第23話 朝帰り
シャワーを浴びながら、紗栄子はさっきまでのことを思い返していた。
撮影が始まる前は、どうなることかと思っていた。
知らない人たちに囲まれ、カメラを向けられ、何をすればいいのかも分からない。途中で逃げ出したくなるかもしれないと、本気で思っていた。
それなのに、始まってしまえば不思議と怖くなかった。
海がいたからだ。
――俺だけ見てればいい。
言われた通り、海だけを見ていた。
その言葉も。
好きだと言ったことも。
全部、演技だった。
思い出したら、また腹が立ってきた。
「何よ……」
シャワーの音に紛れて呟く。
あんな言い方をされたら、本気にするに決まっている。
少なくとも紗栄子は本気にした。
そして、本気にした自分がものすごく恥ずかしい。
それなのに。
最後に頭を撫でられたことを思い出すと、今度は胸の奥が落ち着かなくなる。
――初めてなのに、よく頑張ったな。
あれも演技だったのだろうか。
いや、撮影はもう終わっていた。
だったら、あれは海自身の言葉だったのかもしれない。
「……連絡先、聞けばよかった」
今さら気づいた。
また会えるかと聞いたくせに、肝心の連絡先を知らない。
海は「さあな」と言って帰ってしまった。
次に会える保証なんて、どこにもないのだ。
紗栄子はシャワーを止めた。
急に静かになった浴室で、さっきより大きなため息が出た。
*
着替えを済ませ、ドライヤーで髪を乾かしていると、部屋の内線が鳴った。
『紗栄子ちゃん、もう大丈夫?』
杏果だった。
「はい。今、終わったところです」
『じゃあ、そっち行くね。ちゃんと服は着てる?』
「着てますよ!」
『ならよし』
電話の向こうで笑っている。
しばらくするとノックの音がして、杏果と立花が入ってきた。
「いやあ、紗栄子ちゃん、お疲れさま!」
相変わらず立花は軽い。
「初めてとは思えなかったよ。いやあ、僕の目に狂いは――」
「社長」
「はい」
杏果に睨まれ、立花が口を閉じた。
この人、社長なのに弱い。
「はい、これ。今日のギャラね」
茶色い封筒を渡された。
「ありがとうございます」
受け取る。
思ったより厚い。
気になって中を覗き、紗栄子は目を疑った。
一、二、三――。
数える。
もう一度数える。
「……二十五万?」
「そう」
「えっ、でも」
聞いていた金額より多い。
「こんなにもらっていいんですか?」
杏果が立花を見る。
立花が頷いた。
「本当は二十万だったんだけどね。海野君が、自分のギャラを減らして、その分を紗栄子ちゃんに回してくれって」
「海が?」
思わず聞き返した。
「うん。五万円」
「五万円も?」
「男優さんのギャラは十万円くらいだから、半分ね」
紗栄子は封筒を見る。
五万円。
海が自分の取り分を減らして、私に。
そんな話は一言もしていなかった。
むしろ最後まで、いつものぶっきらぼうな海だった。
――さあな。
そう言って帰っていった。
「なんで……?」
「初めてだったからじゃない?」
杏果が笑う。
「紗栄子ちゃんのこと、気に入ったのかもね」
胸が跳ねた。
「気に入った?」
「そうかも、って話」
「でも、好きって言ったのは演技だって」
「あら。そんなこと言われたの?」
「言われました」
しかも「おまえ馬鹿?」みたいな顔までされた。
思い出したら、また腹が立つ。
「海くんらしい」
杏果はおかしそうに笑った。
「何がおかしいんですか」
「ごめん、ごめん」
全然反省していない。
紗栄子はもう一度、封筒を見る。
五万円。
その数字だけで海の気持ちが分かるわけではない。
好きだからなのかもしれない。
初めての撮影だったから気を遣っただけかもしれない。
単なるお人好しかもしれない。
本人がいないのだから、確かめようもない。
それでも。
「……やっぱり、連絡先聞けばよかった」
「ん?」
「なんでもないです」
封筒を鞄にしまった。
嫌な奴。
口も悪い。
人のことを馬鹿呼ばわりする。
なのに、知らないところでこんなことをする。
海という男が、ますます分からなくなった。
そして、分からなくなったぶんだけ。
もう一度、会ってみたくなった。
*
土曜日。
吉祥寺駅を出た私は、いつもの道を歩いていた。
昨夜のことが、ずっと頭から離れない。
美鈴と早川君を見送ってから、私は一人で帰った。
家に着いてからも少し気になったけれど、早川君へメッセージを送ることはしなかった。
無事に送れた?
美鈴、大丈夫だった?
何度かスマートフォンを手に取った。
でも、やめた。
私が頼んだのだ。
――ミリン、送ってあげてくれる?
早川君は「分かった」と言った。
だったら、あとは二人のことだ。
私が気にする必要はない。
そう思って、昨夜は紗栄子の続きを書いた。
海のことを嫌な奴だと思っていた紗栄子が、撮影をきっかけに少しずつ印象を変えていく。
自分の知らないところで、海が報酬を譲ってくれていたことを知る。
それでも海が何を考えているのかは分からない。
だから、もう一度会いたいと思う。
そこまで書いて、私は手を止めた。
《もう一度、会ってみたくなった。》
画面には、そう書いてある。
会いたい。
その理由まで書いた方がいいのだろうか。
海が気になるから。
もっと知りたいから。
それとも――。
電車が揺れた。
私はスマートフォンから顔を上げる。
危ない。
乗り過ごすところだった。
慌てて画面を閉じた。
今考えることではない。
今日は早川君に読んでもらえばいい。
たぶん、私一人で考えるより、その方が早い。
駅から早川君のアパートまでは、もう迷わなくなった。
最初に来たときは地図を何度も確認したのに、今では角をいくつ曲がれば着くのかまで覚えている。
慣れたものだ。
……慣れてしまった、と言った方がいいのかもしれない。
土曜日にここへ来ることが、いつの間にか私の中で当たり前になっていた。
アパートが見えてきた。
私は少しだけ足を速める。
昨日も会ったのに。
たった一晩しか経っていないのに。
自分でもよく分からない。
ただ今日は、早く原稿を読んでもらいたかった。
階段を上がり、いつもの部屋の前に立つ。
インターホンを押した。
――。
返事がない。
もう一度押す。
やっぱり、何も聞こえない。
「……あれ?」
時間を間違えた?
スマートフォンを確認する。
十時。
いつもと同じだ。
メッセージも来ていない。
寝ているのだろうか。
昨日は美鈴を送っていったのだから、帰りが遅くなったのかもしれない。
三度目のインターホンに指を伸ばして、止めた。
昨日。
美鈴を送っていった。
そこから先のことを、私は知らない。
どこまで送ったのだろう。
駅まで?
家まで?
美鈴はかなり酔っていた。
一人にはできなかったはずだ。
だったら――。
「何考えてるんだろ、私」
小さく呟いた。
別にいい。
早川君がどこにいようと、私には関係ない。
友達の美鈴を送っていっただけだ。
それに、もし二人が――。
そこで考えるのをやめた。
帰ろうかな。
そう思ったとき。
階段を駆け上がってくる足音がした。
振り向く。
「綾瀬さん!」
「……早川君?」
息を切らした早川君が、階段の途中に立っていた。
「ごめん。待った?」
「ううん、今来たところだけど……」
そこで気づいた。
昨日と同じシャツ。
昨日と同じパンツ。
少し乱れた髪。
早川君は、昨日の服のままだった。




