前編
ひとりの娘が森の中に立ち尽くしていた。娘は立ち尽くすしかなかった。
なにせ、広大な庭を見渡す屋敷の、窓辺の椅子に座っていて急に気を失い、気がついたと思ったら森の中にいたからだった。
娘は縋るように大きな木に手をついて、恐る恐る辺りを見回してみた。大きな木々の間を木漏れ日が差し、鳥のさえずりが聞こえる、美しくも雄大な森だった。
何度か馬車に乗って通ったことがあると、娘は思った。
よく見ると、遠くに道が見えた。
どうやら人の居るところに行けそうだと、そのことにほっとして次に自分の姿に気づいて、またがく然とした。
白いブラウスの上に茶色い革のコルセットワンピースにブーツ。どう見ても町娘の格好だった。
違う、私は貴族の娘。フロンティアのはず。
フロンティアはこれは夢かと、両手で頬をつねってみた。しかし、変わらぬ景色と自分の姿に、軽い痛みが加わっただけだった。
「どうして、どうして」
フロンティアは泣きそうに呟きながら、とにかく、道を目指して一目散に駆け出した。
道に辿りついたフロンティアは、次は悪い男や獣に怯えながら、身を縮めて歩いた。
誰か、知っている人に出会えたらと思ったが、そんなことはなく、しかし、悪い男や獣にも出会わずに町に出ることができた。
その町は、フロンティアの屋敷がある町だった。
「よかった。とにかく、帰りましょう」
フロンティアはその前にと、人家の窓に自分の姿を映してみた。
やはり、恐れていた通り、服装だけでなく見た目まで別人になっていた。
長く艶のある髪に透き通る白い肌、美しくも可愛くも見える顔、なにより目を惹いたのは、右は青、左は緑と、左右別々の色の瞳だった。
「幸運を呼ぶと云われるオッドアイだわ。これは一体?」
フロンティアは自分の変化を、只々不思議に思うばかりだった。ひとりで考えてもわからない、早く誰かに相談したいと屋敷の方に歩き出した。
見慣れた賑やかな町、知った顔も見かけるが、誰もがフロンティアを通り過ぎていく。
この姿で私はフロンティアと言っても、信じてもらえるかしら? それと、私の元の体はどうなったのでしょう?
再び不安が出てくると、足が止まってしまった。
道の端に寄って、誰かひとりでも信じてもらわなければと考えた。
信じてくれそうな人が浮かぶ中、助けを求めたい人が一番に浮かんでいることに気づいた。
クロスのところに行こう。フロンティアはそう決心した。
兵士のクロスフォード。彼とは幼い頃、少しの間よく遊んでいた。歳は変わらないのに、引っ込み思案だったフロンティアを引っ張って行ってくれた。その頼もしさを思い出していた。
恋心もあった。
いつしか会えなくなったのは、身分が違うからだとフロンティアも諦めていたが、身分不詳正体不明だが、どう見ても町娘の今の自分なら会えるのではと思った。
フロンティアはさっそく、彼に会う方法を考えて、花屋に行った。
クロスは兵の宿舎で暮らしている。いつか、屋敷のメイドから差し入れを持って行けば、お目当ての兵に会いやすいと聞いていた。
軒先に並んだ花の中から、赤い薔薇に手を伸ばしたが、お金がいることに気づいてポケットを探った。
お金がないわ。森で花を摘んでおけばよかった。
戻るのは恐ろしく、ため息をついた。
そこへ、店のおかみさんが近づいて来て、フロンティアの顔をマジマジと見た。
「あれ、綺麗な娘さん! それに、幸運のオッドアイだね! 見ない顔だねぇ?」
興奮していたおかみさんは、最後は首をかしげた。
「はい、たった今、この町に来ました」
フロンティアはそう言うしかなかった。
「よく来てくれたわねぇ。記念にこれをあげるわ!」
自分に幸運が訪れると決まったように、おかみさんはキラキラした笑顔で赤い薔薇を一本くれた。
