエアの物件とグローブナー・スクエアの物件を見ることにしました。そうすれば見てわかることはわかりますからね」


「しかし、契約だのそういうことは全て年季の入った後見人に相談した方がいいと思いませんか?」


「まあ、契約についてはそうね。でも他のことはすべて……」


「他のことはすべて手を引きますよ、よろこんでね。私は人生一つ分、十分に管理をやりましたから、あなたがそれに挑戦するのを見るのも楽しいですよ」


「まあ、とにかく」ベレニスはお茶目に続けた。「あなたが私をここに座らせてくれたら」ベレニスは彼の膝の上に座って、テーブルに手を伸ばし、ワインのゴブレットをとってその縁にキスをし始めた。「ほおら、私はその気になりかけているわよ」ベレニスはそれから半分飲んだ。「そして、今度は、あなたよ」と言って、グラスを渡し、クーパーウッドがその残りを飲むのを見守った。「さあ、それを私の右肩越しに壁に投げつけて、もう二度と誰もそれを使って飲めないようにしてちょうだい。これはデンマーク人やノルマン人のやり方よ。さあ……」


クーパーウッドはそのグラスを投げた。


「さあ、私にキスして、それですべてがかなうわ」ベレニスは言った。「だって私は魔女ですから。私が願いをかなえます」


「それを信じる準備はできてますよ」クーパーウッドは厳かにキスをしながら愛情を込めて言った。


食後、二人は今後の行動について話し合った。クーパーウッドはベレニスが今、イギリスを離れるどの計画にも強く反対することに気がついた。春だった。ベレニスはいつも大聖堂の町……カンタベリー、ヨーク、ウェルズ……を旅して、バースのローマ風呂や、オックスフォード、ケンブリッジ、そして古い城を何か所か訪問したがっていた。二人は一緒に旅行できたが、当然、このロンドンの仕事に関連して直面している可能性をクーパーウッドが調べたあとでするしかなかった。ついでに言うと、ベレニスは自分が話したコテージも調べてみたかった。そうして、いったん落ち着けば、すぐに一緒に休日を過ごすことができた。


これからクーパーウッドは彼女の母親に会いに行かねばならなかった。母親は少し動揺し、みんながどうなるのかよくわからないのが心配で、このところ考え込んでいた。そしてその後はベレニスのところへ戻ることになっていた。それから……そしてそれから……。


クーパーウッドはベレニスを腕に抱き寄せた。


「さて、女神ミネルバ!」クーパーウッドは言った。「あなたの望みどおりに準備ができるかもしれません。私にはわかりませんが。でも、ひとつ確かなことがあります。もしここでの障害があまりに大きすぎるようなら、世界を旅しましょう。何とかアイリーンとも話し合ってみます。もし同意しなければ、そのときはアイリーンに構わず行きましょう。アイリーンがいつ事態を公にしようが、おそらくは何らかの方法で克服できるでしょう。私はそう信じてます。とにかく、これまではそうでしたから」


クーパーウッドはベレニスには優しく、自分には大きなやすらぎとなるように、キスをして、カーター夫人と話をするために中に入った。夫人は開いた窓の近くに座って、マリー・コレリの小説を読んでいた。カーター夫人は明らかにクーパーウッドが来るのを見越して服を着て髪を整えていた。そして、とても楽観的な笑顔を向けた。それでも、クーパーウッドとベレニスがしていることのすべてについて、やっても平気で危険はないのだろうか、と彼女なりに神経質に考えているとクーパーウッドは感じた。実際、その目に緊張と憂いが見てとれると思った。みんながイギリスで心地よい春を迎えようとしていることに二、三触れてから、クーパーウッドはごくさりげなく、それでいてかなり率直に付け加えた。


「私があなただったら、何も心配しませんよ、ハッティ。ベヴィと私は完全に理解し合っていますから。そして、ベヴィは自分のこともわかっていると思います。才能豊かで美しいし、私は愛しています。どんな問題が起きようと、私たちなら何とかできると思います。楽しい時間を過ごしましょう。私はとても忙しくなりそうなので、思うようにあなたのお相手はできませんが、見守っていますからね。そして、ベヴィもそのつもりです。心配しないでください」


「まあ、私は心配なんかしていませんよ、フランク」夫人はほとんどすまなそうに言った。「もちろん、ベヴィがどれほど臨機応変で決断力があるか、あなたがどれほどあの娘を心から気遣っているか、わかってますからね。そして私は物事があなたの望みどおりに進むことを願ってますよ。あの娘はあなたにお似合いの娘です、フランク。とても才能があって魅力的でしょ。あの娘がどんなに器用に人に出会って楽しませたか、あなたにも船でのあの娘を見せてあげたかったわ。それに、どうやって相手に自分の立場を守らせたかもね。あなたはしばらく滞在するんでしょ? ぜひ、そうしてね。私は少し具合が悪いのよ。でも、後でお会いしたいわ」


カーター夫人はクーパーウッドと一緒にドアまで行った。貴賓客をもてなす女主人の態度だった。実際、夫人は彼をそう感じた。彼がいなくなり、ドアが閉まると、夫人は鏡の前に行き、とても悲しそうに鏡を見つめ、頬に少しルージュを塗った……ベレニスが入ってきた場合に備えた……その後で鍵をかけた旅行鞄に入れて持ち歩いているブランデーのボトルを取り出して、自分で少し注いだ。




  第二十五章



次の週末、クーパーウッド夫妻はバーリトン荘園のハドンフィールド卿のゲストとして興味深いグループの真っ只中にいた。実際、ここは十六世紀の英国建築様式の中でも群を抜く広壮な建物で、ハーダウン・ヒース南東の端にあって、保存状態のいい歴史的遺産の代表だった。北西からそこに接近しているのは、何百年たっても鋤や種をまく人や大工と歴史的な対立を続ける、うねる緑の広がりを持つ、荒涼とした、まるで海のようなヒースそのものだった。富豪だけでなく貧者にとってもそうだが、ここの主な価値はこのヒースが、野兎、鹿、その他の狩猟動物および、馬や猟犬や赤いコートの騎手を従えた狩猟隊に提供する自由な放牧地だった。荘園が面する南西側は、木々が生い茂る斜面と原野であり、中心には小さな茅葺きの市場町リトル・バーリトンがあり、住みやすそうな片田舎の印象を与えていた。


バーリトン駅でクーパーウッド夫妻を出迎えたハドンフィールドは、五年前と同じ洗練された陽気な人物だった。楽しい思い出だったので、ハドンフィールドは夫妻を見て喜び、実に印象的な芝生と中庭を見せながらアイリーンに言った。「ずっと考えていたのですが、クーパーウッド夫人、あなたやご主人にとってはヒースなど興ざめでしょう。そこで、庭を見渡せる部屋をご用意いたしました。もし旅行でお疲れでしたら、応接間にお茶を用意してあります」


自分にはニューヨークに大豪邸があり、大勢の使用人がいて、この男性の富などはその足元にも及ばないのに、アイリーンは少なくともこの瞬間、こっちの方がはるかにすてきだと確信した。ああ、この男性のような社会での揺るぎない地位と人脈があって、このような場所を所有できたなら! もう苦労する必要はない。永遠に続く平和。一方のクーパーウッドは、こういう場面を喜びはしたが、称号や不労所得に威圧されたり、感動さえしなかった。彼は自力で富と名声を築いたのだ。


この週末にハドンフィールド卿が招待したゲストは、いろいろいたが著名人ばかりだった。前日に、ロンドンからチャールズ・ストーンレッジ卿が到着していた。ロンドン演劇界で地位も名声もある俳優だが、芝居がかった気取り屋で、あらゆる機会をとらえて貴族の友人や知人を訪ねていた。ストーンレッジ卿は当時人気があった『センチメント』に出演していた女優のミス・コンスタンス・ハサウェイを同伴していた。


それとは対照的なのがエティンジ卿夫妻だった。エティンジ卿は鉄道や船舶関係者の間ではかなり有名だった……大柄で血色のいい独裁的な男性だが、大酒飲みで、コップが満ちていればほどほどに温厚だった。完全にしらふでいるときは、安易な議論というよりはむしろ鋭い付随的意見を任された。一方で、エティンジ夫人はことのほか外交的で、今回はもてなし役としてハドンフィールド卿に招待されていた。夫人は夫の気性や癖を心得ていたので、それに寛容に耐えつつも、決して自分の個性を埋没させることはなかった。夫人は背が高くて、がっしりした体格で、青筋が目立ち、頬が赤く、かなり鋭い青い目をしていた。かつて彼女は十六歳のどのかわいい娘にも引けを取らないほど美しくて魅力的だった。そのことをエティンジが覚えていたように、彼女もよく覚えていた。エティンジ卿は熱心に求愛した。夫人は夫よりもバランス感覚が優れていた。エティンジ卿は長い歴史を持つ家系の出で財産を相続していたため、たとえ卿自身が仕事で十分に活躍していたとしても、目先の業績より長子相続を重視、優先しがちだった。しかし、夫人は夫と同じくらい名門の出でも、時代の勢力の移り変わりにもっと関心を持ち、認識していたので、クーパーウッドのような無冠の巨人を称賛する傾向があった。


