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第22話 イヤな奴は意外とイイ奴だった

「次は衣装ね」


杏果さんが、ハンガーに掛けられた服を何着か取り出した。


その横には、下着まで用意されている。


しかも赤い。


赤というだけでも十分目立つのに、私が普段使っているものとは、どう考えても用途が違いそうだった。


「……これ、着るんですか?」


「そうよ」


「こっちじゃ駄目ですか?」


私が自分の下着を指すと、杏果さんは首を振った。


「撮影では、服を脱ぐところも大事なの。普通の下着より、ちょっと派手なくらいの方が映えるから」


「へえ……」


知らなかった。


アダルトビデオというものは、裸になってからが本番なのだと思っていた。


考えてみれば、私は今までそういうものを真面目に研究したことがない。今日の撮影にしたって、本来は杏果さんの代役で、ついさっきまで見学するだけのつもりだったのだ。


人生というものは、数時間先さえ分からない。


朝の私に「今日、赤い下着を着て撮影するよ」と教えてあげても、絶対に信じなかっただろう。


「はい。次はこれ」


渡されたのは、タンクトップとキュロットスカートだった。


「服は普通なんですね」


「どうせすぐ脱ぐから」


「あ、そういうことですか」


納得していいのか分からない。


着替えを終えると、杏果さんが少し離れたところから私を眺めた。


「うん。やっぱり紗栄子ちゃん、可愛い」


「そうですか?」


「可愛いっていうより、美人かな」


美人。


その言葉には弱い。


しかも言っているのが、私よりずっと美人な杏果さんなのだから、悪い気はしなかった。


「ありがとうございます」


「急に嬉しそうになった」


「そんなことないですよ」


「顔に出てる」


笑われた。


それから杏果さんは、私の肩に手を置いた。


「ごめんね。急にこんなことになっちゃって」


さっきまでとは少し違う声だった。


「無理そうだったら、ちゃんと言うのよ」


「はい」


「海くんなら大丈夫。ああ見えて、こういうときはちゃんとしてるから。任せておけばいいよ」


海。


さっき会った男の顔を思い出す。


態度は悪い。


言葉遣いも悪い。


初対面の女の子を「おまえ」と呼ぶ。


どこに安心できる要素があるのだろう。


ただ、杏果さんがそう言うのなら、少しくらいは信用してもいいのかもしれない。


「杏果さん」


「ん?」


「海とは、今も仲いいんですか?」


「どうして?」


「元カレなんですよね?」


杏果さんが一瞬きょとんとして、それから笑った。


「それ、今気にすること?」


「なんとなく」


「はいはい。その話は撮影が終わってからね」


はぐらかされた。


気になる。


でも、今はそれどころではない。


メイクを直してもらい、私は撮影に使う部屋へ向かった。


扉を開ける。


さっきまで準備をしていたスタッフたちの視線が、一斉に私へ集まった。


「おお」


誰かが声を上げた。


別の誰かが口笛を吹く。


帰りたい。


「いやあ、立花さん。すごい子連れてきたねえ」


ディレクターらしい男の人が、遠慮なく私を見る。


その視線に、私は反射的に腕を身体の前へ持っていった。


やっぱり帰りたい。


「紗栄子」


呼ばれて顔を上げる。


海がソファに座っていた。


「こっち」


さっきまでと変わらない、ぶっきらぼうな言い方だった。


なのに、スタッフに囲まれている今は、その声を聞いただけで少し安心した。


私は言われるまま、海の隣に座った。


近い。


さっきまでは何とも思わなかったのに、これから撮影するのだと思うと急に意識してしまう。


「緊張してんの?」


「してない」


「してるだろ」


「してません」


「じゃあ、手」


「え?」


「震えてる」


自分の手を見る。


少し震えていた。


恥ずかしい。


「初めてなんだって?」


「……悪い?」


「別に」


海は周囲のスタッフをちらりと見てから、私に顔を近づけた。


「周り、気にすんな」


「こんなに人いるのに?」


「撮影始まったら、俺だけ見てればいい」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「俺とおまえしかいないと思え」


さっきまでの嫌な感じがない。


こういうときだけ別人になるのだろうか。


「おまえのことが好きだ」


「え?」


私は海を見る。


海も私を見ていた。


冗談を言っている顔ではない。


真っ直ぐに、私だけを見ている。



――え?



ちょっと待って。


この人、私のこと好きなの?


