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10 見えない枷

再び馬車のもとへティス達は戻る。

荷馬車から降りた男たちを見て、ロブはわずかに目を細める。

「連れてきてくれたのか。助かる。」

「ええ。日が暮れるまでには片付けたいですね。」

ティスは迷いなく答えた。

すでにやるべきことは決まっている。

その間にも、ロブは積み荷をすべて荷台から降ろし終えていた。道の脇へ整然と並べられた荷の前には、作業のための十分な空間が確保されている。


「まずは車軸だ。」

ウォルトが短く告げる。

その一言を合図に、村人たちが一斉に動き始めた。

荷馬車を支える者。折れた車軸を引き抜く者。持ち込んだ木材を運ぶ者。

誰かが細かな指示を出すわけではない。それでも、それぞれが自分の役割を理解しているかのように動いていく。

ウォルトは木材へ目を落とし、長さを測ると迷いなく印を付けた。

「これだ。」

投げ渡された木材を受け取った男が、すぐに鋸を引き始める。

乾いた音が一定の調子で響き、その横では別の男が削り具合を確かめる。

切り出された木材は、次々と別の手へ渡され、新しい車軸が組み上げられていく。


その様子を、ティスは静かに見つめていた。

普段目にする村人たちは、畑を耕し、荷を運び、同じ仕事を繰り返して暮らしている。

だが今、目の前にあるのは違う。誰も経験したことのない修理。それでも動きは止まらない。

ウォルトが要所だけを示し、村人たちが互いを補い合う。

洗練されているとは言えない。

それでも、一人では成し得ない仕事が、確かな形になっていく。

(そういうことか……。)

ティスは小さく息をついた。

この村は決して豊かではない。

それでも今日まで生き延びてきた理由が、少しだけ見えた気がした。


一時間ほどすると、新しい車軸が馬車の中へと設置された。

ぎしりと軋みはするものの、馬車は再び動かせる状態になっている。

だが、それだけでは終わらない。

「それで、荷はどうする。」

オルティスがティスを見る。

「このまま積み直せば、また壊れるぞ。」

ティスは小さく笑みを浮かべた。

「秘策があります。」

そう言ってウォルトへ視線を送る。

「見ていてください。」


ウォルトは頷くと、再び村人たちへ指示を飛ばした。

「板はそこだ。」

「縄を締めすぎるな。」

「少し遊ばせろ。」

機構を組むこと自体は決して難しくない。

本当に難しいのは、その固定加減だった。


板を噛ませ、縄で支え、ほんのわずか動く余裕を残す。

締めすぎれば意味がない。緩すぎても支えにならない。

その数寸の"遊び"を作るためだけに、何度も締め直しが繰り返された。

やがて、ウォルトが満足そうに頷く。

「……こんなもんだ。」

ロブが荷台へ手を掛け、軽く揺らしてみる。

普通なら衝撃はそのまま車体へ伝わる。

だが今回は違った。

荷台がわずかに遅れて揺れ、力が柔らかく逃げていく。

「なるほど……。これなら持ちそうだ。」

ロブは思わず呟く。

「応急としては十分だ。」

オルティスも短く評価した。


村人たちはロブと協力しながら荷を積み直していた。

量は多い。一つひとつ重さの偏りを確かめながら積み直していくため、どうしても時間はかかる。

それでも、作業の手は止まらない。

互いに短く声を掛け合い、荷を運び、縄を締め直す。先ほどまで慌ただしかった現場には、ようやく落ち着きが戻り始めていた。

そのときだった。

遠くから馬の蹄の音が響く。乾いた地面を打つ規則正しい音に、ロブが真っ先に顔を上げた。

「……旦那様。」

ティスも音のする方へ視線を向ける。


やがて二頭の馬が土煙を上げながら姿を現した。

先頭を駆ける男は、陽光を背に受けながら真っ直ぐこちらへ向かってくる。

年の頃は三十ぐらいだろうか。

旅装束に身を包んでいるが、決して華美ではない。それでも、その立ち姿には自然と人の目を引くものがあった。

整った顔立ち。鍛え抜かれた体躯。そして、馬を操る姿にも一切の無駄がない。

(この人が――。)