また、ボスビケ卿夫妻の姿もあった。二人とも若くて、おしゃれで、とても人気があった。夫妻はスポーツ万能で、ギャンブルやレースを楽しみ、夢中になるし、陽気なので、どんな集まりでも貴重な存在だった。内心ではエティンジ夫妻を笑っていたが、同時に彼らの地位を高く評価していて、受け入れてもらえるようにこだわりなく振る舞った。


本当に重要なゲストはアビンギョン・スカーだった……ハドンフィールドとエティンジの目にははっきりしていた。かなり出自の疑わしい男……称号も家名もない……にもかかわらず、彼はこのとき投資で名を馳せていた。一つ目は、過去四年で、彼はブラジルに畜産会社を作ることに成功していた。ここからの利益は、すでに彼の投資家たちをかなり儲けさせていた。今はアフリカの牧羊に関心をもっていた。そこで、政府から得たほぼ前例のない免許と、コストを削減するために彼が考案した方法と、市場を見つけていたことから、すぐに大富豪になるかもしれない人物と目された。疑いたがる者の、彼の事業に対する最も辛辣な批判でさえ、未だに彼の主張に本気で対立するものに発展していなかった。ハドンフィールドもエティンジも、彼の成功に感銘を受けたが、同時に二人とも彼に続くことには慎重だった。彼の株式の一部に手を出したが、飛び込んでもすぐに撤退した。このときスカーが進めようとしていたもののひとつが、それまでの事業のほとんどに比べてあまり成功していない、ロンドンの新しい地下鉄〈ベーカー・ストリート&ウォータールー鉄道〉であり、この運営権は議会から取得済みだった。そして、これに関連して、クーパーウッドの予想もしなかった出現がスカーの関心を引いた。


アイリーンが念入りに化粧をすると決めたせいで、クーパーウッド夫妻はディナーの席につくのが遅れた。二人が応接室に入ると、他のゲストはほとんど集まっていて、待たされていることにややいらいらしていた。特に、エティンジはクーパーウッド夫妻にあまり関心を払わないことに決めていた。しかし夫妻が現れてハドンフィールドが心から歓迎の意を表明すると、その他はすぐに気を取り直して、愛想を取り戻し、アメリカ人に素直な関心を示した。エティンジは紹介されると前かがみに立ったまま、堅苦しくお辞儀をし、それでも熱心にクーパーウッドを観察した。エティンジ夫人は彼の問題に関する最近のイギリスの論調を追い続けていただけあって、自分の夫を除けば、クーパーウッドがこの集まりの主役だと即座に判断した。夫人は本能的にアイリーンのことでは彼を許した。彼が若くして結婚し、後に不幸な結婚をせいぜいいいものにしようと割り切ったのだと判断した。スカーは、自分の世界の巨匠の前に自分がいることを理解するだけの十分な知性を持っていた。


ニューヨークで長い間放ったらかしにされていたため少し落ち着かないアイリーンは、自然体でいようと最善を尽くしたが、それでもみんなに微笑みかけたときに、過剰なまでに心を込めて頑張ることしか成功しなかった。自分に全く自信がないということを、みんなの心に植え付けるような発言をする始末だった。クーパーウッドはそれに気づいたが、結局アイリーンのことは自分が何とかできると判断した。そして、いつもの外交手腕を発揮して、最も年上で、明らかに最も重要な女性のゲストであるエティンジ夫人に話しかけた。


「私はイギリスの田舎の生活をあまりよく知りませんが」クーパーウッドは極めて素朴に言った。「今日の午後ほんの少し拝見しただけでも、そこに称賛が向けられるのも当然だと言わなくてはなりませんね」


「全くですわ!」エティンジ夫人はクーパーウッドの感性と気質に少し興味を覚えて言った。「何ものにも負けないほど魅力的でしょ?」


「はい、それに、その理由も説明できると思います。私の国の今のところ最高であるものの原点ですからね」夫人が気がついたように、彼は『今のところ』という言葉を強調した。「イタリアの文化は」彼は続けた。「我々とは全く異なる人々の文化だとわかりますし、同じことがフランスとドイツにも言えると思います。しかし、完全にイギリス系ではない我々でさえここでは自然に、そして共感をもって、自分たちの文化と進歩の原点を認識しますね」


「ずいぶんとイギリス贔屓に聞こえますわ」エティンジ夫人は言った。「あなたはイギリス系なのかしら?」


「はい、両親はクエーカー教徒でした。イギリスのクエーカー教徒の素朴さを十分知らされて育ちました」


「あいにく、アメリカ人全員が心から通じるわけじゃありませんものね」


「クーパーウッドさんは、どんな国のことでも詳しくお話しできますよ」ハドンフィールド卿が近づきながら言った。「その全ての国の芸術品を集めることに、財産と多大な年月を費やしたのですから」


「私のコレクションなんか、まだまだです」クーパーウッドは言った。「私はまだ始まりとしか見てません」


「そして、そのアートコレクションは、私がこれまでに訪問した中で最も美しい美術館の一つに収められているんですよ」ハドンフィールド卿はエティンジ夫人に語りながら続けた。「それはニューヨークのクーパーウッドさんの邸宅の中にあるんです」


「前回ニューヨークに行ったとき、あなたのコレクションについてのお話を聞けて楽しかったですよ」ストーンレッジが口を挟んだ。「それに追加するために、こちらにいらしたというのは本当ですか? 確か先日そういう記事を読みましたが」


「根拠のない噂です」クーパーウッドは答えた。「現時点では感想以外は何も集めておりません。大陸に向かう途中なだけですよ」


アイリーンは、クーパーウッドが達成したかに思える成果が言葉では言い表せないほどうれしくて、ディナーの間中とても明るかった。とりわけ好印象を与えたかったので、クーパーウッドは時々妻の方へ問いかけるような視線を投げかけた。もちろん、ハドンフィールドとエティンジが投資に関心を持っているのを知っていたし、今ここにいるスカーが地下鉄を作ろうとしているのを耳にしていた。エティンジ卿に関しては、その影響力と人脈について何がわかるか関心があった。エティンジ夫人が夫の政治との関係を率直に話してくれたから、その方面での失敗はなかった。彼はトーリー党員で、トーリー党幹部とは親密で、このときはインドの要職が検討されていた。全ては当時イギリスを揺るがしていたボーア戦争に関わる政治の動向次第だった。今までのところ、負け続きの状態だった。しかし、今そこにいる人の流れはその不運な事実を最小限にすることだった。そして、クーパーウッドは当たり障りなく同じ態度をとった。


ディナーの間に他のゲストとも軽くおしゃべりしながら、この中でベレニスと同じくらいに自分の役に立ちそうな相手はいるだろうかと自分に問い続けた。ボスビケ夫人はスコットランドにある自分のロッジに招待してくれた。女性たちがテーブルを離れると、スカーが真っ先に近寄ってきて、イギリスに長く滞在するつもりなのかどうかを尋ねた。もしそうならば、スカーはクーパーウッドにウェールズの自分のところへ来てもらうつもりだった。エティンジでさえこのときにはアメリカや世界の問題を論じるほど打ち解けていた。


そして、射撃のパーティーがあった月曜日に、この関係は強化された。クーパーウッドは、技量がない人ではないと見られた。実際、アイリーンについては必ずしも同じとは言えなかったが、クーパーウッドは帰る準備ができるまでに、ハドンフィールドのゲスト全員の称賛を勝ち取っていた。




  第二十六章



クーパーウッドがバーリントン荘園から戻ってベレニスのアパートを訪ねてみると、ベレニスがコテージを視察に行く準備をしているのを見つけた。母親と過ごすのに適した夏の別荘としてホークスベリィ大佐が提案したものだった。ベレニスによると、場所はテムズ川のメイデンヘッドとマーローの間だった。


