XXI - v. Phantom of the World β
法廷の正義を象った天使像は、己が本来置かれていた台座から抜け出し、裁判官席を乗り越え、壇から降りて、法廷の秩序を犯す不届き者達にその剣の先を突き付けている。眩い光。銀色の翼。床に座ったまま脅されている側の二人にとっては、およそ考えうるうちで最悪の部類の相手だったかもしれない。
中性的に象られた像の、端正にして非人間的な顔、惑いなき冷酷な唇から、誰もがどこかで聞き覚えのある、しかしどこで聞いたのかは絶対に思い出せない声で、初めの言葉が紡がれた。
「罪は魂の在り様に宿る」
ジャンはこの状況から抜け出すすべを模索している。先ほどから、おそらくここは《β世界》だ。少なくともこの状況では、魔法の類は使えない。夢が覚めてメアが消えた。《β世界》から抜け出すほかない。
天使は第二声を発する。
「傲慢と色欲」
ルパニクルスの茶番はまだ続いている。おそらく、【案内人】の起動だけが目的ではない。
相手の答えがないことは気にも留めない様子で、天使は重々しい口調で続ける。
「汝の罪を裁かねばならない」
馬鹿げた話だがどうしようもない。裁きごっこは、【案内人】の素体となったあの青年の願望だろうか? そんな有耶無耶な夢想を中枢機構が起動の条件にするはずもなし、ごっこ遊びが成立しようがしまいが、条件は別に果たされる可能性が高い。
天使は続ける。
「あるべきものとなれ」
忌々しい。天使の次の発言は看過できなかった。
「元に戻そう」
ジャンは右腕で顔を隠すのをやめる。シルキアもマントに隠れるのをやめ、天使像の方は見ず、ジャンの顔をもの問いたげに見上げた。
天使は剣の向きを変え、切っ先を天へ掲げるようにして宣告する。
「火によって裁きを」
ジャンはようやく行動を起こした。彼は天使像へ向けてか、どこか他のところへ向けてか「夢にでもそうはさせまい」と言い、彼を見ているシルキアの方へおもむろに両手を伸ばす。彼女の細い首筋を掴むと、ジャンはその手に躊躇なく力を入れて思い切り絞め上げようとした。
どう見ても本気で絞め殺そうという構えなので、我関せずで書類の確認を続ける裁判官達を除き、周囲の面々は騒然とする。ミラベルは心底驚いて「なんでそうなるのよ!」と籠の中から思わず叫んだ。隣のテオドロスは嘆声を漏らし、唐突な狼藉の光景——それは彼の目には一種蠱惑的な情景とも映った——に見入る。中央の二人から一番近い被告人席にいるエディは、剣を振り上げる天使像に威圧されて動けず、せめて「やめろよ!」と叫ぼうとして、それも声にならない。ユレイドとレガートは傍聴席で固まり、サンドラは沈黙し、リコリスは十字を切り、ロランは妙に冷静に、あれでは窒息より先に頸椎が折れそうだと思う。実際のところ、そのままでは遠からずそうなっていたに違いない。
この期に及んで救いの手が現れることは、ジャンにとっても想定外だった。しかしジャンは、大法廷の照明がまた落ち、今度は一度完全な暗闇を挟んで再び点灯したときに、シルキアの首からすぐに手を離した。致命的な傷害の寸前で解放されたシルキアは、強い力の加わった喉元に触れて身体を折り、激しく咳き込む。現れた助け手の姿は、まだ二人とも目視していない。
助け手は天使像の後方上、宙からいきなり空間に出現し、武器としても規格外な大きさの巨大な木槌を携えていた。ふざけた武器は法廷のガベルの真似だと、帝国人達にはすぐ合点がいく。冗談のような大木槌は、それを持った主が落下する勢い込みで天使像の頭上へ容赦なく振り下ろされ、石材の砕け散る音と共に、像の頭部を——ついで左肩から胸部にかけてと軟質に見えた左翼の大部分を、一撃で破壊してのける。
