第19話 ヒンヌー教
週明けの月曜日。
今日は二限目からなので、朝は少し余裕があった。
一限目からだと九時開始だから、八王子から都心へ向かう電車は通勤時間帯と重なる。始発駅なので座れることは座れるけれど、週の初めから満員電車に囲まれるのはできれば避けたい。
その点、二限目からの日はありがたい。
私は座席に座ると、スマートフォンを取り出した。
いつもなら、この時間も仕事に使う。
Webライティングの仕事は、移動中にスマートフォンで下書きを作っておいて、大学の図書館で空き時間に文章を整えることが多い。
一文字でも書けば、その分だけお金になる。
貧乏学生に、ぼんやり電車へ揺られている時間などないのだ。
……ないのだけれど。
今日はさっきから、ほとんど進んでいなかった。
数行書いては手が止まる。
画面を眺める。
また少し書く。
そして、気がつくと別のことを考えている。
美鈴。
昨日、千佳との電話でたどり着いた答えだった。
早川君の好きな人は、たぶん美鈴。
今日の二限目は、その美鈴と一緒に受ける講義だ。
どんな顔をして会えばいいんだろう。
いや、普通でいい。
というより、普通でなければ困る。
早川君はまだ美鈴に告白していないのだから、私が余計なことを言って、美鈴に変な意識をさせたら台無しだ。
コンテストが終わったら応援すると決めたけれど、今はまだ何もしない。
知らないふり。
いつもどおり。
それが一番だ。
私はスマートフォンの画面を消した。
(絶対にやらかさないようにするんだ、花音)
こういうことを強く決意したときほど、人はやらかすような気もする。
少し不安になった。
*
早めに教室へ着くと、まだ学生はまばらだった。
大学の教室は教壇へ向かってすり鉢状に机が並んでいて、席は自由だ。
私はいつものように中央より少し前の席を選んだ。
後ろの方だと黒板が見えにくい。
眼鏡をかけていても、見えにくいものは見えにくい。
それに前すぎると、今度は先生と目が合う。
当てられそうで落ち着かない。
そのあたりを考えた結果、私の定位置はだいたいこの辺になる。
バッグを隣の椅子へ置き、教科書を出していると、
「おはよう、カノン」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
「あ……おはよう、ミリン」
蜂矢美鈴。
同じ文学部の二年生で、文藝サークルも一緒。私が大学へ入ってからできた、数少ない友達の一人だ。
そして今のところ――早川君の好きな人、第一候補。
そう思った瞬間、なんとなく顔をまともに見られなくなった。
いけない。
普通。
いつもどおり。
「どうしたの?」
「え?」
「今日」
美鈴が私を上から下まで見る。
「なんか女の子みたい」
「ちょっと待って。わたし、前から女の子なんですけど」
美鈴が笑った。
「だって、カノンがスカート履いてる」
言われて、自分の服を見る。
ブラウスにスカート。
確かに普段の私とは違う。
大学へ来るだけなら、だいたいジーンズに適当なトップス。高校生のころから着ている服だって、まだ普通に現役で働いている。
着られるものを捨てるなんて、もったいない。
でも今日は、朝起きて服を選んでいるとき、なんとなくスカートに手が伸びた。
土曜日にも着ていたものだ。
あのとき――。
『今日、いつもと雰囲気違うね』
早川君に言われたことを思い出す。
似合うとも言ってくれた。
あれは、ちょっと嬉しかった。
だから今日も着てきた。
……それだけだ。
「たまにはいいでしょ」
「いいけど。何かあったの?」
「何もないよ」
「ほんとに?」
美鈴が目を細める。
切れ長の目なので、こういう顔をすると妙に疑っているように見える。
「本当に何もないって」
「ふうん」
まだ疑っている。
美鈴はショートカットで、背も高い。
百七十センチくらいあるから、私と並ぶとかなり差がある。
今日も細身のデニムに白いトップス、その上に薄手のカーディガンというシンプルな格好なのに、ちゃんと似合っている。
私が同じ服を着ても、たぶんこうはならない。
スタイルがいい人は得だ。
「でも、似合ってるじゃん」
「ほんと?」
思わず聞き返した。
「うん。カノン、そういう格好も似合うよ」
「そ、そう?」
二日続けて褒められた。
スカート、意外といいかもしれない。
「いいなあ、カノンは」
ところが、美鈴の声が急に低くなった。
「え?」
「ちゃんと女の子らしくて」
嫌な予感がする。
「ミリン?」
「ワタシなんて、何着ても『カッコいい』とか『スタイルいい』とか、そればっかり」
始まった。
「そんなことないよ。ミリンは綺麗だし」
「綺麗っていうのも、可愛いとは違うでしょ」
「そんな分類なの?」
「分類なの」
美鈴は自分の胸元へ視線を落とした。
あ。
そっちか。
「どうせワタシは、盛ろうとしても盛るものがない女ですよ」
「朝からやめようよ、ヒンヌー教」
美鈴には、胸が小さいという長年の悩みがある。
ちなみに千佳にもある。
二人とも背格好も性格もまるで違うのに、この話題になったときだけ、驚くほど同じ反応をする。
貧乳女子には、私の知らない宗派でもあるのだろうか。
たぶん教義の第一条は、
『巨乳を羨むべし』
あたりだ。
「でも、ミリンのこと好きな男の子って、普通にいると思うよ」
言ってから、しまったと思った。
