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第1話 出会い

 夜の川沿いは、昼間とは別世界だ。

 住宅街の外れを流れるこの川は、土手沿いに遊歩道があって、ジョギングにはちょうどいい。

 仕事帰りに軽く走るのが最近の習慣になっている。最近お腹周りの贅肉が気になり始めたのだ。若い頃は少しのダイエットで簡単にとれていたものが、年を取ると全然取れなくなる。年を取るってツラいよね。

 昼間の喧騒が嘘みたいに静かで、街灯の明かりが川面に帯のように揺れている。

 

 今日はどのコースにしようか。

 イヤホンから流れるお気に入りの曲をBGMに、息を整えながら川沿いを進む。気温は少し肌寒いくらいがベターだと思う。


 ――と思った、その瞬間。

 ふっと、空気が変わった。


 足を止めると、妙な冷気が頬を撫でる。秋の夜風とも違う、どこか金属のような匂いが混ざった空気だ。街灯が一瞬、暗く瞬いた気がする。


「……なんだ、停電か?」


 見上げた空には雲ひとつない。だが川面の一角に、淡い青白い光が輪を描くように浮かんでいた。

 輪は水面に浮かんでいるのではなく、そこに「穴」が開いているかのように、向こう側の何かが見える。


「え、なにあれ」


 じりじりと光が強くなり、やがて輪の中心が盛り上がって――


 ――バシャァンッ!


 水飛沫をあげて、何かが飛び出してきた。

 人影。

 倒れ込むように岸へと転がり、そこに横たわったのは、長い金髪を泥と水で濡らした女性だった。


 見た瞬間、現実感が吹き飛ぶ。

 軍服のようで、でも肩や太ももが露出した、まるで戦闘服のような装い。裂けた布の隙間から、白い肌が冷たい街灯に照らされている。

 華奢で細身の体は何カ所も擦り傷や切り傷で覆われ、右肩からは真っ赤な血が滲んでいた。

 そして――耳が、長い。人間じゃない。


「お、おい、大丈夫か!?」


 慌てて駆け寄り、膝をついて声をかける。呼吸は浅いが、確かに生きている。

 女性――いや、少女と言っていいかもしれない――がうっすらと目を開けた。

 その瞳は、宝石みたいな深い碧色。けど光は揺らぎ、疲労が色濃く滲んでいる。


「……こ、ここは?」

「ここ? 岡山、いや日本、って言っても分かんないか。とりあえず動ける?」

「……にほん? 聞いたことのない……場所です」


 かすれた声が妙に上品だ。発音も整っていて、どこか古風な雰囲気がある。

 俺が支え起こすと、彼女は小さく息をつき、少し困ったような笑みを浮かべた。


「失礼を……私、リリアーネ・ティア・エルフェリアと申します」

「え、名乗るの? こんな状況で?」

「礼儀は、どの世界でも必要と教わりましたので」


 その瞬間、また背筋にぞくりと冷気が走った。

 川面の光の輪から、何か黒い影がにじみ出てくる。


「おい、あれ……」

「――魔物!」


 リリアーネが鋭く言い切った。影はみるみる形を取り、八足の獣のようなシルエットになって岸へ這い上がってくる。

 ――蜘蛛? いや、違う。でかすぎる。

 黒い体毛は油を塗ったみたいに濡れて光り、背中からは骨のような鋭いトゲが突き出している。

 口は異様に大きく裂け、そこから覗く牙は包丁並みに長い。

 目は真っ赤で、血走った獣のようにこちらを睨んでくる。

 低く、地を震わせるような唸り声が耳の奥まで響き――腐った肉の匂いが鼻を突いた。


「……冗談だろ」


 動けない彼女を庇うように前に立つ。


「っ! 逃げて、くださいっ!」


 そんな俺の肩に、彼女の手が触れた――瞬間、胸の奥深くにあった何かが、パチンと弾けたような感覚があった。


 視界が一瞬だけ広がった。周囲の空気の流れ、足元の砂粒の位置、川面の波紋――全部が鮮明に分かる。

 だけどその異常さを考える暇もなく、魔物が唸り声をあげて飛びかかってきた。


「うわっ!」


 リリアーネを抱え込みながら、反射的に横へ飛ぶ。河原へのダイブは結構痛い。その痛みを無理矢理抑え込みつつ、手近な石を掴んで投げつける。直撃はしたが、魔物は怯むどころか速度を上げてくる。

 体勢をなんとか整えたリリアーネが俺の前に飛び出す。ボロボロの体で、両手を前に突き出し――淡い青白い光が、掌からあふれ出した。魔法? いや待て、俺の脳、受け入れるのが早すぎないか?


「"フォーンアロー"」


 囁きとともに光の矢が一本、空気を滑った。弓から射られたみたいに、まっすぐ。

 ――ズドンッ!

