XXVIII. Mane post
未明、ユレイドは《三番目のユリウス・クラン》本部――第二帝国ホテル四十一階――の一室で、レガートと打ち合わせをしていた。二人とも出先からここに帰ってきたばかりだ。帰ってきたといっても、彼らの本宅はここではない。ここはただ『必要なら寝泊りもできる居場所の一つ』なのだが、彼らは昔からよくここに入り浸っている。ユレイドが最高顧問に選任されて以降、二人がここに滞在する機会は以前よりは減っていたのだが、昨日のエレベーター停止騒ぎから庁舎の執務室の利用を控えた結果、ここが仕事場となった。
彼らを警戒させたのは、重要指定で優先稼働中の非常用エレベーターが停止したことだけではなく、それを庁舎の基幹システムが全く認識していないらしかったことだ。そんなことは本来あり得ないことで、他に類似の例も報告されていない。【交霊会】でのエリクの話では『魔原動機の抵抗』がエレベーターの不具合の原因とのことだった。件のエレベーターは、魔原動機が生成する第一エネルギーではなく、永久電池由来の第二エネルギーで稼働していたはずだ。そこに魔原動機が干渉し、かつ基幹システムへの認識阻害まで行うことができたのなら、『魔原動機の抵抗』の影響範囲は現状推測不可能だ。
その魔原動機に関わる謎をどうにかしようというのが、今日――もう日付が変わっている――午後から予定されている視察の実際の目的になる。さすがにそろそろ休もうと言って、二人とも椅子から腰を上げようとしたところ、ユレイドの端末にテオドロスからのメッセージが届いた。急ぎの要件という符牒は入っていない。しかし、テオドロスたちの交渉の結果が気になるユレイドは、メッセージをすぐに開封した。
〔状況報告:
地下組織との接触/交渉はまあまあ成功したと思う。
目的地へのパスは開けてもらえた。そこでの会合の日程は十日後を指定された。ただし、魔女がご指名のロラン・セニエール氏とミラベル・クレアローゼ嬢の二人だけで来い、他は連れてくるなという話だ。支援体制については、これからこちらのチームで話し合いをする。
追記:
セニエール氏が負傷した。まあ命に別状はないし治る怪我だから、彼なら十日もしないで復帰できるだろう。
(ダンピールって丈夫なんだね!)〕
ユレイドはそのメッセージを読みながら、レガートに転送して言う。
「ちょっとテオと話がしたい」
レガートは椅子に座りなおして一応「俺も話聞いといていい?」と尋ねる。聞かれる前からそのつもりだったユレイドは、テオドロスとの通信にレガートを追加した。
テオドロスはすぐに通話に応じた。聞こえてくるのは緊張感のない声だ。
「わざわざ通話かけてくるなんて、どうかした?」
ユレイドはなるべく落ち着いて質問する。
「君は今どこにいる? さっきのメッセージについて、もう少し詳細を知りたい。怪我をしたのは一人だけなのか? 何があった? ユリアはどうしてる?」
テオドロスは間を置いて返事をした。
「何があったか詳細は、こっちもこれから話し合うところでね。ちょっと簡単にはまとめにくい話なんだ。うーん……たぶん、ひとによって見たものが違うんじゃないかなあ。でも、うん、怪我をしたのは一人だけだし、それもちゃんと治りそうだから、十日後の訪問には問題なさそうだよ。僕は付き添いで病院に来てる。ユリアとアランは先に帰した。僕も朝にはたぶん戻る」
何があったのかについて明確な回答ではないが、ここで簡潔には言えない話か、言いたくない話なのだろう。人目についてはいけない二人組は『先に返した』らしいということで、ユレイドは彼らの安否を確認したく思う。同じことを考えたレガートが、ユリアに〔もう戻ってるか? 無事か?〕と一言メッセージを送った。ユリアから返ってきたメッセージ〔私たち二人とも無事です〕を見て、ユレイドは少し安堵した。彼は溜息と一緒にテオドロスに返す。
「ああそう。よく分からないけれど、今日はもういい。明日聞かせてくれ。連絡ありがとう。君のことだから、うまくやってくれているんだろう。何か突飛なことをしないかそれだけ心配なんだけれど、まあ、大体のところは信用しているんだ。大体はね」
テオドロスはどこまで本気か分からない口調で言い返す。
「ああ知ってる知ってる。僕はものすごく信頼されてるからね」
ユレイドはそれを皮肉と捉えたが、気にしない。
