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XXI - iii. Nightmares Owner

 絵の中の砂漠の夢には、ミラベルでもテオドロスでもユリアでもなく、別の者達が囚われていた。夜も遅く、空気は冷たい。月に照らされて冷えた砂の上で、たった今ようやく仮眠をとれたばかりのはずの最高顧問とその護衛は、途方に暮れていた。会合のときと同じ、正装の白い服を着たまま砂地に投げ出されたユレイドは呟く。

「問題ばかりだ」

 隣のレガートもやはり会合のときの服装のままで、腰のサーベルを含む装備品を確認しながら言う。

「これも問題か? 問題だよなあ。どこなんだここは」

 帝都中層では、中下層へのエネルギー供給の不平等に関して、いよいよ本格的な暴動が起こりかけていた。特に不満を感じていたのは下層の商業主達で、組合や企業の談合が絡む問題で元々不穏だったところに、今回のエネルギートラブルが追い打ちをかけた形だ。帝都の上層・中層・下層という区分は、単に上下方向の位置関係と昼夜の制御の区分を指すもので、外界と同じ昼夜のある標高の高い上層、夜のない中層、明けない夜の下層の間に、価値的な差異はほぼ存在しない。昼夜の制御は帝都の洗練を象徴する技術だ。故に上層が無粋と敬遠されることはあれども、永久の宵にきらびやかな夜景が広がる下層は、安眠を望む居住地としてもそのときを楽しむ歓楽地としても人気の高いエリアだった。とはいえ、華やかな下層の弱点が採光にあることは事実であり、トラブルが発生しなければ帝都民は皆目を瞑っていたことだとしても、今回の省エネルギー体制下で最も割を食っていることは認めざるを得ないだろう。外国との折衝について各種外交官や軍部高官と会話しなければならない問題もあった。帝都の防備はほぼ丸裸だ。様々な防護壁は、バランサーから送られてくるエネルギーの混合によって成り立っている。同じエネルギーを利用する類の武器についても然りで、今更手の施しようがない。

 自分もレガートも通信機器の類を持っていないことを知ったユレイドは、絶望的な面持ちで立ち上がり、ひとまず周囲を見回して確認した。絵に描いたような砂漠の光景だ。静かな夜。風一つない。満ちた銀色の月。月が明るいので星はあまり見えない。星から位置を推測しようとしてみても無駄だった。足元の乾いた砂は細かく、掬っても蹴散らしても捉えどころがなく、それでいて圧倒的な質量で一面に存在している。砂しかない。端末もない。砂と夜しかない。ユレイドがそう思っていると、レガートが遠くを指差して言う。

「あれくらいか? 砂以外に見えるものは」

 指差された方角にユレイドも目を凝らしてみるが、砂と夜の他には何も見えない。レガートの視力がかなり優れていたことを思い出して、ユレイドは彼に尋ねる。

「何が見える? 僕には何も見えない」

 レガートは目を細めて遠くの何かをよく眺めようとしながら言う。

「なんだかは分からないな。岩か砂丘か、建物か何かか? どうする、向こうまで行ってみるか?」

 遥か遠くの幻かもしれない。夜なので陽炎ではないか。砂丘だったら、それはやっぱり砂だ。岩でも大して状況は変わらない。それでも他に目当てがないのも確かで、ずっとこの場所に座っていたくなければ、移動するしかない。この訳の分からない場所まで誰かが助けに来てくれるとは、ユレイドにはどうしても思えなかった。彼は力なく頷いて言う。

「そうだな。向こうへ行ってみよう。何もなければそこまでだ。いつも付き合わせてすまない」

 レガートは服に付いた砂を払いながら言う。

「睡眠中は勤務時間外だ。時間外勤務が多すぎるぞ」

 護衛として任に着きながら、レガートは実際のところユレイドの公務をかなりのところ手伝っていた。つまりユレイドと一緒に睡眠不足は免れない。彼はもう一度謝ろうとするユレイドを制し、「毒を食らわば皿まで」と言って歩き出す。ユレイドも服の砂を払って続く。



