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ホクトは両手をはたいてちりを払いながら、転がったままの葛葉さんに声を掛けた。
「出て行くか?」
「……」
「返事をしろ。出て行かないならこの場でお前を殺す。返事が無いなら同じ事だ」
葛葉さんは残る最後の力で腕を立て、震えながら上半身を起こした。
「……出て、行くわよ。出て行けば良いんでしょ?」
「そうだ。次にここへ現れたら、次こそ殺すぞ」
もう歩くのも精一杯だ、と言う風に、ふらふらと葛葉さんは歩き始めた。心細気な人影が段々と離れて行き、やがて石段を下って姿が見えなくなった。
あまりにもあっけなく、静かな幕切れだった。今、何百年とこの神社を乗っ取っていた犬神が、ホクトの手によって追い払われたのだ。でも諸手をあげて喜ぶ風でもない。ホクトはしみじみと辺りを見回すと、きゅっ、と口許を引き結び、本殿の方を見やった。腰に手を当ててちょっと右に体重を載せながら、背中に、寂しさとか嬉しさとか、言い表せない数の思いをごっちゃに混ぜて感じさせながら、本殿と相対している。
僕とホクトは黙って本殿を見ていた。やがてそれに飽きてくると、今度はぐるりと木立から切り抜かれたような夜空を見上げた。いつも家から見上げる空と同じ空のはずなのに、ここの空の方がずっと暗く、ずっと深かった。今日は星が見えない。
「ホクト」
僕は呼びかけた。
「やっと終わったね」
「ああ、そうだな」
短い言葉だけど、それだけにホクトの思いがぎゅっと詰まっている気がした。
「どう? 久し振りのここは」
「そうだな……。私たちの居ない間に変わってしまった所も、結構あるみたいだな」
「へえ。そうなんだ」
また訪れる沈黙。ただ心地よい夜の時間に身を任せて、神社の境内から空を見上げる。悪くない時間だ。
そんなときだった。
「ところでさ、ホクト。アメノヒはいつ到着するの? と言うか、どこから入って来たの?」
「ああ、あの八雲神社だ。あの篠田とか言う男の話を聞いてだな、近くの田畑神社に頼み込んでみたんだが……」
ホクトがゆるりと振り返り、一瞬にして焦りと恐怖の入り交じった顔になった。
「善太朗っ! うしろ!」
僕は振り返り、葛葉さんの狡猾さを思い知った。
僕の背後には大きな、三メートルはあろうかと言う背の高さの犬が立っていた。
犬神だと、一瞬にして解った。
「うわっ!」
犬神は木の幹ほども太さのある腕を小さく振り、僕にぶち当てた。僕はいとも簡単に転がされてしまう。
犬神はその足を仰向けになった僕の胸の上に載せてしまった。
もう僕は動けない。犬神のギラギラした目が僕を捉える。鋭く光る歯が僕を噛み砕こうと半開きになっている。毛むくじゃらの腕が僕を潰そうと力を込める……。
そして、僕の小ささを悲しむ様に、目尻に涙を浮かべた。