第一話 「兄と妹」
それから緑間達は元来た道を車で戻り、藤黄家へと帰った。
道中はやはり静かであったが、かといってぎくしゃくとしていたわけでもなく、もう一泊泊まっていってほしいという赤崎祖父母の要望から、緑間(と赤崎)はもう一日、こっちに滞在することになった。
せっかく時間に余裕もできたことだし、緑間としては赤崎の過去やその他諸々についていくつか聞きたいと思っていたのだが、それは自分がするべきことではないかもしれないと思い留まり、結局核心的な部分には触れず、何も知らなかった昨日と同じように振舞った。
が、藤黄家(というか、この田舎町)に着いてすぐ疑問に思ったことが一つだけあり、どうしてもそれは解消したかったので、夕飯の際に緑間は訊ねてみた。
「そういえばずっと思っていたんですけど、なんでこんな古い家…というか、田舎に住んでいるんですか?衛さんって確か」
「昔の肩書きじゃよ、それは」
大きな財閥の社長さんでしたよね、と続けようと思っていたのだが、衛がそれを遮るように言い捨てた。その物言いになみなみならぬ気色を感じ取り、緑間は窺うような形で衛を見る。
なんというか、先ほどの温厚な雰囲気とは一転して、とても不機嫌そうな顔をしていた。まるで、思い出したくないものでも思い出したような、そんな顔だ。
(え、俺、なんか言った?)
気に障るようなことを言ってしまったのだろうかと、途端に慌て始める緑間であったが、それに気がついた遥が「ちょっと、おじいちゃん」と衛の体を肘でつついた。顔が怖いよ、と呆れ顔で彼女が言う。
「あ…ああ、すまんすまん。ついな」
「えっと…なんかすみません。軽はずみな気持ちで聞いてしまって」
そう謝ると、衛がゆっくりと首を横に振った。どこかやるせなさそうに、「お前さんは悪くない」と言う。
「会社が息子に乗っ取られてしまってね」
「え…」
まるで予想もしていなかったその言葉に、緑間は目を見張る。知らなくてもいいことは、知らないままにしておいた方がいいこともあるんだよ。そんな風に、すぐ隣りで赤崎が言った。
わからないと言っていたくせに、どうやらこの幼なじみは全てわかっていた上で緑間に対し、“わからない”などと言っていたようだ。
緑間は、軽はずみな気持ちで聞いてしまったことを本格的に後悔し始める。
「まさか“翔”があんなことをするとは、思っていなくてな。全く、恩を仇で返すというか、なんというか。ふてぶてしく育ってくれたものだ」
横槍を入れるようで申し訳ないが、環と衛の間には子供が三人いる。まずは長女の奏。次に次女の結。そして、長男でありながら末っ子にあたる、今しがた名前のあがった翔の三人きょうだいだ。
「もう十年以上も昔の話じゃが、今でも時々夢に見るよ。気がついた時にはもう、みんながみんなわしの敵でなあ。本当に、針の筵にいるような気持ちじゃったよ」
「す、すみません…その、俺」
明らかに自分が聞いていい話ではなかったことが一目瞭然で、緑間は勢いよく頭を下げる。ああ、本当に、なんて馬鹿なことを聞いてしまったのだろう。
そんな緑間に対し、「顔を上げなさい」と柔らかい声で衛が促した。
「謝る必要はない。確かに裕福ではないが、少なくともわしは、今の生活を気に入っておる」
「…それでもそれは、俺が謝らない理由には、ならないはずだ」
その返しに、老人は少し驚いたような顔をした。どうやら、別の受け答えを予想していたらしい。
衛が、困ったように微笑んだ。
「お前さんの誠実さを、本当にわしは気に入っておるよ」
今度は、緑間が首を横に振る番だった。
(違う。違うよ、衛さん)
誠実なのは、俺じゃなくて静の方だ。間違ってもそれは、俺じゃない。
ばち、と静と目が合った。
「……」
「えーっと、そ、それよりさ、祭兄。そういう…なんかこう、湿っぽい話じゃなくて、もっと楽しい話をしようよ!私、祭兄の友達の話とか、学校生活の話とか、あとお兄ちゃんの話も聞きたいな!」
