第1話 ボクの大好きなママ。
都心の郊外、まだ深い森が残る、とある閑静な住宅街の一画に、他の住宅よりも、一際大きな邸宅が、その地域を象徴するように、大きな石柱の門、その上にある、蛙の焼き物が、主人の帰りを祈るよう、悠然と鎮座していた。
家の一階では、家人の一人が、夕食の準備をしている。
もう一人、二階では、今年、中学一年生になったばかりの少女が、部屋の中でテレビを付けながら、スマホゲームの周回に熱中していた。
「加奈ちゃん、ご飯よ~」
間延びした、フンワリとした口調で、母親の皇 萌子が声を掛ける。
「はーい、ママ」
スマホをベッドに投げ、ドアを開けて、加奈は階段を降りていく。
食卓には、父親の姿はなく、それでも温かな空間が、部屋中を満たしていた。
「お腹すいたー」
中学生には見えない、幼さが残る容姿、思春期を迎える、年頃の女の子とは無縁の、天真爛漫な彼女だったが、一つ、大きな問題を抱えていた。
リビングダイニングでは、自分の部屋より大きい、8K有機ELのテレビから、夕方のニュースが流れている。
ながら見しながら、ご飯を食べていると、特集コーナーで、不登校、引き籠もりの当事者と、医療関係者が対談する映像が不意に流れ、萌子は、スッと立ち上がって、リモコンのスイッチを押し、加奈が好きなアニメに変える。
彼女が抱えている問題と、直結する情報には、極力、遠ざけてあげようという、母親の配慮に、
「……ありがと、ママ」
俯いた視線をすぐに上げ、ニッコリと笑い、
「ママの空気、ボク、一番落ち着くー」
空気と表現するのは、彼女が持ち合わせる特有の感覚、専門的には、HSPと呼ばれる、高度な感覚処理感受性を、生まれつき特性として持ち合わせている為であった。
彼女が言うには、人が喋っている口から、色のような煙が見え、その色が薄暗かったり、激しい色合いで襲ってきた場合、自分の肌に触れると、強烈な刺激となって、時には嘔吐してしまう、という症状が現れるのだ。
小学生まで、その感覚は、まだ許容出来る範囲であったが、十二歳の誕生日を機に、その症状は、それまでと比較出来ないほど、彼女を苦しめ、結果として、家の外に一歩も出られない状況を作ってしまった。
父親のマリクは、そんな彼女を残し、海外で勤務することに、強く反発していたが、替えの利かない、優秀なエンジニアであった彼を、会社や直属の上司は、頭を深々と下げ、説得したのだった。
家には、母と娘の二人だけ、偶に遊びに来る、萌子の義母、絹が、加奈を大切に見守っていた。
「ご馳走さまー」
テーブルに用意された食事を、お皿が見えるほど綺麗に平らげ、加奈が、
「今日も、お風呂、一緒に入ろー」
萌子の手を握り、甘えた顔する。
「加奈は、まだ子供ね」
加奈の手を握り返し、
「ご飯の片付けして、少し経ったら、ね」
「うん!」
加奈は自分の分の食器をシンクに置き、ダイニングにある、巨大な熊の縫いぐるみのソファにダイブし、最新のゲーム機を起動する。
萌子の支度が終わるのを、横目で見ながら、加奈はゲームの世界に没頭していく。十五分が経った頃、萌子が、
「加奈ちゃん、入ろっか」
その一言を聞くなり、すぐに現実に戻ると、コントローラを置いて、萌子と一緒にバスルームへ。
季節は春を迎えていたが、まだ肌寒さが残っており、廊下はヒンヤリとしていた。
スリッパの擦れる、二つの足音が、楽しげなリズムを刻み、脱衣所まで来ると、
「ニャーン」
暗がりから光る両眼を、ジッと加奈の方へ向ける。
この家の、もう一人、いや、一匹の住人が、ユックリと近付いて、
「ルナ!」
普段は、この時間は外に出ていて、家の中にいないはずのルナが、大きな欠伸をして、小さな手で目を擦り、ピョンっとジャンプして、萌子の豊満な胸の中に潜り込む。
「ふふっ、ルナも、一緒に入りたいみたい」
よく見ると、綺麗な純白の体毛は所々、土を被って茶色くなり、爪の周りには、赤い血が少し付いていた。
それを見て、加奈は、
「ルナ、ケンカは駄目って、言ってるのにー」
頭を撫でて、傷が無いかチェックする。
動物相手に注意したところで、意味がないのは、本人もよく解っているが、それでも加奈は、ルナの顔を見て『気を付けてね』と思いを伝える。
「……」
それまで飄飄とした態度が一変し、
「ニャ!」
加奈に真剣な眼差しを向ける。
その感情を読み取った加奈は、
「いい子だね、ルナ」
もう一回、頭を優しく撫で、一緒に入ることに。
お風呂の浴槽には、萌子の趣味で、エッセンシャルオイルが数滴、お湯に溶け込み、柔らかい、落ち着いた芳香が、バスルームを華やかに包み込む。
かけ湯をして、お互いの背中を洗い、萌子が、加奈の細い、ピアノ線のように艶のある髪を、優しくシャンプーで洗い上げると、
「気持ちいいー♪」
身体をくねらせて、喜びを表現する加奈を見て、
「もうっ、目、開けちゃ駄目よ」
萌子はクスッと笑いながら、加奈に声を掛け、シャワーを使い、勢いよく泡を落としていった。