 目標は予想通りに遠い。足跡を背に、辺り一面に続く砂の中を歩く。歩きながらレガートが思い出したように言う。

「テオのやつを締めてやらなくてよかったのか?」

 テオと聞いてユレイドはうんざり顔で聞き返す。

「テオ? また何かやったのか、あいつは……」

 レガートは一拍何か考えて、それならいいと軽く打ち消して言う。

「いや、知らないならいいんだ。どうせ大したことじゃない」

 ユレイドは黙っている。黙って歩いていて、やがて何かに根負けしたようにぼそりと口に出す。

「あいつが僕の縁談を台無しにしてやったと信じ込んでいるらしいことなら、知っている」

 レガートは遠くの方へ視線を向けたまま独り言のように返す。

「ああ、やっぱりな。知ってるよな」

 ユレイドはどうしようもない気分になって、今まで誰にも言わなかった心の内の苛立ちをレガートの横で並べ立てる。

「あいつは一体、何がしたいんだろうか? 別に文句を言うつもりもないが、さっぱり分からない。どうしてユリアの前であんなことを言ってわざわざ虐めるんだ? アランは何故、ユリア一人をテオの前に出す? 何故自分で出てきて助けない? 大体、僕はそんなに甲斐性がなく見えるんだろうか?」

 口に出して言うとますます情けない。ユレイドは早くも自分で話したことを後悔する。誰にも話すべきではなかった。内に抑えて、いずれそのまま風化して——風化するなどありうるのかはともかく——なくなってしまうことを待つべき感情だった。しかし収まりがつかない。少なくとも、一度口に出してしまった今は。

 思わず調子を乱したユレイドの横を歩きながら、レガートは自分の見解を口にする。

「落ち着けよ。まあ、甲斐性はともかく、問題があるとすれば十中八九最高顧問の選任絡みだろうな。アランの立場と比べてどうかと言われれば、テオの判断は俺にもちょっと分からんが、今のおまえの立場は胡乱すぎる。あとは、あれだ。いつものあいつの、予定調和をひっくり返したがる気紛れ」

 テオドロスの気紛れには悪意の定義がない。それが厄介だとレガートは思う。悪気ではないのだ。善いか悪いかという概念が理解できないのか、奴の行動の基準にそもそもない。帝国の情操教育はテオドロスに関しては失敗と言える。やりたいことを思い付いたようにやって、誰かに怒られてもまるでこたえない、それがテオドロスだ。彼がまいたトラブルの種はこれまでにも数知れずあった。今回のことが悪いことかどうかと問われれば、レガートにも判断はつかないのだが、少なくともユレイドは傷付いたようだ。それが勝手に不適格扱いにされたからなのか、友人達に隠れてことを進められたからなのか、ユリアに懸想していたからなのか、全部なのかは、この際改めて追及すべきことではないだろう。

 ユレイドは癪に触って仕方がないという様子でテオドロスへの悪口を連ねる。

「あのトラブルメーカーは人間で遊ぶ。引っ掻き回して滅茶苦茶にして、好きに並び替えて面白がるんだ。思い付きというランダムだぞ。信じられない」

 テオドロス本人はその思い付きを『閃き』と呼ぶ。レガートはそれを思い出して苦笑して言う。

「『閃き』だろ? しょうもないよなあいつ。まあ、今回のはともかく、いつも成り行きを見てると案外、全く合理性がないわけでもないよ。ただし間をすっ飛ばしている」

 ユレイドは自分を落ち着かせるように一つ溜息をつく。テオドロスの『閃き』はトラブルの種にもなるが、逆にその『閃き』のおかげで救われることもある。ユレイドもレガートもそれで助かったことが何度もあるのだ。ユレイドはもうたくさんだとばかり首を振り、疲れた様子でこう言った。

「そんなことは分かってるよ。分かってるから黙っててくれ」



 前方の目標は幾らか近付いてきて、ユレイドにもその影を目視できるようになった。それが何かはまだ分からないが、少なくとも砂丘ではなさそうに思える。それを見てユレイドは一つ訝しく思い、横にいるレガートに問う。