「それで、オーナーは誰だと思いますか?」ベレニスはなぞなぞと驚かすつもりでクーパーウッドに尋ねた。


「さあ、あなたの心を読もうとしない限り、さっぱり思いつきませんね」


「では、読んでみてください」


「私ではありません! 難しすぎます。どなたでしょう?」


「同姓同名の貴族が二人存在しない限り、シッペンスさんが知らせてきたあのイギリス貴族以外の誰でもありません。ステイン卿です」


「まさか?」クーパーウッドはあまりの偶然に驚いて言った。「どういうことでしょう。当人に会ったんですか?」


「いいえ。でも、ホークスベリィ大佐がここを熱心に勧めてくれました。ロンドンのすぐ近くだからって。それと、大佐と妹さんもそこにおるんですって!」ベレニスはホークスベリィのしゃべり方を真似た。


「そういうことなら、そこをよく見ておいたほうがいいですね」クーパーウッドは言った。同時にベレニスの魅力的な衣装に感心しながら気がついた。灰色がかった緑のロングスカートとタイトジャケットで、ジャケットは金の紐と金のベルトで縁取られていた。赤い羽根を一つ見せびらかしている小さな緑色の帽子が、頭の脇にのっていた。


「ステインには会いたいんだ」クーパーウッドは続けた。「ちょうどいい口実になるかもしれないな。だが、ここは慎重にいかないとね、ベヴィ。裕福でとても影響力があることはわかっているんだ。こちらの条件で関心をもたせることができればいいんだが……」言葉を濁した。


「私も同じことを考えていました」ベレニスは言った。「じゃあ、さっそく一緒に確かめに行くというのはどうかしら? 母は今日疲れているから家にいます」


ベレニスの態度はいつものように、軽く、あいまいで、冗談めかしていた。それはどんな状況でも彼女の自然な強さ、知略、楽観性を完全に反映していたからクーパーウッドをとても喜ばせた。


「何にしても、この衣装と一緒にいられる喜びだけで十分うれしいです!」クーパーウッドは言った。


「もちろん」ベレニスは続けた。「みんなには説明しましたよ、私が決められるのは後見人の同意があるときだけだって。自分の務めを果たす準備はできてますか?」ベレニスは生意気な目を向けて尋ねた。


クーパーウッドはベレニスのところまで歩いて行き、抱きしめた。


「もちろん、私にとってすべてが初めてのことですが、やってみます」


「まあ、いずれにせよ」ベレニスは言った。「私がお手伝いします。不動産屋に相談したところ、ウィンザーで会うそうです。その後で、すてきな小さな古い旅館を見つけてお茶にすればいいと思ったんですが」


「それでいこう! こちらではこう言うんですよね。でも、まずはお母さんに一声、挨拶しておきます」クーパーウッドはカーター夫人の部屋に急いだ。


「ねえ、ハッティ」クーパーウッドは夫人に挨拶した。「調子はどうですか? 古き良きイギリスで元気でやってますか?」


ベレニスの陽気さとは裏腹に、母親は落ち込んでいるだけでなく、少し疲れているように見えた。すべてがあっという間の出来事だった。上流の盤石な愚か者の楽園から、この富の冒険への華麗で派手な転落は、身の回りの装備がどれほど豊富であろうと、前途には危険が待ち伏せているのだから、恐怖だった。生きていくのは大変なことなのだ! 確かに、彼女は才能に恵まれたしっかりものの娘を育て上げた。しかし自分と同じ頑固者で手に負えなかった。だから、その娘の運命は正確に予測できなかった。クーパーウッドはこれまでずっと、そして今も、ものすごい知恵と財力でたっぷり自分たちを守ってくれたが、それでもカーター夫人は恐れていた。大衆の支持を公然と得ようとしているときに、しかもアイリーンを前面に押し立てているときに、自分たちをイギリスへ連れて来たという事実が、カーター夫人を困惑させた。ベレニスによれば、たとえ完全に受け入れられなかったとしても、この方針は必要だった。


しかし、この説明は夫人を完全には説得できなかった。夫人は生きてきて負けてしまった。夫人につきまとっていた亡霊は、ベレニスも負けてしまうという恐怖だった。何しろ、アイリーンがいて、クーパーウッドの移り気があり、誰のことも助けない、誰のことも許さない冷酷な世間があった。雰囲気にも、目にも、そしてリラックスした姿にも、これがすべて表れていた。ベレニスは知らなかったが、カーター夫人はまた飲むようになっていた。クーパーウッドが入る少し前にも、この特別な対面に備えて気合を入れようと、大きなグラスでブランデーを飲み干していた。


カーター夫人はクーパーウッドの挨拶に応えて言った。「ええ、イギリスなら、とっても気に入ってますよ。ベヴィったらここのすべてに夢中だわ。あなた方はコテージを見に出かけるつもりなのよね。もてなすつもりにしろ、もてなさないにしろ、二人が想定する人数が問題ね」


「あなたは私ではなく、ベヴィのことを言っているんだと思います。彼女は磁石みたいですね。でも、あなたは少し落ち込んでいるようですよ、ハッティ。どうかしたんですか?」クーパーウッドは怪訝そうに、同情しないでもなく相手を見た。「さあ、さあ、最初の数日で神経をすり減らさないでくださいよ! なあに、ちょっと大変なだけですって。大変な旅だったんで、疲れたんですよ」カーター夫人に近寄って、肩に優しく手をおいたところ、そのときにブランデーのにおいに気がついた。「ねえ、ハッティ」彼は言った。「あなたと私はお互い長年の知り合いです。私はいつだってベヴィに夢中でしたが、あの娘がシカゴの私のところへ来るまでは、いかなる形であれ傷がつくようなまねを一度もしなかったことはご存知でしょう。そうですよね、違いますか?」


「ええ、フランク、そうですとも」


「彼女を手に入れることはできないと感じたので私が望んだのは、何か事態が悪化しないうちに、社交界に入れて、結婚させ、あなたの手もとから離れてもらうことでした」


「ええ、わかってます」


「もちろん、シカゴで起きたことは私に責任がありますが、必ずしもそれが全てではありません。なぜなら私が彼女をとても必要としていたときに、彼女の方から私のところに来たのですから。さもなければ、あのときでも私は彼女を我慢したかもしれません。とにかく今、我々は沈むにせよ泳ぐにせよ、みんなで一緒の船に乗っています。あなたはここでの事業を絶望的だと見てますね。わかりますよ。私はそう見ていません。覚えておいてください、ベヴィは頭脳明晰で機知に富んだ娘です。それに、ここはアメリカではなくイギリスです。ここの国民は、アメリカでは夢にも思わなかった形で、知性と美貌に道をあけるのです。気を引き締めて自分の役目を果たすだけで、すべてがうまくいきますよ」


クーパーウッドはもう一度、カーター夫人の肩を軽く叩いて、目を覗き込み、自分の言葉の効果を確かめた。


「私が頑張ることは知っているでしょう、フランク」夫人は言った。


「でも、やってはいけないことが一つあるのですよ、ハッティ、それはお酒を飲むことです。自分の弱さをご存知でしょ。それに、もしベヴィがそれを知ったら、落胆させて、私たちがしようとしていることをすべてやめてしまうかもしれません」


「ああ、私、何でもするわ、フランク、何でもよ。私がしたことの埋め合わせをあの娘のためにできるものならね!」


「その調子ですよ!」クーパーウッドは励ましの笑みを浮かべて、夫人のもとを離れてベレニスのところへ行った。




  第二十七章



クーパーウッドは列車の中で母親の心配事についてベレニスと話し合った。ベレニスは、別に意味はない、急激な環境の変化に過ぎない、と保証した。ここで少し成功すれば、母親の調子は改善するだろう。


「もし問題がどこからか発生するとしたら、イギリス人ではなく、イギリス訪問中のアメリカ人からかもしれないわ」ベレニスは考え込むように言い添えた。その間に二人はしばらく周囲に気づかれないまま、すてきな景色を次々に通り越した。「もし避けられるのなら、私はこのロンドンで、アメリカ人への紹介やアメリカ人からの招待を受けたり、アメリカ人を接待したりするつもりはないわ」


「それは正しいですね、ベヴィ。そうするのが一番賢明です」


「母を怖がらせるのはその人たちです。知ってるでしょ、アメリカ人って何だかここの人たちのようなマナーも礼儀も寛容さもないのよね。私、ここだと落ち着くわ」


「あなたが好きなのは、彼らの古い文化と外交的な態度ですよ」クーパーウッドは言った。


「イギリス人は腹を割って話さないし、結論が出るまでに時間がかかります。我々アメリカ人は未開の大陸を手に入れて、ほんの少しの年月で開発しているというか開発しようとしています。ところが、ここの国民は千年もこの小さな島で働いてきたんです」


二人はウィンザーで不動産屋のウォーバートンに会った。不動産屋には案内するつもりの物件について言うことがたくさんあった。そこは本当に川でも最高の名所の一つだった。数年前の夏まで何年も、ステイン卿が住んでいた。


