4:まもののむれ
昼休みの食堂でクラスの連中が腹を抱えて笑っている。
「マジかよ!」「ハナシ盛ってんじゃねーの?」「てゆーかさー、お前のほうがどうかしてるだろ!」「ありえねー!!」西村と長谷川は僕をからかってまたぎゃはははと馬鹿笑いした。「だいたい行くか普通?変なばあちゃんっつー時点で行かないだろ」夕べのことをなんとなくぼやいたら、それでそれでと聞きつのった挙句慰めもしないで僕のほうが馬鹿なのだとコケにした。
「でもこの話を聞いたらどんなばあちゃんか見てみたいな」自分は無関係なものだから長谷川は気楽なものだ。「見ず知らずの孫みたいな男を夜中に引き込むんだからな。スゲーよ」「長年のキャリアだな」‘引き込む’というのはニュアンスが違うような気がするが、物理的に間違いではない。交換留学で海外にいた西村は同級生だが歳は2つ上で、選挙権があるのがそんなに偉いわけでもあるまいが、なにかにつけて大人ぶる。僕と違って恋愛遍歴も国際的でアメリカ人の彼女と別れていまはイギリス人と付き合っていると、昭和の演歌歌手並みだ。このまえの試験でサボってばかりの授業の画像をコピーさせてやったのに、その恩も忘れたのか。
「その調子だとお前にだけってことはないだろ。他にも大勢吸い込まれてるんだろうな」西村が言うと長谷川は「ブラックホールかよ」と言ってまた笑った。
授業が終わって雑用を済ませ僕はひとり電車に乗った。バイトがない日は実験の準備で図書館にこもるか友人と食事に行くのだが、長谷川はサークルだし西村も今日はイギリス人と会う日らしい。時折加わる服部と森沢さんはここ数日姿を見ない。ふたりで旅行にでも行ったのだろうか。鏡になった地下鉄の窓ガラスを見ながら僕は思う。ブラックホールとは言いえて妙だ。あの人は他人を呼び入れる以上に人のメンタルなものをすべて吸い取って潰していくような能力がある。どこまでも自分本位で、かと思うと昔のことで泣き出したりとわけがわからない。あれで本人に悪気がないのだとしたらもうお手上げだ。
夕べの出来事から丸一日もたっていないのにずいぶん以前のことのような気がする。今は静かな事故現場を見ながらひとつため息をついてマンションの玄関をくぐったら、今朝会った裸足に革靴の老婆とあとふたりの女性、そして管理人の近藤さんが一斉に僕を見た。
「おかえりなさい」
いつもと同じように近藤さんはにっこり笑って「今日は早かったのね」と言ったが、どことなく笑顔が引きつっているようだ。夕べだけかと思ったら今も素足に革靴を履いている老婆は薄く笑っている。初めて見るふたりの片方はドイツの女首相のようなおばさんでにこりともしないで僕を見つめ、茶色の髪を縦のロールに巻いているもうひとりの若い女は僕を値踏みでもするように下から上へ露骨な視線を繰り返した。縦ロールが素足に革靴の老婆に目で何かを尋ね、老婆も無言で首を傾けてそれに返事している。何だというのだ。不愉快極まりない。
「どうかしたんですか」
不信感あらわに僕が尋ねると「いえ」と言いかけた近藤さんを遮って「あなた昨日三浦さんちに朝までいたんだって?」縦ロールがにやりとした。‘じゃあついていってあげるわよ’そうあのブラックホールに言われたときと同じ悪寒が僕を駆け抜けた。女たちは僕を凝視し取り繕おうとしていた近藤さんも固唾を呑んで答えを待っている。井戸端会議というような他愛なさはなく限りなく査問会に近い。僕は罪状も知らぬまま老婆によって告発されたであろう案件で裁かれるのか。
「え、まあ、行きましたけど」4人は顔を見合わせた。「何か?」と聞くと縦ロールは
「別に。あんたの自由だからね」と言って老婆に「子供でもアリなわけ?」と続けたら「まああの方だから」と老婆はいかにも満足げに口元を緩めた。
「どういうことですか?僕夕べ初めて会ってそれで」と言いかけたら老婆は「あら」と手をヒラヒラさせ嬉しそうに僕を見た。
「いいのよ言わなくて」
はあ?なんだこれは。昼に西村が言った‘引き込む’の世俗的意味合いで僕は引き合いに出されているのか。あのブラックホールと。ようやくこの毒々しいほどの盛り上がりのわけを理解して気が遠くなった。とんだ二次災害だ。