「なあ、夜の砂漠って、いくら月明かりがあるにしてもこんなに明るいものだろうか? あんなに遠くの目標が目視できるなんて、ちょっと変じゃないか?」

 ユレイドよりも早くから同じことを気にしていたレガートは、もう一度辺りを見回して、目標の影もよく見てみてから答える。

「普通はこんなに明るいわけがないよな。明かりもつけていない、しかも遠くまで見渡せる。月は明るいが他に光源があるとも思えない。帝都の外の礫砂漠は、夜になればほぼ真っ暗だ。気持ち悪いが、これが夢だってことなんじゃないか?」

 夢と聞いて、ああそうかとユレイドは納得した様子を見せる。彼は言う。

「夢だよな。どうしてこんな夢を見たんだ。夜の砂漠を彷徨う夢か。それもこんな砂だらけの砂漠を。心象風景かな……」

 レガートは軽く首を傾げて「そうかもな」と答え、歩き続ける。ユレイドはレガートが先ほどの話題を出したことの腹いせをしたい心持ちになり、どうせ夢ならばと新しい話題を口に出してみる。

「リコリスさんの取り巻き連中はまだあのよく分からない伝言ゲームを続けているのか?」

 レガートは「えっ」と一瞬驚いて、それから急に笑い出して言う。

「それは部外者には到底話せねえ『リコリス友の会』の秘密だな。いくらおまえにでも、駄目だ」

 レガートが全く調子を崩さないどころか楽しげなので、ユレイドは更に意地の悪い問いかけをしてみる。

「リコリスさんは相変わらず好きに遊んでいる。もう仕事じゃない。あれは趣味だ。そんなのを見ていて、君は何とも思わないのか?」

 レガートはその質問について暫し考え込み、特に気にするふうでもなくからりと答える。

「何も思わねえな。別に。楽しいならいいんじゃねえの?」

 その言い方は本当に何も気にしていなさそうに見えるので、ユレイドは軽く驚いて言う。

「随分さっぱりしてるんだな。全然気にならないのか? 子どもを引き取るくらい思い入れのあった人なんだろう?」

 子どもと聞いて少し真剣な表情になったレガートは、どう答えたものかと考えつつ溜息をつき、ゆっくりと答える。

「もうそういうんじゃないんだよ。リコリスと色々あったのは昔の話だ。それに昔だって、大してそういうことは気にならなかったな。影ではよく言われてるみたいだが、その噂通りクラリスが俺の種じゃなかったとしたって、今も昔もどうでもいい。確かめる気にもならない」

 ユレイドは呆気に取られて沈黙し、自らの狭量さを省みたのちに、敬意半分、呆れ半分でこう呟いた。

「どうして君はそうなんだろうな」

 するとすぐさま応酬がある。

「どうしてお前はそうなんだろうな」

 悔しくなったユレイドが「何が」とつっけんどんに返すと、レガートは相手に聞こえるか聞こえないかの声でこう言う。

「素直に悔しがれよ」

 ユレイドは俯いて語気を強める。

「その話はもう二度とするな。僕の前ではするな。他所で好きに盛り上がれ」

 レガートはどこか嬉しそうに返す。

「おう、その意気だ」



 砂漠に聳える謎の建物には、鉄製の外階段があった。その階段の上り口が、ここまで歩いて来た二人の正面にあったのは幸いだったかもしれない。この『プティングのような』形の——おそらくは岩かコンクリートのブロックを組み合わせて建てられている——建物は近付いてみると恐ろしく大きく、外周を一周するだけでかなりの時間がかかりそうだったからだ。一周してみれば、中に入れる出入口がどこかにあるのだろうか? 真っ白な壁面に冗談のように唐突に張り付けられた黒い鉄の階段は、見たところ錆びてもいなければ砂埃が堆積してもおらず、上る途中で段が抜けたりばらばらに壊れてしまうことはなさそうに思われた。真下から少し離れて見上げてみると、階段は何回も折り返していて、頂上は暗くてよく見えない。もしかしたら、途中で建物の中に入れる入り口があるのかもしれない。沈黙ののち、レガートがうんざりした様子で呟く。