威力からして重そうなその武器を軽々と扱い、床に降りてからもそれを続けざまに振るって天使像を乱暴に解体してゆく男は、それほど筋骨隆々とした体格には見えない。男は真っ黒な髪を旧大陸時代の騎士のように肩の上で切り揃え、本当に黒い布地と比べなければ一見漆黒にも見える濃い灰色の長衣を纏っている。ジャンやシルキアの装いと似ていて、はたから見ていてあまり動きやすそうな服装ではない。
ミラベルに聞こえるよう、テオドロスが言う。
「あれがアランだ。やっと来た。いけないんだ、ガベルで遊ぶと怒られるんだよ」
ミラベルにはガベルが何かは分からないのだが、あれがアランだと言われた男が想像よりも若かったので、意外に思うと同時にほっとする。意地悪なテオドロスがユリアとの年齢差を強調するので、親子くらい差のある爺かもしれないとミラベルは考えていた。今、法廷で天使像をばらばらにしているアランは、不思議な怪力を別にしてもせいぜいレガートと同じくらいの年頃に見える。
像の全体が粉々に砕かれて厄介な輝きも失われたことを見届けると、アランは一度ふっと姿を消して、天使像が元々あった台座の上にいきなり現れた。大きな木槌をあれだけ振るったというのに、息を乱す様子もくたびれた様子も微塵もない。まるで仕事など何もしなかったかのようだ。その木槌もどこかに消えてしまった。アランは台座の上から大法廷の全体を見渡して、テオドロスもかくやという大仰な仕草で両手を広げ、興行主のような口調で朗々と話し始める。
「裁判長はばらばらに壊れてしまった。空いた席には誰が座ろうか? 私は遠慮しておこう。裁きは荷が重いから」
からりと乾いた印象の声。アランの振る舞いに驚いているミラベルに、またテオドロスがしみじみと解説してくれる。
「あいつはね、《β世界》でだけ気が大きくなるんだ。βにいるときの方が格段に面白い。たぶん、αに戻って改めて会ったら、ものすごく静かだからびっくりするよ」
ミラベルはテオドロスに一言返す。
「今のところの印象だと、あなたの友達だって言われて一番納得いく感じの人ね」
言いながらミラベルは、残っている裁判官達——各々の席についたまま、今や書類をめくる手は止め、全員一様に振り返ってアランを凝視しているように見える裁判官達のことを気にしている。そんな調子で注目を浴びたら居心地が悪くなりそうなものだが、アランは落ち着き払った様子でその裁判官達にも弁舌を振るった。
「残る裁判官の諸君。全て壊して回るのも面倒だ。裁判長は言われた。『あるべきように』と。石像は廊下でおとなしく固まっているべきではないか」
裁判官達の胡乱な視線をものともせず、アランは右手を高く掲げて、指揮官のように彼らに命じる。
「持ち場に戻れ!」
大理石の裁判官達はアランの命令に従った。彼らは書類を整えてその場に残し、おとなしく立ち上がって、左右の扉から外へ出てゆく。皆がその様子を見つめ、場が静まり返る中、テオドロスがアランに大きな拍手を送った。裁判官達は振り向きもしない。興行主アランが観客テオロドスに深々とお辞儀をするついでに右手を下ろすと、そこにはいつの間にか一振りの剣が握られていた。かつてその台座の上にあり、今は下でばらばらになっている天使像が同じく右手に持っていた剣とは、また別の意匠のようだ。アランは抜き身の剣を何か確かめるように眺め、やはりいつの間にか左手に握られていた鞘に納めると、テオドロスへこう言って台座から降りた。
「テオドロス! 約束は果たした」
テオドロスは了解の合図だけ控えめに返す。その約束とやらに関わることは皆の前では言えないのだろうか、テオドロスは隣にいるミラベルにだけ、ぼそっと言ってよこした。
「ユリアの勝ち。ああ、つまんないの」