「お父上が亡くなられてからは」不動産屋は内緒で教えてくれた。「ほとんどトレガサルへ行ってしまいましたね。あちらが本領ですから。昨年はここを女優のコンスタンス・ハサウェイ様に貸しておられましたが、今年はブルターニュに行くのだそうで、ふさわしい入居者が見つかるようなら貸してもよい、とステイン卿が申されたのは、ほんの一、二か月前なんです」


「トレガサルには広い土地をお持ちなのですか?」クーパーウッドは尋ねた。


「最大規模の一つですね」不動産屋は答えた。「およそ五千エーカー。ステイン卿はめったに使いませんが、本当に美しい場所です」


その瞬間、面倒な考えがクーパーウッドの頭に浮かんだ。もう二度と嫉妬に駆られまいと自分に言い聞かせてはいたが、ベレニスが自分の人生に入り込んでからというもの、激痛を感じ始めているというのが事実だった。ベレニスはクーパーウッドが望むほとんど全てだった。こういう状況で、同じくらい頭脳明晰で機知に富んでいたなら、ベレニスは若い方の男性を好むのではないだろうか? もしベレニスがステインのような人に会って知り合うことになっていたら、彼女を手もとにとどめることは期待できただろうか? この考えが、クーパーウッドのベレニスとの関係に、以前には存在しなかった何かの色を注入した。


プライアーズ・コーブには、夢のような建築と造園の技術が使われていることが判明した。設備は最新だが百年以上の歴史があり、直線で約百フィートあった。高さ十八フィートを優に超える大きな木々のもとで、小道、生垣、花園、家庭菜園などの混合地に囲まれていた。その裏の、川に面した屋敷の南側には、絵のようなレスターシャー厩舎が二列に並び、風変わりな柵、門、繁殖地、巣箱があった。ウォーバートンの指摘したとおり、居住者が利用できる乗馬用と馬車用の馬、黒いミノルカ島産の鶏、牧羊犬、羊の群れがいて、すべてが庭師、馬丁、農民に世話されて、借り主は屋敷と一緒にこういう労働力も手に入れていた。


クーパーウッドもベレニスのように、その牧歌的な雰囲気に心惹かれた。ガラスのように滑らかなテムズ川がゆっくりと静かにロンドンに向かって流れていき、広大な芝生が川まで続いていた。はためくカーテンと籐椅子とテーブルを備えつけた明るい天幕を張ったハウスボートが波止場に停泊していた。クーパーウッドは、ハウスボートに通じている小道の真ん中に立つ日時計に思いを巡らせた。光陰矢のごとしだな! すっかり老人になってしまった。ベレニスが、この自分よりも若い男性に会おうとしている。しかもベレニスに興味を起こさせるかもしれない相手だ。数か月前にシカゴのクーパーウッドのところへ来たときベレニスは、自分のことは自分で決めます、ただ私がそうしたかったからあなたのところへ来ました、と言っていた。すると、ベレニスがもうクーパーウッドを望まなくなったときは離れてしまうのだ。当然、クーパーウッドはこの場所を借りる必要はないし、ステインと資本提携をする必要もない。相手は他にもいるし、他の方法もある。アビントン・スカーやエティンジ卿にも可能性はある。どうして負ける心配をするのだ? クーパーウッドは満ち足りた人生をおくってきたし、何が起ころうともそれを続けるだろう。


クーパーウッドは、ベレニスが大喜びしながらこの場所の美しさに感動していることに気がついた。クーパーウッドの気持ちも知らないで、ベレニスはすでにステイン卿に思いを巡らせていた。つい最近、父親のこの素晴らしい土地に入ったばかりと聞いていたので、それほど年をとっているはずはなかった。しかしベレニスは、ウォーバートンの説明にあった、この近くの社会的特徴にすっかり夢中だった。何しろすぐ近くには、王座裁判所のアーサー・ガーフィールド・ライアススリー・ゴール、〈全英タイル&パターン社〉のヘバーマン・カイプス卿、植民地事務局のランキィマン・メインズ閣下が、さまざまな他の大物の卿や小物の卿、爵位や紋章をもつ女侯たちと共に住居を構えていた。これにはクーパーウッドも同じように興味を持ち、ベレニスと母親はこれをどう思うだろうと考えた。ベレニスが指摘したとおり、ここでは春から夏にかけて、政界、行政、芸術界、社交界に属するロンドンの都会派のハウスパーティー、園遊会、地域親睦会が盛んで、正式に招待されれば昼も夜も充実するかもしれなかった。


「実際は」クーパーウッドはこの点について言った。「人が上に行くこともあれば沈むこともある環境ですね。どちらにしても、あっという間で運命次第ですが」


「全くだわ!」ベレニスは言った。「でも、その中で私は上に行こうと努力すべきね」


クーパーウッドはベレニスの楽天的で勇敢なところに改めて魅了された。


そして、生垣を調べに行っていた不動産屋が戻ってきた。クーパーウッドはさっそく話しかけた。


「ちょうどフレミングさんに勧めたところです」クーパーウッドは事前にベレニスに断りもなく言った。「本人と母親がいいのであれば、私はここの賃貸契約に同意します。必要な書類を私の事務弁護士に送ってください。単なる形式ですが、フレミングさんの後見人としての私の法律上の義務のひとつですのでね」


「承知いたしました、クーパーウッドさん」不動産屋は言った。「ですが、書類が整うまでに、数日かかります。来週の月曜か火曜までは無理でしょう。ステイン卿の代理人のベイリーさんがそれまで戻りませんので」


ステインが自分の賃貸の詳細にまでは首を突っ込まないとわかって、クーパーウッドは何だかうれしかった。いずれにせよ、これで当分、名前は取り沙汰されなくなるだろう。将来については、少し考えずにはいられなかった……




  第二十八章



シッペンスをガイドにした地下鉄巡りは、最初の行動として〈チャリングクロス鉄道〉の運営権を確保することが重要であるという自分の意見を確認してくれたので、クーパーウッドは今日の午前中、事務所でグリーヴズとヘンシャーに会うのを関心を抱いて楽しみにしていた。最初、率先して話をしたのはグリーヴズだった。


「我々は知りたいのですがね、クーパーウッドさん」グリーヴズは始めた。「我々が鉄道の建設に必要な費用を比例して引き上げることにしても、あなたは〈チャリングクロス鉄道〉の五十一パーセントの権利を取得するつもりがありますか」


「比例して?」クーパーウッドは尋ねた。「内容によりますね。鉄道の建設費が百万ポンドかかるとしたら、あなたは四十五万ポンドを出すと約束しますか?」


「まあ」グリーヴズは何だかためらいがちに言った。「我々の懐から直に出すわけではありません。資金の供出にあたっては、我々に参加してもいいという方々が多少はおります」


「私がニューヨークであなたに会ったときには、そのような方々がいるようには見えませんでしたね」クーパーウッドは言った。「あのときから私は、運営権と多少の借金しかない会社の五十一パーセントの権利では三万ポンドが上限だ、と決めています。権利だけで他に何も持っていないのに、こうして物乞いをしに来る会社がここには多すぎますね。私にだってそのくらいのことを調べる時間はありましたよ。この鉄道の四十九パーセントの建設費が、四十五万ポンドになる確かな保証をあなたがもって来ているのなら、私も関心を持つかもしれません。しかし、あなたは自分の四十九パーセントを引き上げることを見越して、ただ私が五十一パーセントを引き受けることに同意するのを待っているだけなので、そんな面倒は見られませんよ。本来、あなたには提供する権利しかありません。こうなってしまっては、完全支配か何もしないかの二択を問わねばなりませんね。これだけのことを始める膨大な資本を私が集められるようにするには、完全支配をするしかありません。あなた方二人以上にこのことをよく知る者は誰もいないはずです。したがって、あなた方が私の最終案……あなた方のオプション代の三万ポンドと、あなた方の建設請負契約の継承……を受け入れることではっきり方針を見出せないのであれば、私はこれ以上この問題を考えることはできません」


そして、クーパーウッドは腕時計を取り出した。この行動が、ここで今決断をしなかったら、この話は終わりだ、とグリーヴズとヘンシャー両名の疑心を強めた。二人はどうしようかと互いに顔を見合わせた。今度はヘンシャーが切り出した。


「我々があなたにこの完全な経営権を売却するとしてですが、クーパーウッドさん、あなたがすぐにこの鉄道の建設を進めるとどうやって保証するんですか? だって、妥当な期間内にこの工事を終わらせなければ、我々に何の得があるのかわかりませんからね」