「これを上まで登るのは骨だぞ」

 同感だと思ったユレイドは、左右を見回して聞く。

「他の出入り口を探してみるか?」

 レガートは目前の建物の圧倒的な壁面を目の届く端から端まで見渡し、来る途中で見た遠景も思い出してみて、階段の方がましと考えたのか言う。

「ちょっと上がって見てくるから待ってろ」

 ユレイドは眉を顰めて言い返す。

「どうして君だけ行くんだ。勤務時間外だろ? そうすぐに壊れそうな階段でもない。僕も行くよ」

 レガートはもう階段の一段目に片足をかけ体重を乗せてみていて、「じゃあ勝手にしろ」と言って上り始める。ユレイドも後に続く。実際に上り始めてみると、段差も適度で上りやすく、何より頑丈そうな階段だ。ユレイドは第二帝国ホテルの非常階段を思い出してみて言う。

「地上階から四十一階へ階段で上るよりはましだろう」

 先を行くレガートは意外そうに問う。

「やったことがあるのか? おまえはエレベーターかタクシーかリムジンしか使わないと思っていた」

 ユレイドは「そりゃあ、普段はそうだけれどさ」と断って、続ける。

「エレベーターが使えなくなったらどうなるんだろうって、試したことはあるさ。最高顧問になるより前だよ」

 まだ続きがありそうなので、レガートは「それで?」と先を促す。ユレイドは話を続ける。

「テオと一緒に試したんだ。あいつは途中でエレベーターに乗ったけれど、僕は最後まで登った。最上階まで行くつもりだったけれど、それは諦めた」

 らしい話だと思いながら、レガートは更に「どうだった?」と話を促す。ユレイドは続ける。

「移動に毎回階段を使えって言われたら、もう移動したくなくなるくらいの高さではあったな。四十一階でも充分きつい。エレベーターを止めた奴に、食ってかかりたくなるかもしれない。テオならそうするか、何か他にずるい道を見つけるだろう。もっとまともで温厚な人だって、きっとそうだ。帝都でエレベーターを止めるってことは、つまりそういうことだ。頭が痛いよなあ」

 エレベーターよりもまずい問題は山ほどあるのだが、階段からの連想で思い出したのだろう。レガートはユレイドの身を案じて言う。

「エレベーター問題で頭痛がするほど深刻になってたら、身が持たないだろう。大元の問題を解決することを考えようぜ。枝葉も困っている本人にとっては深刻だが、おまえが一緒にその深刻さを味わってみたところで、何かが解決するわけでもないんだ」

 言いながらレガートは、為政者には冷血な人間が向いているという流説に思いを馳せる。共感性は政治的判断の足枷になるというのがその説の骨子だが、もしそれが本当なら、アンドロイドにでも政治家をやらせればいいのだろうか。実際に、帝都では真剣に議論されている話だ。テオドロスのような人間ならどうだろう。躊躇なく決断を下すが、その動機は本人の享楽で国益ではありえない。

 レガートの考えていることが伝わったはずもないのだが、ユレイドは深刻な表情で言う。

「僕はこの役職には向いていないよ。それは分かっている。選ばれてしまったからどうにか務めているが、その選ばれた経緯も分からないんだ。何かの間違いだろうと今も思っている。その間違いを突き止めてほしいと本気で思っていた。テオとアランなら、きっとそれができる。

できると思ったんだ。それが今、どうしてこんなにやるせないんだろう」

 レガートは気休めを言おうとして思いとどまる。代わりにこう言う。

「まずバランサーの問題をルパニクルスの使者達に解決してもらおう。厄介なのは鍵の問題だが、それも明日の【交霊会】まで打つ手なしなんだ。ああ、テオがなんか動いてるみたいだけどな。何やってるんだか……」

 二人は揃って深い溜息をついた。頂上まではまだ距離があり、途中に出入口も見つかりそうにない。



 階段を最後まで上り終えて辿り着いた頂上には、全く目を疑うような光景が広がっていた。外周は腰までの高さの塀で囲われている。塀の内側には、円周に沿って広い道。帝都の大きめの通りくらい幅のあるその道のさらに内側には、何もなかった。唐突に床の建材が途切れ、巨大な穴が口を開けていて、穴の中には真っ暗闇が、真っ暗な空虚が広がっている。この暗闇の底は建物の高さよりも何倍も何十倍も、いやそれ以上に深いと、二人は何の根拠もなく感じる。その穴の縁に立つ勇気は二人には俄かに湧いてこない。

