河野しげるの日常2-1
親切という行為の難しさについては、わざわざ語るべくもなく十分に理解してくれていると思う。自分では人のためになることをしたと信じていても、相手にとって迷惑だったということは多々ある。
つまるところ、他人が喜ぶことを百パーセント的中させるのは不可能に近い。ゆえに普通は世間的に良い事だと思われていることをするわけだが、この良い事のテンプレとも言うべきものがなかなかに厄介なのだ。なまじ「親切である」というレッテルを貼られているために、その心遣いを素直に受け取らない人間というのが出てくる。
僕なんかはその典型例なわけだが、今回は親切をする側なのでその点は問題ない。むしろ自分がされて鬱陶しいと思うことをやればいいのだ。ニコニコと厚かましく、さも自分が良い事をしているのだという優越感を撒き散らしながら、堂々とことを成せばいい。
「……そう、親切をする相手がいればね」
何十回目だろうか。もはや数えることも諦めるほどの回数瞬いた信号機は、歩行者を通過させることなく赤に変わった。朝早くからとある目的を達成するため文字通り棒のように突っ立っていた僕は、そろそろ我慢の限界に近づきつつあった。そもそも僕がこのような苦痛を味わわされているのは、いつもこの信号を通りかかるババアもとい老婦人が一向に姿を見せないからだ。早朝の散歩が趣味のこの老人は、近所でも評判の歩行速度を有している。もちろん、遅いという意味で評判なのだ。
ようするに、彼女がここを通りすぎることが僕の目的を達成するのに必要最低限度の条件なのだが、老人の気まぐれ故か同じ時間にここを通ることは滅多にない。僕のリサーチでわかっていることは、散歩のルートがいつも変わらないことと、大まかな時間帯が早朝であるということだ。その不確定要素を埋めるため、僕はこうして早朝からこの横断歩道に張り込んでいたというわけだ。
さて、ここまで説明すれば大方の予測はつくだろう。つまり僕は足腰の悪い老人をサポートして無事に横断歩道を渡らせるという、テンプレ親切をしようとしているのだ。
なぜそんなことをする必要があるのかという問いの答えは、僕の左手のひらにある。英単語と数字が四種類。手のひらに刻み込まれたそれら三行の黒い文字列が、僕のささやかな人生を縛り付ける枷となっている。
僕が手のひらに精一杯の憎しみを込めた視線を送っていると、いつの間にか真横に人の気配があるのに気づいた。一瞬例の老人がやってきたのかと思ったが、僕に気づかれないように接近できるような人間が亀ばあさんなどというあだ名をつけられるはずがない。それに、ほのかに香る柑橘系の香水の匂いは、それが僕の知っている人物であることを示していた。
「おはよう、しげるちゃん。今日は珍しく早いんだね」
さて、問題なのは如何にしてこの災難を乗り切るかだ。正直、早起きをしたことでいまだに眠気が取れていない僕にとっては、難敵であることこの上ない。
「あの……しげるちゃん? き、聞こえてるよ……ね?」
そもそもこの東京という都市は狭すぎる。にもかかわらず人口は日本一という馬鹿げたところであるから、人間に遭遇する確率も高くなる。群れるのがあまり好きではない僕には、地獄のような場所だ。
「しげるちゃん、お願いだから何か言ってよ……。私、泣いちゃうよ?」
このストレスから解放される手段は、残念ながら皆無だ。世捨て人ならまだしも、僕は華の女子高生。そしてこの世界は、コミュニケーションがあってなんぼである。
「しげるちゃん……ひどいよ。なんで無視するの。友達でしょ?」
ようするに、この中学からの腐れ縁である脳内お花畑女こと華柳穂夏との付き合いも、嫌々ながらも続けなければならないのだ。
「……はあ。超小型隕石が落ちてきて、華柳穂夏だけをこの世から抹殺してくれないだろうか」
「やった! 反応した! まーたしげるちゃんたらおかしなことを言って。『つんでれ』ってやつでしょ。私、知ってるよ」
自分の魅力を最大限に引き出してくれることを知っているかのような、有無を言わさぬ甘々ボイス。加えて茶色に染めたセミロングの髪は、どこぞの森ガールよろしくウェーブがかけられている。花の形をした髪留めに至っては、もはやストレスによって僕を過労死させる兵器にしか思えない。
そんなわけで、僕が毛嫌いするファンシー要素満載の彼女だが、それでも一応こうして関係が続いているのにはわけがある。無論、向こうが一方的かつストーカー紛いの絡みをしてくるというのも理由の一つだが、それだけで友達になってやるほど僕は甘くない。なぜ穂夏との縁を切らないか。理由は簡単。それは彼女が、非常にいじめやすいタイプの人間だからだ。
