表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/44

XXI - iv. The Farce

 薄闇の中ロランが目を覚ますと、そこはまだ夢の中のようで、直に座っている地面は硬く、すぐそばに同じように座っているリコリスとサンドラの気配があった。何かで覆いをかけられた鳥籠の中にでもいるような心地だ。どうしてこうなったのかはさっぱり分からない。闇に強い目でその狭い空間と道連れの二人を見回して、彼は言う。

「まだ生きてるな。ああ、まだ夢の中か。面子はこの三人か?」

 リコリスが彼の方へ顔を向け、気が抜けたような声で答える。

「生きてるわよ。一体何が起こったの? あたしが何かしちゃったのかしら? いきなり飛竜がすごい速さで飛び出して、雷が光って大きな音がして。気がついたら地面にぶつかって、火が燃えていて、動けないうちにその火に巻かれて、そこでおしまい」

 ロランは先ほどの出来事を思い出して軽く溜息をつく。そしてリコリスにはこう言う。

「飛竜はねえさんを助けようとしたんだろう。俺が的を外してすぐ、もう殺られる寸前だったからな」

 ロランは悄然としているサンドラの方を見、起きたことについて尋ねる。

「何があったんだ? 武器が使えなくなったのか?」

 サンドラはそちらを見もせずに答える。

「そう。いきなり武器がなくなった。それから身体が動かなくなって、獣に噛み裂かれる寸前にガリーナの雷撃が落ちたところまでで、私の認識はおしまい。武器が消える前に声を聞いたわ。耳元でいきなり知らない声が」

 声と聞いて、ロランはいかにも気に食わないという様子で悪態をつき、サンドラに尋ねる。

「小憎たらしい男の声か? 引き金引く瞬間に俺も聞いたぞ。一言だけ」

 二人のやりとりを聞いていたリコリスが、ええっと身を乗り出して言う。

「知らない男の声ならあたしも聞いたわ! 空から落ちて焼け死ぬのを待つ間に一言」

 ロランは二人の顔を順番に眺めた。それからにやりと笑って二人にこんな提案をする。

「面白え。何て言われたか、同時に言い合おうぜ」

 リコリスは前のめりに、サンドラは億劫そうに頷いた。ロランの合図で、三人は自分の言われたことを各々口にする。


「人殺し」

「君も裁かれるよ」

「殺人鬼」


 言い終わってロランは笑ってしまう。殺人鬼と人殺しでは、前者の方が少し当たりがきつくないかと思いながら彼は言う。

「もうちょっとましな悪口の選び方はなかったのかよ。こんなの言われ慣れてて屁とも思わねえよ」

 サンドラもつまらなさそうな顔をして言う。

「同感ね。今更言われても、それが何かとしか返しようがないわ」

 人殺しを否定する気配がない二人に改めて驚きの眼差しを注ぐリコリスに、ロランは問う。

「おまえだけ罪状が出てないよな。何したんだ?」

 リコリスは二人から視線をそらして、ふてくされたように言う。

「何か悪いことしたかって言われれば色々よ。でも、悪いかどうかなんて誰が決めるの? あたしが決めるんじゃないの?」

 ロランがリコリスをまじまじと見て「この調子じゃ相当悪いことしてるぞ、こいつ」等とサンドラに言うので、リコリスはロランがいる方向へ軽く蹴りを繰り出す。ピンヒールならもっとよかったのにと思う。ロランは彼女を宥めて「良い靴だなそれ」と的外れなことを言うと、心持ち真剣な顔に戻ってサンドラに問う。

「武器がなくなったって、今は大丈夫なのか?」

 サンドラのグレイヴはただの武器ではない。彼女の帰属意識に関わる【雷霆】、輝ける光の矢で、それは特別な代物のはずだ。それを知った上で案じる問いかけを受け、サンドラは自嘲気味に両手を広げ首を横に振って答える。

「駄目ね。あれは出せない。何故かは分からないけれど、いつもの言葉を思い起こしても何も起こらないの。【雷霆】を授かってから、こんなことは一度もなかったのに。嫌な悪夢だわ」

 本当に夢ならいいけれど、とは口に出さない。サンドラはこのことで自ら考える以上に動揺し、気を落としているらしかった。事情は知らないながら何か悲愴な雰囲気をくんだリコリスは、話を変えようとロランに質問をする。

「ロランは何やってたのよ? 最後の記憶は?」

 ロランはその瞬間を思い出して苦い顔をし、二度とごめんだと思いつつ、あえて何でもないことのように話した。

「俺もたぶん死ぬとこで終わりだよ。あれは雷撃と黒色火薬の共演がなした惨事だったな。二発目を装填する途中で爆発が起きて俺はそこまでだ。外した挙句、間抜けな死に様で嫌になる」

 リコリスは「ダイナミックな死に方ねえ」と言って感心したように何度も頷く。彼女は「あれって本当に爆発するんだ」ともしみじみと呟き、それから改めて周囲を見回して言う。