 レガートはユレイドを壁面の傍に留め、床の白色が途切れて黒色の虚無が始まる縁に近付いてみようとして逡巡した。黒色が始まる境界、暗闇の縁に立って、その闇を覗きこもうとした瞬間、そこに吸い込まれてしまいそうな気がするのはなぜだろうか。今ここに立っているだけでも、ふらりとはずみで落ち込んでしまいそうな、自己への信頼を揺るがせにする浮揚感。落ち込んだ先の底知れぬ深淵を思い、彼は戦慄を覚える。

 ふと、そこに広がる深淵の闇の底から、レガートは何かが羽搏くような風音を聞いた気がした。何か大きな翼。何かが近づいてくる。彼は反射的にサーベルを抜いてユレイドの前に立つ。ユレイドが驚いて身構えた瞬間、穴の底から何か大きな黒いものが飛び出してきて、彼らがいるところから幾らか離れた縁に降り立った。羽搏きを聞いたはずなのだが、初め翼があったと思われたのは錯覚だろうか。降り立ったものは馬のような生き物、騎手を乗せた大きな黒い馬——いや、やはり馬そのものではなく何か馬のような生き物だ。全体が黒色とはいえ輪郭が不可思議にはっきりとせず、たてがみや尾ににあたる部分が特に曖昧で、夜気に広くたなびいている。仄暗い炎のようにも、何匹もの暗い色の蛇がたてがみの代わりにあるようにも見える。黒衣の騎手、黒髪の陰気な男は、自分の前に娘を一人乗せていた。奇妙に幼く見える銀髪の娘は、騎手と馬とは対照的に真っ白な衣を身に纏い、月夜に燐光を放つように錯視的な輝きを添えている。ハルトラードの夜王夫妻——ジャンとシルキアだ。

 ジャンは馬に似た生き物のたてがみをつかみ、ユレイドとレガートがいる手前に停止させる。驚いたユレイドが「貴方達は」と口を開くと、ジャンはその乗り物から降りもせず、夜の底へ響く声で下の二人に問いかける。

「君達が何故ここにいる? 次の道標は何だ」

 ユレイドの前でサーベルを抜いたままのレガートが鋭く問い返す。

「何故はこちらの台詞だ。状況を知っているなら説明しろ」

 するとシルキアがたてがみから顔を覗かせて答える。月夜の霧にたゆたう声。

「ここは夢の中。たぶん悪い夢。少し眠ったら、知らないメアにここへ突き落されたの」

 ジャンも「実に不甲斐ない話だ」と不興げに一言付け加える。ひとまず敵ではなさそうだとサーベルを鞘に納めたレガートが問う。

「その乗り物は?」

 これにもシルキアが答えた。

「これもメア。王様のメア」

 メア。メアとは何のことだろう? どこかで聞いたことがありそうで思い出せないレガートに代わり、一足先に記憶の検索を終えたユレイドが問う。

「メアというのは、あの、人に悪夢をもたらすと云われている生き物のことですか?」

 シルキアは頷く。そうだそれだと思い当たったレガートも続けて問う。

「つまりそいつはこの『悪い夢』の出所じゃないのか?」

 レガートが指しているのは、ジャンとシルキアが乗っている黒い生き物だ。ジャンは即座に答える。

「違うな。これは私のメア、私が飼っているメアのうちの一頭だ。私は命令していない」

 『メアを飼う』という事態についてユレイドとレガートが思いを巡らせているうちに、ジャンはメアの上から辺りを見回し、頭上に広がる夜空を見上げる。彼は暫くそうしていた。ユレイドとレガートには、それは何か遥かに遠いものを漠然と探している姿に見えた。同じメアの上でジャンに抱かれているシルキアが、揺れるたてがみを手すさびに呟く。

