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第2話 守護神

 リリアーネの声は弱々しいが、意志はしっかりしていた。俺は彼女に肩を貸して、ゆっくりと遊歩道を歩き出す。

 夜風が思った以上に冷たくて、濡れた彼女の服から水が滴っている。


「……これじゃ風邪ひくな」

「カゼ……?」

「寒くなって熱が出たりするやつだよ」

「ああ……熱病の一種ですか」


 言葉の端々に、こちらの常識が通じない感じがある。やっぱり、あの耳も服も、どこかのコスプレとかじゃなくて本物なんだろう。

 というか、今気づいたけど普通に会話しているな俺たち。ガチの日本語で。

 日本を知らない彼女が日本語を理解しているという謎の状況。これがファンタジーというやつなのか。

 そのことを彼女に問いかけてみると、おそらく神の力ではないだろうかというぶっ飛ぶ答えだった。

 門とやらを抜ける——転移してくるのに、神の力が必要だったそうで、その影響ということらしい。

 よく分からんかったけど、まあコミュニケーションが取れることにはメリットしかないので、気にしないでおこう。


 歩きながら、彼女は何度も周囲を見回している。街灯、アスファルト、遠くを走る車のヘッドライト。全部が珍しいらしい。


「光が、空から落ちてきているみたいですね」

「ああ、あれは街灯。電気で光らせてるんだ」

「デンキ……雷の精霊を使っているのですか?」

「……まあ、だいたいそんな感じ、なのかなぁ?」


 興味津々で質問を繰り返す顔は、さっきまで魔物と戦っていた人とは思えないほど無防備だ。

 そんなやりとりをしながら、何とか俺のマンションまでたどり着いた。


「狭いけど……まあ、座ってくれ」


 玄関を開けると、リリアーネは「わぁ」と小さく呟き、きょろきょろと室内を見回した。靴を脱ぐよう促すと、少し考えてから膝まであるブーツを器用に脱ぐ。


「柔らかい床ですね」

「カーペットな。土足じゃないのは、日本の文化ってやつだ」

「日本……」

「まず、手を洗おう。傷も消毒したい。お湯を出さなきゃな」

「お湯は、魔石を——」

 なんだ、魔石って。

「魔石はない。こっちに来て」


 洗面所に連れて行って、ハンドソープをささっと出す。泡にまみれた指先を、リリアーネは真剣な顔で見ていた。

 水を止めると「水の精霊がいるのですか?」って真顔で訊かれて、つい笑みがこぼれてしまう。


「大丈夫だよ。水道局がやってる」

「スイドウキョク……覚えます」


 消毒液で浅い切り傷を拭うと、リリアーネは肩をすくめて「少し沁みます」と言った。

 沁みる、って言い方が妙に上品で、こっちの心が沁みます。

 俺はタオルを持ってきて、濡れた髪を軽く拭く。するとリリアーネはじっと俺を見つめ、少しだけ頬を赤らめた。


「……ヒロユキ様は、親切なのですね」


 あ、俺のことはそう呼ぶことにしたのね。様付けはさすがに恐れ多いけど、とりあえず今はそれでいいか。


「いや、普通だよ」

「普通……?」


 文化の違いがいちいち引っかかるらしく、会話が妙に途切れ途切れになる。

 とりあえず風呂を勧めると、「お風呂があるのですか?」と驚かれた。どうやら彼女の世界では、各家庭にお風呂が設置されているのは稀らしい。天然の泉や共同銭湯みたいなものが主流なそうだ。


「すぐ沸くから、ちょっと待っててくれ」

「すぐ? 魔法ですか?」

「……まあ、現代の魔法みたいなもんだな。えっと、服は」


 クローゼットを漁って、一番無難なスウェットとTシャツ、タオルを渡す。どう見てもサイズが合わないが、今は贅沢を言っていられない。


「その……ヒロユキ様」

「うん?」

「お風呂も精霊にはお願いしなくても?」

「全部うちのガス会社が面倒見てる」

「ガス……カイシャ……」


 未知の単語を胸にしまっているリリアーネに風呂の使い方を説明して、脱衣室から脱出した。これ以上同じ空間にいると興奮してきそうだったのだ。

 最初は「きゃっ」とか可愛らしい悲鳴が聞こえたが、すぐに操作に慣れたのか浴室から流れてくる音が一定になった。


 この間に、俺は台所で夜食の準備をする。とはいえ、もうすぐ夜も更けるこの時間帯に豪勢なことはできない。冷凍庫を開けて、豆腐とネギ、卵を取り出す。電子ジャーには晩ご飯の残りが入っているはずなので、味噌汁と卵かけご飯にしよう。

 味噌汁を作る。湯気の匂いを嗅ぐだけで、体が緩む。思った以上に心労が溜まっていたようだ。


 ***


 髪をタオルで押さえながら戻ってきたリリアーネが、お礼と共にキッチンに顔を出した。

 俺のスウェットは彼女には少し大きくて、袖が手の甲まで隠れている。これが萌え袖というものか。萌える。いや燃える。めちゃくちゃ可愛い。反則だろそれは。「これ、ふわふわで気持ちいいですね。こんな高級なモノをありがとうございます」と真面目な顔で感想を言われる。こちらこそありがとうございます。