「呑気にお喋りしちゃったけれど、ここはどういう場所なのかしら。死後の世界なの? 暗くて、よく見えないわ」

 この中では唯一夜目が効くロランが答える。

「でかい鳥籠の中みたいな場所だ。微妙に光が差してくるから外は明るいようだが、覆いがかけられてるらしく外は見えねえ。座ってる後ろ、触ってみろ。鉄格子だろ」

 リコリスが後ろを確認してみると、確かに言われた通り、冷たい鉄の棒のようなものが指先に触れた。鉄の棒の間に何かあるのだろうか。指先を外へ差し出してみようとしても、何かに阻まれて通過できない。その不思議さもさることながら、リコリスはどうしても気になってロランに言う。

「なんで見えるの? 貴方の顔も見えないくらい暗いのに。貴方本当にロランよね?」

 ロランは「馬鹿なこと言うな」と笑い、懐からライターを取り出そうとして探りながら言う。

「真っ暗じゃないだろう? 見えるさ。おまえがさっき俺を蹴飛ばしたとき、スカートがめくれたのも、ちゃんと見たぞ」

 リコリスはもう一度蹴ろうとして思いとどまる。スカートの中身くらい今更見られても構わないのだが、子どもの姿のままでは嫌だ。嫌なことを思い出してしまう。情動まで子どもに戻ったようなリコリスがしょんぼりしていると、ロランはようやくライターを探り当てた。上着の中身の配置がばらばらになっている気がする。これも夢のせいだろうか。いつもはきちんと定位置があるのだ。ロランは戯れに魔法使いの真似をしてライターの火を灯す。

「光あれ!」

 すると光があった。リコリスは驚いた。光が生じたことにではなく、『光あれ』という言い方に驚いたのだ。それは古い言葉だった。明るくなって間違いなくロランだと分かった相手に尋ねてみようかと思うが、暗がりに現れた明るい炎の心強い輝きに魅せられるうちに、リコリスはそのことを忘れてしまう。ロランが手にしている初期のライターは、リコリスにとってはあのマスケットと同じくらい年代物に見える。

 ロランは「これでお互いが誰だか分かるようになったよな」と立ち上がって灯を掲げ、彼にとっては充分すぎるほどはっきり見通せるようになった周囲を見回す。やはり鳥籠の中だ。鈍い鉄の格子の外側を覆っている何かは、黒色で絹のような光沢がある。外の様子はまだ分からない。物音が聞こえてこないのは、この覆いに何か細工がされているせいかもしれない。

 ライターが熱くなってきたので、ロランはそれを袖越しに持つようにする。油の残量を気にしながら、彼は立ち上がって周りを見回している二人の背後へも回り、扉がどこにも見当たらないことも確認する。どうやって出ればいいのか、これでは分からない。鉄格子の間に張られた不可視の障壁についても、今のところ解決するすべが見当たらない。内側から覆いを外すこともできないだろう。先ほどから足元がどこか不安定な感覚もある。重心を移動しても揺れないが、試しに跳ねてみると、着地するときに違和感があった。鳥籠は宙吊りになっているとまではいかなくても、どこか不安定な場所に設置されている可能性がある。そこまで確認したところで、ロランは二人に断ってライターの火を消した。

 籠の中にまた闇が落ちる。一度明るくなった分、火が消えた後は一層暗くなったように感じられる。心細くなったリコリスは、光り輝くサンドラの飛竜を思い出す。サンドラは一度立ち上がった前と同じように、後ろの格子にもたれかかって座り、腕を組んで考え事をしている気配だ。リコリスは彼女にそっと話しかけてみる。

「飛竜の背中、とってもスリリングで素敵だったわ。あの子は、無事だったかしら」

 サンドラは腕組みを解いてリコリスの方を見、「楽しかったならよかったわ」と返す。一呼吸おいて「こりごりだって言う人も多いから」と付け加える。無事だったかどうかについての言及はなかったので、リコリスは何事か察し、「目が覚めたらまた乗せてちょうだい」と言って会話を打ち切ろうとする。だがサンドラは問いを黙殺するつもりだったのではなく、単に言い方を考えていただけだったらしい。リコリスがそれを言う前に、サンドラはいつもと変わらない調子で状況を伝える。

「残念だけれど、ここから出るのに私の飛竜はあてにできないわね。少なくとも近くにはいないから」

 ロランは鉄の床に手を当てて片耳を近付け、何かに集中している。彼には何か聞こえるらしい。彼は訝しげな顔をして身を起こし、同じ籠の中の二人に言う。

「今誰か、ミラベルの名前呼ばなかったか?」



 果たして、ミラベルとテオドロスはロラン達からそう遠くない、似たような場所にいた。鉄の鳥籠はもう一つあったのだ。ミラベル達が閉じ込められている籠には覆いがされていなかったため、周囲の様子がよく分かる。籠が設置されている場所も分かった。大きな天秤の天秤皿の上だ。ここはおそらく、帝国裁判所のめったに使われない大舞台、大法廷だろうとテオドロスは推測する。元の世界の大法廷なのか、《β世界》のそれなのかはまだ分からないが、寸分違わぬ複製が他に存在するのでない限り、大法廷だという推測はおそらく正しい。大天秤は大法廷の象徴的オブジェクトで、よく見学者達がその天秤皿の上に乗り、最後の審判ごっこ等して遊ぶ趣味のいい飾り物だ。テオドロスももちろん、子どものころに上に乗ったことがある。そのとき乗せてもらったのは、今テオドロスがミラベルと一緒に籠ごと乗せられている方とは反対側、大法廷の正面から見て右側の天秤皿だった。その、テオドロスが昔乗ったことのある側には、やはりこちらと同じような鳥籠が乗せられている、のかもしれないが、確かではない。向こう側はなぜか、天秤皿の下にまで垂れる黒い布で覆われているため、輪郭しか分からないからだ。天秤に人間を乗せて最後の審判ごっこをするのなら、両方の皿に人を乗せるのではなく、片方には分銅か真実の羽を乗せるべきではないかと、この天秤で遊ぶ光景を目にするたびにテオドロスは思う。両方人間では、身体の重さの比較ができるだけで何も測れない。向こうの天秤皿の上の黒い覆いの下は、人間だろうか、分銅だろうか。真実の羽かもしれない。天秤は向こう側に大きく傾いていて、こちら側は高く見晴らしがよかった。

