3:よもすがら
彼女の香水と同じ匂いが部屋からしてきて、次にカントリー風のアンティーク家具の一番奥で、テレビがつけっぱなしになっているのが見えた。リビングもその続きのキッチンもどちらかというとこざっぱりしていて、僕はフェイントを食らった気分になった。猫足のダイニングセットに角から角までブランド物とか、お香が立ち上った薄暗い部屋に地球儀みたいな水晶球が置かれているとか、もしそういう部屋だったならやはり内心顔をしかめながらもある種の一貫性に、この人に対するそれ以上の関心は生まれなかっただろう。けれど想像と実際との落差が、女に対する謎は深めながらも嫌悪感を僅かに薄めた気がした。
「あの、おひとりなんですか?」
探るように尋ねた僕に「そうよ」と言って「まあそこ座んなさいよ」と窓側の奥のソファを彼女は指差した。今は誰もいないという意味なのか。それともひとり暮らしなのか。僕は‘そうよ’の意味を考えて、家具の数からきっと一人暮らしなのだろうなと結論したとき「ビールでいい?」と言いながら女がキッチンから出てきた。コーヒーじゃないのか。風貌と相反する地味な部屋に印象を改善した自分の甘さをなじりたくなった。コーヒーもビールもここまできたら変わりないかもしれないけれど、細部が適当なセンパイは全体もいい加減だった。それにやはりコーヒーとお酒では意味が違う。こういうやり口の人に正直さは感じない。
「え、あの、僕お酒はちょっと」
「なんでよ」
「僕未成年なんで」
「いいじゃないべつに」
僕も品行方正というわけではないが、他人に言われると馬鹿にされた気がしてくる。
「もう寝るんでしょ。コーヒーよりお酒のほうがいいじゃない」
「でも僕お酒飲めないんで」
「じゃあ飲んでみなさいよ」
酒が飲めないと言ったら‘そうなの?’だろう。‘飲んでみろ’だなんて想定外の変化球を投げられたら、手も出せないまま空しく見送るしかない。身振り手振りで僕の拒絶は十分に伝わっているはずだが、女は無視を決め込んだのか自分のグラスにも缶ビールをついでひと口飲み、僕がグラスに口を付けるのを目で促すように監視した。もちろんビールくらい飲めないわけではなかったけれど、いかにも不味そうに僅かに舐めたのは僕のささやかな抵抗だ。
そんな無言の抗議をまるで気に留めもせず彼女は聞いた。
「あなた、名前は?」
人に名前を尋ねるときはまず自分からなんて、この人に期待するのは意味のないことなのだろう。
「松永です」
「下の名前は?」
「謙一郎」
「謙ちゃんさあ」長年の知己か親類縁者の馴れ馴れしさでいきなり僕を呼び、例の押しの強さで僕のあれこれを無作法に尋ねた。出身はどこか、どこの学校で何を勉強しているか、親の年齢、職業から兄弟の身上、果ては姉の旦那の年収から僕のアルバイト先の上司のことにまで質問は及び、言い淀むと回避せずそこをさらに掘り進む。‘さあ’とか‘わかりません’と誤魔化してみても‘知らないはずないでしょうよ’それでも答えないと‘言えないことでもあるの?’と、こうなるともう脅迫だ。よれよれのレインコートを着た警部やサングラスがかっこいいマイアミの警部補らに捕まって‘お前には黙秘権がある’と道々聞かされるいくつものドラマのシーンを僕は思い浮かべた。プライバシーどころか凶悪犯さえ認められるミランダルールも今の僕には適用されないらしい。
それにこの人の話のベクトルは自在に飛ぶ。今この話をしていたかと思うと別の話になりまた戻る。色々聞く割には僕の答えをあまり聞いていないのか的外れの感想が返ってきて会話が成立しづらい。僕もきちんと説明と訂正をすればいいのだろうが、別に彼女にそこまで理解を求める気はなかった。