「いい匂い……この香り、落ち着きます」

「味噌汁。日本の家庭の守護神だ」

「守護神……崇めます」


 二人でテーブルにつく。既に卵かけご飯と味噌汁は配膳してある。箸ではなくスプーンを置いておいた。

 卵かけご飯を前に、リリアーネは最初戸惑っていた。しかし、せっかく出されたモノを拒むのは悪いと思ったんだろう。おそるおそる噛んで、次の瞬間、きらっと目を輝かせた。


「これ、すごく美味しいです!」

「じゃろ。これは悪魔の食べ物なのだ」


 今回はあごだし醤油で味付けしたベーシックな卵かけご飯だが、バリエーションは無限にある。次は違う味わい楽しんで貰いたい。

 味噌汁を一口飲んだ彼女は、目を細めて小さく息を吐いた。

 どうやら味噌汁も気に入って貰えたようだ。

 

 食事を終えた後に温かいお茶を出すと、両手でカップを包み込むようにして、リリアーネはしばらく香りを嗅いでいた。


「……落ち着きますね。こういう飲み物は、私の国にもあります」

「お、そうなのか」

「ええ。でも、こんなに澄んだ味ではありません」


 彼女は一口飲んで、ほっと息をつく。その仕草が、戦いのときよりもずっと年相応に見えて、不意に胸が温かくなる。

 しばらくして、ようやく彼女が静かに切り出す。


「ヒロユキ様」

「うん」

「さっき、あなたは『境界を動かした』。あれは、本来ヒトの力ではできないことです」

「境界を動かす……空間を動かす……というか、俺たちの世界では魔法とかないんだ。君が放った光の矢すら、俺たちにはそんなことできない」

「魔法がない……だから、精霊の存在が感じられないんですね」

「うん。精霊も魔法もないし……エルフもいない。この世界には俺のような人間しかいない」

「そう、なのですね。私は本当に違う世界に来たんですね」

「……」


 寂しそうな表情を一瞬見せる。だが次の瞬間には、瞳に強い意志が宿っていた。強いな、と思う。


「リリアーネの世界では、魔法はみんな使えるものなの?」


 聞けば、どうやら彼女の世界では魔法は普遍的なものらしい。

 魔法という超常現象を可能にする不可思議な技術。動力は本人のもつ魔力であったり、精霊の力であったり、神の祝福だったりするようだが、起こす現象はまさに神の奇跡といっても過言ではなかった。

 そんな魔法がないことに驚きを隠せないようだったが、だからこそ技術が発展したのですねと勝手に納得していた。


「あなたに力が芽生え始めています」

「力……?」

「私の世界の言葉で言うなら【時空支配】。時と空間を自在に操る神の術。古き神話の中にしか存在しなかった伝説の力。あなたの中に、その力の"種"があった」

「【時空支配】……」

 その名前を聞いた瞬間、不思議とその力が理解できた。時間と空間に関わる事象を改変できる力。無限の可能性をもつ力。


「はい。そして——」


 リリアーネは、つけていたネックレスを外す。ネックレスには小さく薄い金属板みたいなものが取り付けられていた。赤ちゃんの掌にすっぽり納まるくらいの大きさの、複雑な紋様の刻まれた板。

 板は、俺が近づくと微かに温度を帯びる。

 俺の胸の奥が、それに呼応するみたいに「コトン」と鳴った。


「もうひとつ、感じます。あなたの中に、未完成の“種”がある。それは世界の形を、整えるための器。たぶん、まだ小さい。けれど……」

「けれど?」


 リリアーネは息を吸い、言葉を置いた。


「その世界を“整える”力――まだ名を持たないけれど、きっとあなたが名前をつけるでしょう」

「名前……」

「名は、力を形にする。私の世界ではそう教わります」


 真剣な声色に、俺も思わず背筋を伸ばす。

 彼女は少し視線を落とし、言葉を続けた。


「その力は、おそらく……私と接触したことで目覚めたのでしょう。私が、あなたの平穏を、日常を奪ってしまいました」


 彼女の瞳から涙が零れる。


「いや、えっと! 大丈夫! 全然気にしてないから!

 そう、むしろありがとう!」


 慌てて喋るから、声が大きくなってしまった。その大声に彼女はびっくりして顔を上げた。


「男なら、こういうものに憧れるもんだからさ! だから、ありがとう!」


 それが全てではない。日常や平穏が奪われるっていう意味を本当に理解できているのかも怪しい。

 でも、自分のせいで女の子が泣いてしまうのは嫌だった。


「……ありがとうございます」


 俺が慌てる姿がおかしかったのか、リリアーネは泣きながらも微笑んだ。

 胸の奥の“コトン”という感覚が、まだじんわりと残っていた。

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