第20話 距離感
「綾瀬さん、おはよう」
その声に、身体が勝手に反応した。
振り向く。
教室の通路に、早川君が立っていた。
「あ……おはよう」
早川君の視線が、一度だけ私の服へ落ちた。
それから、少し笑う。
その顔を見た瞬間。
今朝、スカートを選んでよかった。
なぜか、そう思った。
「おはよう、早川君」
美鈴も振り返る。
「あれ?」
最初に何かに気づいたのは、遥ちゃんだった。
「早川君も、なんか雰囲気違わない?」
「え?」
言われて、私も早川君を見る。
いつもは顔の横へ垂れている長い髪を、今日は後ろでまとめていた。全部を結べるほど長くはないらしく、前髪は相変わらず残っているけれど、それだけでもずいぶん印象が違う。
そういえば昨日も、少し結んでいた。
二人きりだったから、それほど気にしていなかったけれど――。
「ほんとだ」
美鈴が立ち上がった。
「そっちの方がいいじゃん。早川君、ちゃんとすると意外とイケメンなんだね」
「意外とは余計じゃない?」
珍しく早川君が言い返した。
「あはは、ごめん、ごめん。でも前髪も切った方がいいんじゃない? ほら、ここ」
美鈴が手を伸ばした。
早川君の額にかかっていた髪を、指先で軽くつまむ。
それだけのことだった。
でも私は、なんとなく二人を見てしまった。
早川君も背が高い。
美鈴も女の子としてはかなり高い。
私だったら少し背伸びをしないと届かないところへ、美鈴は何でもないように手を伸ばしている。
並んでいる二人を見ていると、昨日まで千佳とあれこれ考えていたことが、急に現実味を帯びてきた。
……やっぱり、お似合いなのかもしれない。
「はい。これでちょっとマシ」
「ありがとう……なのかな」
「そこは素直にありがとうでしょ」
美鈴が笑う。
早川君も困ったように笑った。
私は二人のやり取りを眺めながら、少しだけ椅子に座り直した。
別に、何ということもない。
美鈴は誰に対してもこんな感じだ。
男の子だからといって妙に意識したりしないし、思ったことはそのまま口にする。
たぶん、そういうところも早川君には合っている。
――そう考えると、胸のあたりが少し落ち着かなかった。
「そうだ、早川君」
美鈴が思い出したように言った。
「ちょうどよかった。今度の親睦会のこと、知ってる?」
「親睦会?」
早川君が首を傾げる。
私も同じだった。
「……やるの?」
「ちょっと二人とも」
美鈴が呆れた顔をする。
「掲示板、見てないでしょ」
「最近見てなかった」
「僕も」
「もう」
文藝サークルには、連絡用の掲示板がある。
個人的に連絡先を交換するのは自由だけれど、サークル全体のグループメッセージはない。
理由は「トラブル防止」らしい。
何のトラブルが起きるのかは知らないけれど、私のように掲示板そのものを見なくなる人間が出るという別の問題は起きている。
「今度の親睦会、二年生が幹事なの。それで、お店の下見に行こうと思ってるんだけど」
美鈴が私と早川君を交互に見る。
「二人とも付き合ってよ」
「え」
思わず声が出た。
美鈴と早川君。
二人で下見。
それなら――。
「あの、わたしはいいよ」
「何が?」
「二人で行ってきて」
美鈴が不思議そうな顔をする。
「なんで?」
「だって、下見って居酒屋でしょ。お金かかるし」
これは嘘ではない。
むしろ非常に重要な問題だ。
親睦会そのものでもお金がかかるのに、その前に下見でさらに出費するなんて、今の私には贅沢すぎる。
それに。
二人で行けばいい。
早川君にとっても、その方が――。
「大丈夫」
美鈴があっさり言った。
「下見はサークルの運営費から出るから」
「……え?」
「つまり、タダ」
タダ。
その一言に、私の中の何かが揺れた。
「料理も?」
「もちろん」
「飲み物も?」
「もちろん」
「行きます」
即答した。
「カノンちゃん……」
遥ちゃんが呆れたように私を見る。
仕方がない。
