第13話 この魔族、どうやら腹ペコらしい
俺は倒れている女の額から伸びた黒い角を見つめたまま、しばらく動けなかった。
魔族を見るのは、これが初めてだ。
以前、魔王軍が関わっているらしい依頼を受けようとしたことはある。けれど、その時はリラさんに止められた。
『ルカ、あなたにはまだ早いわ』
普段なら俺が痛い目を見るのを楽しみにしそうな人が、その時だけは笑っていなかった。
そして今、その魔族が目の前に倒れている。
泥に汚れた銀髪に、擦り切れた黒い外套。
細い腕にはいくつもの傷が走り、そこから血が滲んでいる。
「ルカさん……」
追いついてきたミナが、俺の背中越しに恐る恐る覗き込んだ。
「この人、魔族……ですよね?」
「ああ」
「ど、どうしましょう」
「どうするって」
俺は女の首筋へ指を当てた。
脈は弱く、呼吸も浅い。
けれど、まだ生きている。
「助けるしかないだろ」
「でも、魔族ですよ……?」
ミナが怖がるのも無理はない。
俺だって身構えてしまった。
「敵なら、起きてから考えればいい」
「起きてから襲われたらどうするんですか?」
「その時は俺がなんとかするよ。ほら、俺、勇者だし」
「相変わらず適当ね」
後ろから、聞き慣れた声がした。
振り返ると、リラさんがゆっくり歩いてくるところだった。
馬車は道の端へ寄せ、馬の手綱も近くの木に繋いできたらしい。
リラさんは女の前へしゃがむと、顔にかかった銀髪を指先で払った。
「ずいぶん弱っているわね」
「治せますか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「魔族を治すのは初めてだもの」
薄紫の瞳が、わずかに細められる。
「人間と同じように治るのかしら」
「実験みたいに言わないでください」
「あら。そんなこと言ってないわ」
言ってはいない。
顔には出ているけど。
こんな時でもいつもどおりのリラさんに、少しだけ肩の力が抜けた。
リラさんは女の肩へ手をかざすと、白い手袋の先に、淡い光が灯った。
柔らかな光が傷口へ染み込み、裂けた皮膚を次々と塞いでいく。
「ちゃんと効くわね」
「そりゃよかったです」
腕の傷が消え、肩に走っていた傷も塞がっていく。
服の下までは分からないが、浅かった呼吸も次第に落ち着いてきた。
やがて、リラさんが手を離した。
「これで命に別状はないと思うわ」
「けど起きませんね……」
ミナが女の顔を覗き込む。
「何日もまともに食べてないんでしょうね。傷は治したけど、体力までは戻らないわ」
リラさんは膝についた土を払いながら立ち上がった。
「寝かせておけば、しばらくしたら目を覚ますでしょう」
俺は木々の隙間から空を見上げた。
空はもう赤く染まり始めていた。
ここから街までは、馬車でもまだ距離がある。
今から無理に進めば、森を抜ける頃には真っ暗だ。
「今日はここで野宿するか」
「そうですね」
ミナが不安そうに森の奥を見る。
俺たちは荷台の魚型魔獣を片側へ寄せ、反対側に毛布を敷いて女を寝かせた。
◇
日が落ちる頃には、野営の準備もどうにか整った。
女は焚き火の近くに寝かせ、上から毛布を掛けている。
焚き火がぱちぱちと音を立てていた。
その上では、魚型魔獣が串に刺され、じっくりと焼かれている。
俺たちは腹が減っていた。
依頼書には、納品に必要な数さえ残せば、余った分は好きにしていいと書いてある。
つまり、食えるということなのだろう。
たぶん。
「……本当に食えるんですかね、これ」
俺は串の先を見つめた。
湖に浮かんでいた時も気味が悪かったが、焼くとさらに生々しい。
熱で半開きになった口から、小さな歯が覗いている。
香ばしい匂いだけはする。
「せっかく余ったんだもの。ルカが食べてみればいいじゃない」
リラさんは平然としていた。
俺の隣では、ミナが両手で口元を覆っている。
「わ、私は保存食でいいです」
「見た目だけだろ。たぶん」
「……多分なんですね」
俺だって、できればこれを食べたくはない。
だが、焼けた皮から脂が落ち始めると、匂いはかなり良くなってきた。
意を決して、一口かじる。
皮はぱりっと焼けていて、白身は柔らかい。