一旦彼女がキッチンに消え、僕はケータイをチェックした。午前3時半。赤の他人に無用の取調べをされて僕の個人情報は丸裸だ。もうひとりの僕が今の自分をあきれ果てて眺めている、そんな図ばかりが頭の中を支配した。はっきり断れないばかりに今からベッドに飛び込んでもあと4時間しか寝られない。彼女の不在を盗んでため息をつきわが身を呪った。さあ、帰るぞ。もうフラフラだ。早く眠りたい。断じて僕は帰るぞ。
ソファを立って玄関に向かいだした僕に女が言った。
「トイレはそっちじゃないわよ」
「いえ、僕もう帰りますから」
「まだ話途中じゃない」
振り返ると彼女は手にウイスキーのボトルを持っていた。冗談じゃない。
「まだ話すことあるのよ」女は言い重ね、不機嫌そうな顔をした。この人は不機嫌になるとさらに高圧的になる。まるで僕は叱られているようだ。その理不尽さにムッとして
「何か僕が聞かないといけないようなことでもあるんですか?」
と、ついに言い放った。大体この女に不機嫌になられるいわれなどない。機嫌が悪いのは僕のほうだ。僅かなビールに酔いなどしないが、相手に致命的ダメージを与えうる、かつ正当な反撃に僕は自己陶酔した。
「あるわよ」
即答までの1秒間だけだったが。
‘あるわよ’と言われてそれに「何ですか」と答えてしまった僕は降伏したのも同じだ。強い決意で蹴ったソファにすごすご引き戻されうなだれた。情けない。
「あたしはね、三浦茜っていうの。茜はクサカンムリにニシ」
「はあ。そうですか」
今度は自己紹介か。三浦茜だろうが山口スミレだろうがどうでもいい。明らかに気のない僕を無いことにして女は話しながら氷の入った二つのグラスに酒と水を注いだ。
「あたしね、ギンザでクラブやってたのよ。去年やめたんだけどね」
‘お歳ですからね’引きとめられた腹いせにいちいち意地の悪いツッコミを心の中で呟いてみる。それにしてもギンザでクラブか。僕はうなだれた顔を上げて彼女の全身を確認してみた。まあそんな感じだ。それから女は、どんなクラブで女の子は何人くらいいて客筋もよくてと自慢し始め、そのどれにもぼくは‘はあ’とだけ答えた。
「ところで謙ちゃん、彼女いるの?」
おっとお鉢が回ってきた。
「いませんけど」
「なんで?」
なんでって。明確な理由があったらかえっておかしいだろう。そう答える前に話はまた戻る。
「あたしはねえ、長年付き合ってた人がいたのよ」
しみじみした情感と優しさがこもったフレーズ。遠い昔を懐かしむ調子だ。
「若いころに出会ってさ、でもその人には家族がいたの」
おいおい。僕は仰天した。不倫だということにではない。それを初対面の僕に聞かせることに対してだ。義理の兄の年収を聞かれたことは驚くに値することではなかったわけだ。
僕を問い詰めていたときとは一転して彼女の語り口は神妙になり、僕はよくあるタイプの芝居を見ている気分になった。男には家族がいて、あるとき女房が乗り込んできて、それでもふたりの関係は継続した。しばらくして女房は病気で死んだけれど結婚はしなかった。「求婚はされたけど断った」と彼女は言った。どうしてなのか納得いく理由が話にはなかったが、そのことを悔やんでいるのはわかった。なぜなら男は彼女を捨てて、別の女に走ったから。さらに男はその女とも別れて幼馴染と再婚したらしい。とにかくモテる男だそうだ。女の話を丸ごと信じるなら、姉貴がレンタルビデオ屋で借りていたバブル時代のドラマさながらだ。もちろん信じないわけではなかったけれど、彼女目線の話だから常に本人が正当化されている。多少脚色しているかもしれない。ただ閉口したのは、女が話しながら涙ぐみ始めたことだ。ティシュペーパーで何度も涙をぬぐいながら「ごめんね」と僕に言うのはいいが、泣かれても謝られても処置なしだ。泣きたいのは僕のほうなのだから。
