名札を置く
1
「久住」
廊下の奥から声がした。
温度がない。
息の湿り気がない。
ただ反響だけが、形を真似ている。
透真は止まらなかった。
止まれば返事になる。
前かがみの姿勢のまま裏動線を歩く。配管の下をくぐる。
手が勝手に壁際を選ぶ。壁際なら、足跡が目立ちにくい。
背中に汗が冷えて貼りつく。
水で薄めた匂いが戻ってきている。
カートの取っ手を握り直した。
巻いた養生テープが湿って冷たい。滑らない。離れない。
角の手前で、壁の低い位置にテープを貼った。
しゃがまないと見えない高さ。自分だけの印。
このビルの裏動線は、まだ透真の現場だ。
現場なら、手順が動く。
次の角を曲がった。
鼻に、別の匂いが混じる。
紙と金属と、湿った布。
ダストステーションの匂いだ。
---
2
扉のプレート。
「ダストステーション」
取っ手に手を当てた瞬間、胸ポケットが震えた。
「“久住”って呼ばれたら返すな」
「名前が一番危ない」
ユウの文。短い。余計がない。
透真は返さない。
扉を開けた。
湿った空気。紙の匂い。段ボール。ビニール。金属。
奥にゴミシュートの投入口。その横に点検扉。
ここには音がある。
空調は死んでいるのに、排気だけが生きている。
弱い負圧が匂いを引いている。
このゴミシュートは、清掃用具室のシュートとは別の系統だ。
清掃用具室が西側なら、ここは東側。
清掃員は、こういう“地図”を身体で覚えている。
棚の下段を開けた。
清掃員用の予備ロッカー。
中にビニール手袋、ペーパータオル。
そして落とし物箱。
透明な袋に社員証がいくつか入っている。
落ちて、忘れられて、誰も取りに来なかったもの。
透真は自分の胸元を触った。
社員証が首からぶら下がっている。薄いプラスチック。ラミネート。バーコード。
久住 透真
清掃員の仕事で、名前が必要だったことはない。
呼ばれないから。痕跡を消して帰るだけだから。
なのに今、名前が道になっている。
命令文にも出た。叫び声にも出た。
廊下の闇からも返ってくる。
ストラップを首から外した。
布製。首筋の汗がいちばん染みている部分。
匂いが濃いのは、カードじゃなく布だ。
金具を外すとき、ペーパータオルを挟んだ。
金属と金属の接触を紙で殺す。
ゴミ袋を一枚開く。
中にストラップと社員証を入れる。
口は縛らない。匂いは漏れた方がいい。
棚の奥から古い作業着を一枚引き出した。
誰かの予備。洗剤の匂いが染みついた布。
それを袋の上から被せる。
「久住透真」と書かれた札を、匂いごと包む。
袋をゴミシュート投入口の手前に置いた。
負圧が匂いを引く場所。金属が滑らかな縁。
置いた瞬間、首が軽くなった。
ストラップの重さは数十グラムだ。
数十グラムがなくなっただけなのに、首筋に風が通る。
軽いのに、嫌だった。
自分の名前を置いてきた。
名前を置くということは、「ここにいた」を自分で切るということだ。
清掃員は痕跡を消す仕事だ。
でも、自分の名前まで消すのは初めてだった。
---
3
透真はカートの前に立った。
点検扉の中へ入る。
カートは入らない。
置いていく。
その前に、持ち出すものを選ぶ。
“降りたあと”に手の届くものだけ。
洗剤ボトル一本(残り四分の一)
養生テープ一巻(残り三分の一)
雑巾二枚
ゴミ袋三枚
ペーパータオル一束
マスターキー
洗剤は作業着のポケット。
テープはズボンのポケット。
雑巾は折って腰の後ろ。
ゴミ袋は畳んで胸ポケット。
ペーパータオルは作業着の内側。
鍵は、最後に握る。
手に取るたびにカートが軽くなる。
軽くなるたびに、自分が重くなる。
置いていくものは、道具だけじゃない。
最後に取っ手に手を置いた。
指が、取っ手の形を覚えていた。
丸い金属の管。巻かれたテープの段差。
何百回も握った形。
手を離した。
カートは壁際に残した。倒れないように寄せた。
寄せる動きは清掃の手順だった。
最後まで手順が動く。
透真は点検扉の前に立った。
マスターキーを差し込む。回す。
鍵が回る感触が、いつもより硬い。
湿気で金属が膨張している。
扉が開いた。
縦の暗闇。金属の内壁。湿気。
点検用の足掛けが並んでいる。
鍵を抜く。
抜く瞬間、手が止まった。
指が、家の鍵を回す動きをしていた。
帰る時の動き。
鍵を差して、右に回して、押して、入る。
帰る。
下へ。出口へ。
透真は点検シャフトへ身体を滑り込ませた。
扉を閉める。取っ手を最後まで押さえて音を殺す。
鍵はかけない。かける音が返事になる。
---
4
点検シャフトの中。
暗い。赤い非常灯はない。
足掛けの冷たさだけが上下を教える。
透真は刻印板に親指を当てた。
排気音が筒の中を通っている。声を混ぜられる。
「……接着」
手袋の掌に雑巾を一枚貼りつけた。
滑り止め。掴む指が滑らない。
下へ降り始めた。
一段。二段。三段。
腕を伸ばす。足を下ろす。
音を出さない速度。