少し癖はあるが、塩を振れば普通に食える。
「……意外と美味いな」
「本当ですか?」
「ああ。見た目を気にしなければ」
「それが一番難しいです」
ミナは人面魚と目を合わせないように、顔を逸らしたまま答えた。
その時だった。
背後から、かすかな衣擦れの音が聞こえる。
振り返ると毛布を掛けて寝かせていた女が、ゆっくりと身体を起こしていた。
銀色の髪が肩から滑り落ち、焚き火の光を受けて揺れる。
赤紫の瞳が周囲を見回し、俺たちの姿を捉えた。
細い身体が、ぴたりと強張る。
俺たちの人数、馬車の位置、森の奥。
赤紫の瞳が、素早く周囲をなぞっていく。
「お、起きたな」
俺が声をかけると、女の右手が腰へ伸びた。
だが、そこに武器はない。
短剣は、念のため焚き火を挟んだ向こう側へ置いてある。
「……武器はどこだ」
低い声だった。
まだ喉が乾いているのか、少し掠れている。
「あそこだ。落ち着いたら返すよ。ただ、いきなり斬りかかるのはやめてくれ」
女は短剣へ視線を向けたが、すぐには手を伸ばさない。
代わりに身体を引きずるようにして、俺たちから少し距離を取った。
「何のつもりだ」
「助けたつもりだけど」
俺は焼けた魚を一本持ち上げた。
「食う?」
「違う」
赤紫の瞳が鋭くなる。
「どうして私を助けた」
「倒れてたから」
「私は魔族だ」
「らしいな。見れば分かる」
黒い角も、尖った耳も、隠しようがない。
女は黙り込み、俺の顔から何かを探るようにじっと見つめていた。
「で、食べないのか?」
俺はもう一度、串を差し出した。
視線が魚型魔獣へ落ちる。
こんがり焼けた人間じみた顔と目が合った瞬間、露骨に眉が寄った。
「……そんな気色の悪いもの、食べられるわけないだろう」
ぐぅぅぅぅ……。
静かな森に、やけに長い音が響いた。
女の動きが止まる。
ミナが目を丸くした。
リラさんは口元へ手を当てている。
どう見ても、笑うのを堪えている。
「食う?」
「……いらない」
女はそう言ったが、視線は串から動かなかった。
「元気な音ね」
リラさんが楽しそうに言う。
女の白い頬が、うっすらと赤くなった。
「うるさい」
「誰も腹の音までは責めてないぞ」
鋭い目で睨まれた。
かなり気が強そうだ。
俺は串を差し出したまま待つ。
しばらくして、女は諦めたように手を伸ばした。
「……少しだけだ」
「はいはい」
「毒が入っていたら殺すから」
「俺も食ってるだろ」
「お前には効かない毒かもしれない」
「警戒心すごいな」
もうちょっと、面倒くさいぞ。
「毒だったら、私の出番だったのにね」
それまで静かだったリラさんが、口を開く。
「リラさん、ちょっとうるさいです」
……この人は、いつもこんな調子だ。
女は串を受け取っても、すぐには食べなかった。
まず匂いを嗅ぎ、次に焼け具合を確かめ、最後に俺の顔を見る。
「そこまで疑うなら食わなくてもいいぞ」
「うるさい」
女は覚悟を決めたように、小さくかじった。
「……」
「どうだ?」
「……骨が多いな」
「最初の感想そこ?」
「味は普通だ」
そう言いながら、もう一口。
さらにもう一口。
警戒していたはずなのに、食べる速度はどんどん上がっていく。
腹の音は、嘘をつかなかったらしい。
「美味いだろ?」
「普通だと言っただろう」
「そうか」
「見た目は最悪だけど」
「そこは同感だ」
食べ終える頃には、女の表情からわずかに険しさが抜けていた。
ミナが水の入った器を手に取る。
一度だけ女の角へ目を向け、それから、そっと差し出した。
「あ、あの……どうぞ」
女は器とミナの顔を交互に見る。
すぐには受け取らない。
けれど、しばらく迷ったあと、静かに手を伸ばした。
「……ありがとう」
口にした直後、女はしまったという顔をした。
ミナの顔がぱっと明るくなる。
「い、いえ!」
勢いよく返事をしたせいで、今度は女の方が少し驚いていた。
俺は焚き火へ新しい枝を放り込む。
「名前、聞いてもいいか?」
女は器の水面へ視線を落とした。
少し間を空けてから、口を開く。
「……メルヴィ」
一度だけ言葉を切る。
「メルヴィ・フレンだ」