確かに私は、自分で言うのも何だけれど、それなりに可愛いとは思う。


さっきは杏果さんから美人とも言われた。


でも、いくら何でも早すぎないだろうか。


会ったばかりだ。



一目惚れ?



そういうことって、本当にあるの?


それより杏果さんは?


元カレが自分の目の前で別の女に告白しているけれど、これは大丈夫なのだろうか。


頭の中だけが忙しい。


「紗栄子は?」


「へ?」


「俺のこと、どう思ってる?」


どうと言われても。


最初は嫌な奴だと思った。


今も口は悪い。


でも。


私を落ち着かせようとしてくれているのは分かる。


それに、好きだと言われて嫌な気はしなかった。


「……私のこと、好きなんでしょ?」


「ああ」


「じゃあ、私も好き」


海が少し笑った。


「分かった」


そして私の手を取る。


「あとは俺に任せろ」


その一言で、不思議なくらい肩から力が抜けた。


何だ。


嫌な奴だと思っていたけれど、意外と頼りになる。


少なくとも今は、周りにいる大勢のスタッフより、海の方がずっと信用できた。


撮影が始まった。


何をどうすればいいのか分からない私を、海がそのたびに誘導してくれる。


周囲から指示が飛んでも、海だけを見ていればよかった。


俺だけ見てろ。


さっき言われた言葉を思い出す。


だから、そうした。


最初は演じているつもりだった。


カメラの前で、海を好きな女の子になればいい。


そう思っていた。


けれど、海が私を見る目は思っていたより優しくて、撮影が進むうちに、どこまでが演技なのか自分でも分からなくなっていった。


さっきまで嫌な奴だったはずなのに。


不思議だった。


こんなふうに誰かから見つめられたことなんて、今まであっただろうか。




やがて――。


「カーーット!」


ディレクターの声が響いた。


終わった。


途端に身体から力が抜ける。


「紗栄子ちゃん!」


杏果さんが駆け寄ってきて、私にガウンを掛けた。


「よく頑張ったね」


そのまま抱きしめられる。


「杏果さん……」


「うん?」


「私、ちゃんとできてました?」


「十分。すごくよかった」


頭を撫でられた。


ほっとしたら、今さら緊張が戻ってきたような気がした。


「海くんも、ありがとう」


杏果さんが声をかける。


「別に」


海はもういつもの顔に戻っていた。


「俺、このあとバイトあるから。上がります」


「お疲れさま」


海がさっさと部屋を出ていく。


私はその背中を目で追った。


撮影中とは全然違う。


さっきまであんな目で私を見ていたのに。


何なのだろう。


この人は。



*



着替えるために控室へ向かっていると、ちょうど海が出てきた。


もう普段着に着替えている。


「あ、海」


気づいたら呼び止めていた。


「ん?」


「もう帰るの?」


「バイトあるから」


「そっか」


行ってしまう。


そう思ったら、聞かずにはいられなかった。


「あのさ」


「何?」


「私たち、これからどうする?」


海が眉を寄せた。


「これから?」


「うん」


「何が?」


何がって。


そこまで言わせるの?


「さっき、私のこと好きって言ったじゃん」


一瞬。


海の動きが止まった。


「……おまえ、もしかして」


「何?」


「本気にした?」


「え?」


「あれ、演技だよ」


頭の中で何かが止まった。


「……演技?」


「おまえに役へ入ってもらうための」


「ええっ!」


思わず声が出た。


「嘘だったの?」


「嘘っていうか、撮影だから」


「だって、あんな顔で言うから!」


「仕事だよ」


「その気にさせておいて!」


「だから悪かったって」


海が笑う。


腹が立つ。


ものすごく腹が立つ。


私は本気で、この人が私に一目惚れしたのだと思っていたのに。


……人には言えない。


絶対に言えない。


「もういい!」


背を向けようとしたときだった。


ぽん、と頭に手が乗った。


「わりぃ」


振り返る。


「でも、おまえ良かったよ」


海はもう笑っていなかった。


「初めてなのに、よく頑張ったな」


胸の奥が、きゅっと縮んだ。



ずるい。



さっきまで腹が立っていたのに。


「……また会える?」


口から出ていた。


海が少しだけ目を細める。


「さあな」


「何それ」


「じゃあな」


海はそれだけ言うと、片手を上げて歩いていった。


私はその後ろ姿を見送った。


やっぱり嫌な奴だ。


そう思う。


思うのだけれど――。


見えなくなるまで、なぜか目を逸らせなかった。





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