ティスはすぐに悟る。

エヒト家当主。リアン・エヒト。

その後ろには、もう一頭の馬が並んでいた。

手綱を握るのは、一人の女性。

澄んだ面立ちに長い髪を揺らし、派手さはないものの目を引く美しさがある。

その前には、小さな少年がしっかりと身体を預けていた。

女性は馬を操りながらも、常に主君との距離を保っている。

決して前へ出ない。だが、一歩遅れたその位置から、主君と少年の双方へ目を配っていた。

護衛としての立ち位置が、自然と身についているのだろう。

さらにティスは、リュートの馬の後ろへ括り付けられた獲物に気付く。

小ぶりではあるが、一頭の猪だった。


二頭の馬は現場の手前で速度を落とし、やがて静かに足を止める。

リュートは軽やかに馬を降りると、まず修理中の馬車を見渡した。

新しい車軸。組み直された荷台。働く村人たち。一つひとつを確かめるように眺めると、小さく息をついた。

「迷惑を掛けた。」

穏やかな声だった。

決して大きくはない。

それでも、その場にいた全員へ自然と届く声だった。

「助力に感謝する。」

短い言葉だったが、その一言には偽りのない誠意が込められている。

村人たちは思わず手を止め、それぞれ軽く頭を下げた。

威圧されたわけではない。自然とそうしたくなる空気が、彼にはあった。


ロブが一歩前へ出る。

「ご無事で何よりです。」

「ああ。」

リュートは穏やかに頷く。

「少し寄り道をしていてな。」

そう言うと、馬の背へ括り付けられた猪へ手を掛けた。

「せめてもの礼だ。解体して、皆で食べてほしい。」


村人たちの間に、小さなどよめきが広がった。

この辺境では、猪のような獣を狩ること自体が容易ではない。

それだけに、この一頭が持つ価値は決して小さくなかった。

ティスはその様子を静かに見つめる。

(なるほど。)

謝礼として金銭を差し出すのではない。

この土地で最も喜ばれるものを、迷いなく差し出す。

その判断にもまた、この男の人柄が表れているように思えた。


やがて、荷の積み直しは滞りなく終わった。

それでもウォルトは最後まで気を抜かない。縄の張り具合を確かめ、板の位置をわずかに調整し、荷台全体の均衡を見渡していく。

初めて試す構造だからこそ、一つひとつの確認は慎重だった。

やがて、小さく頷く。

「……これなら、村までは持つだろう。」

その言葉に、張り詰めていた空気がわずかに和らぐ。

ロブも馬車の周囲をゆっくりと歩き、修理箇所へ目を配った。車軸に異常はない。荷台も安定している。

十分だ。

リュートたちが乗っていた馬も馬車へと繋ぎなおすと、リュートのもとへ歩み寄る。

「旦那様。先に村へ向かいます。」

「ああ。気を付けて行ってくれ。」

リュートは穏やかに頷いた。

ロブは一礼すると、ルナと少年へ視線を送る。

「参りましょう。」

ルナは静かに頷き、少年を優しく促した。

「カーチス様、こちらへ。」

澄んだ声だった。その声に導かれるように少年は素直に歩き出し、ルナはその歩幅に合わせるように寄り添う。

村人たちも荷馬車を囲み、それぞれ持ち場へ着いた。

ゆっくりと車輪が回り始める。軋みはあるが、その揺れは先ほどまでとは違っていた。

荷台がわずかに力を受け流し、大きな衝撃へ変わることなく前へ進んでいく。

荷馬車はゆっくりと街道を進み、その姿は少しずつ小さくなっていく。


やがて、車輪の音さえ聞こえなくなった。

静寂が戻る。

残されたのは、オルティス、ティス、ウェン、そしてリュートだけだった。

この場には互いの家を代表する者だけが残されている。

ティスは、その静けさにわずかな違和感を覚えた。

(……話をするため。)

