第7話 温泉事変
部屋の空気がいつもより少しだけ広く感じる。見慣れた間取りが、今日から別の空間になったみたいだ。
リリアにはココア、俺はカフェオレを、それぞれのグラスに注ぎ、ダイニングのテーブルに並べる。リリアは昨日ドラッグストアで買ってきたお菓子達から、今日の獲物を真剣な顔で選んでいた。
その姿にほっこりしつつ、実験で使っていたテレビのリモコンを手に取る。
テレビをつけると、旅番組がちょうど始まったところで、画面には山間の集落と、湯気の立つ露天風呂が映っていた。名前も顔も知らないおば——お姉さん達が、笑いながら露天風呂に入っている。
「温泉……いいなぁ」
つい口に出た。お菓子を選び終えたリリアが俺の隣に座る。
ココアを渡すと、リリアは湯気を楽しむみたいに、両手でカップを包んでそっと鼻を近づけ、目を細めた。
「おんせん?」
「自然が作った大きなお風呂、みたいなものかな? 健康に良かったり、湯治って言って病気や怪我の治療に使ったりするんだ。後は若返りとか美容効果もあったり」
「美容効果、ですか?」
思った以上にずいって顔を寄せてきた。
俺からすれば非の打ち所のない美少女でも、やはり女の子なんだな。
「う、うん。温熱効果とかアルカリ性がうんたらで肌がなめらかになったりとか、あんまり詳しくないけどあるみたいだよ」
「ヒロユキ様、行きましょう。必ず。絶対に」
「ア、ハイ……」
リリアの後ろに炎と鬼が見えた気がした。これは逆らっては駄目なやつだ。
というより、一緒に温泉ってむしろごほうびなのではないだろうか。
そんなことを考えていたら、画面のテロップが切り替わる。“混浴可”。あ、これ、ややこしい文字が出たぞ。ナレーションが『今はタオル巻きOK』なんて言っている。脳が勝手に余計な想像をする。やめろ。集中力が下がる。慌てて転移術のことを考えた。
「……混浴、とは?」
「えっと、男女一緒に入るやつ。昔は多かったらしいけど、今は少ない」
「い、一緒に?」
「一緒に」
再び脳内が混浴に支配されてしまった。カフェオレを一口。甘さが喉を通って、体が少し緩む。画面の湯気に気持ちが引っ張られていく。ここからは気を引き締めるところなんだけど、湯けむりは緩める力を持っている。
「……休憩したら、次いこう」
「はい。息を整えたら、また」
窓の外には真上から降り注ぐ陽の光。カーテンの裾だけ風で揺れる。湯気の映像が脳の端に引っかかったまま、俺はグラスの水滴を親指で拭った。気を引き締める。いや、緩めるのが正解か。どっちにしても、次は一歩、深いところへ進む番だ。
***
二人のグラスの中身が完全になくなったころ、体のだるさが少し抜けた。深呼吸して、ゆっくり立ち上がる。リリアはもう準備万端といった顔で、俺の横に立っている。
俺の手に重ねられた小さな手が、一緒に跳ぶことを主張していた。
「じゃあ、さっきの復習がてら部屋の中を転移術してみようか」
「はい!」
集中だ。
「入口」を設定。さっきよりも簡単に俺たちの輪郭を捉えることができた。
次は「出口」。どこにしようか、さっきはソファの上だったから、次は玄関の方にしようか。視線を巡らせる合間に、つけっぱなしのテレビが目に入る。
画面の中で、湯に肩まで浸かった人が空を見上げて、ゆっくり息を吐いていた。
――いいな、温泉。
ふと、頭の中でそう思った。思ってしまった。できるなら、今すぐに二人で行ってしまいたい。練習なんか全部あと回しにして、湯に浸かって、風呂上がりにジュースを飲んで、どうでもいい話をして、笑って、眠くなったら眠って。
一瞬で思考が巡る。
集中がほんのわずかに逸れた。
気づけば視界の向こうに、自然の中の木の柵と湯煙。そして――温泉。テレビで見たそのまんまの景色。いや、というかここ、今放送してた場所か!?