居心地の悪い空気を払拭するように、務めて明るく遥が話題を転換した。こういうところは似てないな、と緑間はぼんやり思う。
遥の提案に乗っかって、「私も聞きたいわ」と環が言った。
「わしも聞きたいのう。話してくれるかい、お前さん」
つくづく優しい人達だった。
「…はい、」
その優しさに感謝しながら、緑間はこくんと頷いた。
***
夕飯と風呂を済ませ、その後しばらく雑談をし―二十二時を過ぎた頃、彼らはそれぞれ眠りにつくことにした。
緑間は、先日お世話になった客間に布団を敷いて、ごろんと横になる。そして、ふああと欠伸をした。
今日は色々あったし(色々といっても、あったのは一つだけだが)、おそらく身体的―否、精神的なダメージを大きく被っているのだろう。緑間はやけに眠たかった。
このまま眠ってしまいたい気持ちに駆られたが、この後遥の勉強を見てやると約束しているので、なんとか必死に眠気を追い払う。
唸りながらぺちぺちと自分の頬を叩いていると、なんともまあ微妙なタイミングでスマホが鳴った。こんな時間に誰だよ、と悪態をつきながら緑間はその辺に放ってあっるスマホを探す。
「青子だったりしてね」
などと悪霊が茶化してきたが緑間はそれを華麗にスルーし、スマホを発見してディスプレイを覗く。
青子だった。
「もしもし…」
『もしもし祭?…って、あら?どうしてそんなに不機嫌そうなのよ』
「…気にすんな」
彼女の用件は、“いつ頃こっちに帰って来るのか”というものであった。おそらくはまあ、八月七日までに帰ってくるのかどうかということを気にしているのだろう。
あえて何故、とは聞かないでおくが、隠す素振りも見せないストレートさに、緑間は少し拍子抜けした。
さて、いつ頃こっちに帰ってくるのか、ということだったが、緑間としては勿論今日帰るつもりでいたのだ。結局いい具合に流されて押し切られ、もう一泊していくことになったが、それを積極的に反対しなかった自分にも非はあるのだろう。
(居心地の良さを感じてしまったから、どうしても首を横には振れなかった)
―ほんの一時でも、静がいない現実の寂しさを紛らわせてくれたから。
「…明日には帰るよ」
明日―つまりは、八月四日である。さすがにもうこれ以上厄介になるわけにはいかない。たとえここにいる人達が、どれだけ優しかったのだとしても。
そう伝えると、「わかったわ」と短くそれだけが返ってきた。
じゃあ、用件はそれだけだから、と青子が電話を切ろうとした―まさにその時。これがまたタイミング良く―否、タイミング悪く。
「まーつーりー兄ー!」
伸ばし棒をフル活用しながら、部屋に遥が入ってきたのである。その姿を見て、サーッと何かが凄まじいスピードで体中を駆け抜けていくのを、緑間は本能的に感じた。
この展開は。
この展開は、あまりよろしくない。
「は…遥…お前、なんつうタイミングで…」
「あれ?もしかしなくてもお話中だった?ごめんごめん。悪気はこれっぽっちもなかったんだけど…だって祭兄、いつまで経っても私の部屋に来てくれないんだもん。約束忘れちゃったのかと思って」
そして、なんともまあ、誤解を生みかねない発言しかしない娘であった。
(この野郎…!)
つうかあれか。わざとなのか?わざとやってんのか!?勉強教えるとか言っておきながら睡魔に負けかかって、且つ青子と電話なんかしてお前のことを放置してた俺が悪いのか!?
電話の向こうで、なにやらとてつもなく嫌な音が聞こえてくる。この女、一体今なにしてやがる。
あまりよろしくないどころか、非常にまずい展開であった。
『ふうん…あんた今あの子と一緒にいるんだ?しかも名前で呼び合っちゃって。へえ…ふうん…で、その女の子の部屋に、一体全体何をするわけなのかしら?』
(うっわ…)
なんかもうめちゃくちゃ怒ってるんですけど。
今のところ怒られる筋合いがない(緑間と青子が恋人同士ではないから)はずなのに、めちゃくちゃ肩身が狭いんですけど!