ウェンは馬車の御者台で静かに待機したまま動かない。

それでも自然と、この場は人払いが済まされたような空気になっていた。


オルティスがリュートへ向き直る。

「改めて紹介しておこう。」

その声色は、先ほどまでとは違っていた。

「こちらはティララ・スティラ・ラティス。私の娘だ。」

ティスは一歩前へ出て、静かに一礼する。

続いてオルティスはリュートへ手を向けた。

「そしてこちらが、リュート・エヒト殿。エヒト家当主だ。」

「先ほどは世話になった。」

リュートは穏やかな笑みを浮かべた。

「短い時間で、あれほど村人たちをまとめ上げるとは。さすがラティス家と言うべきか。」

そう言って、自然な所作で右手を差し出す。

気負いも探りもない。相手を試すためではなく、純粋な敬意を示す手だった。


ティスは、その手へ一瞬だけ視線を落とす。

そして静かに一礼した。

「お役に立てたのであれば幸いです。」

握手には応じない。礼だけを返す。

互いの立場は、まだ定まっていない。味方とも敵とも言えない今、安易に距離を縮めるべきではない。

それがティスの判断だった。

リュートは差し出した手が宙をさまようのを気にした様子もなく、穏やかな笑みのまま手を下ろす。

その一連のやり取りを見届けると、オルティスは静かに口を開いた。

「さて、リュート殿。」

わずかに声の調子が変わる。

「なぜ、この地へ来られた。」

その問いに、場の空気が静かに引き締まった。


リュートは、一度だけ遠ざかっていく荷馬車へ目を向けた。

やがて静かに視線を戻す。

穏やかだった表情から笑みが消える。

「この地の守りに就く。」

それだけを告げる。

言葉は短い。だが、その場の誰もが、それだけで十分だった。

護衛は二人。しかも一人は幼い甥を連れている。

この辺境を守るには、あまりにも心許ない陣容だ。

つまり、これは誰かからの任命ではない。中央から遠ざけられた。

いや、それ以上の何かがあった。だが、その事情について話すつもりはない。

そういうことだった。


オルティスは静かに目を細める。

「……なるほど。」

短い相槌。それだけで、互いの認識は一致していた。

リュートは苦笑を浮かべる。

「ラティス家だけではありません。」

少し肩をすくめた。

「この一月で、アルネ家も当主が代わりました。」

その言葉に、ティスの表情がわずかに揺れる。

「アルネ家が……。」

思わず漏れた声だった。

アルネ家。

中央政界で長く力を持ち、ラティス家とも深い結び付きを築いてきた家門。

政争の只中にありながら、その座を守り続けてきた名家である。

(そんなはずは……。)