ここまで黙って聞いていたレガートが、諦め八分の調子でテオドロスに釘を刺した。
「おい、放蕩貴族。病院っておまえのとこのだろ。くれぐれも余計なことをするな。やめとけ。地下に化け物があふれたりする後片付けはもうたくさんだ。ウロボロスどころか死体まで二度殺す好奇心はしまっとけ」
テオドロスは、とても楽しい冗談を聞いておかしくてたまらないというふうに笑い出した。彼はけらけら笑いながら言う。
「大丈夫、大丈夫さ。ああいうのは今時もう流行らないだろ。心配性だなあ。そろそろ切るよ。何かあったら連絡してくれ。じゃあね」
二人の返事も待たずに通話は切られた。ユレイドもレガートも、通話前より疲労の増した顔をしている。二人は、テオドロスの手に落ちたロランを気の毒に思う。何もないかもしれないし、何かあるかもしれない。
部屋の隅で充電中の秘書に一言断って、二人は今度こそ仕事を切り上げた。いい加減にもう寝る時間だ。
帝都に暮らすものの始業時刻は、階級が上がるほど平均して遅くなる。パトリキであれば、正午近くに起床し、昼食を兼ねた朝食をゆったりととってから、午後にようやく動き始めるのが普通だ。昼夜の制御に成功してなお、有閑階級の宵っ張りは旧大陸時代から変わらない。
朝方帰ってきたテオドロスも正午ごろまで眠る心づもりだったのだが、寝室にたどり着く前に、彼を探していたユリアに捕まってしまった。彼女はドアの前に立って邪魔しながらテオドロスに問いかける。
「おやすみになる前に、兄様が見たものを教えてください。私たちが知らない間に何か起こったのでしょう?」
こうなる展開を予想していたテオドロスは、うん、と頷いてこう答える。
「そうみたいだね。ロランからはさっき話を聞いてきた。アランと君からも、話を聞きたいと思っていたところだ」
ユリアによるとアランもまだ起きているということなので、アランの部屋に移動して続きの会話をしよう、となる。
移動しながら、テオドロスがユリアに問う。
「『それがどうしたって言うの?』って、あれ、アランの代わりに言い返したんだろう?」
ユリアは強張った表情で「いえ、あのときはなんだか腹が立ったので、つい、そう言ってしまっただけです」と返す。
テオドロスは「へえ、そう」と頷いて、「君には腹を立てる余裕があった。あいつにはなかった」と言う。ユリアは何も言わない。テオドロスもそれ以上は続けず、アランの部屋の扉をノックして気軽に呼びかける。
「アラン、生きてる?」
暫く返答がない。テオドロスがもう一度ノックしようとしたところで、静かに扉が開いた。出てきたアランはくたびれた様子で、黙って二人を中に招き入れる。
ブラインドをほとんど閉めてしまって暗い部屋の中で、勝手にソファーに座ったテオドロスが呑気に話しだす。
「昨日は冒険だったね。さっき帰ってきてもう寝ようと思ってたんだけど、君たち二人とも起きているなら、ちょっと話を聞いてから寝ようと思って。ユリアが僕のことを探してたのはそのためでしょ」
アランは黙って机を挟んで向かい側のソファーに座った。「怪我をしていた彼は大丈夫なのか?」というアランの問いに、テオドロスは「うん、十日後にはもう大丈夫だと思うよ」と答えてから、「今回のハイライトだったねあれは」と何気なく続ける。ユリアがため息をついて質問する。
「あの方はいつの間にあんな怪我をされたの? ハイライトってどういうことですか?」
それを聞いてテオドロスは、「やっぱりそうか」と納得したように呟いて続ける。
「君たちは見ていなかったんだね。どこかから鉄の杭が飛んできて突き刺さるところも、占われる人間としてロランが選ばれた場合も、その場合に起きた出来事も、全部。そうなんだろう?」
テオドロスの言葉の意味が分からないアランとユリアは、顔を見合わせる。代表してユリアが口を開いた。
「兄様のおっしゃっていることがよく分かりません。資格について占われたのは誰か一人で、選ばれたのはアランでしょう?」
テオドロスは「君たちにはそう見えたわけだ」と一人納得して、こう続ける。
「別の場合も同時展開されてるのが僕には見えたのさ。君たちが体験したように『アランが選ばれた場合』と、君たちにはたぶん見えていなかったもう一つの場合が、両方見えた。そうか、僕は、あの場では、黙っている代わりに『見届ける者』っていう役割をもらっていたものね」