「うわっ!」
「きゃっ!」
湯気の熱が顔を叩いて、次の瞬間には、足元が空ぶって、その次の瞬間には、膝まで熱い。風呂の水面がばしゃんと高く跳ねて、俺とリリアの悲鳴が完全に同時に重なった。
湯は熱いけど、火傷するほどではない。露天風呂の岩組みの内側。風の音はあるけど、人の声はない。浴槽の縁に木札が掛かっていて、営業時間だの注意書きだのが書いてある。幸運にも人影はなかった。
俺とリリアは半身で抱き合うみたいな格好のまま、湯の中で固まった。
「す、すみません」
「いえ……こちらこそ」
顔が近い。湯気で視界が柔らかい。湯の縁に手をかけて体勢を直そうとした瞬間、俺は自分の失敗の本丸に気づいた。
リリアの服が、水を吸ってぴったりと肌に張り付いていた。薄い生地のシャツは濡れると想像以上に頼りなくて、色も薄くなって、いろいろな線がそのままの形で浮き上がる。思った以上に大きく柔らかそうな膨らみがそこにあった。
うわ。いや。見ちゃだめだ。見たら死ぬ。いろいろ死ぬ。
「ご、ごめん、目を、閉じる」
「わ、私も閉じます」
「な、なんで!?」
お互いに目をぎゅっと閉じたまま、湯の中で固まる。心臓の音が、湯の中なのによく聞こえる気がする。時間がのびる。
俺は深呼吸を一回して、頭の中で空間を認識し直す。「入口」は俺たち。「出口」は、見えないけどリビングのラグの上。何年も住んでいるから明確にイメージできる。さっきと同じ。何も考えない。
「戻る!」
「お願いします」
空間を交換する。湯気が一瞬で消えて、部屋の乾いた空気が襟元から忍び込む。足元から湯が滴り落ちて、ラグに染みが広がった。
俺とリリアはびしょ濡れのままリビングに立っていた。二人とも息が上がっている。しばらく言葉が出ない。
「……ごめん。完全に俺のミス。テレビの温泉を見て、行けたらいいなって思った。それで意識がそっちに引っ張られた」
「……」
怒っているのか、返答がない。重苦しい空気に耐えられず、リリアの横顔をのぞき込んでいた。
そこにあったのは真剣な顔。
そんなリリアの視線がこちらに向く。
「……ヒロユキ様」
「うん、本当にごめん」
「これ、すごいですっ!!」
「うん、分かってる。俺が完全悪い――って、うん? すごい?」
がばっとリリアが詰め寄ってきた。
「転移術のやり方! 出入口を作るのは、見えているところ! でもさっきのは、見えてない、です!」
「いや、テレビで流れてたから、温泉がしっかり見えて——」
「そっちじゃありません! 帰ってくる方!」
「——あっ」
そうだ。さっきまで見える範囲でしか転移術できなかったのに、今のはテレビの映像を頼りに飛んだんだ。
さらに帰るときに至っては、完全に映像は俺のイメージだけ。それでも転移は可能だった。
つまりは、『見る』は転移に必須の要件ではないということだ。
テレビでも想像でもイメージさえ明確であれば、転移術は可能になる。偶然とはいえ、これは大発見だ。
そして、それは——。
「つまり――“見えない場所”でも、映像や情報があれば転移術できる」
「はい。その情報にどこまでの精度が必要かは分かりません。ですが……もし時相視を使えば」
「直接、映像を見ることができる。つまり、どこへでもその場所へ転移術できる……?」
「可能性は高いです」
俺たちは顔を見合わせた。
リリアが最初にやってきたあの川の場所には、きっと彼女の転移の痕跡が残っているはずだ。それを時相視で“見る”ことができれば――向こうの世界へ行ける。
「……よし、準備を整えよう」
「ええ。本当に凄い——くしゅっ」
濡れて身体が冷えたのか、リリアが小さなくしゃみをした。
俺は即座にタオルを二枚、収納庫から引っ張り出した。
「これ使って」
「ありがとうございます」
ここでようやく俺は気づく。
リリアの服が、全身ずぶ濡れになっている。シャツが色を失くして肌に貼り付いている。細い肩の線。濡れた金髪が胸元で水滴を作っていて、服はもう服の仕事をしていない。
リリアは状況を整理していて、たぶんまだ自分の見た目には気づいていない。俺は視線を上に固定する。天井の照明がやけに眩しい。
「リリア。あの。先にタオルと着替えを。えっと、いや、その、俺は見ないから」
「え?」
彼女は自分の服を見下ろし、そこで固まった。視界の端で耳の先がみるみる赤くなるのが見えた。視線が泳ぐ。