美鈴が私を見る。
「何、急に」
「いや、その……」
やらかした。
教室に入って、まだ数分。
絶対にやらかさないと決めたばかりなのに。
でも、これくらいなら大丈夫だ。
別に早川君の名前を出したわけではない。
「ミリン、スタイルいいし、綺麗だし。モテそうだなって」
「カノンに言われてもねえ」
「どういう意味?」
「カノン、自分が男子にどう見られてるか全然分かってないじゃん」
「分かってるよ」
地味。
以上。
「分かってない顔してる」
「何、その顔」
美鈴が笑う。
いつもの美鈴だ。
こうして話していると、昨日あれほど千佳と真剣に推理したことが急に馬鹿らしく思えてくる。
本当に早川君は、美鈴のことが好きなんだろうか。
いや。
千佳の推理では、かなり可能性が高かった。
……千佳の推理だけど。
少しだけ不安になってきた。
「それで?」
美鈴がまた私を見る。
「今日のイメチェン。誰か気になる人でもできた?」
「えっ」
心臓が一度、大きく鳴った。
「な、なんでそうなるの?」
「急に服装変わったから」
「別にそういうんじゃないよ」
嘘ではない。
たぶん。
早川君に褒められたから、また着てみようと思った。
でも、それは誰だって褒められれば嬉しいからだ。
気になる人ができたからスカートを履いてきた、というのとは違う。
……と思う。
「ミリンもお洒落だし、わたしももう少し服に気を使おうかなって。それにバイトも増やしたいし」
「ワタシがお洒落?」
「お洒落だよ」
「ハルカなら分かるけど」
「なに、なにー? わたしがどうしたって?」
ちょうど名前を出したところで、後ろから声が飛んできた。
「あ、おはよう」
永井遥が、私たちの後ろから顔を出した。
「おはよう、遥ちゃん」
「おはよー」
遥ちゃんは経済学部の二年生。
学部は違うけれど、一般教養では同じ講義を取っているものがいくつかある。
背の高い美鈴とは正反対で、遥ちゃんは小柄だ。
たぶん百五十センチあるかないか。
切れ長の目をした美鈴が狐なら、大きな丸い目をした遥ちゃんは狸。
二人と知り合ったころ、私はひそかに「狐と狸」だと思っていた。
もちろん本人たちには言っていない。
言う必要もない。
「来たわね」
美鈴が遥ちゃんを見る。
「貧乳の敵」
「ええー、なにそれ」
遥ちゃんが笑いながら自分の胸元を見る。
「またミリンちゃん、朝から卑屈になってるの?」
「その余裕が腹立つ」
「わたし何もしてないよー」
何もしていない。
ただ、ある。
美鈴にはなくて、遥ちゃんにはある。
しかも小柄な身体に対して、かなり目立つ。
世の中は不公平だ。
「カノンも敵だからね」
「なんでわたしまで?」
「裏切り者」
「どこから裏切ったの?」
「持たざる者の気持ちを理解しない者は、すべて敵」
「ヒンヌー教、怖い」
遥ちゃんがけらけら笑っている。
美鈴も本気で怒っているわけではない。
いつものやり取りだ。
三人でいると、だいたいこんな感じになる。
美鈴が何か言い出して、遥ちゃんが面白がって、私が巻き込まれる。
大学へ入ったばかりのころは、こういうくだらない話をできる相手ができるとは思っていなかった。
地元には千佳がいる。
東京には、美鈴と遥ちゃんがいる。
人数は少ないけれど、私にはそれくらいがちょうどいい。
「それよりカノンちゃん」
遥ちゃんが私を見た。
「あれ? 今日かわいい」
「え?」
「スカートじゃん。珍しい」
まただ。
「ね?」
美鈴が嬉しそうに同意する。
「ワタシも言ったの。絶対何かあるって」
「もしかして、好きな人できた?」
どうして二人とも同じところへたどり着くのだろう。
「違うってば」
「怪しい」
「怪しいねー」
二対一になった。
私はため息をつく。
「だから、たまにはこういう格好も――」
そこまで言ったところで、ふと思った。
もし。
早川君の好きな人が美鈴ではなく、遥ちゃんだったら?
私は遥ちゃんを見る。
小柄で可愛らしくて、明るい。
男の子とも普通に話せる。
服装も女の子らしい。
あり得なくはない。
でも遥ちゃんには彼氏がいる。
早川君は「片思い」だと言っていた。
だったら、恋人のいる遥ちゃんを好きになっている可能性だって――。
いや。
私は昨日の千佳の推理を思い出した。
オオカミ。
子ヤギ。
鋼の意志。
……思い返すと、やっぱりものすごい理屈だ。
それでも、その理屈に従うなら遥ちゃんではない気がする。
私と何かあったら困る相手。
同じ文藝サークルで、私とも仲がよくて、早川君とも接点がある。
やっぱり美鈴。
私は隣に座る美鈴をちらりと見た。
「なに?」
「ううん、何でもない」
「変なカノン」
美鈴はそう言って、教科書を机の上に置いた。
もし本当に美鈴なら。
私はこの子と早川君がうまくいくように、手伝うことになる。
そう考えると、また胸の奥が少しだけ重くなった。
別に、美鈴が嫌なわけではない。
むしろ美鈴なら安心だ。
いい子だし、綺麗だし、早川君とも話が合いそうだ。
だから――。
「綾瀬さん、おはよう」
その声に、身体が勝手に反応した。
振り向く。
教室の通路に、早川君が立っていた。
「あ……おはよう」
早川君の視線が、一度だけ私の服へ落ちた。
それから、少し笑う。
その顔を見た瞬間。
今朝、スカートを選んでよかった。
なぜか、そう思った。