「ありがとうございます!」
フロンティアも負けないくらい、キラキラした笑顔を返して薔薇を受け取った。
元気をもらって、一路宿舎を目指して歩き出した。
宿舎は城の敷地内にあった。フロンティアはメイド達の話を頼りに、城門の裏にある兵士用の小さい門を探り当てた。
黒い鉄城門の向こうで、鎧姿の兵がふたり、暇そうにしていた。
「あの」
声をかけると、兵は二人揃ってすぐに近づいてきた。
「誰だ、あんた」
「綺麗だなぁ。それに、オッドアイだ」
兵達は門にへばりついて、フロンティアをじろじろ見た。
「私は……私は、ローズといいます。クロスフォードさんに、お会いしたいのですが」
兵達はフロンティアの切実な瞳と、両手に持った赤い薔薇を見て笑い出した。
色々からかわれたが、フロンティアは顔を赤くすることしかできなかった。しかし、有り難いことに、からかいながらも兵達はクロスフォードを連れてきてくれた。
困惑顔のクロスフォードがフロンティアの方に突き飛ばされ、ふたりは顔を合わせた。
無造作にカットされた黒髪に金色の瞳、休息中だったのか白い襟つきシャツのボタンを適当につけて、黒いズボンにブーツを履いている。
顔つきも体つきも凛々しい青年になっているが、まだフロンティアの記憶にあるクロスの幼い面影もあった。
門越しだが、息のかかりそうな近さに、フロンティアはドキリとして顔を下げた。
「誰だ、あんた」
クロスがぶっきらぼうに、兵と同じことを聞いてきた。
からかわれたからだろう、迷惑そうな感じだった。
「私は、ローズと申します。お願いです、話を聞いてください!」
必死な訴えに、兵達がニヤつくのが見えた。
笑い声に、クロスがちょっと後ろ振り向いてから、フロンティアの方を見た。
「わかった。待ってろ。薔薇はいらない」
クロスは素っ気なく言って宿舎に入っていき、フロンティアは薔薇を持つ手を下ろした。
ニヤつく兵から逃れて城壁に隠れて待っていると、濃紺の軍服を着たクロスが出てきた。
「丁度、休みでよかった。こんなところじゃ、話せないからな」
見惚れているフロンティアに、クロスが言った。
「なにか、急用のようだしな」
フロンティアは必死にうなずいた。
「とりあえず、行こう」
「はい」
ふたりは後ろの門を警戒しながら歩き出した。
「オッドアイか。初めて見た、本当にいるんだな」
クロスに瞳を見つめられて、フロンティアは胸が高鳴った。
昔と変わらない笑い顔をみれたのも嬉しかった。
フロンティアも自然と笑顔を返した。
「それで、そんな珍しい人が俺に何の用?」
「あの、私、実は」
フロンティアのためらいに、クロスが立ち止まった。
「私、本当はフロンティアなんです!」
フロンティアはすがりつく勢いで言った。
「フロンティア? 本当の名前が、フロンティアってことか?」
クロスは驚いて言った後、ちょっと考えるように横を見た。自分を思い出しているのだと、フロンティアにはわかった。
「はいっ、いえ、本当の名前というより、私がフロンティアなんです!」
胸に両手を当てて懸命に言ったが、なんと言えば伝わるかわからなかった。
案の定、クロスは不可解そうに片眉を上げた。
「私がフロンティア? この町に、もうひとりフロンティアが居るのは知ってるみたいだな。貴族のお嬢さんの」
「はい! 私がそのフロンティアなんです!」
クロスは悩むように眉を寄せて、顎に指を当てて空を見上げた。
「赤ん坊の頃に、取り替えられた?」
「ち、違います! 赤ん坊ではなく、今です。目が覚めたら知らない人になっていたんです!」
「落ち着いて、わかった、落ち着いてお茶でも飲もう」
クロスがフロンティアの肩を押えて言った。
「お茶? はい」
そういえば喉がカラカラだったし、歩き疲れていたし、なにより、初恋の人からのお茶の誘いには抗えなかった。