「私もパートナーの考えに同感です」グリーヴズが言った。


「それに関しては」クーパーウッドは言った。「心配はご無用です。我々がどんな契約書を交わすことになろうと、署名後六か月以内に第一区画の鉄道建設費が提供されない場合、契約は失効するだけでなく、損害賠償としてあなた方に一万ポンドを支払うことに同意する、と私は必ず記入するつもりです。それならご満足ですか?」


二人の請負業者は再び見つめ合った。二人は、お金が関わるとクーパーウッドは抜け目なく冷酷だと聞いていたが、署名した契約は守る相手だとも聞いていた。


「それならば結構です! 十分に妥当な内容です。では、その他の区画はどうなのですか?」これはグリーヴズからの質問だった。


クーパーウッドは笑った。「実は、お二方、私は目下シカゴのすべての路面鉄道の三分の二を処分しているところなんです。私は過去二十年であの都市に、三十五マイルの高架鉄道と四十六マイルの電動スロット型交通網を建設してきました。そして七十五マイルにわたる郊外のトロリー線を建設し、今なお利益を出して経営しています。私はそのすべての大株主です。これらに関連して、投資家はこれまでこれっぽっちも損をしていません。儲けが出ていますし、今日に至るまで六パーセント以上の利益を出しています。それがまだ私のものなんです。処分しているのは儲からないからではありません……利益は出ているんです……私にとって腹立たしい限りですが、政治的、社会的な嫉妬のせいなんです。


さらに言うなら、私がこのロンドンの問題に悩んでいるのだってお金が必要だからではありません。あなた方が私のところへ来たのであって、私があなた方のところへ行ったのではないことを忘れてはいけませんね。ですが、そんなことは気にしないでください。別に自慢しているわけではないし、したいとも思いません。こういう追加していく区画なんですが、それぞれの区画の期限と金額なら契約書に盛り込めます。ただ、あなた方も経験からご存知にちがいありませんが、すべてが、こういう物事にいつも影響を及ぼしがちな自然な遅延や偶発的出来事の対象になるにちがいありません。重要な点は、私はあなた方のオプションのために現金を用意し、契約が求めるその後のすべてのことを実行するつもりでいることです」


「あなたの意見は?」グリーヴズはヘンシャーの方を向きながら尋ねた。「クーパーウッドさんとなら絶対にうまくいくと思います」


「いいでしょう」ヘンシャーは言った。「私は腹をくくった」


「この権利の譲渡の件は、どう取り扱うつもりですか?」クーパーウッドは尋ねた。「私の理解では、私に譲渡できるようにするには、〈交通電化会社〉とオプションのことで話をつけないとなりませんよね」


「そうですね」すでにこうなることを予期していたヘンシャーは答えた。もし今、二人が最初に〈交通電化会社〉と直接取引し、次にクーパーウッドと取引するとしたら、オプションを取得するための三万ポンドをどこかから確保しなければならないだけでなく、さらに一時的に少なくとも〈交通電化会社〉が義務の履行のために政府に預けたコンソル公債の名義変更をするのに六万ポンドを借りなければならなくなるのである。


総額九万ポンドは集めるのが簡単な金額ではなかったのでヘンシャーは、ジョンソンと〈交通電化会社〉の事務所へ出向いて、何が進行中なのかを説明した方がどれだけいいだろうかと考えた。それから、全取引にクーパーウッドの資金をあてて処理できるようにするために、クーパーウッドとグリーヴズと自分とに会うよう取締役たちに頼むつもりだった。この考えが気に入って、さっそくヘンシャーは言った。


「すべてをひとつの取り引きにしてしまえば、それが一番いいと思う」彼は理由ではなく方法を説明した。しかし、クーパーウッドは十分に理由を理解した。


「いいでしょう」彼は言った。「もしあなた方が取締役たちを調整してくれるのであれば私の準備はできています。数分ですべてをまとめられます。あなたは、自分のオプションを六万ポンドの国家供託金だかその分の証書と一緒に私の三万ポンドの小切手と引き換えに差し出せばいいですし、私は両方の分の小切手を一枚なり分けるなりしてお渡しするつもりです。我々が今やらなくてはならないことは、この詳細に関する仮契約書を作成することだけだと思います。そうすれば、あなた方はそれに署名できるでしょう」


そして、彼は秘書を呼び、その合意内容の要旨を口述した。


「さあ、お二方」署名が済むとクーパーウッドは言った。「我々はもはや交渉相手ではなく、我々全員が賛同できる結果に至る重大な事業の仲間なんだと感じたいですね。これからのあなた方の心からの協力へのお返しに、私も同じものでお応えすることを約束します」そしてクーパーウッドは両名ととても真心のこもった握手を交わした。


「それにしても」グリーヴズは述べた。「ずいぶん早くまとまりましたね」


クーパーウッドは微笑んだ。


「お国の言葉で言う『すばやい対応』という奴ですかね」ヘンシャーは付け加えた。


「関係者全員が良識を働かせた以外の何ものでもありませんよ」クーパーウッドは言った。「アメリカ風に言うなら、上出来だし、イギリス風に言っても、やはり上出来です! でも、これをやり遂げるにはアメリカ人一人とイギリス人二人が必要だったことを忘れないでください!」


クーパーウッドは二人が帰るとすぐにシッペンスを呼び寄せた。


「信じてもらえるかどうかわかりませんが、デ・ソタ」シッペンスが到着するとクーパーウッドは言った。「今しがた、あなたのために〈チャリングクロス鉄道〉を買いました」


「やりましたか!」シッペンスは叫んだ。「それはすごい!」すでに彼は自分をこの新しい鉄道を作るゼネラルマネージャーだと見ていた。


現にこの時点でクーパーウッドはシッペンスをそういう形で使おうと考えていた。その先ずっとではないにしても、少なくとも物事が動き出すまではそのつもりだった。シッペンスはおそらくいらいらしすぎるアメリカ人で、ロンドンの高度な金融界の人間とうまく渡り合うことはできない、とクーパーウッドは見ていた。


「そいつを見てください!」机から書類を一枚をひろい上げて話を続けた。仮のものだが、それでもグリーヴズ、ヘンシャー、クーパーウッドとの三者間では拘束力がある合意書だった。


シッペンスは、クーパーウッドが差し出した箱から長い金箔包みの葉巻を一本選んで、読み始めた。


「すごい!」読み終わると、葉巻を腕の長さいっぱいに伸ばしてびしっと言った。「シカゴ、ニューヨーク、そしてここの連中がこいつを読んだら、大騒ぎになりますね! 見ものだな! こっちで発表させたら世界中に広まりますね」


「私があなたに話したい用件の一つがそれなんだ、デ・ソタ。こういう発表が、しかもここに来た直後に……その影響が少し心配なんだ……帰国はしない……世間が驚こうが衝撃を受けようが構わない……だが、ここでの地下鉄の権利の価格への影響が気がかりでね。これが明らかになったら上昇するかもしれない、確実に上がるだろう」クーパーウッドはそこで話をやめた。「そして、特に一度の会席でテーブルの上をどれほどの大金が動くかを読んで知ったら。しかも小さな鉄道一社でだ。ざっと十万ポンドだからな……もちろん、私はその鉄道を作らなければならない、さもなければ約七万ポンドを失うんだ」


「そうですね、大将」シッペンスは納得した。


「これには馬鹿げたことがたくさんあるしな」考え込むようにして、クーパーウッドは続けた。「ここに、あなたと私がいる。我々は二人とも長年一緒にやってきて、今この仕事で駆け回っている。やるにせよ、やらないにせよ、我々二人には大して意味がないことかもしれない。何しろ、ここに長居するつもりはないからね、デ・ソタ、それに我々はどちらもお金が必要なわけではない」


「それでも、作りたいわけですね、大将!」


「まあね」クーパーウッドは言った。「どうせ我々は、少し食べて、少し飲んで、少し長く遊び回る以上のことはできないんだ。たかが知れている。私が驚いてるのは、我々がこれにこんなに興奮できるんだってことなんだ。あなたも少しは自分に驚きませんか?」


「まあ、私が大将のことを言うのもなんですが、大将は偉大な方だ。大将ならすることも、しないことも大事なことなんです。私はこのすべてを、これをやるために私がここにいるある種のゲームなんだと考えています。以前は今よりもすべてを重要に感じたものです。多分、そのとき私は正しかったんです。だって、もし忙しくして自分のためにたくさんのことをしてこなかったら、人生は私からすり抜けて、自分がなし得たたくさんのことをできなかったでしょうから。そして、私が思うに、それが答えなんです。ずっと何かをしてるってことが。ゲームは始まりました。好むと好まざるとにかかわらず、我々は自分の役割を果たさなくてはなりません」


「そうですね」クーパーウッドは言った。「この鉄道が予定どおり建設されることになれば、すぐにやることがたくさんできますからね」


そしてクーパーウッドは小柄で活気のある友人の背中を景気良く叩いた。


ベレニスにとって、この〈チャリングクロス鉄道〉取得というクーパーウッドの発表は、お祝いすべき出来事だった。そもそも、このロンドンでの事業を最初に提案したのは自分ではなかったか? そして今、ついに自分はここに来て、昔はぼんやりと想像するだけだった物事からなる偉大な世界の一部になっていることに気がついていた。ベレニスはクーパーウッドが得意になっているのを察知して、その出来事とお互いに乾杯しようとワインのボトルを持ち出した。


会話のある時点で、ベレニスは茶目っ気たっぷりで尋ねずにいられなかった。「ひょっとして、あなた、あなたの、私たちのステイン卿にはお会いした?」


「私たちの?」クーパーウッドは笑った。「本当はあなたのステイン卿と言いたいんじゃありませんか?」


「私のものであり、あなたのものであるわ」ベレニスは反論した。「だって、私たちの両方を助けることができるんでしょ?」


大したものだ! と、クーパーウッドは考えた。この小娘の大胆さと強がりときたら! 


