↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/38

第26話 親友

電車の揺れが、今日はやけに心地よかった。


日曜日の夕方。


私はようやく八王子へ帰る電車の中にいた。


結局、昨夜はほとんど寝なかった。


早川君の部屋へ戻ってからシャワーを借り、コンビニで買った服に着替えると、そのまま二人で小説の続きを書いた。


泊まることになったときは、どうなることかと思ったけれど、何もなかった。


本当に、何も。


早川君は自分の小説を書いて、私は紗栄子の続きを書いた。


途中で眠くなってコーヒーを淹れて、明け方には二人ともほとんど口を利かなくなって、それでもキーボードを叩いていた。


朝になってから少しだけ仮眠をとり、目を覚ますとまた続きを始めた。


気がつけば昼を過ぎていて、そのまま夕方近くまで書いていた。


我ながら、何をやっているのだろう。


でも、おかげで小説はかなり進んだ。


健全。


ものすごく健全だ。


好きな男の子の部屋に初めて泊まったというのに、やったことは小説を書いただけ。


「…………」


好きな男の子。


その言葉を頭の中で使った途端、昨日の月を思い出した。


半分だけ光っていた月。


私は早川君が好きだ。


昨日、ようやく気づいた。


気づいてしまえば、今までどうして分からなかったのだろうと思う。


会いたかった。


一緒にいると楽しかった。


褒められると嬉しかった。


美鈴と一緒にいると嫌だった。


何もなかったと知って安心した。


こんなに分かりやすいのに。


私はスマートフォンを取り出しかけて、やめた。


千佳からメッセージが来ているはずだ。


昨日の夜、返信しなかった。


今ごろ怒っているかもしれない。


家に帰ってから説明しよう。


ちゃんと。


何をどう説明するかは、そのとき考えればいい。


私は目を閉じた。


すぐに眠気が戻ってきた。


*


八王子駅からアパートまでの十五分が、今日はとんでもなく遠かった。


寝不足の身体に鞄が重い。


途中で何度も、タクシーに乗りたいという誘惑に駆られた。


もちろん乗らない。


十五分のためにお金を使うくらいなら歩く。


貧乏人には貧乏人の意地がある。


ようやくアパートへたどり着き、階段を上る。


そこで足が止まった。


誰かいる。


私の部屋の前。


人がうずくまっていた。


膝を抱えて、顔を伏せている。


「…………」


怖い。


一歩、後ずさる。


でも。


その格好に見覚えがあるような気がした。


「……千佳?」


顔が上がった。


「カノン!」


「えっ」


勢いよく立ち上がった千佳が、そのまま突っ込んできた。


「生きてたー!」


「ちょ、千佳、苦しい!」


「このバカ! メッセージ送っても返事ないし、電話しても出ないし!」


「ご、ごめん」


「男の部屋にいるっぽいし!」


「声大きい!」


近所に聞こえる。


私は慌てて鍵を開けた。


「とりあえず入って」


「おじゃまします!」


さっきまで瀕死みたいにうずくまっていた人とは思えない。


*


「はい」


千佳がテーブルの上に箱を置いた。


「かすたどん」


「おお……」


思わず声が出た。


「わざわざ鹿児島から友達の安否を確認しに来た人間より、かすたどんの方が嬉しそうなんだけど」


「そんなことないよ」


「目が違った」


「そんなことないって」


疲れているせいか、甘いものが無性に食べたい。


コーヒーを淹れて、二人でかすたどんを食べる。


甘い。


美味しい。


生き返る。


「さて」


千佳が二個目へ伸ばそうとした私の手を叩いた。


「痛い」


「事情聴取を始めます」


「食べながらじゃダメ?」


「ダメです、軍曹」


「曹長、横暴です」


「黙れ。貴様には黙秘権などない」


そんなことを言いながら、千佳は自分だけ二個目を取った。


ずるい。


「で?」


「で、って?」


「昨日」


「ああ……」


私は金曜日の夜から順番に話した。


美鈴が酔っ払ったこと。


私が早川君に送ってもらうよう頼んだこと。


翌朝、早川君が昨日と同じ服で帰ってきたこと。


「ほう」


「でも、何もなかったって」


「…………え?」


千佳の手が止まった。


「ミリンとは何もなかったの」


「ちょっと待って」


「うん」


「何も?」


「何も」


「朝帰りなのに?」


「ミリンが酔いすぎて、ずっと付き合ってただけ」


千佳は黙った。


そして腕を組む。


首を傾げる。


反対側へ傾げる。


「……おかしい」


「何が?」


「私たちの推理」


嫌な予感がした。


「早川君がカノンに手を出さないのは、好きな相手がカノンの知り合いだから」


「うん」


「その知り合いは美鈴さん」


「……うん」


「ハズレじゃん」


「そうなるね」


千佳が頭を抱えた。


「軍曹!」


「はい!」


「我々は重大な誤認をしていた!」


「曹長が言い出したんだけど」


「共同責任だ!」


勝手な人だ。


「じゃあ、誰なのよ」