 状況を把握すると、テオドロスは隣で眠っているミラベルに声をかけ、肩を揺すぶって起こそうとする。

「ミラベルちゃん。起きて。なんだか面白いことになってるよ! ミラベルちゃん。ミラベルちゃんってば。起きてよう」

 大きな声で何度も名前を呼ばれて揺さぶられ、ミラベルは不機嫌そうに身を起こす。何があったのだったか。彼女は眩しい目元をこすりながら、上から覗きこむテオドロスを見上げて聞く。

「何? 何事?」

 テオドロスは嬉しそうに微笑んでミラベルに問い返す。

「僕はあの揺れで頭打って、気が付いたらここにいたんだけれど、君も同じ感じかい?」

 ミラベルは自分の身に起こったことを瞬時に思い出し、首元を押さえて身構える。あの大揺れでミラベルは首を捻った。どこかにぶつかった勢いで首が妙な方向に捻じれて、思い出したくもない嫌な音がして、今ここにいる。テオドロスはそんな彼女の肩に優しく手を置いて「もう揺れないから大丈夫だよ。縦揺れはするかもしれないけれど。ほら見てごらん」と周囲の様子を改めて見るように促す。ミラベルは言われるまま周りを見渡して、風変わりな場所から初めて見る景色に絶句する。

 鳥籠に詰め込まれて巨大な天秤の皿に乗せられている状況も衝撃だが、この部屋は、この空間は何なのだろうか? ミラベルは初めここを劇場かと思った。天井の高い、宮殿の大広間かと見紛う空間に、豪華な傍聴席がすり鉢状に並んでいるからだ。二階席まで見える。ただし、それら傍聴席が向かう中央の法廷の様子は、ミラベルが知っている舞台の構造とはかなり異なるように見える。テオドロスが知っている普段の法廷の配置とも、少しだけ異なっていた。中央の一番低いところには、普段であれば検察陣と弁護人のための席がそれぞれ置かれているはずなのだが、今そこには証言台と被告人席の他何も置かれず、その二つもかなり端寄りに配置されて、中央に空きができていた。その向こう、正面の一番奥は、床が一段高くなっていて、そこだけ見れば舞台のように見えないこともない。壇の上には裁判官達の席が横一列に並び、中央の机から覗く椅子の背は特別に立派で玉座のようだ。奥の壁には大きな壁画と、裁判官達の出入り口となる二枚の扉が見える。壁画の壁と裁判官達の席の間には空間があり、ミラベル達がいる大天秤に相対するように、背の高い大理石の人物像が一体聳え立っている。純白な像のどこかで見たような顔立ちは整って中性的で、服装は古風な一枚布の上着、右手に剣を持ち、左手は水平に上げて大天秤の方をまっすぐに指差していた。背中には鳥のような翼が広がっている。翼の連想でミラベルが視線を上げると、天井の中央部分は広く丸い吹き抜けになっていて周りよりも更に高く、ここからは見えない上の方に光源があるらしい。本物の裁判所は帝都の最上層に位置している。外が暗いときには人工的な照明の光が、外が明るい時間帯なら、天窓から本物の陽光が差し込む設計だ。鉄格子に両手をついて周囲の様子に目を見張るミラベルを、テオドロスは楽しそうに眺め、特別なものを紹介するような調子で彼女に言う。

「大法廷へようこそ!」

 ミラベルは呆れた顔でテオドロスを振り返って言う。

「法廷! 裁判所ってこと? なんでこんなに豪華なの? 劇場じゃないの?」

 テオドロスは含みのある笑い方をして言う。

「うん、まあ間違ってはいない。大がかりな裁判は見世物だから。皇帝陛下もたまに見物においでになる。あっちが皇室の貴賓席、あれが皇帝陛下の席だ」

 テオドロスが指差す二階席の特別な一角にミラベルも注目し、暫しそれを眺める。そしてふと気が付いて、彼女はテオドロスに問いただす。

「ユリアは? どうしてあたし達二人だけなのよ!」

 テオドロスはちょっと宙を見上げて、「ユリアはいないね」とさらりと言う。その深刻みのない言い方にミラベルはぽかんとして、「心配とかしないの?」と聞くと、テオドロスは微笑んだまま呑気にこう言う。

「僕は賭けに負けた気がするなあ。ユリアに無視されない権利はなしか。ジグソーパズルのある部屋に戻れれば、君には勝てるかもしれないけれど、帰れないままになったら君のプロファイルも見られないものね。せめて君が勝ってくれればなあ。観光案内にかこつけてデートできるのに。ねえ、頭打って死ぬのって、『追加の苦労』には入らないと思う?」