「けど、あんたと居ると目立ちそうだな。俺の家でいいか? 母が居ると思うけど」
「はいっ、失礼のないように致します」
「ふぅん、あんたも良いところのお嬢さんか? あ、フロンティアだったな」
クロスはまた困惑顔になって歩き出した。
考えながら歩くクロスに、フロンティアは上手く言い出せず、ふたりは黙ったまま家についた。
さっきフロンティアが歩いた表通りに面した、レンガ造りの家だった。
玄関のすぐが居間で、木の温もりの中にテーブルと可愛いパッチワークキルトで飾ったソファがあった。
「ただいま」
クロスが呼びかけるように言うと、エプロンワンピースを着た中年の女性が階段を降りてきた。
「あら、クロス。お帰りなさい!」
「ただいま、母さん」
クロスの母は中年太り気味だが美しかった。
その美しい目を見開いて、クロスの母はフロンティアを見つめた。
「まぁっ、美しいお嬢さん!」
「初めまして」
フロンティアは緊張しつつ言って、無意識に薔薇を差し出した。
「まぁっ、美しい薔薇!」
クロスの母は受け取った薔薇とフロンティアを交互に見た。
「まさか!?」
年頃の息子が連れてきた娘に、クロスの母は当然の勘違いをした。
「違うよ」
即座に否定したクロスに、フロンティアの胸はつい痛んだ。
「な、なんですか? 人を驚かせて」
「ごめん。謝るから、俺達にお茶を飲ませて」
「お茶ね。いいですよ」
訳がわからない様子が、顔に出ていた。
「俺にも、この人の言っていることが、よくわからないんだ。だから、とりあえず、お茶を飲んで落ち着こうって話になって」
「失礼なことを言うんじゃありません。年頃の娘さんが言うことをよくわからないなんて、朴念仁なことを」
小言をいいながら、キッチンに消えて行った。
ふたりは小さなソファに並んで座った。
クロスが変な汗を拭い、フロンティアがもじもじしているところへ、クロスの母がお茶とお菓子を運んで来て、
「お母さんは、夕飯の材料を買いに行ってきますからね」
そう言って、そのまま玄関から出て行った。
「近所の人達に、言わなきゃいいけど」
半分諦めた顔でクロスが呟いた。
それから、ふたりはお菓子を子供のように無心に食べて、紅茶を飲んで気持ちを落ち着けてから、クロスがフロンティアの方を向いた。
「本題に入ろう。あんたは、貴族のお嬢様のフロンティアなんだったな?」
「はい」
フロンティアは真剣な目で見返した。
「証拠を見せてくれ。いや、聴かせてくれるか? 俺は子供の頃、フロンティア様と何度か遊んだことがある。その時いつもフロンティア様が歌っていた歌がある。あんたがフロンティア様なら、歌えるはずだ」
「歌えます!」
フロンティアは即座に答えた。
その歌はフロンティアの大好きな童謡だった。何度か深呼吸して気持ちを整えてから、歌った。初めて聴く声で、久しぶりに歌ったが、中々上手く歌うことができた。
「その歌だ。本当にフロンティア様?」
「はい」
クロスの驚く顔に、フロンティアはほっとして微笑んだ。
クロスは上半身をのけぞるようにして、フロンティアの姿を上から下まで見直した。
「誰の体ですか?」
フロンティアも自分の体を改めて見下ろした。
「わかりません」
「……わかりました。その体のことは後にして、フロンティア様の体はどうなっているかに話を移しましょう」
「はい。あの、昔みたいに、自然に話してください」
フロンティアは切実な瞳でクロスを見つめた。
「わかった。そんなに見るな」
クロスは観念して、ぎこちなく視線をそらせた。
それから、フロンティアは聞かれるまま、今の体になるまでの経緯を話した。
「自分の部屋の窓辺で急に気を失い、それから、気がつくまでにどれくらい経っているかわからない、か。屋敷に行ってみよう」