 鈍い破裂音。

 矢は化け物の片目を穿ち、小さな爆ぜる音を置いて消えた。獣が叫ぶ。耳の奥を爪で引っかかれたみたいな嫌な音だ。だが、怪物は脚を止めない。恐ろしい視線は俺たちを捉えたままだ。


「ごめんなさい、もう、ほとんど術が……」


 リリアーネがふらついた。よく分からないけど、魔力とかそういうものが底を突きかけているのかもしれない。俺は彼女の肩を支えながら、次の一手を探す。


「逃げてください!」

「できるか!」


 俺を逃がそうとしたのか、押しのけようとする少女。少女の力のない手が俺に触れたとき、さっきの不思議な感覚がまた走った。


 次の瞬間、世界がきしんだ。


 ――時間が、遅くなる。音が遠ざかる。風の粒が見える。


 世界から離陸するような感覚。視界の中、格子状のラインが空間に走った。夜空も、街灯も、ベンチも、全部に薄い補助線が引かれて、世界が図面みたいに見える。

 俺と怪物のあいだ、俺と川のあいだ、その向こうの暗がりのあいだ。まるで、この場所と別の場所を区切る境界線のようだ。

 俺と怪物の間にある線で作られた格子に、手を伸ばす。

 指先から、ぴし、と亀裂が走った。

 まるでドアを開くように、ひとつの空間が開く。


「……出口!」


 自分で言って自分で驚く。この超常現象を本能が理解していた。

 俺と川の間の線の格子を開く。

 気づいたときには、俺たちに向かって突進してきていたはずの怪物が川に飛び込んでいた。

 怪物が一瞬にも満たない時間で空間を跳んでいた。いや、跳ばされていた、俺によって。

 大きな水しぶきが上がり、俺たちに降り注ぐ。


 リリアーネが大きく目を見開き、俺を見る。美少女はどんな表情をしても可愛いことを知った。

 そんな彼女の驚きと、何か確かめるような色。


「空間、転移……? 見えて、いるんですか?」

「分からんけど、見えてる!」

「SHAAAAAA」


 これが何かを考える時間も与えてくれない。怪物が水面から飛び出してきた。飽きもせずこちらを狙ってくる。


「なら、もう一度――『境界をずらして』!」


 言われるがまま、俺は怪物の身体を通る別の線に意識を向け、ぐっと横に引いた。

 空気が震える。踏み込もうとしてきた怪物が、線に沿って捻じ切れた。


 怪物が、悲鳴にならない悲鳴を上げた。

 二つに分かれた怪物はバタバタとのたうち回った後、乾いた落ち葉みたいな音で地面に散らばる。

 死骸は、数秒もしないうちに黒い煙のようになって消えた。川面に残ったのは血のような色の小さな染みだけ。現実感がなさすぎて、夢を見ている気分になる。

 ……心臓がうるさいくらいに鳴っている。

 恐怖もあるが、それ以上に――何かが、目覚めたような感覚が残っていた。

 

 隣で動く気配を感じた。

 可憐という言葉では片付けられない、美を超越したような少女が、佇まいを正し深々と頭を下げていた。


「助けてくれて、ありがとうございます。あなたがいなければ、私はやられていたでしょう」

「いや、こっちこそ。ありがとう」


 我ながら意味不明な返しだ。アドレナリンのせいにしておく。

 リリアーネはふっと笑って、出しっぱなしにしていた短剣を鞘に収めた。その動作がやけに静かで、妙に心が落ち着いた。


「改めて。エルフェリア第一王女、リリアーネ・ティア・エルフェリアと申します。」

「エルフェリア……エルフ……王女?」

「はい。私の種族はエルフと呼ばれていますが……えっと」

「あ、ご、ごめん。俺は柴田浩之。柴田が家名だから、ひろゆき、でも、柴田でも。どっちでも。ええと、その、ケガは? 動ける?」

「浅い切り傷だけ。魔力が回復すれば治せるんですが、少し……」


 言い切る前に、リリアーネの膝がわずかに折れた。

 慌てて支える。軽い。けど、思ったよりしっかりしてる。


「……ごめんなさい。門を開くのに魔力をだいぶ使って、こんな見苦しい姿を」

「いやいや、大丈夫だよ! どうする? 病院行く? 警察呼ぶ?」

「ビョーイン? ケーサツ?」

「えっと、公的な機関の……治療院とか警備団みたいなやつ?」


 なけなしのアニメやマンガの知識を総動員して、エルフに伝わりそうな言葉を捻り出す。


「……いえ、この国の在り方が分からないので」


 そりゃそうだよな。いきなり捕らえられて研究材料に、なんて展開があっても不思議ではない。彼女にとっては明らかにここは異世界。慎重になるのも無理はない。そして、このファンタジーを違和感なく受け入れている俺、すごい。


「えっと、じゃあ。ここじゃ目立つから。俺の家、近いし……来ます?」


 言ってから気づいた。俺、完全に見知らぬ異世界人を家に連れ込もうとしてる。

 いやでも、このまま夜の河原に置いておいたら通報案件だし、さっきの化け物がもう一体来たらアウトだ。これは仕方のない、そう、超法規的措置というやつなのだ。


「……お願いしてもいいですか?」


 彼女は一瞬だけためらい、それからこくりと頷いた。

 それだけで、やけに真剣だった顔がふわっとほぐれて——めっちゃ可愛かった。

 照れを隠すように空を見上げる。空は思いのほか星が見えた。どれかが彼女の世界なんだろうか。俺には分からなかった。

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