正直このタイミングで変に嫉妬をされても、緑間としては困る他なかった。
とりあえず弁解はしておく。
「いや、その…か、勘違いをするな。俺は、お前が思っているような不純異性交遊は一切やってない。いいか、こいつは」
「まーだー?早く私の部屋で昨日の続きしようよ。ねえ、」
「ちょっとお前もうマジ黙れ」
妙に甘ったるい声で誘ってくる遥を、緑間は割りと本気で睨みつけた。もっとも、睨みつけたところでそれが彼女に効かないことは明白である。なんせあの、赤崎静と兄妹関係にあるのだから。
効かないどころか彼女は、とても楽しそうににやにやしていて、こいつ絶対わざとだ、と緑間は脱力する。
そこで、電話の向こう側から音らしき音が聞こえてこないことに気がつき、緑間は焦って「おーい、青子ー」と呼びかけた。
電話は切られていた。
(あの女、最悪のタイミングで電話を切りやがった…)
悪霊もとい赤崎が、すぐ傍でそれはそれは心底おかしそうに腹を抱えて笑っていた。むろん遥も同様にである。見間違いようもない、こいつらやっぱ兄妹だ。この野郎。
緑間は勢いよく布団めがけてスマホを投げ、ずんずんと遥に詰め寄り「このアホ!何してくれやがる!」と、怒鳴るついでに頭をはたいてやった。
「痛い」と彼女は声を上げたが、さして痛くもなさそうな上に、それでも尚にやにやしているというのは如何なものなのだろう。こういうところだけは似てほしくなかった、と緑間は切実に思った。
「やっだー彼女さんとケンカでもしたのー?あははドンマイ!でも、それを私に八つ当たりするのはお門違いじゃないかなー私は祭兄の顔を立てる為に、“善意”で呼びに来てあげたんだから」
「今のは誰がどう見ても“悪意”の塊だっただろうが!」
さらっと虚偽表示をする遥に、緑間は力なくうな垂れた。
(ああ、もう、くそ)
お前のせいで、なんかもう色々と面倒なことになったじゃねえか。どう説明すれば俺の名誉は守られるんだよ。つうかそもそも、あいつはお前のこと知らないんだからな?静に妹がいることすら知らないんだからな?そこから説明しなきゃなんなくなっただろうが…と、ぶつぶつ頭を抱えて念仏のように喋り始めた緑間に、何故か遥は意外そうな顔をした。
「あれ、今の本当に祭兄の彼女さんだったの?」
「なんだその、意外すぎて信じられないみたいな顔は…まあ、違うけどな。幼なじみだよ」
「幼なじみ?それにしては随分と…なんていうか、ううん?あ、実は今の嘘?」
「なんでだよ。今のは水沢青子。俺の話聞いてたんなら、当然青子のことも静から聞いたことあんだろ。俺と静の幼なじみだって」
青子?と遥が首を傾げる。ひどく怪訝そうな顔をしていた。しばらくその顔のまま何かを思い出そうと頭を捻っていたが、やがて彼女の名前に思い当たる節があったのか、遥は「あ、」と声を上げた。
「その人…」
「お?思い出したか?」
「ああ、うん…だってその、青子って人のこと、お兄ちゃんが…」
「遥、」
妹の台詞を遮って、赤崎が制止の声をかける。先ほどまでの馬鹿笑い具合はどこ吹く風で、どこか神妙な面持ちで赤崎が首を振った。まるで、その続きは言ってはいけないと諭しているかのように。意味がわからなくて、緑間は首を傾げた。
だが、遥にはそれがどういった意図を含んでいたのかがわかったようで、途端に口を閉ざした。先ほどまでの会話が、一切合財ぶち切られたような感覚である。
そんな風に濁されてしまうと、緑間としては気になって夜もおちおち眠れないというのに。
「なんだよ、言いかけてやめんな。気になるだろうが」
「黙秘権を行使します」
「いや、お前行使しますとか言えるほど立場高くねえだろ」
緑間は軽口を叩いたが、彼女からの反応は薄かった。どうやら本当に黙秘権を行使しているつもりらしく、頑なになって口を開こうとはしない。要するに頑固だった。