「確かにね」クーパーウッドは諦めたように言った。「まだ、会ったことはありません。しかし、彼が重要であることは認めます。現に私は彼が大きく影響するかもしれないと期待しています。しかし、ステインがいようがステインがいまいが、私はこの計画を進めるつもりです」


「そして、ステインがいようがステインがいまいが、あなたは自分のやりたいことをやり遂げるわ」ベレニスは言った。「そんなことあなたは知ってるわね、私もだけど。あなたは誰も必要ないのよ、私でさえもね」ベレニスは近寄って、クーパーウッドの手を取った。




  第二十九章



この買収がロンドンでの今後の活動に与える影響を考えてうれしくなったクーパーウッドはアイリーンの機嫌をとりに行くことにした。トリファーからは音沙汰がなかったので、自分が関わらずにこの方向でこの先どんな行動がとれるかを真剣に考えていた。


自分の部屋の隣にあるアイリーンの部屋に向かう間に、アイリーンの笑い声がした。中に入ると、ロンドンの店から来た女性の店員とお針子たちに周りを囲まれて、アイリーンが縦長の鏡の前に立っているのを見つけた。メイドがガウンを直す間に、アイリーンは見映えを確かめていた。部屋には包紙、箱、タグ、ドレスが散乱していた。着ているドレスは実にすばらしくて、いつもの着ているものよりもセンスがいいことに気がついた。口に針をくわえた二人のお針子が膝をついてテキパキと調整していた。その一方で、とても魅力的でしゃれた服装の女性がその二人に指示を与えていた。


「おや、おや」クーパーウッドは入りしなに言った。「もしいやでなかったら、観客を演じても構わないんだが、少し邪魔者という気がするな」


「入ってよ、フランク」アイリーンが声をかけた。「ちょうどイブニングドレスを試着しているところなの。もうそんなにかからないわ。こちら、主人です」アイリーンが集まったグループに紹介すると、一同はうやうやしくお辞儀をした。


「うーん、淡い灰色が一番似合っていると言うしかないね」クーパーウッドは言った。「それだと髪が映える。きみほどにそれを着こなせる女性はそうそういないな。でも本当に立ち寄ったのは、しばらくロンドンに逗留することになりそうだと言うためだったんだ」


「本当?」アイリーンはクーパーウッドを見ようと少し頭を曲げながら尋ねた。


「きみに話してあった仕事がある程度片付いたんでね。細かい部分を除けばすべてけりがついた。きみが知りたいかと思ってね」


「まあ、フランク、すてきじゃない!」アイリーンは喜んだ。


「もうこれからはきみにかまってはいられなくなる。やることがたくさんできたからね」


「それより」アイリーンは言った。夫が逃げたがっているのを感じとり自分のことで安心させてやりたくなった。「トリファーさんが電話をくれたわ。戻ってきてディナーに来てくれるのよ。あなたはお仕事の都合があるから、私たちとは一緒に食事はできないかもしれないと説明しておきました。きっと、わかってくださると思うわ」


「それは少し難しいな」クーパーウッドは言った。「しかし、そうなるように最善を尽くすよ」……この発言をアイリーンは価値あるものだと受け止めた。全然なかったのに。


「わかったわ、フランク」アイリーンが言うと、クーパーウッドはお別れに手を降って部屋を出た。


もしそうだとしても明日まで再び会うことはないとわかっていた。しかし、あることがこのいつもの無関心な態度をアイリーンにあまり強く感じさせなかった。アイリーンとの電話の会話の中でトリファーは自分の怠慢を謝罪し、フランスには来ますかとしきりに尋ねた。アイリーンは、女性に親切にしたがる男性にばかり自分が気に入られることに困惑した。一体、どういう理由で、彼はこうも自分に関心を寄せるのだろう? お金に違いない。それにしても、何て魅力的なのかしら! 動機はともかく、トリファーが気にかけてくれるのはとてもうれしかった。


しかし、トリファーがアイリーンをフランスに来させたかった主な理由は……ロンドンからアイリーンを追いはらいたかったクーパーウッドの願いとたまたま一致したが……トリファー自身がパリの魅力に太刀打ちできない犠牲者の一人だったからだ。その当時、自動車が一般に普及する前、パリはその後の時代よりも、裕福なアメリカ人、イギリス人、ブラジル人、ロシア人、ギリシア人、イタリア人……世界中の国から来た人々……行楽客とか、華やかな店、すてきな花屋、夏場店先に椅子やテーブルを並べるたくさんのカフェ、派手なキャバレー、森の盛大なパレード、オートゥイユの競馬、ギャンブル、オペラ、劇場、裏の社会などを体験に来た人々など……が休日を楽しむ中心地だった。


リッツという国際的なホテルが登場した。また、グルメのレストランもあった。カフェ・ド・ラ・ペ、ヴォワザン、マルグリィ、ジルーなどがそうで他にも六軒あった。一文無しの詩人、芸術家、ロマンス作家向けには、カルチェ・ラタンがあった。雨、雪、春らしい日々、秋めいた日々、輝く太陽の光、灰色の空は、あらゆる敏感で創作意欲旺盛な気質に、成功への影響を及ぼすという点では似ていた。パリは歌った。そして、若者、昔を振り返る老人、野心、富、敗北や絶望さえもが、パリと一緒になって歌った。


人生の最初の頃、トリファーは金まわりがよくて、目の前にきらびやかなプレイボーイの暮らしがあったことを忘れてはならない。立派な服を着ることができ、まともな住所があり……その時はリッツだった……一流のおしゃれな場所へ駆けつけて、ロビーを見渡し、バーに立ち寄り、友人知人に挨拶できることはとても楽しかった。


ある日曜日の午後、森で、トリファーはかつての恋人に偶然出くわした。昔はフィラデルフィアのマリゴールド・シューメイカー、今はバーハーバーとロングアイランドのブレイナード家のシドニー・ブレイナード夫人である。一時期はトリファーに夢中だったが彼が貧しかったので、お金が無尽蔵に思えたブレイナードのためにトリファーを捨てたのだ。夫人はニース沖に停泊中のヨットを所有していた。完璧に着飾り、いかにも冒険家らしい雰囲気がいっぱいのトリファーの姿は、自分の刺激的でロマンチックなデビュー時代を夫人に思い出させるのに十分だった。夫人は心からトリファーを歓迎し、エスコート役に紹介して、パリの住所を伝えた。トリファーは他の人たちを通してそうだったように、アイリーンを通して、少なくとも長いこと自分に対して閉ざされていたドアのいくつかが開く光景を見た。


しかし、これはアイリーンのおかげだった。また別のことだった。自分のためになることをやりながら、アイリーンを楽しませるには最高の技術が必要になりそうだった。上流階級の大物らしく見せかけられそうな小物を探さなくてはならなかった。すぐにトリファーはいろいろなホテルの宿泊者名簿を調べて、知り合いの女優、ミュージシャン、歌手、ダンサーの名前がないか調べた。楽しいことを保証すると引き受けてもらえた。アイリーンがパリに来たらすぐに娯楽を提供できると確信しながら、今の服の着こなしは満足とは程遠いと思ったので、一流のドレスメーカーたちを自分で訪ねてまわってこの悩みを解消した。言葉巧みなアドバイスがあればこれは改善され、同時に彼女を友人に紹介するときの負担も軽減できると信じた。