面白いなあ、と一人で頷いているテオドロスに、アランがあっさりした口調で言う。
「あそこならそういうことも起こりうるだろう。『別の場合』で何があったかは、あまり聞かないほうがよさそうだ。何か私が聞いておいたほうが良いことはあるか?」
聞かないほうがよさそうというのは、きっと散々な目に遭ったに違いない客人への配慮か同情だ。テオドロスは、ロランも先ほど似たようなことを言い、『もう一つの場合』の出来事について詳しくは尋ねなかったことを思い出す。きっと二人とも、面白いと思うものが自分とは違っているのだろうと彼は結論づける。興味のない話を聞くのは彼も苦手なので、聞かれなかった詳細を話すのはやめて、気になったことだけをアランに尋ねることにした。
「占い師のお付きの男の子が、ロランに青い帯を渡してたよ。あれはどういう意味があるのか知ってる?」
それだけではなんなので、その前後の一部始終も掻い摘んで説明する。アランはそれを聴きながら俯き加減に暫し思案し、自分が見ていた限りでの侍者の少年の様子を思い返す。確かに、占いの席に着いた時点では、侍者は白い衣装の上に青色の帯を身につけていたように思う。アランが彼を殺したときには、そんな帯は見当たらなかった。
彼を殺したのはアランだ。魔女の影響下から抜け出した今、彼はそのことをもう気にしてはいない。だから冷静に思い返すことができる。侍者は死に臨む前に『幸運の印』として帯を客に託したらしい。しかし、アランにはそういった習慣に心当たりはなかった。彼は静かにかぶりを振って答える。
「分からない。その帯はまだ彼が持っているのか?」
テオドロスはアランから視線を外さずに答える。
「持っていると思うよ。コートのポケットでくしゃくしゃになってると思うけど。現物を見てもらえたら何か分かるかな」
アランはさあと首を傾げて、「何かが分かる保証はできないが、見せてもらおう」と返す。
帯の入ったコートは持ち主のロランと一緒でここにはないので、テオドロスはもう一つの関心事に話題を移した。彼は『服装を考えたくない人の服』の懐から巫女にもらった封筒を出し、中から抜き出した【縛られた娘】のカードをもう一度よく眺めてみながらアランに尋ねる。
「これには何か、仕掛けがあるのかな?」
アランはテオドロスが差し出したそれを受け取って一瞥すると、「これは私にはできない仕事だ」と言って机の上にそっと置いた。それから、その絵柄を見るともなしに眺めながら淡々と言う。
「これは、護符だ。私が受け取ったものにも、ユリアが受け取ったものにも、同じプログラムが書き込まれている。こういうものを作るのには、私にはないほうの才能が必要だ」
へえ、とテオドロスは目を見張って言う。
「お守りなんて本物は滅多にないって聞いてたけど、これはそれだって言うんだね。どんなプログラムなの? 商売繁盛? 家内安全?」
アランは冗談に笑いもせずに答える。
「見たところ軽い災難除けだろう。大したものではない」
テオドロスには、軽い災難除けがどの程度の災難にどう対処してくれるのか気になるところだったが、それより不思議なのは、なぜそんなものを渡されたかだろう。彼は無邪気そうな顔を作りその問いを投げる。
「なんでそんなものをわざわざ僕たちに渡してくれたんだと思う? 護符なんか作れるなら、自分たちで使えばいいのに」
アランにとってもそれは不思議なことに思える。彼はユリウス家のインディゲナ狩りに表向き関わったことはない。しかし、狩られた者たちの末路については、それなりに見聞きしている。この護符が見かけ通りのものなら、いくら些細なものとはいえ敵に塩を送る行いに違いない。彼はどう答えたものかと思案した結果、「分からない」と率直に言って、また淡々とこう続ける。
「袖の下のつもりか、憐憫だろうかと思った」
それを聞いてテオドロスは「贈賄と憐憫じゃ随分違うよ」と返すが、その両方かもしれないと思う感覚は彼も持っている。
ユリアは、これまでに見聞きした情報を頭の中で整理していた。彼女はテオドロスに尋ねる。
「兄様はどう思いますか?」
テオドロスは腕組みして「うん、どうだろうなあ」と首を傾げ、「アランの言ってることはどっちもあり得そうだけれどね、なんか釈然としない」と言ってユリアにも質問を返す。