ふたりは急いでフロンティアの屋敷に向かった。
♢♢♢♢♢♢♢
「急に気を失ったって、どこか悪いのか?」
途中、クロスがフロンティアに聞いた。
「いいえ、フィル様と、バルダンディア王国の王子様との会談があるでしょう? それが気がかりで、少し、胸が詰まってはいましたが」
「そうだ、それは俺も気がかりだったが、それどころじゃなくなったな」
屋敷につき、開け放たれた門から入って、ふたりに気づいた庭師にクロスは挨拶した。
「フロンティア様はいらっしゃいますか?」
クロスは丁寧に聞いた。
「フロンティア様はいらっしゃいません」
軍服を来たクロスに、庭師は丁寧に答えた。
「しばらく前に、急いでお出かけになられました」
「どちらへ?」
「会談の場だとか。フィル王子様とバルダンディアのブラッドハート王子様の」
「えっ、なぜ?」
ふたりは驚きの顔で庭師を見たが、庭師も同じように驚いて、うろたえていた。
「わかりません。とにかく、急いでいたとしか」
クロスとフロンティアが困惑顔を見合わせていると、馬車の音が後ろから聞こえてきた。
「あっ、お帰りになりました」
馬車は二台連なっていた。
「前が屋敷の馬車です。後ろはどこのだろう?」
庭師がふたりに教えた時、後ろの馬車から男女が降りてきた。三人は馬車に近づいた。
「フロンティアと、隣は誰だ?」
クロスの問いに、フロンティアも庭師も答えられなかった。
馬車から降りてきたフロンティア本体には、長い銀髪に黒い軍服姿の精悍な男が寄り添っていた。
「ずいぶん、仲睦まじい様子で、どなたでしょうな?」
庭師が興味津々でふたりに言った。
フロンティア本体と男は三人に気づくことなく、出迎えた執事と屋敷に入った。
クロスがフロンティアの手を引いて、玄関に行こうとした時、後ろから馬の蹄の音がした。
今度は兵を乗せた一頭の馬だった。
「なにか、起きてるのは間違いない。話を聞いてくる」
クロスは兵の方に走って行った。
そして、そのまま話しながら、屋敷に一緒に入って行き、フロンティアと庭師がそわそわしているなか、屋敷から飛び出して来た。
「おい! 大変だぞ!」
クロスは走って来た勢いのまま、フロンティアの肩を掴んだ。
「フロンティア、フロンティア様と一緒に居たのは、バルダンディア王国のブラッドハート王子だった!」
「あの方が? なぜ、ここに?」
フロンティアと庭師は驚きに目を見開いた。
「なぜかって? ふたりは結婚するからだ!」
フロンティアはさらなる驚きに、目をぱちぱちさせてクロスを見つめるしかできなかった。
「結婚!? 私、と、バルダンディア王国の王子様が?」
フロンティアはクロスにうわ言のように聞いた。
庭師は驚きながら、どこかにかけていった。
「ふたりがそう言ったんだ。バルダンディア王国は敵国と言われるくらいの危うい関係の国だ。その国の王子とフロンティア様が」
クロスが宙に目を据えて、しばし言葉をと切らせた。
「今にも結婚しそうな様子で、くっつき合って、そう口々に言ったんだ」
フロンティアは信じられないと、力なく首を横に振った。
「待ってください、私はフィル様と婚約しています。それがなぜ?」
「わからない。どうしても、とか、子供みたいなことをふたりは言っていた。その後、国のためでもあると言っていたな」
「国のため? そのために、あの私は」
「フロンティアなら、考えそうなことだ」
クロスがフロンティアを見下ろした。
「わ、私、そんなこと考えません」
「正義感では結婚しないか?」
「しません」
クロスと結婚したいのに、そんなことできないと言いたくなったが、こらえて彼を見上げた。
「がっかりしましたか?」
「いや、しない。そんなことはしなくていい」