おそらくこれ以上追求したところで彼女が口を割ることはないだろうと、彼女の兄も頑固であったことを思い出し、緑間は渋々諦めた。この兄妹、似てなくて良いところばかり似てやがる。
「まあそれは置いておいて。なんで祭兄、付き合ってないの?」
「なんかもう色々すっ飛ばしてストレートすぎる!」
普通そこは、「本当にただの幼なじみなの?」とか、「その人のこと好きなの?」とか聞くところではないだろうか。
「え、だって祭兄、その青子っていう人のこと好きでしょう?」
「断定!?」
「顔を見れば一発で分かるって。恋する乙女みたいな顔だったよん」
「どんな顔だ…つうか、その比喩を男の俺に使うな」
なんというか、遥と話すのは静と話すのとは別の意味で疲れる。こういうとこマジ似てねえ。
「……でも、羨ましいな。そうやって想い合うことが、私にはそもそも無理だったから」
と、急にしおらしく苦笑いを浮かべる遥。その目はとても寂しそうだった。
「なんだよそれ。まるで自分が今、すっげえ報われない片想い真っ只中みたい言い方だな」
遥らしくもない―もっとも、緑間は彼女に会ってまだ少ししか経っていないのだが。
「…うん、まあ、そうだね。片想いは報われないのが常だけど、私の場合は…本当に、二重の意味で報われないね」
どうにもこうにも、先ほどにもましてやりにくい展開になってしまった。たった数日の付き合いではあるが、ここまでしおらしい彼女を緑間は初めて見る。これでは茶化す気にもなれそうになかった。
「あー…えっと、その、俺、お前の気に障るようなこと言ったか?それなら謝る、悪い」
「ううん、祭兄は何も…なんにも悪くないよ。一貫して悪いのは私。だから謝らないで」
そんな、今にも泣き出しそうな顔をで謝るなと言われても、全くもって緑間の罪悪感は拭われなかった。むしろ積み重なっていく一方だった。
「なんか思い出しちゃって…バカだなあ、私。本当に…何も今日じゃなくてもいいのに。ああ、いや、今日だからこそ、なのかな」
妙に納得したような口振りで話す遥に、なんと声をかけるべきかと緑間は悶々と考えていた。
ここは一発ギャグでもやって雰囲気を一転した方がいいのだろうか。それとも、それとなく“何かあったのか”とでも聞けばいいのか…だが、なんとなくそこは遥の領域で、部外者中の部外者である自分が、安易に踏み込んでいい場所だと緑間は到底思えなかった。
「私…本当はずっと、聞いてほしかったのかな。…ううん、そんなわけない。そんなわけないけど…でも、これも何かの縁なのかもしれないね」
「…遥?」
「あのさ、祭兄。ちょっとだけ話、聞いてくれる?」
その聞き方はずるい。それは、相手に断る隙を与えない、相手の逃げ道を塞ぐ聞き方だ。勿論拒否ができるはずもなく、緑間は曖昧に頷いた。
―本当に、似なくていいところばかり、この兄妹は。
「…私ね、絶対に好きになっちゃいけない人のことを、好きになったの」
彼女は、淡々と話し始めた。
―“その人と初めて会ったのは、私が中学生になってすぐのことだった。偶然、本当に偶然、その人が家に来た時に鉢合わせちゃって。
後からおばあちゃんに事情を聞いたら、どうやらその人のこと、私にだけは会わせたくなかったみたいなんだよね。なんで、って詰め寄ったら渋々話をしてくれて、ああ、そういう事情があったならそれは仕方ないのかもしれないって思って、妙に納得したんだよ。その人のことは、いまいちまだ、よくわからなかったんだけど。
でも、それまで顔も、名前も知らなかった人だけど、初めて会った日からなんとなくね、ちょっとずつ関わり合うようになったの。
ついこの間まで全くの赤の他人で、私はおばあちゃんの話、正直受け入れられなかった部分もあって、それは多分その人も同じだったはずなのに、それでもその人は、不器用なりに手探りで、私のことを知ろうとしてくれたんだ。私という存在を、受け入れようとしてくれたんだと思う。