出していい音は、排気が吸い込む音だけ。
四段目で上から声。
「久住、出てこい」
同じ“名前”ではない。
鬼頭の台詞を部分的に再現している。
形が“文章”になり始めている。
透真の指が足掛けを強く握った。
雑巾が掌と金属の間で潰れる。
学習している。
名前だけじゃない。命令の形まで。
透真は降り続けた。
五段。六段。
空気が変わる。
上の匂いが薄くなり、下から鉄と湿気が上がってくる。
七段目で足掛けの間隔が大きくなる。階をまたぐ位置。
透真は指と足裏で数える。目では見えない。
八段。九段。
下から匂いが上がってきた。
鉄と湿気。
その奥に、古い匂い。
古い肉の匂い。
透真の指が止まりかけた。
用具室のシュートに落としたとき、遅れて聞こえた鈍い音。
鉄と肉がどこかに当たる音。
あの匂いが、時間を経てこうなる。
このシャフトは別系統だ。直接は繋がっていない。
でも地下に近づくほど、建物の匂いは混ざる。
混ざった匂いがここまで上がる。
落としたものが、まだ下にいるかもしれない。
透真は一拍だけ止まり、すぐ降りた。
止まり続けると匂いが筒に溜まる。
十段。十一段。
下から音。
カリ……
金属を擦る音。
爪じゃない。もっと細い。硬い。
透真は息を薄くした。
下にも、何かがいる。
---
5
ユウの画面に、また命令文が出る。
「久住透真。応答せよ。救助のため移動せよ」
“救助”が増えている。
増えたぶんだけ、危ない。
コメント欄は水瀬の記事のリンクで流れる。
> 「救助命令が標的を固定した」
> 「名前を呼ぶことは救助ではなく確定だ」
ユウはオーバーレイを短く出した。
「“救助”は罠。返すな」
「名札を置け。名前を捨てろ」
その直後、映像の端に一瞬だけ映る。
ダストステーション。
投入口の手前に置かれた袋。
薄いプラスチックが、袋の中で鈍く光る。
ユウは息を止めた。
「……置いたな。名札を」
コメントに刺さる一行。
> 清掃:ストラップは首汗の塊。囮として最適
ユウは見えない先を見ているみたいな顔で、画面を見つめた。
透真の姿は映っていない。
でも、“置いた”のが映っている。
---
6
六十二階ラウンジ。
星野は端末の送信ログを見ていた。
命令文。名前。救助。
送信者は自分。文案は九条。
九条が言う。
「“救助”と書いた。これで記録上は対応済みです」
御影が低い声で返す。
「記録上。下にいるのは人だぞ」
九条は穏やかに言った。
「人命を守るための最善は、混乱を避けることです」
その直後、端末にログが走る。
鬼頭のPHSが最後に一度だけ発信している。短い。
位置はダストステーション付近。
星野の指が止まる。
九条はそのログを見ない。
星野には、見えているのに見ないことを選んだように見えた。
星野は端末を裏返さなかった。
表のまま握った。
ログは残る。
残るものが、いつか人を刺す。
星野はそれを分かっている。
---
7
点検シャフト。
透真は降り続けていた。
十二段。十三段。
下からの匂いが濃くなる。
上からの声は、もう聞こえない。
上に置いた名札が、匂いと注意を奪っている。
名前を置いた。
カートを置いた。
社員証もストラップも置いた。
残っているのは、ポケットの中身と、三つのスキルと、清掃員の手順。
透真は次の足掛けに手をかけた。
手が滑った。
掌の雑巾が湿っている。シャフトの湿気で水を吸った。
接着が弱くなっている。
両手で掴み直した。身体が一瞬だけ揺れる。
その拍子に、ポケットの中でマスターキーが鳴った。
カチ。
小さい音。
だが筒の中では、上にも下にも伝わる。
透真は息を止めた。
下から沈黙。
沈黙の後――
カリ……
金属を擦る音。さっきより近い。
透真はポケットに手を入れた。
鍵を指で掴む。鳴らないようにペーパータオルで包む。
指先に違和感。
鍵の先端が、わずかに曲がっている。
さっき点検扉を開けたときの、あの硬い回り。
ダンジョン化の影響で扉の立て付けが歪んでいる。無理に回した。
先端が歪んだ。
透真は暗闇の中で、指先だけで鍵の形を確かめた。
回せるかもしれない。
回せないかもしれない。
次に鍵が必要な時に、分かる。
鍵を包んだままポケットに戻した。
そして降り続けた。
下から声。
「久住」
筒の中を上がってくる声。
廊下で聞いた声と同じ形。
同じ温度のなさ。
透真は返事をしない。
名札は置いた。
それでも名前は追ってくる。
置いた瞬間、透真は「久住透真」から「清掃員」に戻った。
清掃員なら、呼ばれない。
呼ばれないまま、来て、拭いて、帰る。
今は逆だ。
呼ばれないために、名前を捨てている。
捨てても追ってくる。
透真は降りる。
降りるしかない。
帰る道は下にある。
降りる手順が、手に入っている。
手順が動く限り、降りられる。
---
シャフトの下で、もう一度「久住」と呼ぶ声がして——その直後に、爪じゃない硬いものが金属を叩いた。




