終.ヴェネツィア
それはキリストが生まれてから一九一七年と七ヶ月と三十日目のこと。
銃殺される男たちはただ《七日目》と呼んだ。
その日は連れて来られたときと同じ、よく晴れた日だった。
ロザリオたち五十人はローマ時代の壁に並ばされた。銃殺隊はもう配置についていたが、新しく獄につながれる脱走兵たちはまだ姿が見えなかった。ロザリオは右から数えて七人目、左手にレモン鉢置き場、右手には段丘へ下る道を臨む位置に立たされた。すぐ隣ではプレスティフィリッポがすすり泣いていた。
「死にたくない。ぼく死にたくないよ」
「みんなそうさ」
「ロザリオは変だと思わないの? 銃殺隊の格好を見てよ。軍服も靴もたったいま工場から出てきたみたいにピカピカじゃないか。後方でぬくぬくしてた奴らだよ」
「だから?」
「そんな奴らに撃たれるなんておかしいよ」
「小汚い兵隊なら喜んで撃たれるのかい?」
「男に撃たれるなんていやだよ」プレスティフィリッポがめそめそして言った。「女の子に撃たれるんなら我慢できるけど」
「弾に刻みを入れて顔の中心を狙いな。あとかたもなく吹き飛ばしやがれ」 右から三十一番目の位置に立っていたアンジェロが言った。そのほっそりとした指は美しい中性的な顔の真ん中を指差している。
「この女みたいなツラは前から気に食わなかったんだ。あの世で神さまにもっと男らしい顔に作り直してもらうぜ」
段丘の道から新しい囚人たちが現れた。荘園のような刑務所やレモン鉢置き場、棺桶、タイプライターと拳銃、早口の刑務所長に面食らい、壁に立たされたロザリオたちの姿に自分たちの未来を重ねて悲観していた。
ロザリオは新しい囚人たちの人数を数えてみた。ちょうど五十人。海で死のうとしたものはいなかったようだ。これで監房が満たされる。ロザリオたちの銃殺を止める要素はもう存在しなかった。
壁に並ばされた男のうち、泣いているのはプレスティフィリッポだけだった。彼は子供っぽい整った顔を泣きはらして、歯をカチカチ鳴らして震えていた。
「いやだよ。死にたくないよ」
間違いがあったのだ。プレスティフィリッポが徴兵されたことが間違いだったのだ。ギターを弾きながら不思議な唄を歌って女の子を口説くことがこの男の生きる理由だったのだ。
死ぬより辛いこともあるさ。ロザリオはそう自分に言い聞かせた。例えば、この中で誰か一人だけ助ける権利を与えられること。その選択の前には誰でも引き裂かれるだろう。泣きじゃくっているプレスティフィリッポがかわいそうだった。カルロは腕のいい鋳鉄職人で、妻と六人の子供を自分の命よりも大切なものとして愛していた。ジョヴァンニは幼いころからの親友で、結婚したばかりだった。貴族と踊り子の間に不義の子として生まれたアンジェロは苦労ばかりしながら母親と二人きりで必死に生きてきた。元漁師やマゾヒスト、元機関銃兵や元ベルサリエリ兵にもそれぞれの家があり、生業があった。みんな、ささやかな幸福と毎日の苦労を抱えて生きていたのだ。
号令がかかり、銃殺隊がライフルを構えた。ロザリオは自分を狙う兵士を観察した。若い男で、鉛筆で引いたような薄い髭が上唇に沿って生えている。ライフルの照準の向こうにその薄茶色の眼が重なっていた。この若者が銃殺隊に自ら志願したのかそれとも命令でそうしているだけなのか。ひょっとすると、これがこの世で最後に抱いた疑問になるかもしれない。
ロザリオは銃口に視線を集中した。アンジェロの話では銃の中にこれまでの人生が見えたという。それに賭けてみよう。
視線を全て銃口に注ぎ込む。銃口の闇が払われ、装填された弾丸が見えた。弾丸はゼリーみたいに震えながら透明になり、ロザリオは薬莢に吸い込まれた。火薬の粒をかきわけながら、薬莢の底部を目指して進むと、ロザリオはグリースの臭いがするトンネルに出た。そこは銃の遊底が動くスペースだった。撃針の先端が暗がりの中に見え、その下には赤く塗られた樫材の扉があった。近所のゴンドラ工房の裏口とよく似た扉だった。《開けたら閉める》と書きつけてあるのまでそっくり同じだった。
「帰れるんだ……」
ロザリオは心臓が肋骨を破って飛び出しそうになるのを感じ、胸を両手で強く押さえた。興奮に震えながら扉に耳をつける。
風の音。
運河の水音。
海のざわめき。
魚売りの呼び声。
かもめのおしゃべり。
ゴンドラ乗りのおしゃれな靴が石畳で跳ね返るカチッカチッという音。
海と気候に祝福されたヴェネツィアの息吹が聞こえた。それは苦労知らずの娘たちのおしゃべりのように華やかだった。
「ヴェネツィアに帰れるんだ!」
ドアの取っ手を握った瞬間、足元が大きく揺れた。引き金が引かれたのだ。ロザリオの頭上では撃針が引き伸ばされた時間の中をゆっくり動き、薬莢底部の雷管へ突き刺さろうとしていた。
弾が銃口から飛び出して心臓にめり込むまでの、ほんの一瞬でいい。
海と風、人と太陽、そして世界をもう一度見たかった。
感じたかった。
生きたかった。
ロザリオはドアを開け、体を投げ出した。
(了)
以上で『ロザリオ・ロゼッティ』は終了です。
1月28日午前7時ごろから、『雪は白くて、ただ白くて、兵士たちは泥に眠る』という小説を上げますので、よろしければ、ごらんください。
拙作に最後までお付き合いいただきありがとうございました。