トリファーの最も期待できるパリの人脈の一つは、シカゴの知人がビクター・レオン・サビナルというアルゼンチン人に紹介したときにできあがった。祖国では名門の家柄の裕福なこの青年は、お金と手紙と、すぐにこの国際的都市の社交界に入れるようにしてくれた人脈を持って、数年前にパリに到着した。それにもかかわらず彼は自分を放蕩三昧にふけらせた気質のせいで南米の両親の忍耐を枯渇させてしまった。息子に羽目を外させないために両親は突然その後の仕送りを打ち切った。これで彼はトリファーの場合と同じように、借金やごまかしをするようになり、最終的には以前からの友人や保守的な友人の扉を閉ざしてしまった。


しかし、彼の両親がものすごく裕福であることと、我が子を罰した考えを将来改める可能性がきっとあることを、友人は誰も忘れなかった。言い換えるなら、彼はまだ金持ちになるかもしれない。もしそうなら、友人でいれば忘れられることはないかもしれない。だから陽気でいろいろな才能に恵まれた取り巻きが残った。芸術家、軍人、各国の放蕩者、富を追求し楽しみを探索するタイプの魅力的な男女が残った。実際、ちょうどこの時彼は、フランスの警察や政治家と取り引きして、店を開くことを許されていた。実際、後援者であり親密でもある大勢の友人にとっては、魅力的で、気晴らしになる、便利な場所だった。


サビナルは背が高く、細身で、色が黒く、その細長い血色の悪い顔と、目立つほど高い額のせいで、全体的な雰囲気が悪人ぽかった。黒くて光沢のある目の片方は、まるでガラスでできているかのように、まん丸でぱっちりして見えるが、もう片方はそれよりも小さくて細く、垂れたまぶたで部分的に隠れていた。薄い上唇と、不思議なほど突き出ているのに魅力的な下唇をしていて、歯並びがよく、丈夫で、輝くほど白かった。細長い両手と両足は、細長い体に似て、しなやかで張りがあった。しかし全体的には、狡猾で、優雅な人だが、あまり気を許せるような魅力ではなかった。前を横切る者は誰であれ、自分の身辺に気をつける覚悟をしなければならない、と全身で示唆しているようだった。


ルー・ピガルにある彼の店は決して門を閉ざすことはなく、お茶に来た人は大体朝食まで残っていた。小さなエレベーターでたどり着く広い三階の一画はカジノだった。二階の一室は小さなバーで、サビナルの故郷から来たかなり有能なバーテンが一人いるが、必要に迫られて時々二、三人、助っ人を使うこともあった。一階には、手荷物室、ラウンジ、キッチンの他に、名画のギャラリーや面白そうな書庫があった。品揃えの充実したワインセラーもあった。ランチ、お茶、本格的なディナーから形式ばらないディナー、朝食まで提供してくれて、ささやかなチップ以外何の対価もないシェフは、別のアルゼンチン人だった。


トリファーはサビナルに会ってすぐに、自分は自分と同じ仲間だがはるかに大きな力を持つ人の前にいることに気がついた。トリファーは喜んで招待を受けて彼の店を訪問した。そこで、フランスの銀行家や議員、ロシアの大公、南米の大富豪、ギリシアのギャンブラー、その他大勢の、とても気になるさまざまな人たちに出会った。すぐにトリファーは、ここなら自分が世界的な重要人物に会っているという印象をアイリーンに与えずにはおかない交流をうまく作り出せると感じた。


ロンドンに到着したとき、トリファーを得意にさせていたのは、このアイデアだった。アイリーンに電話をかけた後、ヨーロッパの夏に合わせて自分の身なりをきちんと整え、ボンド・ストリートでその日の大半を過ごしてからアイリーンのホテルに向かった。今はまだ愛情を示す素振りはしないことに決めた。アイリーンその人のことを気に入ってしまい、見返りを求めずに、こうでもしなかったら彼女では手の届かない社交の機会を提供したがっている、損得を考えない友人の役を演じるつもりだった。


アイリーンはいつもの挨拶の前置きに続いて、さっそくハドンフィールド卿の領地を訪問した話を始めた。


「ハドンフィールド……ええと、ああ、覚えてますよ」トリファーは言った。「数年前は合衆国にいましたね。確かニューポートだったかサウサンプトンでばったり会いましたよ。実に愉快な人です。賢い人が好きなんですよ」


実は、トリファーはハドンフィールドに会ったことがなかった。しかし、人づてに聞いて彼のことは知っていた。そして、すぐにパリ滞在中の出来事を話し始め、今日はロンドンでレッシング夫人とランチをとったと付け加えた。アイリーンは今朝、新聞で夫人の社交的な行動について読んでいた。


このすべてがうれしかったが、アイリーンにはトリファーの自分への関心が未だに解せないようだった。トリファーがアイリーンから何かの社会的な利益を期待するというのは、明らかにありえなかった。フランクから何かを得ようと期待しているに違いなかった。アイリーンは困惑したが、アイリーンのダンスの相手の報酬がクーパーウッドから出るとしても微々たるものであろうことも確かだった。彼はそういう人ではなかった。だからアイリーンは当然疑ったが、たとえためらいがあったとしても、トリファーは人として本当に自分に惹かれている、と考えざるを得なかった。


二人はその晩プリンスで一緒に食事をした。トリファーは、アイリーンが願えさえすればかなうかもしれない娯楽について好奇心を刺激しながら説明して楽しませた。パリを絶賛した。


「いかがでしょう……そんなにご主人がお忙しいのでしたら……あなただけでも行ってみるというのは?」トリファーは提案した。「やることだって、見るものだって、買い物だって、面白いことはたくさんありますからね。こんなに陽気なパリは見たことがありません」


「あたしだってとっても行きたいわ」アイリーンは認めた。「だって、本当にしたい買い物があるんですもの。でもね、夫が一緒に行けるかどうか、あたしにはわからないのよ」


トリファーはこの最後のセリフを少し面白がったが、無慈悲に面白かったのではなかった。


「どんなにお忙しいご主人でも、奥さんパリで買物をするなら二週間はくれると思いますよ」トリファーは言った。


アイリーンはさっそくこの新しく見つけた友人の入れ知恵を試したくて声を大にした。「あたしがどうする気か教えてあげるわ! 明日フランクに聞いて、あなたに知らせるわ」


ディナーの後で、セシリア・グラントのアパートで行われる形式張らない定例の『火曜日の夜会』を訪れた。セシリアは人気のレヴューに出演している女優で、ついでに言うと、ロンドンでものすごい個人的魅力と人気を誇るフランス人、エチエンヌ・ル・バー伯爵の愛人だった。トリファーは、セシリアのドアをノックすれば、アイリーンと自分が歓迎されることを知っていた。そして、二人がそこで出会った人々は……風変わりな伯爵夫人、つまりイギリス貴族の奥方を含めて……アイリーンには紛れもなく大物に見えた。トリファーの動機が何であれ、彼の人脈は自分のより、いや、クーパーウッドのよりもはるかにすごいとアイリーンに確信させた。このとき、口にこそ出さなかったが、アイリーンはパリへ行く決心をした。




  第三十章



当然、グリーヴズとヘンシャーは、クーパーウッドと自分たちの交渉の詳細をすぐジョンソンに報告した。ジョンソンとステインと〈交通電化会社〉関係者のほとんどは、ロンドンの他の地下鉄にも関心をもっていた。彼らの好意は、エンジニアとしてのグリーヴズとヘンシャーには貴重だった。二人は倫理的にも技術的にも、自分たちがちゃんと権利を持っていることに満足だった。要するに、まず自分たちの好きなようにできるオプションを自分たちが持っている。次に、買戻しを申し出るまでしばらく猶予を求めたジョンソン直々の要請には、実際には同意しておらず、検討した上で知らせる、と言っただけだった。二人はジャーキンスがジョンソンを訪問したことを知らなかった。ジョンソンは今、どういうわけで二人が自分に会いに来ているのか少し興味があった。


話の最初の数分でジョンソンは、クーパーウッドとの話し合いが提案されたことで、可能性の一番いい部分が消えてしまった、と感じていた。しかし次第に、彼らが提案した、会ってみる案について、もっと前向きに考える気にさせられた。要するに、一度の会合で、このアメリカ人は三万ポンド以上の支払いと、コンソル公債六万ポンド分の利息を引き受ける用意があるだけでなく、一年以内に建設に着手しなければまったく返還されない一万ポンドの手付金を払うことまで同意した事実は、ジョンソンを魅了するのに十分だった。おそらく、この〈チャリングクロス鉄道〉の問題は細部に過ぎず、ジャーキンスが言ったように、クーパーウッドの主な関心は地下鉄統合というもっと大きな局面にあるのは確かだった。だとしたら他の連中が取り込まれないうちに、ジョンソンとステインを含む何か全体的な計画が立てられてもいいのではないだろうか? 明らかにジョンソンとステインがクーパーウッドに会うことは依然として重要だった。まあ、おそらくそれは〈チャリングクロス鉄道〉の譲渡に関する最終交渉に関連してジョンソンがそこに出席するであろう、クーパーウッドの事務所での話し合いの席で決めればいいことだった。