告発者の老婆を無視して僕は釈明する。そのこと自体不本意極まりないのだが、こういうとき妙に大人の態度を示したりすれば嘘が確定した事実となって、しかも本人も認めたことになりかねない。‘手招きするブラックホールにすがりつく僕’そんな恐ろしい絵図のこれ以上の拡散を阻止しなければ。必死さが却って虚偽を肯定せぬように気を配りながら極めて穏やかに『何度かお断りしたにもかかわらず強い調子で呼び出され、理由はわからないがあれこれ尋問されただけ』だと僕は詳細に説明したが「それで朝までかからないでしょ」「引き止められても帰るけどね私なら」と縦ロール検事は長谷川たちの指摘と同じポイントを的確について僕を追いつめた。時間的アリバイを証明するために『三浦さんの話も聞きました』と言えばいいのだが、すると内容を聞かれるのは明らかで、『それはちょっと』と濁せばいよいよ関係の特異性について容疑が深まり、といって、このマンションの人間関係の深浅など知らない状況で、老婆と縦ロールのブラックホールへの感情が好ましいものでないことが垣間見えてもいるいま、その人のプライベートな話を披露するのは気が引けた。いや、他人のプライバシーを迂闊に話すような愚かな人間だと思われたくなかっただけかもしれない。人格的見栄のためにアリバイ証明ができない僕はやはり馬鹿なのだろうか。メルケルは陪審員さながら身じろぎもせず成り行きを観察し、ひとり近藤さんだけが「そうよね、そうよね」と僕の情状をフォローしてくれているが弁護人としては非力だった。
「ま、気をつけたほうがいいわよ、三浦さんにはね」
有罪なのか無罪なのかを告げぬまま縦ロールはどこかに出かけて行った。多少拍子抜けの口調だったからシロと判断したのだろうか。僕の抗弁にというより一般論的状況証拠に立ち戻ったのかもしれない。大学生の僕とおばあさんに何かあろうはずはないのだから。
縦ロールの後姿が夕暮れの中に消えて「気を悪くしないでね」と近藤さんは気の毒そうに僕を見た。「なんだか僕わけのわからない噂話に巻き込まれてますね」と言ったら苦笑しながら「気にしないで」と目で合図するのできっといつものことだと言いたいのだろう。僕は部屋に引き上げようと挨拶代わりにメルケルと老婆に「越してきてまだ半年でほとんどどなたも知らなくて」と言いかけたら即座に老婆が言葉をかぶせた。
「あの子ホステスなのよ」
「あの子って」
「いまの子。植松有加」
‘ちゃん’も付けずに呼び捨てた。さも蔑む調子に嫌悪さえ滲ませてたったいまここで調子を合わせていた人間を侮蔑する老婆に僕は衝撃を受けた。親しげに話していた間柄なのにここまで豹変できるのか。嫌悪感を持つ相手とあそこまで打ち溶け合えるのか。恐ろしい。なんて婆さんだ。メルケルを見たら相変わらず無表情で沈黙を守っていて近藤さんは脱力した様子で悲しそうに微笑んだ。とんでもない。こんな住民たちに巻き込まれたら僕はいいおもちゃだ。最後まで名乗りもせず他人ばかりあげつらう老婆を再び無視して僕はエレベータのボタンを押した。こんなところに1秒でも長居してはいけない気がする。
エレベータに乗り込んだらメルケルが同乗した。老婆はまだ話し足りないのか管理人室のカウンターに寄りかかったまま僕たちを見送っている。僕は近藤さんの苦労を思った。毎日こういう住民を捌いているのだ。噂話にとどまらず無理難題も言ってくるに違いなく、マンションの管理会社の社員という立場上言いたいことも言えず嫌な顔もできず忍従しているに違いない。ドアが閉まる瞬間近藤さんは軽く微笑んで何度か僕に頷いてみせ、僕も軽くお辞儀した。
「うちは1405なんだけどあなたお部屋は?」
そんなことを考えていたらメルケルの声がして僕は我に返った。
「1302です。どうも」
14と13のボタンを押してメルケルは続ける
「うちのひとつ下なの。お宅の並びは2DKでしょ。大学生なのに広いところに住んでるのね」
「父親が借りてくれてるんです。出張があったらうちに泊まるつもりでここにしたみたいで」
「いいお父様ね。感謝しなきゃね」