「ユリアはどう思う? 何か他に思いついたかな?」
テオドロスは、家長や他の年長の親戚たちと同じユリウス一族の人間でありながら、こうしてたびたびユリアの意見を聞こうとする。少なくとも、聞こうとするそぶりは見せてくる。家出して、この兄と関わり合いを持つようになってから気づいたことだが、とにかく、その点だけでも彼は奇人だとユリアは思う。ユリアには、彼がわざわざそうする意図が今も読めない。ユリアは慎重に口を開いた。
「あの巫女は、自分に指示を与えている何ものかに対して、どこか、少しは不信感を持っているように見えませんでしたか? 私にはそんなふうに感じられたので、もし本当にそうなら、意識してか無意識なのかはともかく、敵の敵に助力するような感覚でささやかな餞別をくれたのではないでしょうか」
テオドロスは腕組みを解かないままソファーの背にもたれかかって、静かにユリアの話を聞いていた。そのうち口元に微笑が浮かぶ。ユリアがそれを見て不安になる前に、テオドロスは感想を述べた。
「うん、それもまたありそうな話だ。僕はそれも向こうの罠じゃないかと思っていたけれど、今ある情報では、はっきりどうと特定するのは難しい」
アランが尋ねる。
「ロランといったか、今ここにいないもう一人は、これについて何か言っていたか? 君は彼からも話を聞いたのだろう?」
テオドロスは「まあね」と言って続きを濁す。確かに、彼はロランからも幾らかは話を聞いてきていた。しかし、ロランは失血のショックで朦朧としていて、タクシーに乗せられてまもなく意識を失った。たどり着いた病院の処置室では、呪いの鉄杭が患者の手首から抜けないという一悶着があり、ロランを無理矢理起こして本人に解呪させるという一幕もあった。怪我の程度を考えるともういいかげん限界だろうというところだが、ロランは解呪をやり遂げたうえ、テオドロスのインタビューにも二言三言答えてくれた。まともに話ができたのはそこまでだ。
「彼が言うには、『考えるだけ無駄だ』ってさ」
それでは身も蓋もない。テオドロスもその言葉をそのまま飲み込んではいないので、つまらなさそうな顔で自分の思うことも言う。
「でも、考えておくのは無駄じゃないよね。そのほうが面白いでしょ」
アランがぼそりと言う。
「無駄は遊びの本質だからな」
ユリアは納得のいかない顔をしている。遊びの本質についてはともかく、何か隠していそうなテオドロスを信用していないためだ。彼女が何か言うことを思いつく前に、テオドロスは「とにかくさあ」とこの場を終いにしようとする。
「僕はもう眠くなった。これからのことはまた後で、みんな集まってから話し合ったほうがいいよね。何か、ここにいるメンバーだけで話しておきたいことがあれば別だけど、何かある?」
二人からは何も出なかった。夜更かしをしてもう眠りたいのは、テオドロスだけではない。この場の三人には今日『視察』へ行く予定はないが、午後には各々、やっておきたいと思っている用事があった。そのためには、午前中のうちに休んでおくべきだ。
テオドロスは机上のカードを回収して、機嫌良く部屋を出てゆき、お気に入りの寝巻きに着替えて、機嫌の良いまま眠りについた。ユリアとアランは二言三言言葉を交わし、そのままの流れで一緒に眠った。
常に真昼の中層にも、やがて本当の朝――上流階級の朝に該当するはずの時間帯、すなわち正午前だ――が来て、視察へ出かける予定の面々がメインラウンジに集まり始める。ユレイドとレガートは早くに起きてここに来ていて、秘書のヒューマノイドとともに端末を操り、仕事の続きを始めている。客たちが起きて集合場所に来るのを待っているのだ。
最初に現れたのは、サンドラとミラベルだった。ユレイドが立ち上がって挨拶をする。挨拶を返したサンドラは、困った相談を持ちかけてきた。
「飛竜を運動させるのにいい場所はないかしら」
ユレイドは驚いてサンドラを見つめ、困惑をどうにも隠せない声で聞き返す。
「飛竜ですか……? 確かに、受け取った資料には、そのような記載がありましたが」
サンドラは頷く。
「そう。翼を伸ばしたがっているから。どこか、飛竜が飛んでも問題の起きない場所があればと思ったのだけれど、その反応だと難しそうね」