「分からない」


竹下先輩の顔が浮かんだ。


高校時代からの知り合い。


きれいで、大人っぽくて、早川君とも親しい。


「もしかしたら、竹下先輩かも」


「誰よ、それ」


「早川君と同じ高校だった先輩。すごくきれいな人」


「増えた!」


「候補が?」


「容疑者が!」


恋愛を刑事事件みたいに扱わないでほしい。


「それで?」


「それでって?」


「昨日の夜。カノンは早川君の部屋に泊まった」


「うん」


「二人きりで」


「うん」


「カノンは早川君が好き」


「…………うん」


自分で言うのと、人から言われるのでは破壊力が違った。


顔が熱くなる。


「それで、何もなかった?」


「なかったよ。ずっと小説書いてた」


「本当に?」


「本当に」


千佳が腕を組んだ。


そして、ものすごく難しい顔をした。


「おかしい」


「だから、何が?」


「オオカミが羊を襲わなかった」


出た。


狼。


「前にも言ったでしょ。早川君は人間だって」


「比喩!」


千佳が人差し指を立てる。


「いい? カノン」


「はい」


「男の部屋に女の子が泊まった」


「うん」


「しかも、その女の子は早川君のことが好き」


「それは早川君は知らないよ」


「そこはいいの」


「よくないと思うけど」


「なのに、何もなかった」


「だから普通じゃない?」


「……そうなのかな」


千佳が急に弱くなった。


考えてみれば、千佳にも恋愛経験はない。


狼について語っている二人とも、狼に遭遇したことがない。


「でもさ」


千佳が言った。


「前提が一個だけ残ってるよね」


「前提?」


「早川君には、好きな人がいる」


「……うん」


それは本人から聞いた。


そこだけは推理ではない。


「その相手は美鈴さんじゃなかった」


「うん」


「誰なのかは分からない」


「うん」


「でも、カノンは早川君が好き」


「……うん」


「だったら」


千佳の声から、さっきまでのふざけた調子が少し消えた。


「これからも毎週、早川君の部屋に行くの?」


答えられなかった。


「二人でご飯食べて、小説書いて、映画見たりして」


「映画は毎週じゃないよ」


「そういう問題じゃない」


珍しく正論だった。


「早川君に好きな人がいるって分かってるのに、ずっとそんなこと続けられる?」


「…………」


考えたことがなかった。


いや。


昨日までは考える必要がなかった。


私は早川君を好きではないことになっていたから。


互助関係。


小説を書くために、お互いを助ける。


それだけ。


だから毎週部屋へ行けた。


一緒にご飯を食べられた。


ネックレスをもらっても、嬉しいだけで済んだ。


でも。


今はもう違う。


「もしさ」


千佳が続ける。


「早川君が、その好きな人と付き合い始めたらどうする?」


胸が痛んだ。


想像したくない。


「それでも毎週行く?」


答えられない。


「その人の恋愛相談とかされたら?」


もっと嫌だ。


「カノン、その人の恋、応援するって言ったんでしょ?」


「……うん」


「できる?」


「…………」


できない。


たぶん。


昨日までなら、できると思っていた。


でも、それは私が自分の気持ちを知らなかったからだ。


「千佳」


「ん?」


「わたし、どうしたらいいんだろう」


千佳はすぐには答えなかった。


しばらく考えてから、珍しく静かな声で言った。


「それ、私が決めることじゃないよ」


「……うん」


「でも、今までと同じは無理なんじゃない?」


その言葉だけは、すんなり胸に入ってきた。


今までと同じ。


それが、もうできない。


早川君が変わったわけではない。


互助関係が変わったわけでもない。


変わったのは――。


私だ。


昨日、半分の月を見てしまった。


自分の気持ちに気づいてしまった。


もう、知らなかったころには戻れない。


「……互助関係、やめた方がいいのかな」


口にした途端、胸が締めつけられた。


千佳が私を見る。


「カノンは、やめたいの?」


「やめたくない」


すぐに答えていた。


自分でも驚くくらい早かった。


「でも……続けるのも辛い」


「そっか」


千佳はそれ以上、何も言わなかった。


それがありがたかった。


しばらくして。


「よし」


突然、千佳が立ち上がった。


嫌な予感がする。


「明日、大学行く」


「誰が?」


「私が」


「なんで?」


「オオカミを確認する」


「確認?」


「なぜ羊を襲わなかったのか、本人に聞く」


「絶対やめて!」


「冗談よ」


絶対に半分くらい本気だった。


「でも、早川君は見たい」


「観光地じゃないよ」


「ここまで来たんだから、それくらいいいでしょ」


「鹿児島から何しに来たの?」


「親友の救助」


千佳は胸を張った。


「ついでにオオカミの生態調査」


やっぱりそっちが本命じゃないだろうか。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。