01 レイン=アルヴェル
かつてこの世界は"火"・"風"・"水"・"地"の四大精霊王によって均衡を保っていた。だが、その均衡は崩れた。
10年前、空から"灰"が降った。
それに触れたものは変質した。
獣は理性を失い、牙を剥く怪物へ。
森は黒く枯れ、精霊さえも狂った。
この時、世界は1度壊れてしまったのだ。
そして今も、歪みが残っていた。
「母さん!」
「逃げて……レイン!」
振り返った母の顔には血が流れていた。それでも笑っていた。
「母さんと一緒に──」
「だめ……もう、時間がないの」
低く唸る音が、すぐ背後まで迫っていた。
思い足音と木々をなぎ倒す気配がした。
「グォォォォ……!」
振り返らなくてもわかる。もうすぐそこにいた。
「レイン……生きて……」
次の瞬間、鈍い音とともに、母の体が揺れた。魔物の腕が母さんの心臓を貫いた。
「───ぁ……」
息が止まる。世界から音が消えた。
「レ…イン…どこにいても……あなたを…愛してる」
母は優しい笑顔を向けて言った。最後の力を振り絞った最後の言葉だった。
「……ぁ……あぁ……」
足が動いたのは逃げたかったからじゃない。
ただ、母さんの死を受け入れられず、その場に入れなかったからだ。
レイン=アルヴェル泣きながらは走った。
どのくらい走ったのか分からない。
背後からはまだ追ってくる足音が聞こえる。
「グアッ!」
レインの身体に衝撃が走る。
身体が宙を舞い、木に叩きつけられた。
視界が揺れる。
口の中に血の味が広がった。
魔物はゆっくりと近づいてくる。
立とうと思っても上手く足に力が入らない。
(逃げられない…)
「……いやだ……」
喉の奥で声にならない声が漏れる。
(死にたくない)
ただそれだけだった。
(──誰でもいいから。助けて)
そのときだった。
(いいよ)
どこかで声がした気がした。
次の瞬間、淡い光がレインの身体を包んだ。
魔物の爪が振り下ろされる。だがそれは届かなかった。見えない壁に阻まれていた。
魔物たちは唸り声を上げ、何度も叩きつける。
ヒビが入った。1つまた1つと確実にヒビが入っていた。
──割れる。
そう思った、その瞬間。1体の魔物の首が落ちた。
「……大丈夫?」
風が揺れた。
そこに立っていたのは、1人の女性だった。
黄緑の長い髪が、静かに揺れている。
次の瞬間には、別の魔物が倒れていた。
速い──そう思う間もなくすべてが終わっていた。
レインの意識はそこで途絶えた。
* * * * *
レインが次に目覚めたのは家の中だった。
見知らぬ家の天井。
木の匂い。
柔らかな光。
「……ここは……」
「良かった、起きたのね」
あのときの女性がすぐそばにいた。
「私の名前はシルフィ。ここは私の家よ。」
透き通るような優しい声だった。だが、どこか張り詰めた気配もある。
「あなたは一週間も眠っていたの。森で倒れていたの。何があったか覚えてる?」
「森?」
その言葉に胸がざわついた。
「……覚えてる?」
「……っ」
思い出した瞬間、呼吸が乱れる。
「母さんが……」
それ以上言葉が続かなかった。
シルフィは何も言わず、そっと温かいミルクを差し出した。
「ゆっくりでいいわ」
レインは震える手でそれを受け取る。
少しずつ飲み、呼吸を整える。
それから、ぽつりぽつりと話し始めた。
黒いフードの男のこと。
母の怒鳴り声。
不気味な忠告。
そして──あの日のことを。
「こんにちは」
「……もう来ないでって言ったはずよ」
母の声は低かった。レインは初めて聞く声だった。
「冷たいですね」
男は笑っていた。
フードの奥は見えない。それなのに、視線だけははっきりと感じた。
「まだ大丈夫ですよ」
「何が言いたいの」
「近いうちに、この辺りに来ます」
「……帰れ」
「あなた一人では、守れませんよ」
「特に──あの子は」
「……ッ!!」
空気が張り詰めた。
「やめろ」
母の声が震えた。
怒りじゃない。恐怖だった。
「選ぶなら、今のうちです」
「断る」
即答だった。
男は、わずかに肩をすくめた。
「では──後悔しないように」
そのまま、音もなく去っていった。
「……そう」
シルフィは短く答えた。
その目がわずかに細められる。
「それから……魔物が来て……」
言葉が詰まる。
あの光景を言葉にしたくなかった。
「……逃げたのね」
代わりに、シルフィが静かに言った。
レインは小さく頷く。
「……助かったのは偶然じゃないかもしれないわね」
「えっ?」
「いいえ、今はいいわ」
シルフィはそれ以上語らなかった。
だが、その横顔はどこか違和感があった。
何かを知っているような。
何かを隠しているような。
「……ありがとう、シルフィさん」
レインが言うと、シルフィはふっと表情を緩めた。
「さんはいらない。シルフィでいいわ。」
「……うん」
胸の奥に少しだけ温かい光が灯る。
だが同時に──消えないものあった。
あの男の笑み。
「……シルフィ」
レインは顔を上げた。
「俺に剣を教えて欲しい」
声は震えていなかった。
「……あいつを殺せるくらいの力を」
シルフィはじっとレインを見つめていた。
その視線は優しく──そして少しだけ、悲しかった。




