第13話 :解けゆく執着と、漆黒の救済
「ハァッ……ハァ……ッ!」
激しい金属音が途切れ、崩れかけた回廊に荒い呼吸だけが空虚に響き渡った。
リシェインの足元が大きくぐらつき、手に握られた漆黒の剣先が石畳へと重く落ちる。
どれほど鋭い突きを重ねようと、リオンの鉄壁の防衛と、その背後から絶え間なく注がれる詩織の聖なる光の前に、リシェインの刃は一度としてシオンの肌を掠めることすらできなかった。
「なぜだ……っ! なぜだお前たちは……前世と同じ絶望の渦中で……なぜそうやって互いを信じ、支え合っていられる……ッ!?」
リシェインの黒い瞳から、血涙のような激痛が溢れ出す。
前世では誰も誰も救われず、互いに言葉を失い、ただ奪われ破滅していくだけだった惨劇の記憶。
だが、今の二人の間には、隙間ひとつない完璧な絆の輪が出来上がっている。どれほど闇を叩きつけても、その温もりが自分を惨めに弾き返すのだ。
「終わらせよう、リシェイン」
リオンは銀の剣をリシェインの胸元へ突きつけ、低く、けれど静かな声で言った。
「俺はもう、お前を斬り捨てて解決しようとは思わない。前世の俺たちは互いに憎しみ合い、結果としてシオンの命まで奪ってしまった。……だが俺は、シオンの愛を知り、生きて守り抜く道を選んだ。お前の闇に、これ以上シオンを付き合わせはしない」
「黙れ……! 綺麗事を言うな……っ! 勝ち誇った顔で私を見下ろすな、兄上ぇぇッ!!」
追い詰められたリシェインの全身から、漆黒の狂気が渦となって爆発した。
己の命すら省みない自爆覚悟の特攻。彼は剣を捨て、黒い影の爪を剥き出しにして詩織へと襲いかかろうとする。
「シオン──ッ!」
リオンが剣を構え直した、その瞬間。
「──リシェイン!!」
詩織はリオンの背中から一歩前へ踏み出し、自らその両腕を大きく広げた。
「シオンっ!? ダメだ、離れて──!」
「大丈夫です、リオン!」
詩織は叫ぶと、手首の痣から溢れる太陽のような黄金の光を全身に纏わせ、襲い来るリシェインの身体を正面からそのまま強く抱きしめた。
「な……ッ!?」
凍りつくように冷たいリシェインの躯。
邪悪な影が詩織の肌を焼こうと蠢くが、それを上回る圧倒的な聖女の慈愛が、リシェインの体を、魂を、静かに包み込んでいく。
「離れ……ろ……! 触るな! 穢らわしい私に……触れるな……っ!」
「離しません……! 思い出してください、リシェイン……! 私が幼い頃、あの暗い地下牢であなたに渡した言葉を……!」
詩織は耳元で、ボロボロと溢れる涙を彼の肩に落としながら叫んだ。
「『あなたの瞳は、この暗闇の中で一番綺麗に輝いている。……生きていてくれて、ありがとう』って……! 私はあの日からずっと、あなたの生きてきた苦しみを知っていたのに……救い出してあげられなかった……!」
「あ……ぁ……っ……」
リシェインの身体が激しく震え出す。
シオンの温かい体温、溢れ出る涙の熱さ、そして全身を浸す黄金の光。
それらが、彼の胸の奥深くに幾重にもかけられていた重い鎖を、ひとつ、またひとつと叩き割っていく。
彼の脳裏に、怒涛のように溢れ出してくる幼き日の記憶──。
言葉を交わす者もなく、冷たい石畳の上に泥にまみれて伏していた暗闇。
陽の当たる場所で第一王子として人々から称賛を浴びる兄の姿を、格子戸の隙間から指をくわえて見つめていた惨めさ。
自分という存在を誰も認めてくれない絶望の中で、ただ一人、格子越しに自分の手を握り締め、ボロボロと涙を流して「生きていること」を肯定してくれた幼いシオンの温もりの感触。
(そうだ……私は……ただ……)
言葉を交わす者もなく、冷たい石畳の上に泥にまみれて伏していた暗闇。
陽の当たる場所で第一王子として人々から祝福される兄を羨み、格子戸の隙間からただ指をくわえて見つめていた惨めさ。
誰かに肯定されたかった。
誰かに、自分の名を呼んで欲しかった。
光の世界で祝福される兄を激しく嫉妬し、シオンを自分だけの暗闇に閉じ込めようとしたのは──あまりにも拙く歪みきった「愛されたい」という寂しさの叫びだったのだ。
自分を救ってくれなかったのは、兄上でも、シオンでもない。
自分自身の内に広がる底なしの暗闇から、抜け出せなかった自分自身だったのだと。
「あ……ぁ……っ……」
リシェインの爪から黒い影がスーッと消え去っていく。
狂気に濁っていた黒い瞳に、澄んだ寂しさと、深い諦念の光が戻ってくる。
彼は崩れ落ちるように膝をつき、詩織の胸元に額を預けた。
かつて地下牢でシオンに抱きしめられた時のように、小さく、頼りなく肩を震わせながら。
「……私を救ってくれなかったのは……お前たちではない……。私が、自分自身の闇から抜け出せなかっただけだったのだ……。だがシオン……何もなかった私の世界で……君という光だけが、私のすべての救いだった……」
消え入るような、けれど魂を振り絞るような悲痛な告白。
彼の頬を伝った一筋の涙が、シオンのドレスに静かに染み込んでいった。
「リシェイン……」
「すまなかった……シオン……っ」
その瞬間──。
ゴォォォォォ……ッ!!
空が割れ、城全体が白い光の泡となって弾け始めた。
リシェインの長年の執着と呪縛が解かれたことで、二人が囚われていた「記憶の過去世界」そのものが、その役割を終えて崩壊を始めたのだ。
「世界が……崩れていく……!?」
「シオン!!」
リオンは間髪入れずに詩織を抱き寄せ、崩れゆく空間の中で彼女を己の胸の中へ強く強く引き寄せた。
「どこへ落ちようと……もう二度と、きみの手を離しはしない……!」
「リオン……っ!」
眩い光が二人の視界を完全に覆い尽くし、過去の惨劇は温かな光の渦の中へと消え去っていった──。