無料の食事を前にして、それでも二人きりにしてあげようと思えるほど、私は人間ができていない。
「でもカノン、お酒飲めないでしょ?」
「飲まなければいいじゃん」
「早川君もまだだっけ?」
「うん。十月だから」
「あれ?」
美鈴が私を見る。
「カノン、早川君の誕生日知ってるの?」
しまった。
「え……あ、うん」
どう答えよう。
昨日、本人に聞いたから。
それだけなのだけれど、なぜか美鈴の前では言いにくい。
「この前、話してて……たまたま」
「ふうん」
美鈴はそれ以上気にした様子もなく、早川君へ向き直った。
私はそっと息を吐く。
何を焦っているんだろう。
別に誕生日くらい知っていても、おかしくはない。
「ねえ、ミリンちゃん」
遥ちゃんが手を挙げた。
「わたしは?」
「何が?」
「下見。わたしもタダ飯食べたい」
「ハルカは文藝サークルじゃないでしょ」
「差別だ」
「自腹なら来ていいよ」
「ケチ!」
「ケチじゃない」
「貧しい人は美しいんじゃなかったの?」
「それとこれは関係ないでしょ!」
「ヒンヌー教なのに?」
「こら!」
また始まった。
「じゃあいいもん。わたしは彼氏と遊びに行くから」
遥ちゃんが唇を尖らせる。
彼氏。
その言葉で、私はもう一度、美鈴と早川君を見た。
二人が付き合ったら。
こんな感じなのだろうか。
美鈴が好き勝手なことを言って、早川君が少し困った顔で聞いている。
美鈴は男の人とも自然に話せるから、早川君だって変に緊張しなくて済みそうだ。
やっぱり、お似合いだと思う。
「じゃあ、わたしの代わりに遥ちゃんが行けば?」
思いついて言った。
「え?」
遥ちゃんより先に、美鈴が反応した。
「なんでカノンが抜けるのよ」
「いや、別にわたしは――」
「カノンはすぐそうやって引くんだから」
「引くって?」
「なんでも。『私はいいから』って」
そんなことはない。
……と思う。
「そういうの、よくないよ。いつか好きな男の子ができても、ほかの子に譲ったりしそう」
「そんなこと――」
言いかけて、口を閉じた。
なぜだろう。
昨日、千佳にも似たようなことを言われた気がする。
「とにかく、三人で行くからね」
美鈴が勝手に決めた。
「早川君もいい?」
「僕はいいよ」
「じゃあ決まり。金曜日ね」
金曜日。
早川君と美鈴と、私。
三人で居酒屋。
私はもう一度、二人を見る。
どうして私まで一緒なんだろう。
二人きりにしてあげた方がいいと思う。
そう思っている。
なのに。
運営費から出ると聞いた瞬間に参加を決めた自分を思い出す。
「……タダ飯には勝てなかった」
「何?」
「なんでもない」
美鈴が首を傾げる。
*
金曜日。
授業を終えた私は、早川君、美鈴と一緒に渋谷へ向かった。
親睦会の候補に挙がっているのは、駅から少し離れたところにある居酒屋だった。
美鈴を先頭に、私と早川君がその後ろを歩く。
「予約、六時半だからちょうどいいね」
美鈴がスマートフォンを見ながら言う。
「席と料理と、あと飲み放題の内容も確認しないと」
「下見って、意外とちゃんとするんだね」
「当たり前でしょ。幹事なんだから」
私はてっきり、タダで食べて帰るだけだと思っていた。
危なかった。
口に出さなくてよかった。
「カノン、ちゃんと意見言ってよ」
「言うよ」
「安ければ何でもいい、とかはなしね」
「……言おうと思ってた」
「やっぱり」
美鈴が笑う。
その少し前を歩く美鈴の横へ、信号待ちで早川君が並んだ。
二人とも背が高いから、人の多い渋谷でもすぐに見つけられる。
私はその後ろに立つ。
ふと、月曜日の光景を思い出した。
美鈴が早川君の前髪に手を伸ばしたとき。
私には少し背伸びしないと届かない距離。
美鈴には、普通に手を伸ばせば届く距離。
物理的な話でしかない。
身長が違うのだから当然だ。
それなのに、なぜかそのことをまだ覚えていた。
信号が青になる。
二人が歩き出す。
私も少し遅れて、その後を追った。