皆の注目をよそに、アランは裁判官席を迂回してその壇上からも下り、今度は一度も姿を消さずに天使像の残骸がある場所まで辿り着いた。危機を脱したジャンとシルキアは、敵の残骸から離れて立ち、乱れた身なりも整え終えて体裁を取り戻したところだ。それを待っていたらしいアランは彼らの前に歩み寄ると、右膝をついて跪き、鞘に納めたままの剣の柄を彼らへ向けて差し出した。そのままの姿勢で頭を垂れ、アランは簡単な挨拶を述べる。
「陛下。とんだご災難でした。私はテオドロス・ユリウスに匿われておりますアランと申します。初にお目にかかりますが、貴方様とは浅からぬ縁を感じます。おそらく、私の母方の血脈に関係のあることなのでしょう」
剣の柄を差し出して跪くこの礼は、旧大陸時代の作法で、臣下の者が君主に対して行ったものだ。礼を受ける側は、尋常なら、差し出された剣を鞘ごと受け取り、祝福して返す。尋常でない場合は、受け取った剣を取り上げて返さず、象徴的に相手の身分を剥奪することも、差し出された柄を取って剣を鞘から抜き、相手を刺し殺すことも可能だったというが、そうした例はあったのだろうか。少なくとも現代において、外国の使節に臣下の礼をとるのは、外交儀礼に反することだ。アランがそれを知らないということはおそらくあり得ないのだが、読めないアランの場違いにユレイドはひやりとし、彼ほど真面目ではない他の帝国民三名も軽く違和感を覚える。旧大陸時代から来たロランは、違和感よりも好奇心が勝った。アランのようにあからさまに傅こうとする者に対し、気紛れな二人はどう振る舞うのか?
シルキアはまだ喉元に残る感覚を気にしている。不機嫌の頂点と思われるジャンは、メアから落ちたときに腰を痛めたのかそのあたりに左手を当てて、右手を差し出された剣の柄に伸ばし、無表情のまま鞘から引き抜いた。まさか斬りかかる気かと場に緊張が走るが、そういう気ではないらしく、ジャンは手に取った剣をよく眺め、一言感想を述べる。
「良い剣だ」
アランは俯いたまま言う。
「世に二振りとない品です。差し上げましょうか」
ジャンは鞘も手に取って剣を納め、アランに顔を上げるよう言い、「貰っても持って帰れないだろう」と指摘する。アランが「では後ほど」と言うと、ジャンは鞘に納めた剣をアランに返し、「立て」と言って彼を立たせる。『臣下』から剣を取り上げて少しは気が晴れたのだろうか。作法を知っていての振る舞いかは不明だが、わざとやっているに違いないとロランは確信した。
立ち上がったアランは一礼して言う。
「さて、先ほどのお振る舞い、ここから出る方法をご存知の様子とお見受けしますが、まだその手段には及びません。これからきっと幾らか面白いものが見られます。大法廷のあのあたり、少し見晴らしのよい傍聴席から、成り行きをご覧ください」
ここで何かしたいので中央から退いてくれという依頼のようだ。シルキアの首を絞めることが、どうして『ここから出る方法』になるのか、ミラベル、ロラン、サンドラ、エディには分からない。離れたところにいるエディ以外には、リコリスとテオドロスがそれぞれ説明してくれる。リコリスはあっさりと一言で済ませた。
「死ねば出られるのよ」
ロランとサンドラもそう聞いてあっさりと頷く。彼らは、《β世界》についてはとりあえず与えられた情報を受け入れ、そういうものとして概念を構築しようとする段階にある。
テオドロスは、先ほどの扼殺未遂の光景を思い出しながら、ミラベルの「なぜ」に答えた。
「ああ、あれね、《β世界》なら、死ねば出られるんだ。どうしても出られなくなったときの最終手段。よっぽどまずいトラブルがないとやらない。アランがこれからどうする気か知らないけれど、もししくじったら、僕がやってあげる」
それでもさっぱり訳が分からないのだが、ミラベルはぞっとしてまたテオドロスから身を引く。テオドロスは彼女に「自殺はきついよ」と不気味に優しげな声色で言うと、続けて独り言のように呟いた。