 ユリアが勝ったということは、彼女はアランに救い出されたということだろうか。ミラベルは苦労の定義については答えず、別の質問を返す。

「それじゃあここは《β世界》なの?」

 テオドロスはミラベルのはしばみ色の目をじっと見つめて言う。

「瞳の色合いが僕と同じだ。いい色だよね。鏡を見ていても飽きない。アランがユリアを攫って行けたなら、《β世界》なんじゃないの」

 ミラベルが釈然としない顔をしているので、テオドロスは更に当てにならない推量を付け足す。

「あの部屋で死んでこっちへ移動してこられたなら、中間地点はどっちつかずだよね。この檻の中でもなければ、あの部屋の中でもない。一人くらい連れ戻せるかも」

 ミラベルが「本当に?」と疑わしげに聞くと、テオドロスはまた別の考えを足す。

「天秤に物を置くなら、釣り合わせたくなる。こっち側が軽くて持ち上がっているのは、ユリアが欠けたからなんじゃないの? この悪戯を企てたのが僕なら、天秤は釣り合うように設定すると思う。覆いの重さを差し引いても、揃えようとするよ。しないかな? ユリアがいなくなったのは、犯人にとってもたぶん想定外なんだ。だから大丈夫だよ」

 ミラベルは諦めて、鉄格子の間の障壁を指先で突いてみる。テオドロスも同じことをして「壁だ。スイッチどこにあるんだろう」と首を傾げる。二人で顔を見合わせていると、天秤皿の下から、どちらにとっても聞き覚えのある二人分の話し声が聞こえてきた。大天秤の後方にある一般の出入り口から、誰かが入ってきたようだ。二人は振り返って格子の間から声の主達を確かめる。すぐに誰だか分かったので、テオドロスが下へ向かって呼びかけた。

「ユーリ! レガート!」

 何かに化かされたような面持ちでレガートと話し合いながら歩いていたユレイドは、天秤皿の上のテオドロスを見て、驚きの声を上げる。

「テオか? どうしてそんなところに!」

 レガートも上を見上げて言う。

「よう、テオ。とうとう檻にぶち込まれたか。何やったんだ?」

 レガートの軽口に対し、テオドロスの方も胸を張って言い返す。

「なんで君達が下にいて僕が上なんだ? 僕は上で女の子と仲良くなったぞ!」

 ミラベルは下へ向かって肩をすくめて見せる。レガートはミラベルに軽く手を振って挨拶してから、彼女と同じように肩をすくめてテオドロスに返す。

「そりゃよかったなあ。俺らはついさっき空飛ぶ馬から落ちて死んだところだ」

 籠の中のテオドロスが「空飛ぶ馬? 何それ」と興味津々で聞き返すのをよそに、レガートは隣のユレイドに「あれは窒息死ではなかったよな。転落死だ」と話しかける。ユレイドは「意識がなくなっただけだろう。どちらでもないよ。今生きてるんだから」と返し、うんざりした様子でこうも言う。

「『それだけと言えば、それだけだな』っていうのは、ああいうことだったんだな。あの人の言うことには、気を付けるべきだ」

 テオドロスが大きな声を出して下へ問い直す。

「空飛ぶ馬って何? あの人って誰のこと? 僕はたぶん頭を打って死んだよ!」

 下の二人がまた上を見上げ、静かにしろとテオドロスを窘める。テオドロスはちょっと思案顔になって、下の二人に質問を続けるのかと思いきや、覆いのかけられた反対側の天秤皿の方を指して彼らに頼む。

「あの布を外してよ。何があるのか見たい。虎かな? 真実の羽かな?」

 ユレイドとレガートはテオドロスに示された方向を見た。レガートがそちらへ歩き出し、テオドロスの「真実の羽だったら部屋に飾りたいから持ってきて」という軽口は無視して、上から垂れている黒い布に手を伸ばして引っ張った。天秤皿の上を覆っていた布は思いのほか軽く、途中で引っ掛かることもなく簡単に床へ落ちる。布に覆われていた鳥籠はいきなり外の光に晒され、驚いて警戒する中の三人があらわになる。

 ロラン達の驚く様子を反対側から眺めて、テオドロスは笑った。大きな声を立てて笑った。あんまり笑うので、笑われていることに気付いたロランは『中指を立てる』という彼の文化圏では非常に下品なジャスチャーをしてテオドロスによこす。時と場所を隔てた文化圏のテオドロスにも、それは通じる表現だったが、彼はますます楽しそうに笑い、同じジェスチャーを返して喜んでいる。テオドロスと同じ籠にいるミラベルは、その意味は解さないながら不気味なものを感じ、彼から距離を取って、向かい側のサンドラへ手を振って名前を呼ぶ。サンドラも心なしか嬉しそうに手を振り返してくれた。

