モスクワの異変
【ロシア連邦 モスクワ市 クレムリン宮殿 地下司令部 】
サミットが一時中断したのでイェスカ大統領はマカロフ補佐官、タイガ、ポピガイと共に地下司令部の片隅で紅茶を楽しんでいた。
ウラル地方で採れたコケモモのジャムを口に含みながら紅茶を飲むと、イェスカは嘆息してタイガとポピガイに向かって謝罪した。
「つい、余計な事を言ってしまった。お客人方、すまない」
「よいのじゃ。気にしておらん。ワシらのしたことは決して褒められた事ではないからの」
タイガがニコリと笑う。
「しかし、今の人類は昔の人類に比べ総合的な技術では発展しているが、精神・肉体では脆弱な個体が多すぎる」
ポピガイがムスッと不満そうに言う。
「弱いからこそ、人類は団結して困難に立ち向かうのだ。それが悪い事だとは思わんがね」
イェスカ大統領がポピガイに反論する。
「KGBとGRU傘下の研究機関が上げてきた、植人についての報告書は実に驚くべき内容だ」
「我が国に居る3000万人もの植人は、パンを必要としないし、ウォッカも飲まない。
水と明かりが有れば、光合成で栄養分を賄える。おまけに思念波と言ったか、それでバリアーや近距離の物を動かせるらしいではないか。実に理想的な『国民』だと思わんかね?」
「我々が植人の能力を自らの遺伝子に組み込んで、新しい能力を持つ人類が生まれるかも知れんのだ。
多少の嫌味を''訪問者''から受けようが、我らは頭を冷して人類全体で試練に取り組むべきだろう」
イェスカ大統領がやや早口で捲し立てる。
「散々我々を経済制裁で痛めつけたあげく、中東の同盟国までイスラエルを使って破壊するような『西側』の奴らと何の見返りも無しに手を組まれるのですか?」
マカロフ大統領補佐官が疑問の声を上げる。
「見返りに何を求めると言うのかね?ミーシャ。
今更領土など増やしたところで、減った人口で統治するには荷が重い。むしろウラル地方や、シベリア・極東方面に植人と資材を投入すべきだろう」
イェスカ大統領が冷やかにマカロフを見つめて言った。
「では、日本とドイツを脅して必要な資本と資材を調達しましょう。我が国の生産力は西側の制裁と異常事態で、社会を支える最低限度レベルにまで落ち込んでいます」
「G8と言っても所詮は奴等にリードを許し、広大な我が祖国を欲しいままに蹂躙されてしまうのでは?」
明確にG8を否定するマカロフ大統領補佐官。
「我々はドイツから東側を領土とし、EUとして栄えた国々から『少しだけ』富を共有するだけで良いのです。
そしてアゼルバイジャンからトルコのボスポラス海峡までを祖国の安全地帯として確保するのです。
極東は日本の北海道に我が軍を進駐させて、資源豊富なオホーツク海沿岸の開発を日本から供出させる資金で行えば良いのです」
「そうして我らは新たな社会主義経済を築いて生き残った人民を豊かにすることが出来るのです」
どこか熱に浮かされたような顔でマカロフが熱く語る。
そんな彼をイェスカ大統領は、無表情で目を細めて見つめる。
「同志マカロフ」
イェスカ大統領は長年の盟友に思わず昔の呼称で語りかける。
「今更国民が共産主義を求めるとでも思っているのかね。
一度自由を覚えた国民はついて行かんぞ?それに領土の割譲や資本の供出を軍事力で求めるなぞ冷戦時代に、いや、第三次世界大戦でも起こすつもりか?」
「それは狂気の沙汰だ。祖国を破滅に導く事は指導者として認めるわけにはいかん」
イェスカ大統領が苦渋の面持ちで、懐から拳銃を取りだそうとした。
その瞬間、イェスカの身体はゼリーのようにドロリと溶解した。
「指導者として許されざる行いをしているのはあなたの方です。同志イェスカ」
足下に拡がったリンパ液の水溜まりをクシャッと踏みつけてマカロフは冷やかに言った。
「同志ポピガイ。ご助力に感謝します」
マカロフは背後からイェスカに触れて溶解させたポピガイに礼を述べる。
「何を考えている、お前達は…」
タイガは身動きもせず、冷や汗を流しながらそう言うのが精一杯だった。
身体全体がポピガイから発せられる強力な思念波で動きを封じられ、ギシギシと軋みを立てている。
3500万年を経たポピガイと、僅か数百年のタイガでは思念の力量では大人と子供程の開きがある。
永遠に近い寿命を持つ鉱物知性体と言えども粉々に粉砕されては思念も霧散して、自我を失ってしまう。
「……私はまだ何もしていない」
タイガは自身の非力を嘆いた。
瞬間、タイガの身体が粉塵爆発のように紅蓮の炎を噴き上げて消滅した。
爆発の炎はポピガイのシールドで閉じ込められ、司令部の中に広がる事は無かった。
凍りついたように持ち場で固まっている司令部将校達と平然としているポピガイにマカロフは言った。
「さあ、同志諸君。私達の仕事を始めよう」
サミット中断中に打ち合わせをしていた各国シェルパ達モニターが1つ、唐突に1つだけフッと消える。
異常に気付いたイギリスのシェルパがモスクワのホットラインに繋ごうとしたが、沈黙したモニターが再起動する事は無かった。
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