09 壊れた馬車と来訪者
昼下がり。村の入口へ、一頭の馬が駆け込んできた。
乾いた土を蹴り上げ、荒い息を吐きながらようやく脚を止める。騎乗していた男は手綱を強く引き、暴れかけた馬の首筋を優しく撫でて落ち着かせた。馬の様子を確かめてから、周囲へ鋭い視線を巡らせる。
日に焼けた浅黒い肌。引き締まった体つき。見慣れぬ風貌だったが、その立ち居振る舞いには無駄がない。
「この村の責任者はいないか!」
張り上げられた声が、静まり返った村へ響き渡る。
戸口から顔を出す者。畑仕事の手を止めて振り返る者。散っていた人々の視線が、ゆっくりと男へ集まっていく。
その輪の中へ、ティスも少し遅れて姿を現した。
人々の間を縫うように歩み寄り、自然な動作で前へ出る。
「どうしました?」
静かな声だった。
場の空気に引きずられない、落ち着いた響き。
男はその声の主へ視線を向け、わずかに眉をひそめた。
年若い女性。この村には似つかわしくない整った身なり。
――場違いだ。
だが同時に理解する。この辺境の地であれば、ラティス家に関わる者なのだろうと。
「主の馬車が壊れた。ここへ来る途中で車輪がやられて動けない。」
必要なことだけを、簡潔に伝える。
「怪我は?」
「ありません。ただ……何とかお力をお借りしたい。」
先ほどまでの切迫した様子は少し落ち着き、男の口調は淡々としていた。
それでも焦りは隠しきれない。
ティスが思考を巡らせる、そのわずかな間も惜しかったのだろう。男は続けた。
「この村にオルティス卿がおられると聞いた。お会いできないだろうか。」
その名に、ティスの表情がほんのわずかに揺れる。
しかし、それも一瞬だった。
「分かりました。ご案内します。」
短く答え、ティスは集まっていた村人たちへ軽く手を振った。
それだけで十分だった。
人々は互いに顔を見合わせると、それぞれの仕事へ戻っていく。ざわめきは静かにほどけ、残ったのは土の匂いと、まだ荒い馬の息遣いだけだった。
ティスは男へ向き直る。
「こちらです。」
そう告げると、屋敷へ続く道を歩き始めた。
ティスは男を屋敷へ案内した。
通されたのは、応接室と呼ぶにはあまりにも質素な部屋だった。広さだけはあるものの、調度品は最低限しか置かれていない。この土地の現状を、そのまま映したような空間である。
「こちらへ。」
男を席へ促して間もなく、オルティスが姿を現した。
男は立ち上がると、村でティスへ話した内容と同じように必要なことだけを無駄なく説明する。
話を聞き終えた瞬間、オルティスの表情が露骨に歪んだ。
「……このタイミングで、か。」
吐き捨てるような声だった。
苦虫を噛み潰したような表情を隠そうともせず、一拍置いて男を見る。
「主君の家名は。」
「エヒト家にございます。私は護衛を務めるロブと申します。」
簡潔な返答だった。
しかし、先ほどよりも言葉遣いは丁寧になっている。
目の前の相手が歓迎していないことを察し、それでも主君に無礼が及ばぬよう気を配ったのだろう。
その誠実さを、ティスは静かに見ていた。
一方、オルティスは「エヒト家」という名を聞くと、わずかに表情を和らげた。
エヒト家は、このリテイアでも有数の騎士の家系。
そんな家の者が、わざわざ辺境を訪れる理由など限られている。
何らかの思惑がある。
ならば、困っている相手には手を貸し、その代わりに情報を得ればいい。
オルティスの思考は一瞬でそこまで辿り着いていた。
損得を天秤にかけ、利益になると判断する。余計な含みや危険性は、今はひとまず脇へ置く。
「馬車の状態は。」
「車輪が破損しております。」
「積み荷は。」
「無事です。詳しくは――」
「いや、よい。確認に行こう。」
軽く手を上げ、言葉を制する。
ロブの説明は的確だった。
だが、話を聞くより、自分の目で見た方が早い。それだけのことだった。
オルティスはそのまま立ち上がる。
決断に迷いはない。動き出した主の後ろを、ウェンが無言で続いた。
その背へ、ティスが一歩踏み出す。
「私も同行してもよろしいでしょうか。」
オルティスの足が、わずかに止まる。
ウェンはその脇を通り過ぎ、馬車の用意へ向かった。
短い沈黙。
オルティスはティスを測るように見つめる。
「物見遊山か。」
「状況の把握を。私にもできることがあるはずです。」
静かな声だった。
現場へ行ったところで、自分にできることは多くない。
それでも父がどう判断し、どう動くのかを、自分の目で見ておきたかった。
「――好きにしろ。」
吐き捨てるように言い、オルティスは再び歩き出す。
それで十分だった。
ティスは小さく頷き、その背を追った。
現場へ着いた瞬間、状況は一目で把握できた。
馬車は道の脇へ傾き、荷台を斜めにしたまま止まっている。車輪そのものは無事だったが、車軸は途中から無残に折れていた。
それだけではない。
積まれた荷も大きく片側へ寄っている。
「……積みすぎだな。」
オルティスが低く呟いた。
荷台には箱や麻袋、さらに金属製と思われる重量物まで積み込まれている。
見ただけで分かる。積載量は明らかに限界を超えていた。
「重さそのものも問題だが――」
オルティスはしゃがみ込み、折れた車軸ではなく、その周囲へ視線を落とした。
指先で接合部をなぞり、わずかな歪みを確かめる。
「これは、衝撃だな。」
「衝撃、ですか。」
ティスも隣へ腰を下ろし、見様見真似で車軸へ触れる。