 ロランとテオドロスの応酬をよそに、リコリスは驚きの眼差しで下のレガートを見て矢継ぎ早に問う。

「レガート! なんでこんなところにいるの? ユーリ坊やとテオまでいるじゃない。仕事はどうしたのよ? 仕事仕事で、二人とも全っ然遊んでくれなかったくせに!」

 その言い方を聞いたレガートはもっと驚いた様子で、子どもに戻っているリコリスをまじまじと見つめて言う。

「もしかしてリコリスか? 本当に? どうしたんだよ。何があった?」

 リコリスは拗ねたような表情のまま、「それは大変な大冒険よ。貴方達のお仕事が暇になったら教えてあげる」と言ってそっぽを向いてしまう。レガートは彼女に「本物の子どもみたいなこと言うなよ」と返し、テオドロスに悪態をついているロランの方をちらりと見る。ロランもレガートの方を見たので、二人は意味ありげな視線を交わすことになる。レガートが敬礼してロランに言う。

「例の話は頼んだぞ」

 ロランも戯れに同じ敬礼を返す。

「証拠は隠滅した」

 レガートは頷き、「よろしくやれよ」と右手を上げて会話を打ち切る。リコリスは彼らのやりとりは無視して、反対側の三人に手を振る。テオドロス、ミラベル、ユレイドの三人は、手を振っている少女が誰だか分からない様子だ。テオドロスは分からないまま機嫌よく手を振り返し、ユレイドは訝しげにこちらへやってくる。ユレイドはレガートに「こちらのお嬢さんは?」と質問し、答えを聞いても半信半疑だ。



 大法廷の鐘が鳴った。意外な再会に各々言葉を交わし合っていた面々は、不明な状況を思い出して沈黙する。裁判所の習慣について知識がない者達には、この鐘の意味するところが分からない。一般的知識のある帝国人四名は、開廷の合図か、開廷の時刻が近付いたことを示す合図ではないかと、前方へ注目する。皆不安げな面持ちで、テオドロスだけは無表情で感情が読めない。

 何か起こるのかと緊張していると、皆が注目している裁判官席の向こうの扉——二枚のうち向かって左側の扉——が慌ただしく開き、誰かが転がるように走り出てきた。急いで恐ろしい何かから逃れる途中、という様子に見えるその少年は、エディだった。ロラン達が最後に見た幼い姿でもなく、獣性を『逃がして』しまって普通の人間に戻ってもいない、元通りのエディだ。

 彼は本当に逃げている最中だったらしく、すぐに追っ手が同じ扉から現れる。現れたのは、帝国の刑務官のいでたちをした何かが二名で、何かというのは、制帽の下の顔面がマネキンか石膏像のような作り物めいた白塗りで、面を着けているようでもなく明らかにまともな生物とは思われなかったからだ。【影】ではなさそうだが、無害とも思われない。その不明な存在はどちらも、帝国人達が見たところテーザー銃だろうと思われる武器を持ち、逃げるエディに向けようとしていた。実際にそれは彼の背中に向けられ、エディは大天秤の周りの面々に助けを求める間もなく、そして誰かに助けられる間もなく、法廷の中央で電撃を受けて倒れる。

 電極は回収され、身体の自由が利かなくなったエディは、謎の刑務官達に拘束されて被告人席に無理やり着席させられた。それを裁判官席の向こうから眺めている見知らぬ人物がいた。いつ入ってきたのか、いつからそこに立っていたのか、誰も気付かなかったのが不思議なのだが、何やら苛立たしげに法廷を見回す白い衣の青年は、髪型のせいか顔立ちのせいか、捕まったばかりのエディによく似ている。エディに幾つか年の離れた兄がいたらきっとあんな感じだろうと、大天秤の周りの者達はそれぞれに思う。

 謎の青年は皆に注目されていることに気付き、幾らか気をよくしたらしい。彼は裁判長の椅子のすぐ前に立つと、この場に集まった面々に対しこんな挨拶を述べた。

「皆さんこんばんは。死後の大法廷にようこそ! 各々の罪の反省は済んだか? 最高顧問様達がもう確認済みだろうけれど、向こう側の出入り口の向こうには文字通り何にもないから、逃げようったって無駄だぜ。扉を出る前に捕まえるけどな! 実はまだ死んでない奴がいるんだけど、あれはなんで死なないんだろう。というわけで、開廷はまだだよ。何かご質問は?」

 大きな声を出しているわけではないのだが、裁判関係者の各席には集音システムがある。裁判長席にあるそれの電源を入れているのか、この奇態な挨拶の文言は後方の大天秤までよく聞こえた。