「お城の夢を見たい」

 メアが機嫌のいい馬のように鼻を鳴らした。ジャンは視線を上から戻し、両者に答えて言う。

「後でそうしよう。まずはこの夢を終わらせることだ」

 シルキアは嬉しそうに微笑み、メアは再び鼻を鳴らして前脚で軽く地を蹴った。月光を映す銀色の髪をぼんやりと眺めて怪しげな気分になってきたユレイドは、頭の霞を払拭するように尋ねる。

「どうすればこの夢を終わらせることができるのですか? 道標というのは? 夢から覚めるために必要なものでしょうか?」

 ジャンはユレイド達の存在をようやく思い出したかのように答える。

「おそらく目的を果たす必要がある。そのための印が散らばっているはずだ」

 それだけでは分からない答えだ。ユレイドは問い直す。

「その目的というのは?」

 今度はシルキアが首を横に振って答えた。銀の髪が揺れる。

「分からない。きっと怖いものに出会うこと」

 ユレイドは彼女から僅かに視線を外し、更に尋ねてみる。

「怖いものとは? 誰にとっての怖いものですか?」

 シルキアは答えず黙ってしまう。ジャンが上から答える。

「これが誰の夢かによるな。君達が夢の幻でないのなら、それぞれの怖いものだ。それはどうでもいい。何であるにせよ、道標を探している」

 ユレイドと同様先ほどから落ち着かないのを隠しているレガートは、霞んだ頭でふと気になって尋ねる。

「あんた自身は俺の夢の幻じゃないって言うのか?」

 ジャンは奇妙なことを聞いたという表情で返す。

「その問いかけには意味がない。帝国流の冗談だろうか?」

 ユレイドはそのやりとりに微笑み、ジャンへ言う。

「冗談だと思います。私はちょっと面白いと思いました。ともかく、その道標を探しましょう」

 探すと言ってどこを探すのかと、レガートは漠然と問う。

「どこを探せばいい。砂漠か、それともこの穴の中か?」

 ユレイドは「下から上がって来たのであれば、残るは外では」と言って外の砂漠を漠然と見回す。ジャンはその発言を否定して言う。

「まだ底は見ていない。途中まで落ちて、上に夜空が見えたので上がっただけだ。しかしこの様子では、建物の外にはおそらく何もないな。我々はもう一度降りて、底を目指そう」

 言うが否や、ジャンはメアの向きを暗い深淵の方へ回し、さっさとそこへ飛び込む構えで、背後に残る二人へこう言ってよこす。

「よい夢を」

 ユレイドは慌てて彼らを引き留めようと声を上げる。

「ちょっと待って!」

 面妖な二人連れを乗せたメアは闇に飛び込もうと駆け出す寸前で歩みを止め、向きを変えてこちらを向いた。メアを回したジャンは訝しげに問う。

「何か?」

 引き留めに成功したユレイドはほっと溜息をつきつつ、また行かれてしまっては困るとばかり一息に要件を告げる。

「底に目的があるのなら、私達も底へ行きたいのです。あなたの『メア』は複数形でしたね? もしここに呼び出せるのであれば、レガートと私に一頭ずつお貸しいただけませんか」

 レガートは眉を顰めつつなりゆきを見守る。ユレイドも内心とんでもない申し出だと思いつつ返答を待つ。無下に断られるかと思いきや、ジャンは意外にも暫し考えて口を開く。

「貸すのは構わないが」

 そこで言葉を切るので、何か含みがあるのだろうと推したユレイドはその先を問う。

「何か問題がありますか? 交換条件があれば検討します」

 ジャンは上からユレイドとレガートに値踏みするような視線を向け、一言問うた。

「乗れるだろうか?」

 シルキアがくすくすと笑う。その笑い声にまた霞をかけられたユレイドは、そのことに恥じ入りつつ食い下がる。

「無理でしょうか? 乗馬なら少しは経験がありますが、メアに乗ったことはありません」

 笑うのをやめたシルキアは、ジャンの真似をするように上から二人を見回して、忠告するように言う。

「二人ともきっと酔う」

 もうだいぶ月酔いが回っているユレイドには、何のことだかすぐに分からない。何か言い当てられたような気がして怯んでいると、彼よりも症状がましなレガートがシルキアに質問する。