次の瞬間には両腕で胸元を押さえ、半歩下がって俺から距離を取った。耳がさらに赤い。
「す、すみませんっ」
「いや謝らなくていいから。俺のせいだし。タオル。もっと出す」
収納庫からバスタオルを取り出す。いつでも使えるように入れておいたやつだ。俺は目をそらしたまま、手探りで彼女に差し出す。
ふわっとタオルが抜ける手ごたえがあり、リリアがタオルで体を隠す気配を感じる。
新しい服は——既にリリアの部屋と化した寝室に置かれてあるはずだ。
「俺、キッチンにいるから。着替え終わったら声かけて」
「はい。ありがとうございます。えっと……ヒロユキ様」
「ん?」
「見ないでくださって、ありがとうございます」
その一言にドキドキするが、俺は「当たり前だよ」とだけ返し、キッチンへ退避する。冷蔵庫のドアを開けて閉める。意味はない。とりあえず手を動かしたい。
水を飲んで呼吸を整える。とにかく俺のせいだ。
温泉の映像がトリガーになった。行きたいという気持ちが距離と方向の“意図”に紛れ込んだ。
だが、悪いことだけじゃない。可能性が一気に広がった。
「ッくしゅ!」
盛大なくしゃみをしてしまう。
よく考えれば俺もびしょ濡れだった。気づくと肌にくっついてくシャツの感触に不快感が高まってくる。こういうときにリリアが洗濯物を乾かした【乾燥】の魔法が使えたら良いのにな。
リリアの見よう見まねで、乾燥と唱えてみるが、もちろん何も起こらなかった。余計肌寒くなった気がする。
さて、どこで着替えようか。
***
リビングのラグがまだしっとりしている。あの湯けむりの熱が嘘みたいに、部屋は乾いた空気で落ち着いていた。
さっきまでの大騒ぎを思い出すと、頬がむず痒くなる。混浴って文字。湯気。ずぶ濡れ。リリアの、あの、慌てぶり。思い出すたびに身体の内側がこそばゆくなるから、意識的に深呼吸を一回しておこう。
「ヒロユキ様」
寝室から顔を出したリリアが、小さく手を振る。乾いた髪がふわっと肩に落ちて、いつも通りの碧い目だ。よかった。機嫌は悪くなさそうだ。
「さっきのこと、改めてありがとうございます。冷えませんでしたか?」
「大丈夫。こっちはジャージに着替えたし……ごめん、ほんとに」
「怒っていませんよ。むしろ、収穫が大きかったです。それに——」
リリアはまっすぐな目で言う。
「——さっきのは、私もびっくりしました。けど、少し楽しかったです」
「楽しかった、のか」
「はい。温泉は良い文化です。混浴は……その、検討します」
最後の言葉を言ったときに耳がぴくっと動いていた。可愛い。というか、混浴、検討してくれるのか。いや、考えるのをやめよう。まず片付けだな。
「ラグ、乾かすのお願いして良い?」
「任せてください」
リリアが両手を胸の前でそっと組む。髪先がふわりと揺れて、空気の向きが少しだけ変わった。彼女の生活魔法は静かで、音より先に空気の手触りが変わる。ラグの水分が抜けていき、表面がさらりと戻っていく。【乾燥】うらやましいなあ。
「ありがとう。助かる」
「いえ。ヒロユキ様が、さっき“戻る”って言ったとき、私、とても安心しました」
その一言で胸が少し温かくなる。あの瞬間はたしかに、考えるより先に手が動いたんだよな。見えない場所に“戻る”のが普通にできた。そこが一番大きい。
「結論からいくと、転移術は『見えてなくても、場所を正しくイメージできれば可能』ってことだよな」
「はい。映像や記憶を“座標”にすることができそうですね」
「"座標"、か。分かりやすいな……で、ジャンプの入口と出口を“交換”するやり方も問題なし。扉を出さなくても跳べる。うん、ここまでは手応えある」
口に出して整理すると、頭の中がスッキリしてくる。ラグの端を持ち上げて乾き具合を確かめ、ソファに腰を下ろす。リリアも隣にちょこんと座る。小柄だから、座面の端に収まる感じが子猫みたいだ。
「次は、川だな」
「はい。昨夜、私が来た場所」
「そこで、時相視を使う。痕跡を“辿る”。そのための段取りを決めよう」
リリアが素直に頷く。碧色の瞳がまっすぐで、見られると少し背筋が伸びる。よし、説明しよう。自分にも言い聞かせたいし。
「時相視はさ、過去の流れを“詠む”だけじゃなくて、空間越しに“今”を視ることもできそうなんだ。さっきの温泉で、俺の頭はたぶん無意識にリビング《ここ》の映像を拾って、転移ができた。同じことはもう完全にできる」