 レガートの制止を無視して、ユレイドが傍聴席の方へ歩み寄り、初めの質問をした。

「私達をどうするつもりですか?」

 青年は裁判長席の木槌を弄びながら、つまらなさそうに答える。

「あんたはただの聴衆かな。あんたの護衛も」

 ユレイドを追って同じように傍聴席へ歩み出たレガートが聞く。

「他はなんなんだ?」

 青年はわざとらしく首を傾げ、向かって左の天秤皿を指してレガートに聞き返した。

「何だと思う? 特にあっちの籠にいる派手ななりの奴。緑のほうな」

 エメラルドグリーンのナイトガウン姿のテオドロスのことだ。青年の問いにレガートは間髪入れずに答えた。

「ろくでもない放蕩貴族」

 ふざけた回答をしたレガートをユレイドが肘で突いて窘めると、青年はユレイドにも同じことを聞く。

「どう思う? 最高顧問様」

 ユレイドは前を向いて決然と返す。

「君に裁かれる謂れはないよ」

 青年は面白くなさそうな顔で木槌を手の中で回すと、その木槌で反対側の天秤皿を指して問う。

「じゃあ、反対側、右の籠に入ってるちっちゃい子は?」

 レガートは一瞬考えて、聞かれたことには答えず青年に質問する。

「あいつはなんであんなに縮んでるんだ?」

 青年はくつくつと笑い、意地悪な笑みを浮かべたままレガートに問い返した。

「さあ、なんでだろうね。あの淫売の記憶に関係があるんだけれど、本当にここで言っていいの、最高顧問の護衛さん? かわいそうだからやめとく?」

 レガートは無言で立ち上がり、ユレイドの制止を無視して法廷の中央へ向かって歩いてゆく。傍聴席の高さが青年のいる裁判官席と同じ高さになる位置まで進み出ると、彼はそこに立って懐の銃を抜き、銃口を青年へ向けて撃鉄を起こした。それでも全く動じない青年の姿に嫌な予感がしたリコリスは、レガートが引き金を引く前に止めようと、大きな声を出して叫ぶ。

「レガート! やめて!」

 彼女の制止は一歩遅く、レガートは躊躇なく引き金を引き、弾道は外れ、そして彼の身体は不可思議な力によって後方へ勢いよく弾き飛ばされた。青年は愉快そうにに声を出して笑っている。身体のどこかを強く打ってすぐ起き上がれない様子のレガートを見て、リコリスは癇癪玉を炸裂させる。彼女は裁判長席へ向けて、ありったけの大声で畳みかけた。

「言えばいいじゃない! 言いなさいよ! あんた、あたしに何の恨みがあるんだか知らないけれどね、言いたいんならさっさと言ったらどうなの? 余計な人に絡んでるんじゃないわよ。ほら、言えるもんなら言ってみな! 変態! くたばれ○○野郎! ×××! …………」

 罵倒の連発はかなり長く続いた。リコリスと同じ籠にいる二人は呆気に取られて彼女を見つめる。反対側の天秤皿ではテオドロスが感心し、ミラベルは勢いに飲まれつつ言葉の解釈に夢中になる。青年は小さな少女が連発するあまりに下品な、帝都で聞ける最底辺と言えそうな罵り文句の数々に呆れ果てた様子で、ようやく身を起こしたレガートへ、深い同情ととれる眼差しを注いで言った。

「かわいそうにな。あんたがかわいそうだから、言うのはやめとく」

 レガートは恐ろしく不機嫌に青年を睨みつけたが、「同情されるようなことは何もない」と返す代わりに強いて沈黙し、役に立たなかった銃を拾うと、ユレイドの隣の傍聴席へ引き返してそこに座った。レガートの暴走にはユレイドも驚いていたが、彼はあえて何か言うことはせず、何事もなかったかのように平静を装う。それは、きっと本人はなかったことにしたいだろう、という気遣いの結果で、その配慮の方向性は概ね正しかった。レガートにとって最も腹立たしかったことは、おそらく誤解に基づいて同情されたことだ。

 謎の青年はまた苛々し始め、裁判長席に座ったかと思えばまた立ち上がり、壇上を歩き回りながら何かぶつぶつ呟いている。一番低いところにある被告人席に座らされて、両脇を気味の悪い刑務官達に固められているエディは、青年が何を言っているのか聞き取ろうと試みた。明瞭には分からないのだが、断片的にこんな文句が聞こえてきた。

「……逃がした……あいつのせい……邪魔……もう大丈夫……手出しできない」

 エディが聞き耳を立てていることに気付いたのかそうでないのか、青年は不意に顔を上げて下にいるエディの方を見る。電撃の影響による身体のこわばりからようやく解放されてきていたエディは、今なら何か言ってやれると、窮鼠猫を噛む勢いで叫ぶように口をきいた。

「おまえ、何なんだよ! 何のつもりなんだよ! 帝国の奴なのか? ルパニクルスの敵か? 何なんだよ、訳分かんねえだろ、説明しろよ!」

 青年はそれを聞きながらわざわざ机の向こうから前へ出てきて、壇上からエディを見下ろして不敵に微笑む。エディが刑務官達に抑えられながら彼を睨むと、青年は後ろの机に寄りかかって何か歌のような言葉を口ずさみ、嫌悪なのか憐みなのか測りかねる眼差しをエディに向けて問いかけた。

「罪の重い奴に限ってなかなか殺せないのはどうしてだと思う?」

 エディは腹が立って次の言葉がすぐに出てこない。青年の言う『罪の重い奴』というのを、エディはとっさに自分のことだと解釈して憤ったのだが、後ろで聞いている者達は、それぞれ別の解釈をしていた。まず一般論としての解釈で、『善人ほど早死にする』とか『悪人は世に憚る』とかに類する言い回しは、帝国にもその他出身地の文化圏にも広く存在した。もう一つは、青年には誰か殺したい人物がいて、殺せないのでその苛立ちの表現ではないかという解釈で、『まだ死んでない奴がいる』、『というわけで、開廷はまだ』という最初の発言からも、少しは妥当性がありそうだ。その罪とやらについては、誰についてであれ、この場の誰にも確かなことは言えない。