「死ぬのはどうして苦しそうなんだろう」
ジャンはアランの勧めに従う気か、黙って踵を返し、後方の傍聴席へ歩き出した。彼の後に従う前に、シルキアはアランに一言礼を述べた。
「わたし達を助けてくれてありがとう」
アランは会釈して「まだこれからです」と返した。二人の後姿を見送っってから、アランは被告人席でぼんやりしているエディにも、傍聴席へ移るよう促す。
「そこにいられると邪魔だ。どこか後ろの方へ」
先ほどの丁寧な態度との落差に閉口しつつ、エディはおとなしく席を移動する。もともとこんな席にずっといたかったわけではない。彼はジャンとシルキアがいる席からはなるべく遠く、ユレイドとレガートの近くの席を選んで着席した。
エディが席を移動している間に、右側の天秤皿の上から、焦れた様子のリコリスがアランに声をかける。
「アラン! ちょっと、あたし達のことはここから出してくれないの? この鳥籠ったら、出入口もないのよ! これから何かする気なんだったら、あたし達、まずここから出たいわ!」
アランはリコリスが子どもになっていることに驚きもせず、そもそも彼女が誰かにも関心がない様子で「出たければ出ればいい」と返して、右手を差し出し空を撫でる。すると鳥籠には扉が現れた。こうした不思議な術の常だが、これも初めからそこにあったかのような扉だ。アランは左手も同じようにして、左側の鳥籠にも扉をつくる。扉に錠はなく、不可視の障壁もなくなったので、中から簡単に開けることができた。
左側の籠ではテオドロスが扉を開けて下を見下ろし、次いで彼は反対側の籠の方を見て、「降りる順番が重要だ」と嬉しそうに言う。大天秤は右側に傾いているため、テオドロスとミラベルのいる左側の天秤皿の位置はかなり高く、飛び降りるにはまだ危うい。右側の天秤皿からまず誰かが降りる必要がある。その右側の籠の中ではサンドラとロランによる話し合いが行われていた。扉を開けたリコリスは思考を放棄している。サンドラが提案する。
「まず向こうを重くさせましょう。最初に降りるのは一番重い人」
ロランは「リコリスじゃないことは確かだ」と言い、サンドラを見て「そのコート重そうだな」と冗談のつもりで指摘する。サンドラはコートを脱いでロランに渡し、扉の外を見下ろして「貴方、高いところ苦手だったかしら?」とわざとらしく尋ねた。もちろん大した高さではない。ロランは「エディでもびびらないで飛べそうな高さだ」と返し、驚くほど軽かったサンドラのコートを抱えて飛び降りた。大天秤は左側に傾く。
左側の天秤皿からは、テオドロスが降りる前に一悶着が発生していた。暫し押し問答がありリコリスとサンドラを不審がらせたのち、テオドロスはミラベルに蹴落とされるようにして飛び降りた。何があったのかユレイドが聞くと、「アランがけちで扉の幅が狭いから一人ずつしか飛べないじゃない。だから僕がミラベルちゃんを抱っこして降りたらすぐに傾きを変えられると思ったのに、嫌がられちゃった」と言うので、ユレイドは呆れ、レガートは笑った。テオドロスはエディにも話しかける。
「一番前の席で全部見られてよかったね。動いてる天使像とか、偉そうな人が変わった馬から落ちるところとか、謎の突然死とか素敵な殺人未遂とか。天秤皿の上も悪くない席だったけれど、遠いと臨場感が今一つじゃない。今もこれ、離れて座らないといけないの?」
エディはびっくりしてユレイド達の方を見る。二人は同情して、ユレイドは「心中お察しします」と言い、レガートは「こういう奴なんだ。どうしようもなくて色々失礼があると思うが、申し訳ない。諦めてくれ」と詫びを入れる。テオドロスはそれらを気にもせず、やりとりの間に天秤皿から降りてきたミラベルを迎え、自分はエディの隣に、自分の隣にミラベルを座らせて喜んでいる。ミラベルがげんなりしていると、彼女の隣の席に、ロランからコートを返してもらったサンドラがやってきた。喜ぶミラベルにサンドラは言う。