キッパリした答えたにフロンティアはほっとした。
「あ、そうだ。あれはフロンティアじゃなかった。全く、ややこしいな。早く中身が何者か確かめないとな」
クロスは屋敷をにらんだ。
「何者が、どんな方法を使ったかわかりませんが、国のために私の体を使っているのでしょうか?」
「人の体を無断で使うやつが、国のためなんて考えるかどうか。とにかく、結婚は止めないと」
フロンティアは行こうとする彼の体を、両腕で強く引き止めた。
「待ってください。危険すぎます。バルダンディア王国の兵士もいます」
馬車のそばに兵士が数人いた。幸い、全員が屋敷に釘付けで、ふたりに気づいていなかった。
「私が本当のフロンティアだと、上手く伝えられるかわかりません。信じてもらえなければ、結婚の邪魔建てをした者として、捕らえられたりしないでしょうか?」
自分はどうなってもいいが、クロスがひどい目に遭うのは絶対に嫌だと思った。
「フロンティアの体を乗っ取った者が悪人なら、なおさら、そんな話は認めないだろうな」
クロスは眉を寄せて頭をかいた。
「よし、フィル王子に話そう。俺はフィル王子とは子供の頃からよく会ってるんだ。誰にも秘密だけど」
ふたりは歳も近く、身分差がなければ友人と言える仲だった。
「フロンティアは、俺の家で待っていてくれ」
城に向かうクロスと別れて、フロンティアは家に戻った。そこで、クロスの母の夕飯作りの手伝いをした。
自分のことは話せないので、クロスとは最近知り合った友人ということにして、彼のことを聞いた。クロスの母の軽快な話に、フロンティアはしばし心労を忘れることができた。
話が尽きない内に、クロスがまたキッチンに駆け込んできた。そして、すぐにフロンティアを二階に連れて行った。
クロスの母は怪訝そうにしながらも、夕飯作りを続けた。
「なにが、あったのですか?」
クロスの部屋に通されたフロンティアは、ただならぬ様子にすぐに聞いた。
「落ち着いて、聞いてくれ」
言いながら、クロス自身も肩で息をして、気を落ち着かせた。
「少し時間がかかったが、フィル王子に会うことができた。それで、俺が話す前に王子が切り出したんだ。“私はシルビアと結婚する”と」
「シルビア?」
フロンティアとシルビアは幼馴染だった。フィル王子と婚約が決まってから、会えなくなっていたが。
「そうだ。俺は、シルビア様のことは、フィル王子からよく聞いてる。フロンティアの話と同じくらい、シルビア様の話も聞いてきた。だから、シルビア様と結婚すること自体は不思議に思わないが、どうして、そんなことになったかは不思議で聞いた」
フロンティアは固唾をのんで、続きを待った。
「フィル王子は今日の会談中、突然やって来たフロンティア、屋敷にいる方のフロンティアに、いきなり、婚約破棄を告げられたんだそうだ!」
「婚約、破棄?」
「そうだ。フロンティア様がなぜそんなことを言い出したのかと聞くと、会談相手のバルダンディア王国の王子、ブラッドハート王子が好きだからだと言ったそうだ! フィル王子の目の前で、ブラッドハート王子に、そう告白したそうだ……」
次々襲う驚きに、フロンティアは息ができなくなりそうだった。自分になっている者は一体誰だろう。
「それで、ふたりは結ばれて、さっき、一緒に屋敷に居たんだ。俺達が屋敷を出た後で、フィル王子がふたりを城に呼んで聞いたところ、ふたりは、以前、会ったことがあるんだと」
「私、ブラッドハート王子に会った記憶など、あらりません」
「おかしいな。昔、ブラッドハート王子がお忍びでこの国を視察した時に、フロンティア様にだけは気づかれて、それがきっかけでふたりは今回結婚に至ったように言っていたが」
「そんな……」