「酔うような乗り心地なのか?」

 シルキアは幻のようなメアのたてがみを撫で、無表情に歌うような調子で答える。

「メアに酔うと息が詰まるの。夢の中で苦しくなるみたいに。真面目な人は特にそう」

 想像より恐ろしげな内容だがレガートは笑い、軽口を叩きつつ更に問う。

「だったらユーリは確実に酔うな。息が詰まって死ぬのか? 苦しくなるだけか?」

 シルキアは考え込むような顔をして沈黙する。彼女は振り返ってジャンの方を見た。ジャンは大したことのなさそうな調子で言う。

「それだけと言えば、それだけだな」

 もうシルキアの方を見つめないように目の焦点に気を使いながら、ユレイドは最後に確認するつもりで問う。

「この夢は自然には覚めないのでしょうか?」

 ユレイドの危惧通り、ジャンはそろそろこのやりとりが面倒になってきたらしい。いかにも飽きたという様子で今にもメアを回して走り去りそうだが、ユレイドの問いかけには答えてくれた。

「それは何とも言えないな。ずっとこのままかもしれないし、放っておいてもそのうち覚めるものかもしれない。そのうちに何が起こるかはお楽しみだが、私はその何かを待つ気にはならない。退屈だ」

 王様の苛立ちを察知したシルキアが下にいる二人に問いかける。

「どうする? まだ何か聞く?」

 ユレイドは潮時と判断して急いで頼む。

「いえ、もう結構です。メアを貸してください」

 レガートは不安だったが、仕方なく続く。

「俺にも貸してくれ。夢の中でまでこいつの護衛をするいわれはないが、変な『悪い夢』から覚めない可能性よりましだ」

 ジャンは下にいる二人の背後を見据え、気軽な調子でそちらへ右手を差し伸べた。それを見て下の二人が後ろを振り向くと、どこから現れたのだろうか、新しく呼ばれた二頭のメアは既にそこにいて、暗赤色の瞳で二人を見下ろしていた。

 怯みつつ二人はそれぞれのメアに近付く。大まかな形は大型の馬のようだが、鞍も手綱もない。乗った後の制御の話はともかく、まずどうやって背中に乗ればいいのか。戯れに裸馬に乗ったことのあるレガートは、気合を入れて跳び、どうにか背中に座ることができた。メアの背の高さに比してどう考えても跳躍が足らず、失敗したと思ったのだが不思議とその高い背に乗ることができ、目の前のたてがみを眺めつつ彼は首を傾げている。壁側のユレイドの方を見ると、案の定彼は苦慮していた。レガートは「壁を使え」と助言する。それでも難しそうなのを見て、初めは面白がっていたジャンも見飽きたのか、ユレイドのメアに意外な指示を飛ばす。

「座ってやれ」

 ユレイドのメアは地に四つ脚を折って座った。それができるなら初めからそうしてやれと、レガートは心中に毒づく。ユレイドがメアの背に乗り、たてがみに掴まったところでメアが立ち上がると、不安げな初心者二人にシルキアが助言を出す。

「メアには思うことが通じるから大丈夫。ここは夢の中。いい加減な気持ちでいて」

 いい加減な気持ち。難しい指示だとユレイドは思う。ジャンは既にメアを暗い穴の方向へ向けていて、後ろの二人に何か言うでもなく、いきなり駆け出させる。あっという間にメアは暗闇に飛び込み、どこに隠していたのか大きな黒い翼を広げてその闇の底へと駆け下り始めた。ユレイドは急いでたてがみを捕まえなおし、メアの腹を蹴りながら「追え!」と口頭で指示を出す。通じるものか半信半疑だったが、ユレイドのメアは速やかに駆け出して、先を行く者達を追い始めた。躊躇なく闇へ飛び込むユレイドの蛮勇に感嘆する暇もなく、レガートもすぐ同様にして後を追う。