ブラックホールに老婆に縦ロール、三度の強烈な‘人身事故’の後で初めて口を利いたメルケルはきわめて常識人に思えた。近藤さんのような優しいにこやかさはないが無言の圧力を持つ落ち着いた人だ。終始傍観していたが下でのやり取りをどう見ていただろう。老婆や縦ロール、あるいは僕も含めて3バカと認識されたかもしれない。「管理人さんの言うとおりよ」13階の扉が開いてメルケルは「おばあさんたちの言うこと気にしないことね。それと関わらないことよ」と、にこりともしなかったが好意的に忠告してくれた。「そうします」僕のほうは笑顔で一礼した。
非常階段に出て僕は深呼吸した。腹立たしさはなかったが心が疲れてこのまま部屋に戻りたくなかった。たっぷりと熟した夕日が東京タワーの後ろでキラキラと振るえながら秋空を茜色に染めている。茜。そうだすべての始まりはブラックホールだ。僕はなんともいえない気持ちになった。むろんブラックホールを擁護するつもりはないが、ああいうニュアンスで揶揄されてしかるべき点が事実あるとしても、同じ屋根の下で嘲笑を込めて取り沙汰されているのは気の毒な気がした。あの縦ロールにしても同様で噂しながら同時にされている。他人に無関心なはずの都会のけれどここはマンションという村なのだ。
ビル風に乗ってどこからかキンモクセイが香ってきて僕は田舎の中学校を思い出した。夏場のプールの塩素の臭いや校庭のキンモクセイの香りのなかで小さな学校の小さな出来事が日々、僕たちの大事件だった。僕の田舎もトーキョーもどれほど風景が変わっても人という生き物の生態は本質的にあまり変わらないのかもしれない。それは大人でも、子供でも。僕は甘酸っぱい懐かしい酸素をもう一度吸い込んだ。
空腹で目が覚めたら暗闇だった。カーテンを引かぬままのベランダの向こうから届く夜の街の瞬きを頼りにリモコンを探り当て、テレビをつけたらニュースも終わっていた。少しだけ仮眠するつもりでベッドに横になってすっかり寝入ってしまったらしい。夏休みに親父が2ダースつめていったビールとこれも親父が持ってきた祖母の手製の梅干しか冷蔵庫にはない。残り物のラーメンかおにぎりでも買おうとマンションの1階のコンビニに下りていったらちょうど店から出てきたブラックホールと鉢合わせた。
「あら謙ちゃん」
昨日までなら横を通り過ぎたはずの人が、もうそうはいかない。本気か茶化したつもりか‘一夜をともにした仲’と縦ロールに言われたが、そのいまいましい表現を反芻するのはやめておこう。それにしてもブラックホールは夜な夜な徘徊でもしているのだろうか。
「こんな時間に買い物?」ご同様だ。「はい」というと
「ちょっとさあ、うちへいらっしゃいよ」
‘アリエネー!’という長谷川の声が耳元でリフレインした。厄年でなくてもお払いはしてもらえるだろうか。
僕は全力で固辞する。大体この人は学生は学校に行かねばならないと認識しているのか。そうだ、他人の都合など考慮する人ではなかった。もうひとつわかったことは、ブラックホールは直裁的な信号を受け取らない限りそれとわからない人だ。いかに不躾でも迷惑だと、少なくともそれに近い表現で伝えなければNOとは思わない。
やや不服そうに「あらそう」と言ったがその程度で撤退するはずはなく「じゃあ、土曜日うちでランチしましょうよ」土曜日は終日バイトがありますと断るとすかさず「じゃあ日曜日ね」と諦めない。まさにブラックホールたるゆえんの本領発揮だ。だがわかっていてもダイレクトに拒絶する図太さを持たないのが改善しがたい僕自身のフェイタルエラーで、並大抵のことでNOを認めない相手にNEVERを認識させる婉曲な術はないものかと思う。
僕を先回りして彼女は「紹介したい人がいるのよ」と言った。夕べも‘僕が聞かないといけないようなこと’などなかったのだ、紹介したい人だっているかどうかわかったものではない。それにこの人に誰かを紹介されるなんてあまりぞっとしない。
「僕いまちょっと忙しいんで」再再度断ると
「それはお互い様よ」
ブラックホールだけに情報パラドックスだ。誰かに解決方法を教えてもらいたいがまだ誰もそれでノーベル賞をもらっていない。こんな世紀の難問に1年生の僕がどうして立ち向かえよう。僕は過去と未来の相関の中で符号化されているのだろうか。最終段階で突然逃げ出したいがブラックホールが蒸発する気配はなかった。