オルティスは地面を軽く叩いた。
「この道だ。」
乾いた土。露出した石。荷馬車が頻繁に通る道とは、とても言えない。
「この手の道では、小回りを優先して車輪を小さくすることが多い。」
視線は車輪から離れない。
「その状態で重い荷を積めば、石へ乗り上げるたびに衝撃が逃げず、車体へ蓄積する。」
軽く車輪を叩く。鈍い音だけが返ってきた。
「積み重なった負荷が限界を超えれば、こうなる。」
簡潔な説明だった。だが、それだけで十分だった。
起こるべくして起きた破損なのだと理解できる。
護衛の男――ロブが、わずかに顔を曇らせた。
その表情だけで、見立てが的確であることが伝わってくる。
「……応急修理は可能でしょうか。」
「可能だ。」
即答だった。
しかし、そのあとで荷台へ目を向ける。
「だが、人手が要る。」
一拍置き、さらに続けた。
「先に言っておくが、私の馬車へ荷を積み替えることはできん。」
きっぱりと言い切る。
「この地では馬車は貴重品だ。同じ理由で壊すわけにはいかん。」
ロブの表情がわずかに強張る。
反論は浮かんだ。
だが、それが筋違いであることも理解していた。
「……分かりました。」
静かな声が入る。
ティスだった。
「村へ戻ります。」
オルティスが初めて娘へ視線を向ける。
「何をする。」
「人を借ります。」
迷いのない返答だった。
「父上がおっしゃるように、人手が必要なのでしょう。」
村人たちがこの馬車を修理できる保証はない。
それでも、人がいれば車軸を交換できなくても、荷だけでも安全な場所へ移せる。
今できる最善は、それだった。
オルティスは短く頷く。
「ロブ。主君と話がしたい。」
続けて、
「ウェン。ティスに馬車を使わせろ。」
それだけ指示を出した。
普段の父なら、村に修理できる者がいるのか確認していただろう。
それを聞かない。
ティスは一瞬だけ考えた。
(……私を遠ざけたいのか。)
エヒト家と交わす話を聞かせたくない。
そういう可能性もある。
だが同時に、
(任せても構わないと思っているのかもしれない。)
そんな考えも浮かぶ。
答えは出ない。
ティスは小さく首を振ると、踵を返した。
ウェンはすでに御者台へ上がっている。
ティスが乗り込むのを確認すると、迷いなく馬を走らせた。
馬車は来た道を、そのまま村へ引き返していった。
屋敷へ馬車を戻すとティスはウェンを残し、一人で村役場へ小走りで向かった。
役場では数人の男たちが、それぞれ仕事を進めている。
その中に、腕を組んだウォルトの姿があった。
「なんだ、お前か。」
いつも以上にぶっきらぼうな声。
堆肥づくりの報告にでも来ていたのだろうか。ここで顔を合わせるのは珍しい。
ティスは乱れた呼吸を整えると、間を置かず事情を説明した。
馬車が壊れたこと。荷を積みすぎていたこと。車軸が折れ、現状では動かせないこと。
そして、人手を貸してほしいということ。
話を最後まで聞き終えたウォルトは、小さく鼻を鳴らした。
「ふん……馬鹿な積み方しやがったな。」
吐き捨てるように言うと、近くの机から紙を引き寄せる。
「衝撃で壊れたってんなら、逃がしゃいい。」
迷いなく羽ペンを走らせる。
簡素な馬車の図。荷台と車体の間に新たな構造を書き加えていく。
「剛直に組めば、力は全部まともに受ける。」
線を一本引く。
「だから、ここへ"遊び"を作る。」
板。縄。支点。必要な部分だけを描き込んでいく。
「板を噛ませて縄で吊る。締め切るな。」
最後に図を指で叩いた。
「揺れはそこで吸わせる。」
ティスは図面を見つめる。
完全には理解できない。それでも、本質だけは分かった。
衝撃を止めるのではない。受け流す。構造そのものに動く余地を作ることで、力を分散させる。
「この構造を、車軸と荷台の間へ入れる感じですね。」
ウォルトの片眉がわずかに上がる。
「ほう。」
短い返事だった。
「芯は外してねぇ。」
そのやり取りを聞いていた村長が、静かに口を開く。
「修理の目処は立ったようだな。」
ティスは頷く。
「はい。ですが、人手が必要です。」
村長は一度だけ図面へ目を落とし、すぐに判断した。
「分かった。君の他の身なら協力しよう。」
周囲へ視線を巡らせる。
「四人出す。車軸になりそうな木も倉にあったはずだ。縄と工具も一緒に持っていけ。」
男たちは短く返事をし、それぞれ準備へ散っていく。
村長は再びティスへ向き直った。
「ただし、応急修理だ。どこまで運ぶ気だ。」
試すような問い。
ティスは迷わず答えた。
「この村まで戻せれば十分です。」
「なるほど。」
村長は納得したように頷く。
その様子を横で見ていたウォルトが、小さく舌打ちする。
「……仕方ねぇな。」
紙を乱暴に畳み、懐へ押し込んだ。
「図だけ渡して終わりじゃ、どうせ直せやしねぇ。」
ティスは自然と頭を下げる。
「来ていただけますか。」
「当たり前だ。」
ぶっきらぼうに答える。
「形にならなきゃ意味がねぇからな。」
その表情は、退屈な日常に変化を求める楽しさが混じっているように見えた。
ティスは小さく微笑み、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございます。」
礼だけを残し、すぐに踵を返す。
頭の中では、すでに人員配置と作業手順が組み上がり始めていた。
その後ろを、ウォルトが気だるそうに歩き出した。