その人は、結構頻繁に家に来るようになって、土曜日とかも、わざわざ時間を割いて会いに来てくれるようになって。毎日のとりとめのないこととか、学校でのこととか、友達のこととか、とにかくお互いのことをたくさん、いっぱい話したの。一緒に遊びにも行った。
その人はすっごく頭が良くて、私は…うん、正直言うとあんまり成績は良くなくってさ。だから私、結構思い切って“勉強教えて”って言ったんだ。断られるのすっごく怖かったけど、それでも、もっと一緒にいたいと思ったし、そういう口実があればもっとたくさん会えると思ったんだよね、私は。
でも、その人からの返事はなんか微妙な感じで…あんまり人に物事を教えるのは得意じゃないんだって言われてさ。体のいい断わり文句だなって思って、やっぱ言わなきゃよかったなあって思いながら相槌を打ったら、“うまく教えてあげられないかもしれないけど、それでもいいなら”って言ってくれたんだ。それが本当に、本当に嬉しくて。
一緒にいるのが楽しくて、一緒にいられる時間がとても大事なものみたいに感じるようになって、その人が家にいることが、なんだかすごく嬉しくなって。いつの間にか最初の頃のわだかまりもなくなって、その人が家にいることがすごく自然なことみたいに思えて。
私にとってその人は、そういう存在になってたんだよね。ずっとここにいてくれればいいのにって、思っちゃうくらい。
ふとした時にその人の顔が思い浮かぶようになって、気づいたらその人のことを考えるようになって。今度はいつ来てくれるかな、とか。次会ったら何話そうかな、とか。
そんなことばっかり考えるようになってて、私自身も、それに対して疑問なんてこれっぽっちも抱いてなかったんだけどね。ある日言われたんだよ、「遥、なんか最近雰囲気変わったね」って。「恋をすると女は綺麗になるって言うけど、なんか今その典型例を見ている気分だわ。すごい乙女な顔してる」なんて友達に茶化されたの。なにそれーって冗談半分に聞き流してたら、一番仲良い友達が、私に言ったんだよね。「好きな人でも出来た?」って。
それが、多分決定打だったんじゃないかな。だって私、そう聞かれた時、否定できなかったんだもん。なんとなく納得しちゃったんだ。ああ、これって恋だったんだなあって。
でもさ、でもですよ?それってダメじゃんって思ったんだよ。これが、その人に対して抱いている感情が、恋だったって気づいた時、私、喜びよりも後悔の方が勝っちゃってさ。思わず泣いたんだ。そうしたら、はやし立てていた友達がいっせいにギョってして、なんかよくわからないけど謝られて。別にみんなが悪いわけじゃないのにね。まあ、気づくきっかけになったことは確かだけど。多分私は、気づかないままでいた方が幸せだったんだろうけど。
だって、だってさ。だって私、この世界で唯一、その人のことだけは好きになっちゃいけない存在だったわけなんだよ?そして私は、この世界で唯一、その人とは決して結ばれちゃあいけない存在で、その人から愛とか、そういうの、何一つもらえない存在だったわけで。そりゃあもう、わかっててもやっぱり悲しいよね。うん、泣いちゃうくらいにはさ。
その人に好きな人がいたからっていうのが理由だったわけじゃないよ?…まあ、好きな人は、いたみたいだけど。さっき、お互いのこと、たくさん話したって言ったでしょ?よく聞いてたんだよ、その人と親しい人達のこと。その人が好きだっていう人の話もね。小さい頃から好きだったんだって、困ったような顔で笑ってた。告白したの、って聞いたら、告白する前に失恋したんだよって。
やっぱりその人は、相変わらず私に会いに来てくれるんだよね。そして、頭を撫でてくれて、抱きしめてくれて、笑いかけてはくれたけど。やっぱりそれは、私がその人に対して抱いている“好き”っていう感情とはかけ離れていて。それはやっぱり辛くて、悲しくて、痛いことだったけど。求めちゃいけないってわかってるから、「好き」だなんて言えなくて。
