今日は午後休だから
東部戦線、リヴェル丘陵。
人類軍二千に対し、魔王軍は千二百。誰が数えても劣勢である。
その魔王軍の後方、小高い丘に、黒い軍服の女が立っていた。
まとめた黒髪。鋭い目。感情の読めない白い顔。
魔王軍四天王がひとり、《氷血の魔女》ゼナ・クロウ。人類側で、その名を知らない兵はいない。
ゼナは眼下の敵陣を眺めていた。正確には、敵陣の旗を。
(本陣の旗が前に出すぎ。敵将は功を焦ってる)
先月、人類側の東部司令官が交代した。新任は若く、着任早々の手柄を欲しがっている。兵の並べ方にそう書いてあった。
「第三隊、二百歩後退」
戦場を見下ろしたまま、ゼナは命じた。
隣の副官が耳を疑う。
「お言葉ですが、我が軍はただでさえ押されております」
「だから下げるの」
副官は続きを待った。続きはなかった。
伝令が走り、第三隊が下がる。魔王軍の中央が、目に見えてへこんだ。
崩れた。
そう判断した人類軍が、勝ちを急いで突出する。本陣の旗が前へ動くのが見えた。全軍前進。魔女恐るるに足らず。号令まで聞こえてきそうな、見事な食いつきである。
功を焦る指揮官は、退却と誘導の区別がつかない。
突出した敵の左右へ、朝から林に伏せてあった二個隊が、音もなく回り込んだ。
挟撃。
ただし、ゼナは包囲を完成させなかった。
東の退路をきっちりひとつ空け、追撃も禁じる。
「よろしいのですか。囲めば殲滅できますが」
「逃げ道を消すと、死ぬまで戦うから」
戦意を折って帰らせたほうが、双方の損害が少ない。
それに、殲滅戦は時間がかかる。
開戦から一時間。人類軍は東へ退いた。丘陵に残ったのは、踏み荒らされた夏草と、拍子抜けするほど少ない負傷者。
魔王軍の損害、軽傷二十七名。死者はない。敵側も、おそらく数えるほどのはずである。
「さすがです。まさか、これほど早く決着させられるとは」
「当然よ」
ゼナは懐中時計を開いた。針は正午前を指している。
「今日は午後休だから」
「……はい?」
聞き返した副官を置いて、ゼナはもう馬首を返している。
冗談ではない。彼女は午後の休暇を守るために、いつもの倍の速さで戦争を終わらせた。
「勝利のためなら休息すら計算に入れる御方」――帰還の列で、兵たちは声をひそめて語り合った。
半分は合っている。計算に入れているのは休息のほうで、勝利がおまけだ。
◇
魔王城、四天王居住棟。
「ゼナ様、お疲れさまです!」
「ええ」
廊下で敬礼する兵に無表情で頷き、自室へ入る。
扉を閉める。鍵をかける。念のため、もう一度かかっているのを確かめる。
一拍。
軍帽が飛んだ。
留め具を外すと、黒髪がほどけて背に落ちる。軍服を脱いで椅子の背へ掛け、ゆったりした部屋着に袖を通し、助走をつけてベッドへ飛び込んだ。
「…………つかれたぁ……」
毛布にくるまる。転がる。芋虫の形になる。
枕元のポットから温かい茶を注ぎ、両手で包んで、一口。
「……しあわせ」
窓の外では、城の尖塔に軍旗が翻っている。勇ましい眺めである。ゼナは寝たままカーテンを閉めた。
人類十万を震え上がらせる《氷血の魔女》は、扉一枚の内側では毛布の芋虫である。
このことを知る者は、世界にひとりもいない。
ゼナは枕元の予定表を開いた。
明日の欄。
何もない。
真っ白。
「…………綺麗」
白紙の休日予定表は、この世で最も美しい書類である。
ゼナは明日の過ごし方を思い描いた。
(まず、昼まで寝るでしょ。起きたら温かいのを飲んで、本を読んで、飽きたら昼寝。起きたら菓子。それから、また寝る)
完璧な作戦だった。東部戦線の用兵より三倍は真剣に練り上げてある。
その菓子は買い置きがある。中立都市の焼き菓子。魔王領ではまず手に入らない逸品で、こういう日のために温存してきた。
ゼナは菓子箱へ手を伸ばした。
扉が鳴った。
「ゼナ様。魔王様より、緊急招集です」
(うそでしょ)
菓子箱の蓋が、静かに閉じられた。
◇
十分後、玉座の間。
黒軍服、まとめ髪、無表情。《氷血の魔女》は完全に復旧していた。
「見事だった、ゼナ」
玉座の魔王ヴァルハルトは上機嫌だった。魔族を統べる王は、今日の戦果を心の底から喜んでいる。
「劣勢の兵力で、損害はほぼなし、わずか一時間。しかも敵をいたずらに殺さず退けた。人類側にこれ以上ない圧力を与えつつ、恨みは最小で済む。どこまで先を読んでいるのだ、お前は」
「恐縮です」
正午までしか読んでいない。
「そこで、だ」
嫌な接続詞だった。
「東部に残る三つの戦線も、お前へ一任する」
側近たちが資料の束を運んでくる。ひと抱えある。執務机が重そうに鳴った。
玉座の間が、わずかにどよめいた。三つの戦線をひとりに。前例のない負荷である。だがどよめきは、すぐに納得の空気へ変わった。ゼナ様なら、やれる。
その信頼が、いまいちばん邪魔だった。
「…………」
「有能な者に大きな仕事を任せる。それがわしにできる最上の褒美だ。存分に励め」
「謹んで拝命いたします」
ゼナは優雅に一礼した。
(殺す気?)
さらにその場で、明日の午前に作戦会議を開くことが決まった。
三戦線の資料に目を通すなら、今夜だ。会議が午前なら、昼まで寝るのは不可能だ。
真っ白だった休日は、玉座の間から自室へ戻るまでの間に埋まった。
◇
深夜、執務室。
報告書の山は減らない。菓子は封も切っていない。予定表の「休日」の欄には、赤字で会議の文字が入っている。
ゼナは長いこと、その赤い文字を見つめた。
思えば、ずっとこうだった。
士官になったのは、軍が「任務さえ終えれば堂々と休める職場」に見えたからだ。だから早く帰りたくて、仕事を片づけた。
効率化する。評価される。増える。効率化する。増える。
会議を月一に減らせば、減らした手腕を買われて他部門の会議へ呼ばれた。休むために磨いた技術は、ことごとく仕事へ換金された。
逃げ足だけは誰よりも速かったはずなのに、気づけば四天王で、気づけば、最後の休日まで消えていた。
仕事から逃げ続けた結果、世界で最も仕事の多い場所へ逃げ込んでいたことになる。
ゼナは静かにペンを置いた。
「…………辞めよう」
世界の命運を決める軍師の目で、彼女は決断した。
「魔王軍、辞めよう!」
魔王城の長い夜の中で、それは革命よりも重い決意だった。
本人にとっては。