それは難しいことには違いない。なにしろ飛竜である。ユレイドにとってそれはこれまで、『伝説上の生物の一種』として認識してきた概念であったし、他の帝国民にとってもそれは大体同じのはずなのだ。街なかでそんなものが飛んで『翼を伸ばせ』ば、きっと騒ぎになる。それが普段の帝都であれば、輝く飛竜が空を駆け抜けたとしても、何かの宣伝か実験的な遊びの類だろうと適当に解釈してもらえるかもしれない。しかし今は、帝都中がエネルギー不足で窒息しそうな状況であり、宣伝や実験のためにそのような趣向を凝らす企業や組織が仮にあれば、それだけで結構な顰蹙を浴びることが容易に予想できる。
なんとも返せずに考え込んでしまったユレイドを見つつ、レガートが思いつきを口に出した。
「そういう変わった試みなら、軍の試験場はどうだろうか」
飛竜と聞いて隠せない好奇の色が多少滲んでいる。ユレイドはそれに気づいたが、「ああ、確かに、それならまあ……」と表情を和らげた。彼にも飛竜を見てみたいという好奇心はある。レガートの提案には確かに一考の価値があった。
ユレイドは気を取り直し、しかしサンドラには慎重な回答を返す。
「すみません、少し検討させてください。要望については承知しました」
思いのほかあてがありそうな雰囲気なので、サンドラは「そうね、検討してもらえるとありがたいわ」と返して引き下がった。
次に現れたのはエディだ。彼は談笑しているミラベルとサンドラ、なにか仕事の話をしているユレイドとレガートに気づくと、そのどちらを気に留めるでもなく少し離れたソファーに一人で座った。先に来ている者たちは、たまたまなのか誰も彼には声をかけない。今は一人でいたかったエディには、それでちょうどよかった。
エディは一息ついて、ソファーから見える窓の外へ目をやる。とりとめもない考え事を始める間もなく、彼は背後に不吉な気配を感じて身をこわばらせた。うなじの毛が波立つ感覚。地下室の薬品めいた香料と、微かだがまだ新鮮な血の匂い。後ろにいるのが誰かは、振り返らなくても分かる。なげやりな気分でそのまま振り返らずにいると、背後に立っている人物は何気ない口調で上から話しかけてきた。
「おまえの寄生虫は本当に沈黙しているようだな」
やはりジャンだ。エディは何か言い返そうとしたが、すぐには言葉が出てこない。考えて、まず聞き慣れない言葉について聞き返す。
「寄生虫ってなんだよ」
ジャンは調子を変えずに答える。
「おまえの内側に入り込んだ虫だ。二日前の夜に会っただろう」
つまり案内人のことかと、エディの表情が暗くなる。背後に立ったままのジャンはそれを見ているのかいないのか、やはり気軽な口調で、「そう心配するな」と意外な一言を投げかけてきた。
簡単に言うなとエディは腹が立ってきて、後ろを見ないまま「なにが」と言い返す。
ジャンは一拍置いてつまらなさそうに言う。
「あれはおまえではない」
エディはまたどう言い返したらよいか分からなくなった。ジャンはいつもの抑揚のない声で、意図の伝わりにくい言葉を続ける。
「あれがおまえでない間だけは、多少の力は貸してやろう」
なにか協力してくれるらしいという発言に聞こえるが、どういう気まぐれだろうか。エディが驚いて黙っていると、当然のようにジャンの傍らにいるらしい月の香り――シルキアが、「あとでね」とふわり付け足した。エディは、委縮して固まっていた心臓がまた動き出すような感覚にはっとする。
ハルトラード夫妻が現れたことに気づいたユレイドがメインラウンジを見回し、仕事を止めて立ち上がった。ここからは視察の時間だ。
思い思いに過ごしていたこの場の面々が、皆ユレイドのほうを見た。ユレイドは皆の注目を受けて、まず挨拶を述べる。
「おはようございます。リコリスさんは遅れて来るそうなので、これで視察のメンバーは揃いましたね。そろそろ移動しましょうか」
誰にも異存はない。ソファーから腰を上げながら、サンドラがユレイドに尋ねる。
「地下組織との交渉組のほうには、なにか進捗があったか聞いているの?」
ユレイドはサンドラに返事をする前に、その隣でスカートの皺をはたくミラベルの方をちらりと見た。彼女にも、これから昨夜の話をしなければならない。ユレイドは、「そのことについては道中でお話しします」と返し、一行を北側のポーチへ導いた。そこに今日乗るリムジンを待たせている。
永久電池の本体があるのは、庁舎の遥か下層だ。