そんな経緯があっても、今も男のことが好きなのだと女は言った。別れた男なんて泣いて食べたら忘却の彼方、と姉貴は以前そう言っていたけれど、この人は違うのか。それにしても、と僕は思った。この人もその男も僕とは別の世界の人だ。女が話す男の、こういう生き方に僕は好感を持てない。僕はフツーに恋愛してフツーに結婚してフツーに親になれればいい。結婚は一度で十分だし、次々恋愛したいとも思わない。うちの親父みたいに毎日7時には帰宅するような人生がつまらないとは思わない。好きになった人と一生穏やかに生きていくのだ。僕は草食系のロマンチストなのだろうか。
‘僕が聞かないといけないようなこと’は案の定何一つなかった。泣いて語って人心地ついたのか、女はグラスの最後の一口を飲み干して笑いながら「ねえ」と身を乗り出した。
「こんなあたし、どう思う?」
講義の後の小テストか。この人の人生の一部について僕に総括を求められても答えようがない。どんなあなた様でもどうでもよろしいんじゃないでしょうか。もしそれを聞くとしたら、僕ではなくてその男にだろう。それなら強烈な意味がありそうだ。
「いいんじゃないですか」
‘どうでも’を付ける勇気はさすがになかった。そして彼女はその曖昧さが気に入らなかったのか「どのへんが?」と当然の問いを投げ、
「そういう生き方もいいんじゃないですかね?」
とまたも当たり障りのない答えを返した。彼女はそれにも満足できないようだったけれど、これ以上追いかけても無駄と判断したのか「あ、そう」と期待はずれのトーンで矛を収めた。女がどういう答えを求めていたのか僕には実際わからないし、僕なりのありふれた感想を言ったらこの女は怒るだろう。
ともあれこれで帰れそうだ。胸をなでおろしたら後ろの窓の向こうでカラスがカーと鳴いて、見ると外はすでに明るくなっていた。
草食系の僕にだって思い描く理想のレンアイみたいなものはある。彼女ができて、デートを重ねて、それから部屋でいろんな話をして、できれば彼女に引き止められたりして朝までふたりで過ごすのだ。彼女の手料理と白ワイン、BGMは外国語のバラードか静かなジャズ。朝はパンの焼ける匂いで目が覚める。馬鹿にしたければするがいい。女性とはじめて夜を明かしたのがコレだったなんて、僕の記念すべきはずの一夜と睡眠時間を返してくれ。
今度こそとケータイを鞄に仕舞いかけたら先を越された。
「もう疲れたからお開きにしましょうよ」
この女は人を嫌な気分にさせる天才だ。僕は疲労感のあまり口答えする気力もなくヨロヨロと立ち上がり無言でロボットのように玄関に進んだ。
扉を開けたら朝の光が僕の目を刺した。こういう朝は受験勉強以来だ。学校は何時からとか気をつけてとか、一応見送りらしい言葉は女の口から出たが、僕を徹夜させたことへの謝罪はない。でももうそんなことはどうでもよかった。
虚しい開放感をかみ締めながら外に出ると、ちょうど隣の家の扉が開いてあの裸足に革靴の老婆が顔を出した。隣から出てきた僕とまだ見送っていた女とを一瞥するとおはようもなく「あら」と言って再び扉を閉めて隠れてしまった。‘年寄りは朝が早いんだな’それにしても‘変なおばあさんだ’と思ったが、今の僕は変な人への免疫力はずいぶん高まっている。自分の部屋で仮眠を取りたかったけれど、そうしたらきっと起きられなくなるだろう。ボーっとした頭のまま顔を洗い着替えをして、リュックに教科書をつめた。酷い一日がようやく終わった。そう思っていた。この時は。