勿論絶対に叶わない恋だってわかってるから、何度も何度も諦めようと思ったんだけど…ちょっとしたことでまた、やっぱり好きだなあ、なんて思っちゃうから。結局色々なもの、全部引きずったまま、時間だけが過ぎていって。気づいたら、その人と初めて会った日から、もう二年も経ってた。
最後に会ったのは、確か二ヶ月くらい前で、その時その人に「今度来た時、話したいことがある」って言われたんだ。今じゃダメなのって聞いたら、まだダメなんだって。時間がかかるかもしれないけど、待っててくれる?って言われて、なんか諸々の事情で離れ離れになる恋人同士の遠距離恋愛前日、みたいな会話だなあって思いつつ、その時私は、「待ってる」って言ったよ。
それからしばらく来てくれなくなって…まあ、メールとか電話のやり取りはあったんだけど。その度に、後もう少しだけ待っていてほしい、って言われて。その度に私は、うん、って言って。
二ヶ月が経って。
その人ね、「今度来た時話したいことがある」って言っていたのに、結局それを私に言わないまま、すっごくすっごく遠い、私の手が届かないところまで行っちゃったんだ。
本当の本当に、
「…報われない恋、だったな」
話を終えて、それでも尚笑顔を作ろうとする彼女を見ていられなくなった緑間は、その細い手首を掴んで若干強引にその体を抱きしめた。悪霊じみた幼なじみは、いつの間にかいなくなっている。
「笑うな。頼むから、これ以上…」
抱きしめる腕に、自然と力がこもる。壊れてしまうのではないかと緑間本人が思ってしまうくらい、ぎゅうっと彼女を抱きしめた。遥は、痛いとは言わなかった。
報われない恋。
ああ、そうだ、それは、確かに。
「…、ちゃ、ん……お兄、ちゃん」
遥は、泣いた。
ぽろぽろと、ぼろぼろと。
嗚咽を漏らして、涙で顔を濡らして、彼女は泣いた。
お兄ちゃん、と呼びながら。
確かにそれは―報われない恋だ。
「ずっと、好きだった…本当の本当に、大好きだったの。報われないってわかっていても、それでも…」
お兄ちゃんのことが、好きだった―
緑間は何も言わない。ただ黙って、彼女のことを抱きしめる。報われない恋をしたという、悲しみに濡れた彼女のことを。
(…愛して、やれればいいのに)
それは、彼女の言う兄が、ではない。愛してやれればいいのに、というのは緑間自身が、という意味である。
もっとも、どれだけ時間を重ねたところで、それが到底無理なことであることはわかっているけれど。
―彼女にとって兄のような存在に。全てを撤回しよう。
緑間が彼女の兄になることは、至極簡単なことであったのだ。なんせ彼女は、たった一人の兄のことを“兄”だなどと思ったことがないのだから。
果たして赤崎は、このことを知っていたのだろうか。
(ああ、いや)
知っていたからこそ、このタイミングで今、あいつは姿を消したのかもしれない。
どちらにせよ―今の遥を抱きしめるのに、赤崎では役不足だ。きっとそれをわかっていたからこそ、幼なじみはこの場から退場したのだろう。
だが、そこまで考えて、考えたところで今この状況になんの関係もないことはわかりきっていたので、緑間は赤崎に関する思考を一旦閉じる。そして、慰めるように彼女の背中を撫でた。
「…祭兄みたいな人を、好きになればよかったのかなあ」
その小さな呟きを、本来ならば聞き流すべきだったであろうその呟きを、それでも緑間ははっきりと耳で捉え、そして。
「無理だよ、お前には」
それがおそらく、誰もが同じだけ傷つく一番良い答え方だっただろう。
遥は「そっか」と呟いた。
「…ありがとね」
行き場のない“ありがとう”だけが、ここに残った。