「貴女の冒険の話、後で聞かせてね。そっちも色々あったんでしょう?」
ミラベルは複雑な顔で答える。
「冒険っていう面白そうな話じゃないけれど、話したいことは色々。ドラは冒険したの? 帰ったら教えて」
ロランはリコリスに引っ張られて少し離れた席に座っている。皆が席に着くと、アランは再び壇上に立った。彼は皆を静かにさせると、またふざけた舞台挨拶のような口調で「《β世界》へようこそ」から始まる口上を述べ始める。
「ここはβ-1910、もう一つの大法廷だ。このエリアは不明な勢力により閉ざされた状態だったが、ようやく私の管理下に置くことができた。制圧に時間がかかったことは詫び、時間稼ぎには感謝しよう。そして中継をご覧のユリア——すぐに戻る。怒らないでくれ」
そう言ってアランは何もない虚空へ手を振った。テオドロスが「ユリア、怒ってるんだ」と呟いておかしそうに笑う。彼は、どういうことか分かっていない両隣のエディとミラベルに「どの時点からか分からないけれど、僕達も後で映像を見られるよ」と更に謎めいたことを囁き、アランの話の続きに集中する。アランはかつて謎の青年がそうしていたように、後ろにある裁判長の机に寄りかかって話を続ける。
「さて驚いたことに、ここは先刻まで、皆様方の夢の世界と繋がりを持っていたらしい。確かにここは《β世界》だが、そこに重なり合った夢の世界にまで干渉する力は、私にもない。陛下が夢を覚ましてくださるまでは、陣取り合戦の用意を進めつつ機を伺う他なかった次第だ。夢は覚めた。皆様方がいわゆる『正規の手順』を表向き踏まずにここへ来られたのは、かかる奇妙な夢を経由したことが関係していると思われるが、そもそもどうしてそんなことになったのか、私にもまだ分からない。また、おそらく誰も自らの意志によっては『正規の手順』を踏まなかったにも関わらず、まるでその手順を踏んだかのように、様々なものを——おそらくは例の機械が複製できない要素を——失っているように見受けられるのも、不思議の一つだ」
サンドラの飛竜とグレイヴは帝国の技術で複製できなかったので《β世界》では失われたということだろうか。ジャンとシルキアの魔力についても該当しそうだ。それでも彼らが起きていられるのは、ここにいるのは複製で、元の身体は【α世界】に残しているためか。ミラベルも、大法廷に来てからはまだ魔法を使っていない。夢は、なぜ覚めたのだろう? この夢の中なら何でもできると言った、例の青年が殺されたからだろうか。
アランは改めて姿勢を正し、演説を締め括りにかかる。
「謎は尽きないが、収束は近い。このエリアを掌握し囲っていたエネルギー体は既に捕捉済みで、あとはこの場へ引きずり出すのみだ。
さあ、私の勝手知ったる世界に、どういうわけかお集りの皆様。ここからは謎解きの時間、審問の時間だ。茶番には茶番で応じ、そこに隠された謀を暴こうではないか」
大袈裟な口上を終えると、アランは壇の下に広がる空間、法廷の中央へ左手を差し伸べ、手品師のように右手の指をぱちんと鳴らした。エディはそれを見てデイレンの魔導師ベルナルドを思い出す。彼も似たような仕草で魔法を使っていた。服装も似ていた。
次いで起こったことも、やはり魔法のように見えた。法廷の中央に灰色のもやが立ち、ぐるぐると渦を巻いてゆるい竜巻のように回転する。濃くなった煙の渦に巻かれ、中央の床は一度完全に見えなくなった。渦が柔らかく解けて散ると、そこに女が一人佇んでいる姿が見えてくる。