胸の奥で、小さく何かが崩れる。

アルネ家にはティスにとってもなじみの深い友人がいる。

いつか中央へ戻る日が来れば、力を貸してくれる。

心のどこかで、そう信じていた。その拠り所が、静かに失われていく。

ティスは言葉を失ったまま俯く。

一方、オルティスはほとんど表情を変えなかった。

「随分と動いたものだ。」

淡々とした口調で続ける。

「そうなると、力を伸ばしたのはセグノール家とライン家か。」

まるで答え合わせでもするような口ぶりだった。

リュートが感心したように目を見開く。

「そこまで読まれますか。」

「驚くほどの話でもない。」

オルティスは肩を竦める。

「ラティス家が退き、アルネ家も変動が訪れるのであれば、空いた席へ座る者は限られる。」

その一言で終わる。

リュートは苦笑を浮かべた。

「お会いする前から、あなたならそこまで見抜くだろうとは思っていました。」

わずかな沈黙。


それからリュートは、少しだけ真顔になる。

「情勢を考えれば、あなたのいる地に私が流れてきた時点で、私が中央の息のかかっているとは考えないですか。」

静かな問いだった。

ティスもその言葉にはっとなる。遠隔地に飛ばし、中央の目が届かないところで始末をする。

確かに、ラティス家を閉じさせるのであれば、有効な手段である。

だが、それをあえてリュートから口にする意図は何か……相手の思考を伺うべくティスは思考を深める。


しかし、その瞬間だった。

「はっはっはっ!」

豪快な笑い声が街道へ響く。

オルティスだった。

腹の底から笑い、肩を揺らしている。

あまりに突然のことに、リュートは目を瞬かせた。

「……オルティス殿?」

「もしそうならば、だ。」

笑いを堪えながら、オルティスは言う。

「馬車を見に出たあの時に、わしらを斬っておる。」

あまりにも単純な理屈だった。だからこそ、反論の余地がない。


リュートは苦笑し、小さく肩を落とした。

「……確かに。」

その一言とともに、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。

ティスは二人の様子を静かに眺める。

(久しぶり……。)

父が、こんなふうに笑う姿を見たのは。

駆け引きでも皮肉でもない。心から可笑しいと思って笑っている。

そんな父の姿を見た記憶は、もうずいぶん昔のことのように思えた。


ひとしきり笑うと、オルティスはゆっくりと息を整えた。

笑みは静かに消え、表情が元の厳しさへ戻る。

「……だがな。」

低く落とされた一言で、場の空気が再び張り詰めた。

「ここに何が集まっているかは、分かっているだろう。」

リュートは静かに頷く。

「軍事と政治。」

オルティスもまた頷いた。

「かつて中央で力を持っていた者同士だ。」

その言葉には、誰も口を挟まない。

「もし我らが事を起こせば、どうなる。」

問いというより、確認だった。

リュートは静かに答える。

「……賊と見なされ、討伐の口実になりますか。」

「そうだ。」

オルティスは迷いなく言い切った。


「領都で好き勝手やっている連中からすれば、願ってもない話だ。」

わずかに視線を遠くへ向ける。

「反乱の芽を摘む。その名目だけで、こちらを消せる。」

事実を述べる声音だった。

そこに怒りも諦めもない。

ただ、現実を知る者の言葉だった。

やがてオルティスはリュートを真っ直ぐ見据える。


「だからこそだ。事情があってこの地に来たのであろうが……」

一拍置く。

「目立つな。」

さらに一拍。

「派手に動くな。」

最後に、静かに言い切った。

「そして――何もするな。」

その言葉は、リュートだけへ向けられたものではなかった。

ティスの胸にも、静かに落ちてくる。

リュートはゆっくりと息を吐いた。

「……肝に銘じておきます。」

短い返答。

二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。


ティスは黙って二人を見つめる。

(何もするな……。)

かつて父から聞かされた言葉。

あの頃は、その意味が分からなかった。

何もせず時を過ごす父が、ただ諦めているように見えていた。

だが、今は違う。動くことで敵へ口実を与えることがある。何かを成すことより、何もしないことが最善になる局面もある。

その重みが、ようやく実感として胸へ落ちてきた。

ふと、自分自身のことが頭をよぎる。

村で進めてきた堆肥づくり。畑の改善。

それらは、この「何もするな」に反しているのではないか。

一瞬だけ迷いが生まれる。

だが、すぐに答えへ辿り着いた。

父は止めなかった。むしろ必要な場面では、静かに背中を押してくれた。

(違う。)

何もしないことが目的ではない。動いてはならない一線を見極めること。

それが父の言いたかったことなのだ。

ティスは小さく息を吐く。

また一つ、父の言葉の意味を理解できた気がした。


やがてオルティスが踵を返す。

「戻るぞ。」

短い一言だった。話に区切りがつく。ウェンが馬車の扉を開き、主人たちを迎えた。

ティスは最後にもう一度だけリュートへ視線を向ける。

リュートもまた穏やかに会釈を返した。

それ以上、言葉は交わさない。

互いに今は、この辺境で静かに生きる者同士なのだから。

馬車の扉が閉まる。

車輪がゆっくりと回り始め、来た道を屋敷へ向けて進み出す。

揺れる車内で、ティスは窓の外を眺めていた。

流れていく景色は行きと変わらない。けれど、その胸に積み重なったものは、ここへ来た時とは確かに違っていた。

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