会合の日の十一時三十分、クーパーウッドの事務所にクーパーウッドとシッペンスの姿があった。シッペンスは行ったり来たりしながら、彼の大将が耳を貸す気になれそうな発言をしていた。しかし、クーパーウッド自身は奇妙にも考え込んでいた。今振り返ってみても、行動は迅速だった。いつもの自分よりも早かった。それに、ここは異国の地であり、やり方も雰囲気もクーパーウッドには全然馴染みがなかった。実際のところ、権利を買いはしたが再び売ることができないわけではなかった。その一方で、彼には、ある種の不幸がこの問題全体を貫いているように思えた。せっかくこのオプションを買っても、それを失効させたら、それこそ勇気も方策もなかったのに試しに乗り出したように見えるだろう。


しかし、今、ジャーキンスとクローファインが到着した。二人はこの問題における自分たちの役割を十分に自覚し、彼らへの義務がおろそかにされないことをクーパーウッドに保証されていた。そして二人のすぐ後から、シッペンスの秘書のデントンと、シッペンスの調査チームのメンバーのオスターデがやって来た。その後に、クーパーウッドの〈シカゴ・ユニオン交通〉の社長に就任したシッペンスの後任のキトレッジが来た。彼はシカゴの問題をクーパーウッドと話し合うためにそこにいた。最後はオリバー・ブリストル、若いが極めて警戒心の強いクーパーウッドの法務部のメンバーで、現在のイギリスの手続きについての情報を仕入れるために派遣されていた。もう最初の仕事にかかる準備はできていた。しかし、この時、クーパーウッドが自分の部下に求めた大きな役割は……取引に立ち会うことの他に……このイギリスの紳士たちに印象を与えるために、部下を自分の特色や背景として職責を果たしてもらうことだった。


ついに、十二時ちょうどにグリーヴズとヘンシャーが、〈交通電化会社〉のジョンソン、ライダー、カルソープ、デラフィールドを伴ってやって来た。カルソープが社長で、ライダーは副社長で、ジョンソンは事務弁護士だった。そしてついに、机の後ろに座って左右に弁護士と助手の全員に付き添われた偉人本人の前にやって来たとき、彼を見て全員が少なからず感銘を受けた。


クーパーウッドは立ち上がって、グリーヴズとヘンシャーにとても丁寧に挨拶した。すると、今度は二人がジャーキンスとシッペンスの助けを借りて各グループのメンバーを紹介した。しかし、クーパーウッドとシッペンスの両方の注意を引いたのはジョンソンだった。クーパーウッドは彼の人脈を思い、シッペンスはひと目でライバルだと感じた。この男の権威を笠に着た態度といい、まるで昆虫を調べている科学者のように、咳払いをしてじろじろ見回す偉そうな態度は、シッペンスを激怒させた。そして、話を切り出したのは、ジョンソンだった。


「さて、クーパーウッドさん、そしてみなさん」ジョンソンは始めた。「我々は全員、ここで起ころうとしていることの本質を完全に理解していることと思います。したがって、始まるのが早ければ、それだけ終わるのも早くなります」


(「ほお、そうかい!」シッペンスは独り言を言った。)


「ええ、いいお考えです」クーパーウッドは言った。そして、ボタンを押して、ジェーミソンに業務用の小切手帳と仮契約書を持ってくるように命じた。


今度はジョンソンが、四角い革鞄……彼の後をついて回る事務員に持ち運ばれたもの……から、〈交通電化会社〉の帳簿数冊、公印、議会承認証書を取り出してすべてをクーパーウッドの机に置いた。クーパーウッドはブリストルとキトレッジを脇に従えてそれらを調べ始めた。


いろいろな約束、決定、支出額の確認を終えると、グリーヴズは買う対象のオプションを出した。会社は役員を通じて、その効力を証明した。デラフィールドは〈交通電化会社〉の秘書兼財務責任者として、鉄道を建設する権利を成立させている議会承認の写しを出した。そこへ、〈ロンドン州銀行〉のブランデッシュが、現時点では自分の銀行にあってフランク・アルガーノン・クーパーウッドに渡す英国コンソル公債六万ポンドの預金証書を持参して到着した。銀行は、その金額を記載した小切手と引き換えにこれを相手に引き渡すのである。


それから、クーパーウッドは署名を済ませ、それまでに〈交通電化会社〉に裏書きされていた三万ポンドの小切手をグリーヴズとヘンシャーに渡した。同社は役員を通じて、クーパーウッドにこれを裏書した。それをうけてクーパーウッドは六万ポンドの小切手を書き、それと引き換えに〈ロンドン州銀行〉からコンソル公債の所有権を法的に承認してもらった。これが済むと、クーパーウッドは正式に署名されて保証された一年間の交渉不能の契約書をクリーヴズに渡した。こんな短いやりとりでは説明しづらい興奮に包まれて、会合は終了した。


これを説明できるのは、クーパーウッドの個性とその場にいる全員に及んだ影響だった。たとえば、〈交通電化会社〉の社長で、金髪のがっしりした五十歳の男性のカルソープは、ロンドンの鉄道会社を運営しようとしているアメリカ人に偏見をたっぷり抱いてやって来ていた。それでも、彼がクーパーウッドの活気に富んだ早業に感銘を受けたのは明白だった。ライダーはクーパーウッドの服装を観察して、美しくはめ込まれた翡翠のカフスボタンと、暗褐色の靴と、見事な仕立ての砂色のスーツに注目した。明らかにアメリカは新しい他とは違うタイプを生み出していた。その気になれば、ロンドンの問題で大きな力になれる男がここにいた。


ジョンソンは、クーパーウッドは抜け目なく、気持ちいいほどの狡猾さで、この問題を処理したと思った。この男は冷酷だったが、人生の混沌とした利害と対立が求めたひとつの形だった。クーパーウッドが近づいてきたとき、ジョンソンは帰ろうとしていた。


「聞くところによると、ジョンソンさん、あなたは個人的にこの地下鉄の問題に関心をお持ちですね」クーパーウッドは心から微笑みかけて言った。


「ええ、ある程度は」ジョンソンは礼儀正しく、それでも慎重に答えた。


「私の弁護団が教えてくれました」クーパーウッドは続けた。「あなたはこの国の鉄道の運営権分野では、なかなかの専門家なんですね。まあ、他所では私はベテランですが、ここだと私にとってすべてが新しい領域なんです。お差し支えなければ、もっとお話ししたいことがあります。私のホテルか、あるいはどこか邪魔の入らなそうなところで、ランチかディナーでもいかがですか」


翌週の火曜日の夕方にブラウンズ・ホテルで、と話がまとまった。


全員が立ち去った後で、シッペンスと二人っきりになると、クーパーウッドは彼の方を向いて言った。


「さあ、あなたの出番だ、デ・ソタ! 問題をたくさん買い込みましたよ。それにしても、あのイギリス人たちをどう思いますか?」


「まあ、仲間内で取り引きする分にはあれでいいんでしょうね」シッペンスは言った。ジョンソンの態度に未だに怒りがおさまらずにいた。「あいつらに気を許さずに済む日なんか来ませんよ、大将。大将を確実に支えるのは、大将が鍛え上げた部下なんです」


「そのとおりだと思うよ、デ・ソタ」シッペンスの胸の内を察しながら、クーパーウッドは言った。「しかし、すべてをスムーズに正しく運ぶには、こっちの連中をある程度加えなくて済むとは思わない。すぐに彼らが我々の味方になるような過度な期待はできない。それはわかりますね」


「心得てますが、大将、不意打ちをされずにすむだけのアメリカ人の数をそろえることは必要ですよ!」


しかし、クーパーウッドの頭の中では、おそらく必要となるのは、ジョンソン、グリーヴズ、ヘンシャーのような誠実で熱心なイギリス人と、こっちを注意深く観察していたが何も言わなかったおとなしいライダーあたりだろう、という考えが回転していた。急速な展開が続いていくうちに、長年にわたるアメリカの人脈も多少は価値を失うかもしれない。どんな重大局面でも保身を正当化するのに足りるものは、感情からは生まれないことをクーパーウッドは知りすぎるほど知っていた。もし人生が彼に何かを教えたことがあったとすれば、これを教えていた。そしてクーパーウッドは、最も容赦なく残酷でそれでいて建設的な教師に背を向ける人物ではなかった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