女は薄物の黒いベールとたくさんの装飾品で身を飾り、ベールから覗く束ねた長い髪は、アランやジャンと同じ艶やかな漆黒だった。衣装は黒と紫が基調で、細い身体に腕輪や首輪を幾つも着けている。下層の路地裏にいる占い師のステレオタイプのようだと、帝国人達は思う。両手で小さな灰色の小箱を抱えた女は、怯えた様子で俯き、当惑しているようだ。
女は、話しかけられる前に顔を上げ、壇上のアランを見て、思いの外しっかりとした声でこう言った。
「混血の子孫に場の統制を取られるなんて、思わなかった」
女はインディゲナだ。アランには、女を見てすぐにそうと分かった。アランは肩をすくめ、芝居がかった、というよりむしろ時代がかった言い回しで語りかける。
「何代前のご先祖か存じかねるが、此度の振る舞いは迷惑千万だ。安眠を返していただこう。その前に状況の説明を。どこまでがそなたの仕業か? 一体、如何様な罰で、かくの如き使い走りをしている?」
「私のしたことは、この場の統制を握り、外部から遮断したところまで。巻き込まれた皆さんを、夢を通じてここへ導いたのは、ルパニクルスのメアの仕業。私とメアに、そして【案内人】に、仕事を命じたのは中枢機構よ」
一つ目の問いの答えはここまで、というように女はここで言葉を切り、二つ目の問いにも答える。
「私がルパニクルスに囚われているのは、裏切りの罰。私はそう思っている。私の父祖は、同胞を裏切り、土地と未来を他所者の手に売り渡した罪人。同胞を繋いだ罰として、子孫の私は囚われている。力尽き、命果てるまで」
この女は『はぐれた悪魔』の子孫だ、とミラベルはとっさに思う。違うかもしれない。隣のテオドロスを見ると、彼はミラベルの視線に気付いて片目を瞑り、「かもねえ」と小声で呟いた。ミラベルは思ったことを口に出していないので、薄気味悪く思う。
尋問しているのがジャンだったなら、二つ目の問いの答えは無視して、中枢機構の目的を先に尋ねるだろうか。もしかしたら、今回に限っては、違ったかもしれない。また、使い走りであるのなら、女は目的を知らされていない可能性が高い。
アランは、二つ目の問いの答えを掘り下げた。
「罪。また罪か。権利もない我々には法廷など無縁なはずだが。父祖の行いを罪と定めたのは、何者だ? 仮に罪だとして、なぜ、父祖の罪をそなたが被る?」
帝国では、インディゲナが法廷で裁かれることはない。彼らにはその権利がない。それを皮肉ったアランの言い方は乾いていた。後半の問いかけは優しい。女は俯いて考え、首を横に振り、またアランを見上げて答える。
「それは、私には分からないこと。分かっているのは、私ははこのまま、死ぬまで繋がれたままだということ。もし、貴方が私を助けたいと思ってくれるのなら、不本意な隷属から解き放ちたいと思うのなら、私を滅ぼして。今、場の統制は貴方の手にある。今の私を滅することは、貴方にとって造作もないこと。私を滅ぼして。貴方の統制が切れて、私が呼び戻される前に。お願い。お願いよ」
女の声は半ばから震えていた。期待などしていないが、期待している。ミラベル、エディ、ロラン、サンドラは、デイレンの地下で同じことを懇願した、【守護者】の少女を思い出す。あのときは、ジャンがその懇願を跳ね付けた。それが仕事だったのだが、あのときの彼は楽しげでもあった。今はそうでないということを、彼の傍にいるシルキアだけが知っている。しかし、迷ったアランが視線を上の方の傍聴席、ジャンが座っている方へ彷徨わせたとき、アランはジャンから「やめておけ」という助言を受け取ったように感じた。声に出して言われたわけでも、何か目に見える合図を送られたわけでもないのだが、アランはそう感じた。アランは女の方へ視線を戻し、皮肉にも死刑宣告を下すような気分で告げる。
「それはできない」
女はアランをまっすぐ見据え、挑発するように問う。
「私を殺すことを恐れるの?」
アランは首を振り、女の目を見返して、静かにこう言った。
「星辰のご意向だ」