 エディはようやく言葉を見つけて言い返す。

「どうせなんか意地の悪いことを考えてるからだろ。だから殺さないんだ。おまえ誰なんだよ? 答えろよ!」

 青年はまだ問いに答える気はないらしく、自分の問いの正答と新たな問いかけだけを投げてよこす。

「『生きて苦しめ』と主は仰られた。なんてな。でもきっとそうだよな。永遠に生きて苦しめ。おまえもそうなりたいか?」

 エディは「やっぱりな」と吐き捨てて、もう一度同じ質問をする。

「おまえは何者なんだよ?」

 青年はふと上を見上げる。ちょうど同じ瞬間に、右側の天秤皿の上の籠の中にいるロランも、同じように上を見上げていた。何がきっかけとなったのか、青年は俄かに気を変えたらしい。彼は少しの間黙って考える仕草をすると、「まあいいか」と呟いて、エディの問いに答えた。

「【定着】を選んでおれを捨てたおまえが聞くなよ。おれはな、おまえの既に失われた未来の可能性の一つだったものだ」

 もう時間がないとでも言いたげな早口でそれだけ一気に言ってのけると、青年は腕組みしてまた上を見上げ、エディにはもう関心を失った様子で、微かな不安を滲ませて呟いた。

「おいでなすった。畜生、まだ死んでないのか」



 爆発するような音を立てて頂上の天窓が砕け散る。そこにあった主照明が窓の強化ガラスと一緒に破壊され、辺りは一気に薄暗くなる。ガラスの欠片が降り注ぐ煌めきの中を、一頭の黒い馬——メアはまさに悪夢のように駆け降り、大法廷の中央に降り立った。

 不吉なたてがみをなびかせ、メアは興奮していななく。そのメアの背に乗っているのは、もちろんジャンとシルキアだ。ジャンがたてがみを引くと、メアは静かになった。壇上に立っている青年の高さと、メアの背にいる二人の高さはそう変わらない。吉と出るか凶と出るかと息をつめて見守っている大天秤周辺の期待を背に、初めに口を開いたのは意外にもシルキアの方だった。

「悪戯をしているのは誰?」

 いつもと変わらず、言葉を宙へ浮かべるような、妙に現実味の乏しい話し方だが、声色に不快げな色が混じっている。今の彼女は機嫌が悪いらしい。機嫌がよくなさそうなのは後ろにいるジャンも同様で、壇上の青年を見て出た「なんだお前か」という呟きには、あからさまな侮蔑と失望が乗せられていた。

 青年はどういうわけか明らかに怯み警戒する様子だったが、何か自分に有利になる要素を思い出して納得したのか、威勢を取り戻し、挑発的な態度で相手に臨む。

「苛々するなよ。腹でも減ってるのか? 欲求不満か? どっちもついさっきやったばっかりだろう。浅ましい」

 浅ましいと罵られても、メアの上の二人は涼しい顔をしている。ジャンは青年を馬鹿にし切った口調で「欲望を抑えることをやたら尊ぶ文化のうちに我々はいない」と返した。大天秤から見ているテオドロス、ロラン、リコリスの三人は、参考になる台詞だと感じ、彼の答弁を心に留める。他は呆れるか、感心するか、先行きを案じてそれどころでない。

 青年はますます軽蔑したようで、挑発的な罵倒を重ねた。

「つまり意地汚いんだな」

 ジャンは表情は変えず、強い言葉で返した。

「黙れ下郎。お前は誰の指示でここで何をしている。答えろ」

 威圧的な命令口調に青年は再び怯み、苛々と落ち着かない様子で身じろぎしたのち、調子を戻して不満げに問い返す。

「おまえはおれが何者かは聞かないのか?」

 ジャンは「そんなことはどうでもよい」とにべもなく言い捨て、「質問に答えろ」と再度強く命令した。青年はそれがよほど気に入らなかったらしく、自分が何者であるかについて、聞かれもしないまま大げさな身振りで勝手に話し始める。

「そんなこと? そんなことなのか? おれは【案内人】だよ。そこにいる役立たずの失われた未来であり機械化された可能性だ。この夢の中では何だってできる」

 青年の無駄口をジャンは遮らずに聞き、区切りがついたところで末尾を手がかりに尋問を続ける。

「『この夢の中では』か。何者がその権威を与えた? 質問に答えろ」

 青年はまた勢いを失ったように見える。有利なはずの状況でなぜ萎縮してしまうのか、当人にも分からず混乱しているといった様子だ。闖入者が現れても被告人席の脇から離れなかった刑務官二人の間で、エディは危うく、どういうわけかもう一人の自分であるらしい壇上の青年に同情しかけた。王の命令には逆らえないのだ。

 青年は逆らえなかった。彼はどうしてそうするのか己でも分からないまま、渋々重い口を開く。

「おまえらの雇用主、ルパニクルスの中枢機構だ」

 天秤皿の上でサンドラとロランが難しい顔になる。ミラベルも眉間に皺を寄せる。エディは混乱して先ほどの青年とそっくりな表情になっている。帝国の面々も怪訝な面持ちだ。皆の疑問を代表するように、ジャンが高圧的に尋ねる。