いじめるといえば、僕は普段から二歳下の妹をいじりまくって楽しんでいるわけだが、そちらの場合は少し事情が違う。なぜならお姉ちゃん大好きっ子の妹は姉にいじめられることすら喜ぶ変態で、加えて自他共に認めるシスコンである僕も、彼女に喜んでもらえるからという前提の元で行っている。
しかし、穂夏に対するそれは、まさしく言葉通りのいじめるという行為だ。彼女は友達につれない態度をとられることに本気で傷つく。おまけに彼女は僕の苦手なタイプなので、その快感も倍増する。真性のサディストである僕は、そんないじめやすい穂夏のことが大好きなのだ。
反応があったことで気を良くしたのか、穂夏はどうでもいいことをつらつらと話始めた。相槌を打つのも面倒なので、前方を見据えて聞き流していると、やがて信号が再び青に変わった。
歩き出そうと一歩踏み出した穂夏が、動かない僕を見て不思議そうに首を傾げた。
「……あれ、しげるちゃん渡らないの?」
「うん、僕はちょっとここで用事があるから」
「用事……? 横断歩道で?」
しまった、余計なことを言わなければよかった。
「えっと、実は人を待ってて……」
「人? だあれ? 私の知っている人かな」
これは、非常にまずい展開だ。穂夏は一度興味を持ったことは、とことん聞いてくるという厄介な性格をしている。当然、きちんと答えなければ無視されたと思って泣き出してしまうだろう。
仕方なく、僕はおばあさんに親切をするという当初の目的を変更し、友達に対する親切に変更することにした。穂夏には普段悪い事ばかりしているので、たぶんいけるだろう。
「……いや、やっぱりいいや。行こうか」
「え、いいの? でも――」
「ほら、信号変わっちゃうよ」
僕は困惑する穂夏の手を握りしめ、早足で横断歩道を渡った。そのままさも仲の良い友達同士のごとく、手を繋いだまま歩き続ける。
「し、しげるちゃん……珍しいね。手を握ってもらったことなんて、初めて……」
案の定、妙に嬉しそうに微笑む穂夏を連れて、通学路を進んでいく。歩きがてら、さりげなく左手を確認すると、文字列の二行目『right』という文字の右横の数字が変化していた。ちなみにこの二行目に書かれている数字は『善悪カウンター』といい、良い事もしくは悪い事をすると数字が一つ減るという仕組みになっている。最大値はそれぞれ 『3』で、この二つの数字を『0』にすることが僕のノルマだ。
なぜそんなことをするのか、そもそも手のひらの文字列は何なのか、といった疑問に答えることは面倒くさいので省かせてもらう。どうせその内わかるだろう。
とりあえず、現時点で『right』の値は『2』、その横にある悪い事を示す『wrong』の値は『3』だ。これを今日中に『0』にする必要がある。
穂夏を連れて歩くこと十数分、住宅街の中に隠れるようにして立つ巨大な建物が見えてきた。僕達が通う中高一貫校、凰凜学園である。
元々女子校だったこの学園は、十年程前に共学になった。その際、元々あった古い校舎を中等部、新たに建てた校舎を高等部の生徒に使わせることとなった。さらに体育館などの施設も生徒数の増加に伴い新設した結果、学校全体が複雑に入り組んだ迷路のような場所と化してしまっていた。
新入生には手厳しいこの環境だが、僕は中等部から通っているので中の構造は手に取るようにわかる。穂夏などはいまだに迷うことがあるらしいが、それも無理のないことだと思う。
校門に差し掛かると、まだホームルームまでは大分時間があるというのに登校する生徒の影がちらほら見えた。衣替えはすでに済み、皆半袖のワイシャツに赤いネクタイという出で立ちだ。ちなみに女子の制服は蝶々結びにしたリボンである。
「……うふ、いいねえ夏服」
たった今僕達の後方から足早に追い抜いていった女子の背中を見ながら、穂夏は陶酔したような表情で呟いた。といっても、決して彼女に同性愛の気があるわけではなく、このタイプの女子の常として可愛いものに目がないだけである。
「さて、じゃあ僕はちょっくら用事があるから、先に行っててくれ」
「……え? 用事って何?」
僕が握っていた手を離すと、穂夏は捨てられた子犬のような目でこちらを見上げてきた。まったく、いちいち動作が大袈裟な子だな。
「うん、とある先生にアポイントメントを取りにね。予定より早めに到着したから、どうせなら済ませておこうと思って」
「あ……もしかして、この間話してた計画のこと?」
「まさしくその通り」
「そっか。頑張ってね」
わけがわかってほっとしたのか、穂夏は朗らかな笑みを浮かべて昇降口の方へ歩いていった。まあどちらにせよ僕も上履きに履き替えるため昇降口に向かう必要があるわけだが、そこは方便というやつだ。
穂夏が靴を履き替えるまでの時間を考慮して、僕はしばらくその場に留まった後、昇降口へ向かって歩き出した。