これは特別な意味のある語だ。アランはそれがこの女に通じるか不安だったが、杞憂だった。女は片足を斜めに引き、貴婦人の挨拶のように頭を下げて恭しく応じた。
「謹んでお受けします」
何のおまじないかと皆が訝しむ中、ジャンは『星辰のご意向』という語を懐かしく聞いた。彼の城塞都市ハルトラードでは、王と民との関係は、互いに星を観察するようなものだった。両者は干渉せず、本質からして遠く隔たっている。解釈だけがその橋渡しをする。
アランは女とは別の形で『星辰のご意向』に対する礼をしたのち、彼女を憐れんで声をかける。
「慰めを言うようだが、そなたの力は既に尽きかけている。じきに解放されよう」
なんて残酷なと、聞いている何名かは戸惑うが、女は微笑みを返した。現にその通りだろう。女に全盛期の力があれば、今回の『陣取り合戦』には破れなかったに違いない。女がお役御免になるときは、近付いているには違いなかった。聡明な女は申し訳なさそうに首を振り、次の問いを先回りして言う。
「私は、命じられた仕事の意図を知らない。だから、それについては答えられない。【案内人】も、メアもきっと同じ。私が貴方に話してあげられることは、たぶん、もうない」
アランが何か言う前に、女は手に持っている小箱を指して、皆が一番気にしていると思われることについても先回りして答えた。
「皆さんをここから出すことならできるわ。預かっている機械の電源を落とせば、ここへ連れてこられた人達は、元のところへ戻れるはず。だから——」
彼女はそこで口ごもり、俯いた。口に出してよいものかどうか逡巡する様子だ。アランは待っていた。傍聴席の面々も静かに待っている。ジャンはルパニクルスへの復讐の方法に思いを巡らせる。毎度同じところに帰着する思索だ。今は機を待とうと、ジャンがいつもの結論に辿り着いたところで、女はようやく決心がついたのか顔を上げてアランを見、答えを聞くのが怖くて仕方がないという様子で問いを発した。
「最後に、一つだけ教えて。私は、私からは問えない。そういうふうに縛られているから。でも、知りたいの。星辰は、私を罪に定める?」
アランは今度は視線を彷徨わせず、託宣を下す古代の神官のように厳かに、迷いなく答えた。
「星辰は裁かない。そなたを罪には定めない。いつも彼方に輝いている」
その回答は正しく『星辰のご意向』だった。アランは確認しなかったが、確信していた。確信は正しかった。女は俯いて静かに泣き、それを隠すように跪いて、手元の装置の電源を切った。傍聴席には誰もいなくなった。
機械の力でこの場へ繋がれていた者達が消え、女とアランだけが大法廷に残されると、アランは壇上から降り、女と同じ床に立って尋ねた。
「名前を知りたい。後で調べられるように。どこでどのように生きていて、どうしてそのような身の上になったのか」
女は名を明かし、周囲を気にするように見回して、「貴方は、早くここから離れた方がいい」と早口に忠告した。女が何を恐れているのか、はっきりとは分からないのだが、アランはその忠告に従うことにする。彼は空間から立ち去ろうとして、自分がここを去って場の統制を手放せば、女はどこかへ連れ戻されてしまうのだと思い出す。だが、場の統制をずっと持ち続けるわけにもいかない。アランが迷っているのを見て取り、女は悲しく微笑んで言った。
「私のようになりたくなければ、自分の力を過信しないこと。貴方は強い。昔の私のように。でも、何かが貴方の統制を破って、私を連れ戻しに来る前に、去って」
アランが頷くと、女は手を振って別れの言葉を述べた。
「大切なことを伝えてくれてありがとう。この度のことはごめんなさい。二度と会いませんように。遥けき子よ、さようなら」
アランが離脱した後の大法廷の様子は、映像記録にも残されていない。




