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第25話 片思いの月

コンビニを出ると、早川君は店の前で待っていてくれた。


「お待たせ」


「もういいの?」


「うん」


私は買ったものが入った袋を、なんとなく身体の後ろへ隠した。


歯ブラシに洗顔用品、それから着替え。


別に見られて困るようなものではない。


……いや、困るものも一つ入っている。



「じゃあ、戻ろうか」


「うん」


並んで歩き出す。


もう日付も変わっているというのに、駅前にはまだ人が残っていた。酔っ払って大きな声で笑っている人もいれば、これからどこかへ向かうらしい人もいる。


いつもなら、私はこの時間に吉祥寺を歩いていない。


というより、こんな時間に東京の街を歩いていること自体、ほとんどない。


しかも隣に男の子がいる。


そして今から、その男の子の部屋へ帰る。


帰る、という言い方も変だけど。


「…………」


急に意識してしまった。


「どうしたの?」


「なんでもない」


「袋、持とうか?」


「これはダメ!」


思わず強い口調になった。


「……ダメ?」


「あ、いや。軽いから。自分で持てる」


「そっか」


危ない。


非常に危ない。


下着の入ったコンビニ袋を早川君に渡すところだった。


もっとも、持ってもらったところで中身を見るわけではないのだけれど、そういう問題ではない。


少し先を歩く早川君を追いかける。


歩幅が違うから、油断すると少しずつ離される。


前にもこんなことがあった。


暗い公園で置いていかれそうになって、早川君の袖をつかんだ。


あのときは怖かったから。


そう思っていた。


でも、本当にそれだけだったのだろうか。


今日だってそうだ。


朝、昨日と同じ服を着た早川君を見たとき、胸がざわついた。


美鈴と一晩一緒だったのかもしれない。


そう思った。


私は二人がうまくいけばいいと思っていたはずなのに、全然嬉しくなかった。


それどころか――。


何もなかったと聞いて、安心した。


どうして?


「綾瀬さん?」


気がつくと、早川君が少し先で立ち止まっていた。


「あ、ごめん」


「また歩くの速かった?」


「ううん。わたしが考え事してただけ」


「小説?」


「……たぶん」


嘘ではない。


今日も紗栄子のことを考えていた。


海に会いたい。


もっと知りたい。


どうしてそんなふうに思うのか、紗栄子自身にもまだよく分かっていない。


私は、それを書いた。


書いたのは私なのに。


今なら、少し分かる気がする。


早川君が私の歩幅に合わせて、ゆっくり歩き出す。


私はその横へ並んだ。


そのときだった。


建物の切れ間から、明るい月が見えた。


「月がきれい……」


思わず足を止める。


早川君も立ち止まった。


「本当だ」


半分だけの月だった。


満月ではない。


半分は明るく輝いているのに、もう半分は夜の中に隠れている。


私はしばらく、その月を見上げていた。


半分。


なぜか、それが今の自分みたいに思えた。


早川君と一緒にいるのは楽しい。


小説を読んでもらうのも好きだ。


私の書いたものを褒めてもらえると嬉しい。


ネックレスをもらったときも。


スカートを褒められたときも。


暗い公園で歩く速さを合わせてくれたときも。


今日、美鈴と何もなかったと知ったときも。


嬉しかった。


だったら、もう半分は?


どうして苦しいんだろう。


どうして美鈴が早川君の髪に触っただけで気になったんだろう。


どうして二人を一緒に帰したあと、あんなに眠れなかったんだろう。


どうして昨日と同じ服を見ただけで、胸が苦しくなったんだろう。


そして。


どうして、何もなかったと聞いて安心したんだろう。


「…………」


答えは、もう目の前にあった。


私が知らなかっただけだ。


いや。


知らないふりをしていただけなのかもしれない。


早川君に会いたい。


一緒にいたい。


もっと知りたい。


この人といる時間が、終わってほしくない。


それは――。


「……そっか」


小さく声が漏れた。


「ん?」


「ううん」


ようやく分かった。


私は、早川君が好きなんだ。


そう思った瞬間、胸の奥に散らばっていたものが全部つながった。


嬉しかったことも。


苦しかったことも。


自分でも理由の分からなかった、あのモヤモヤも。


全部、同じところから来ていた。


恋をしたら、もっと分かりやすいものだと思っていた。


この人が好き。


そういう答えが、ある日突然、頭の中に現れるものだと思っていた。


でも、違った。


気づいたときには、もう好きになっていた。


「…………」


もう一度、月を見る。


好きだと分かった。


その半分は、少し嬉しい。


でも。


早川君には、好きな人がいる。


本人から聞いている。


美鈴だと思っていた。


でも、美鈴とは何もなかった。


だったら誰なのだろう。


竹下先輩?


それとも、私の知らない人?


誰なのかは分からない。


ただ、その人が私だとは思えなかった。


だって早川君は、ずっと私に好きな人がいると話している。


私は、その恋を応援するとまで言ってしまった。


好きだと気づいたばかりなのに。


もう、片思いなんだ。


半分だけ明るい月。


好きになれたことは嬉しい。


でも、その先には行けない。


明るい半分と、暗い半分。


まるで――。


片思いの月だ。


「なんか」


隣から早川君の声がした。


「今の僕みたいだな」


「え?」


見ると、早川君も月を見上げていた。


「あんなに明るいのに、半分だけっていうか」


少し笑う。


「欲しいものが全部手に入ってるわけじゃない、みたいな」


「…………」


胸の奥が、ちくりと痛んだ。


早川君も。


同じなんだ。


「……好きな人のこと?」


聞いてしまった。


早川君がこちらを見る。


目が合った。


ほんの一瞬。


何か言いたそうな顔をした。


「…………」


でも、何も言わなかった。


早川君は月へ目を戻す。


「まあ……そんな感じ」


「そっか」


やっぱり、好きな人のことだった。


誰なんだろう。


美鈴ではなかった。


竹下先輩なのだろうか。


それとも、私の知らない誰か。


聞きたい。


でも、今は聞きたくなかった。


「うまくいくといいね」


口にしてから、胸が痛んだ。


自分の好きな人に、他の人とうまくいけばいいと言っている。


我ながら、何をやっているんだろう。


「……ありがとう」


早川君の返事は、少し遅かった。


それから二人とも何も言わなくなった。


同じ月を見ている。


同じように、半分しか満たされていないと思っている。


なのに私は、早川君が誰を思い浮かべているのか知らない。


早川君も、私が誰を思い浮かべているのか知らない。


本当は、すぐ隣にいるのに。


そんなことを知らない私は、また歩き出した。


「戻ろうか」


「うん」


マンションはもうすぐそこだ。


これから私は、好きだと気づいたばかりの男の子の部屋に泊まる。


さっきまでは、終電を逃したから仕方がないと思っていた。


今はもう、そんな簡単な話ではなくなってしまった。


手にしたコンビニ袋が、急に重く感じる。


中には歯ブラシと、洗顔用品と、着替え。


たった一晩分。


なのに、ものすごいことをしているような気がしてきた。


「…………」


今さら緊張してきた。


遅い。


気づくのが、何もかも遅い。


早川君がマンションの入口で振り返った。


「どうしたの?」


「なんでもない」


今日、何度目だろう。


私は小走りで追いついた。


もう一度、空を見上げる。


半分の月は、まだそこにあった。


好きだと気づく前と、何も変わらない月。


変わってしまったのは、私の方だった。





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