「そのことは後で、なんとかして、向こうのフロンティアに聞こう。とにかく、それで、ブラッドハート王子とフロンティアのなりすましは結ばれて、フィル王子はシルビア様と結婚すると決めたそうだ」
「そう、ですか……」
落ち着いて返事はしたものの、頭は混乱していた。
ただ、フィル王子とシルビアが結婚することに、心はざわめかなかった。
「フィル王子とシルビア様のこと、いいのか?」
クロスもそのことを気にして、慎重な態度でフロンティアの顔を伺った。
「はい。ふたりのこと、祝福します」
「いくら、フロンティアの方から婚約破棄してきたとはいえ、すぐにシルビア様に走ったんだぞ?」
クロスが言葉遣いと語気を荒くした。
「……おふたりはずっと仲がよかったんです。ふたりだけの絆があるのが、わかっていました。それに」
フロンティアは言葉を切って、息をのんだ。
「それに?」
「まだ、言っていませんでしたね」
やっと再会できて、こんなに一緒にいるのにと、フロンティアは笑った。
「私は、貴方が好きです。クロス」
「え……?」
「幼い頃に少し遊んだだけの仲で、信じられないかもしれませんが、本当です。ずっと好きでした」
胸に両手を当てて、一心に告白した。
クロスはただフロンティアを見つめていた。
「ですが、フィル様に婚約を申し込まれて、その理由が“幼い頃、結婚しようと約束したね”というもので」
「俺を好きと言いながら、フィル王子とそんな約束したのか?」
腰に手を当てて、クロスがフロンティアをちょっとにらんだ。
「貴方と出会う前! もっと幼い頃です!」
フロンティアは大慌てで弁解した。
「私も忘れていたような約束を、フィル様は覚えていてくださって」
「全く、律儀な王子だな」
「そんな純粋な約束を、私も破ることはできませんでした。だけど、心は貴方にあって、フィル様に寄り添うことができていませんでした。そんな空っぽの私は、簡単にフィル様に去られても仕方ありません」
それでも、辛い気持ちは確かにあって、フロンティアは視線をそらせた。
「わかった、フロンティアの気持ちは」
静かに言ったクロスを、フロンティアは真っ直ぐに見つめた。
「クロス、私はもう、フロンティアに戻れなくても構いません。身分差であなたに会えなくなるような体など、いりません」
「身分差か、俺もそれで早々に諦めたからな」
フロンティアはクロスと急に会えなくなった理由を察した。
「フィル王子とあなたが婚約した時、諦めておいてよかったと思ったのにな」
「クロス」
見つめられて、フロンティアの想いは止めどなく溢れ出した。
「私はクロスと一緒にいられる、この体のままでいたいです。私はローズに、なります」
決意したフロンティアの肩を、クロスが優しく掴んだ。
「フロンティア、俺は元の体に戻ってほしい。正体不明の奴に、フロンティアの体を好きにさせたくないし」
クロスがフロンティアに顔を近づけた。
「身分で絶対勝てない相手がいなくなったんだ。何年かかっても、迎えに行きたい。フロンティアを」
クロスのその姿を、はっきりと想像できた。
うっとりしているフロンティアの唇に、クロスが優しくキスをした。
「誓いの口づけ」
微笑むクロスに、フロンティアも心からの笑顔を返した。
ふたりはしっかりと抱きあい、一時の幸せを噛み締めた。
「もしも、元の体に戻れなかったら?」
フロンティアは体を預けたまま聞いた。
「その時は、意地を張らずにこのまま結婚しよう」
潔く笑いかけるクロスに、フロンティアも笑い返した。
もう一度抱きあった後で、クロスが言った。
「もう、日が暮れてしまったな」
ふたりは群青色に染まる窓に顔を向けた。
「夜に行動するのは危険だ。明日の朝一で城に行こう」
「はい」
フロンティアは覚悟を決めて、力強く答えた。