要は自転車に乗ることと一緒だ。最初は、バランスやスピード、目線、体幹を一つずつ意識して乗っていても、一度乗れてしまえば一つ一つへの意識は無意識になる。転移術も同じような感覚だった。
「離れた“今”を見る、ですか」
「うん。ただし燃費が悪いと思う。試しに、さっき軽く試してみたけど、集中力——これが魔力っていうのかもしれないけど、それがごっそり削れた。連続使用は数回までかもしれない」
「はい。そこは無理しないでください」
リリアの声が少しだけ硬くなる。一線を越えない約束は大事だよな。俺も頷く。
「使い方のイメージはこう。まず時相視で“川の昨夜”を短く辿る。転移の揺れ、門の流れ、そういう痕跡を拾う。次に現在の“座標”に落とし込んで、転移術の出口にする。長く見続けない。ピンポイントで一刺し、くらいで止める」
「必要なときだけ、短く、ですね」
「そう。だから、一発で希望の位置に出ることが難しいかもしれない。もしかしたら、リリアの世界だけど、リリアが旅立った場所じゃないところを出口にせざるを得ないかもしれない」
「大丈夫です。あちらの世界に戻れたかどうかは、きっと精霊が教えてくれます。そこから先は、なんとかなります」
「ありがとう。で、これは一人じゃやらない。そばにいてくれ。止め時を見てほしい」
「はい。見ています。魔力の揺れは、私も分かるので」
心強い返事だ。隣で指先をぎゅっと握られたら、たぶん無茶しないで済む。たぶん。
「問題は準備だよな。着く場所がどんなところか分からない。リリアの世界には、怪物がいるんだろう?」
「はい。私たちは魔物と呼んでいます。普通の獣とは比べものにならないほどの脅威をもつ、怪物です」
「なら、向こうに行く前に、こっちで準備できるものは全部整えたい」
「それなら、街へ行きませんか?」
目がきゅっと笑って、袖をちょん、とつままれる。買い物の記憶がよほど楽しかったらしい。昨日の百均で星が出ていたもんな。
「行こう。アウトドアショップとドラッグストア。非常食と水、浄水器、救急セット、ライト、電池、簡易の火起こし、ロープ、カラビナ、レインウェア。あと、リリアの歩きやすい装備」
「歩きやすい装備、良い響きです。あと、甘いものも、少し」
「非常時の士気向上に必要だな」
「はい。士気向上です」
言いながら、リリアの頬がわずかに緩む。完全に“士気向上=おやつ”の顔だ。可愛いから何も言わないでおく。
「それと、武器」
日本じゃ刃物は基本アウトだけど、手に入れさえすれば収納庫にしまっておけるからなぁ。
スタンガンとか防犯スプレーとかこの辺で売ってるところあったけかな。
「まぁ、鈍器ならハンマーは工具扱いだし、最悪それ。基本は逃げる。転移術あるしな」
「命を大事に、ですね」
「その命令を知っているとは……おぬし、やるな。それと、改めてルールを決めたい。川へ行っても——買い物がスムーズにいけば今晩行けそうだけど、まずは“視る”までで、絶対に跳ばない。行けそうなら、明日だ」
「はい。約束します。焦らずにいきましょう」
「俺も。焦らない。段階を踏む」
口にした瞬間、胸の奥の緊張が少しほどける。言葉にしておくのは大事だと思う。
「あともう一つ。もし向こうに行けたとしても、危ないと思ったらすぐ戻る。リリアは——いや、何でもない」
「? すぐ戻る、ですね」
「うん。"戻る"ことを簡単にできるようにしておきたい。転移術の出口は家のラグに固定しておく。そこに“帰る”を結び付けておけば、混乱してても体が勝手に動く……はずだ」
「帰る場所が決まっているの、安心します」
リリアが胸の前で小さく両手を重ねる。モノリスの板が服の下で軽く触れ合う音がした気がした。彼女の“帰る”は本来別の世界なんだよな、と一瞬だけよぎる。それでも今、彼女はここを見て笑う。ありがたいことだ。
「それじゃ、買い物に行く前に、少し体を休めよう。俺も魔力が薄くなってる感じがあるし」
「そうですね。温かいものを飲みますか?」
「カフェオレもう一杯いく。リリアは?」
「私は、ココアをお願いします。あと、昨日の丸いクッキー、もう一枚食べてもいいですか」
「士気維持、いこう」
笑いながら、キッチンで湯を沸かす。湯気が立ち上がって、いつもの音が部屋に戻ってくる。マグに粉を入れていると、背中の方から小さな気配が近づいてきた。振り向くと、リリアが寝袋の入った袋を抱えている。物置の棚から引っ張り出したやつだ。ソファで寝るのに使えるからな。