 暗闇の領域へメアが跳躍する瞬間、レガートは無意識に死を覚悟する。メアは翼を広げた。翼を広げたことは分かるのに、それがどこにあるのかは分からない。本当に大きな翼があったら、騎乗には邪魔になるはずだ。この羽搏きの音は幻だろうか? 目の端にちらつく翼端の影は? 直視しようとしても捉えられず、焦点を外せは気配だけが残る。メアの翼は、そのたてがみや尾の揺らめき以上に奇怪なあり方をしているらしい。メアが最初の命令を聞いてくれたので、ユレイドはとりあえずほっとする。気になって後ろを振り返ると、レガートがわざわざたてがみから片手を離して手を振ってくれた。ユレイドは心配になって「落ちるなよ」と声をかける。レガートから敬礼が返ってきて、彼がまたたてがみを掴みなおすのを確認してから、ユレイドは前方へ向き直った。



 先頭のメアは大きな螺旋を描くように、この深い穴の縁に沿って、緩やかに下降してゆく。騎乗者達は優雅だった。こんな奇妙な旅にも慣れているのだろうか、二人とも寛いだ様子で、何事か楽しそうに囁き合っている。闇の淵でなお輝くような娘。彼女を抱く者には権威がある。思わず彼らの様子をじっくり観察しまったユレイドは、羨ましいような悲しいような不本意な気持ちになり、意識して別のことを考えようとする。ユレイドが物憂げなのを見て、嫌な予感がしたレガートは後ろから声をかける。

「考える内容に注意しろよ!」

 レガートの警告は一足遅かった。案の定、仕事のことを考え始めていたユレイドは、メアの上で息苦しさを感じ始める。息を吸い込んでも、それが肺へ入っていかない。肺が広がってもまだ息苦しい。まずいと感じたときにはもう手遅れで、ユレイドはメアの首にもたれかかって苦しみ始めた。頭に酸素が回らない。手足が痺れる。無理を押して何か運動をしてしまったときの、二番目の兄のように。

 ユレイドの様子を後ろで見ていて、レガートは忸怩たる思いに駆られる。どうやら自分も失敗をしてしまったらしい。息苦しさはレガートにも忍び寄っている。義務感が引き金ではないかと感じた彼は、ユレイドのことから考えをそらし、何か別のことを考えようと努力する。ここにいるのがテオドロスならば、この奇態な生き物にも平気で乗っていられるに違いない。むしろ奴なら喜びそうだ。生まれつきへその曲がっているあいつならば、こんなおかしな状況をきっと面白がる。

 レガートの努力が実り呼吸が落ち着いてきたところで、たてがみを強く引かれるのに抵抗したユレイドのメアが暴れ始める。それを見たレガートはいきなり首を絞められるような感覚に襲われ、その苦しさのために、思考を脇へそらす余裕もなくしてしまう。

 のっぴきならない事態になって、先頭のメアの騎手は後方の惨状にようやく気を留めたらしい。ジャンは等閑に振り返って破滅的な有様を見るが、自分のメアを止めようとはしない。もうかなり下ってきている。彼は後ろへ向かってただこう叫んだ。

「飛び降りろ!」

 耳を疑うようなその指示が届いたか否か定かでないうちに、痺れた指先で暴れるメアの背にしがみついている限界が訪れたユレイドが、先に手を離した。もう完全に息が詰まっているにも関わらず、どういうわけか簡単に意識を失えない苦しみに耐えかねて、指先が死を選択したのかもしれない。手を離してメアから身体が離れた途端に、呼吸は解放された。彼は先ほどまで目指していた奈落の底へと、真っ逆さまに転落してゆく。掻きむしった喉から血の雫を滴らせたレガートも、ユレイドの後を追った。



 二頭のメアは消え、窒息から解放された二人は落ちていった。落ちる二人を見送ったのちも、ジャンはメアを駆って降下を続ける。シルキアは何も言わなかった。ジャンは彼女の考えを読んで静かに言う。

「底にあるものが二つ分かったな」

 シルキアは頷いて、不思議そうに問う。

「死体は底。魂は?」

 ジャンは暫し黙したのち、変わらない調子で言う。

「我々には関わりのないことだ。それに——」

 シルキアは正解が分かったとばかり明るい表情で後を続ける。

「これは夢。誰もいなくならない」

 二人は楽しげに語らいながら深淵の闇を下る。その先に何があったとしても、まるで不安など抱かない様子で。

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