「目的は何だ?」

 青年はもう抵抗しなかった。もうどうでもいいとでもいうように、なげやりな調子で答える。

「おれを起動させること」

 機械化されたから起動が必要なわけだ、と、聴衆の何人かは納得する。ジャンは更に尋ねる。

「起動させて何をさせる?」

 青年からはまた短い回答が返ってきた。

「使徒の任務を正しく導く」

 ジャンはこのやりとりが面倒になってきたようだが、質問は続ける。

「起動の条件は?」

 青年は大法廷の全体を見渡し、傾いた天秤を見て忸怩たる表情を見せてから、答えた。

「いずれ来るべき審判をシミュレートすること」

 それを聞いて完全に飽きたジャンは、また大いに馬鹿にした声音でせせら笑うように言い放った。

「茶番だな。くだらない。中枢機構のやりそうなことだ。お前は言いなりになる手駒か」

 それを聞いて青年は気色ばんだ。そうして憤りをあらわにすると、先ほど被告人席で取り押さえられたまま叫んだときのエディとそっくりな顔になる。青年はなぜか一歩後退り、有利と認識しているはずなのにそれが精一杯の反抗ともとれる姿勢でメアの上の男を見据え、自分自身にも言い聞かせるように、はっきりと言う。

「おまえはこの夢ではおれに逆らえないはずだ」

 ジャンは「それがお前の夢か」と面白くもなさそうに言い、壇上の青年を見ている。彼は正確には青年の喉元を見ていた。メアのたてがみがゆらゆらとざわめく。シルキアがそのたてがみを優しく撫でる。青年はふと視線を外し、自分の喉元へ手をやり、そこから何かを外そうとしてもがくと、声にならない呻き声を上げて蹲る。倒れた彼は二度と立ち上がれなかった。床に転がって目を見開いたまま暴れ苦しむ青年に、今や彼が這いつくばり掌で叩いているその床よりもずっと高いところから、何の感慨ももない冷たい言葉が投げ掛けられた。

「私のメアはこの夢の埒外だ。苦しめ。つまらない夢と共に消えろ」



 青年は暫く——大天秤の周りと被告人席でそれを見ていた面々には随分と長く感じられる間——酷く苦しみ続け、辺りの机と床を蹴って暴れ、壇上から転がり落ち、固まって泡を吹いて痙攣し、それからようやく動かなくなり、やっと事切れた。死因は謎だが、ジャンがメアの力を使ったのなら、きっと窒息死だろうと、一度その力に晒されたことのあるユレイドとレガートは推測した。メアに酔っても死にはしないという話だったはずだが、その力を能動的に使役した場合には別なのかもしれない。メアの上の二人を除き、死の現場の最も近くにいたエディは青ざめ、呆然としている。もし、不気味な刑務官達に両脇を固められていなかったならば、青年が死ぬまでの様子を黙って見ていられた自信が彼にはない。何か言っても立ち上がっても結局何もできなかったとしても、ただ座っていてそれをただ見ていることは難しかっただろうと思うくらいには、凄絶な苦しみ方だった。

 そして謎の青年はいなくなったが、事態は好転せず、かえって劇的に悪化の様相を呈する。

 青年が事切れると同時に、再び鐘が鳴り、薄暗くなっていた大法廷の照明が再び明るくなった。エディを抑えていた不気味な刑務官二人はまるで何かの間違いだったかのようにすっと消える。同時にジャンのメアも予告なしにいきなり消失し、乗っていた二人は無様に落ちて、もつれあったまま床に叩きつけられた。権威の失墜を見るようで、エディは思わず視線を外す。

 テオドロスが籠の中で朗々と叫んだ。

「夢が覚めたんだ!」

 同じ籠にいるミラベルはテオドロスの頬か頭を叩きたくなる。彼女の視線は裁判官席の向こう側に釘付けだった。夢は覚めたのかもしれないが、これがもう現実なら、なお悪い予感がする。裁判官達の席はもう全てが空席ではない。初めからそこにいたかのように現れた法服姿の裁判官達は、真ん中の裁判長席だけを残し、各々席について分厚い紙束をめくっている。通常の裁判であれば、記録は専用端末で管理されるため、こんな古風な光景は久しく見られないはずなのだが、テオドロスは今そこにいる裁判官達が記録端末を使いこなせなくても仕方がないと思う。というのは、裁判官達はどう見ても、裁判所の長い廊下から抜け出してきた大理石の石像で、彼ら古代の法律家達が存命のころにはそうした端末は存在しなかったほか、像が造られた年代にも法廷の記録は書面で作成されていたはずだったからだ。裁判官達の表情をテオドロスがじっくり観察している間に、法廷の中央ではもう少し動きがあった。

 メアから落ちて戯画『権威の失墜』を演じた二人のうち、実際に床にぶつかったのはジャンだけで、彼はシルキアを衝撃からかばうことには成功したらしい。つまりシルキアはジャンの上に乗る形で倒れていて、それを見て図らずも淫らな連想をしたユレイドを傍聴席で俯かせた。その隣のレガートが何を考えていたかは定かではない。床に倒れた二人がそのままの姿勢でいたのはつかの間のことで、彼らはどうにか身を起こし、そこに座ったまま寄り添って目前の光景を見上げた。強い光を放つものがすぐそこにある。ジャンはシルキアを黒いマントの内側に隠し、右腕を上げて眩い光から、そして剣の切っ先から守ろうとするように身を引いた。彼らには今、鋭く光る剣先が突き付けられている。それは裁判官席の向こう側にあったはずの天使像の右手の剣で、全て大理石でできていたはずのそれは今、幻の金属のように銀色の輝きを放ち、柄を握る腕も、その先の純白の身体も、背に広がる銀色の翼も、全てが神々しく光り輝いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