「ちょっと、試してみたくて」
「今?」
「はい。ずっと気になっていて……もしかしたら向こうに戻ったときに必要になるかもしれないでしょ?」
なるほど。確かに、夜を越す可能性もあるのか。できる限り家に戻ってきたいけど、戻れない状況もあるかもしれない。
キャンプ道具とかも買っておいた方がいいかな。
袋を開けて、くるっと寝袋を広げる。床に置くと、ふわっと膨らむ。リリアがすべり込む。金髪が入口からちょろっと出て、碧い瞳だけがのぞく。
「これ、あったかい。安心します。巣みたい」
「巣、か」
「はい。ここに甘いものと、ヒロユキ様がいれば、完璧です」
さらっと危険なことを言う。心臓が一拍跳ねたのを誤魔化すために、マグをテーブルに置く手つきを慎重にする。寝袋の横にココアを置いてやると、リリアがもぞもぞと上半身を出して、両手でマグを抱えた。湯気で頬がほんのり色づく。
「……さっきの温泉、ちょっと恥ずかしかったです」
「俺も。心臓三回くらい止まった気がする」
「では、ご褒美に温かくて甘いものを」
「今飲んでる」
「追加で、甘い言葉も」
「それは難易度が高いな」
そんな他愛ないやり取りだけで、部屋の空気が明るくなる。甘い匂いが落ち着きを連れてくるの、ほんと不思議だよな。
「ヒロユキ様」
「うん」
「こわくなったら、言ってください。止まっても、戻っても、また明日があります」
「……ああ。分かった。ありがとう」
言葉に少し重みが乗っていて、胸の奥にすっと入る。彼女は自分の世界に帰れる道を待ち焦がれていて、それでも俺の歩幅に合わせてくれる。ありがたい。ちゃんと返したい。そう思う。
「じゃ、作戦の細かいとこ詰めよう。持ち物チェックリスト作るか」
「書きます。紙、ください」
もぞもぞと寝袋から出てきて、俺の隣に座る。
メモ用紙とペンを渡すと、リリアが丁寧な字で項目を書き出していく。彼女の世界の字だろうか。意味は分からないが、丁寧さと綺麗さは伝わってくる字だ。
「食料、飲料、火種、光、医療セット、衣類、雨具、サバイバルセット……可愛いもの」
「最後だけジャンルが違う」
「士気向上です」
「了解。じゃあ“士気向上”でまとめよう」
二人で笑って、必要そうな道具を思いつくまま並べる。俺は経験がないから、どうしても慎重になる。冗長でもいい。持っていって邪魔なら次に削ればいいだけだ。そもそも収納庫にしまうから荷物にはならない。収納庫の容量もまだ余裕はある。
「あとは……転移術の“帰還先”を体に叩き込んでおきたい。さっきみたいに意識がずれても、ここに戻るって道を常に開けるようにしておく」
「どうやるんですか?」
「毎回の練習で、終わりは必ずラグへ戻る。言葉も固定する。“帰還”——この意思が生まれたら、口より先に転移術が動くくらいに」
「“帰還”。分かりやすいです」
その後、マグを空にして、短いジャンプを何本か。キッチンからテーブルへ、テーブルからソファへ、ソファからラグへ。最後は必ずラグに“帰還”する。声に出して帰る。単純だけど、体に刻むにはこれが一番だと思う。
「いい感じだな」
「はい。“帰還”が、馴染んできました」
リリアが満足そうに息をつく。尻尾が見えそうな雰囲気でくつろいでいる。尻尾はないけど、雰囲気は完全に子犬だ。
「じゃ、準備はこのくらいにして、まずは街へ行こうか」
「じゃあ、着替えてきますね!」
立ち上がったリリアが、ぱたぱたと寝室へ向かう。こっちの服が気に入ったのか、ウキウキした気持ちが伝わってくる後ろ姿だ。
俺も着替えよう。財布、鍵、スマホにモバイルバッテリーやタオルなどの小物。収納庫の中身をさっと確認して、深呼吸を一回。
今日の夜は川へ行く。そのための準備だ。怖い気持ちはゼロじゃないけど、やめるつもりもない。隣で喜んでくれる人がいるなら、進める気がする。
「ヒロユキ様」
「お、早い」
「準備できました」
小柄なシルエットに白のワンピースがよく似合う。カーディガンの袖をきゅっと引き、ニット帽を深めにかぶって耳を隠す。碧色の瞳がぱっと笑う。
「行きましょう。お買い物」
「行こう。士気向上も忘れずにな」
「はい。士気、向上します」
玄関で靴を履く音が重なる。ドアの向こうに、午後の光。昨日よりも、少しだけ遠くまで行けそうな気がした。




