幕間
神霊列車の客室を支配していた華やかな香気が、ふっと途絶えた。
代わって忍び寄ってきたのは、湿った鉄と、古い時代の死の匂いだ。千沙子は、自分の隣に座る男の気配が、凍てつくような静寂に包まれるのを感じた。
「……食えるわけがないだろう。俺の喉は、神の呪いで焼けている」
黒錆は、自嘲気味に呟いた。彼はゆっくりと、その不気味な狐面に手をかける。
これまで一度も覗かせたことのなかった、その素顔。外された面の奥から露わになったのは、ランプの煤けた光に照らされる、痛々しい横顔だった。
右頬から顎にかけて、どろりとひび割れた鉄のような――黒錆色の痣が走っている。それは単なる痣ではない。皮膚を抉るように直接焼き付けられた、悍ましくも神々しい「神の焼き印」であった。
「……黒錆、さん」
千沙子が息を呑むと、彼は遠い闇を見つめながら、重い口を開いた。
第四章:神に焼かれた喉、人に触れる指
かつて、黒錆は神をその身に降ろし、言葉を伝える「紙卸の一族」の異端児であったという。
時代は移ろい、蒸気機関の音が山々を揺らすようになると、古き神々は人々に忘れ去られ、力を失い、霧のように消えていった。その様を誰よりも近くで見つめていた黒錆は、憐憫の情に突き動かされた。
神々を救いたい。ただそれだけのために、彼はある「禁忌」に手を染めた。
「神々の力を無理やり引き出し、死んだ人間を蘇らせたのだ……。俺は、消えゆく神に新たな『信仰』という餌を与えようとした」
死者が生き返るという奇跡。彼はたちまち「救世の教祖」として祭り上げられた。人々は狂喜し、神々には再び歪んだ信仰が集まる。しかし、それは命の理に背く冒涜に他ならなかった。
「奇跡には、相応の代償が必要だった。蘇った死者たちは、魂のない『動く肉塊』と化し、村を地獄に変えたんだ」
黒錆の語る声は、砂を噛むように乾いていた。
己の過ちに気づいた彼は、暴走する死者たちを鎮めるため、神域の奥深くに奉納されていた禁断の「鎮魂の巻物」を盗み出した。神の所有物を奪い、独断でその力を振るった彼に、八百万の神々は容赦ない裁きを下したのである。
「この痣は、神の宝を盗んだ泥棒の証。そして、二度と嘘を吐けぬよう喉を焼かれた『神の番犬』の印だ」
彼は死ぬことすら許されず、この動く檻――神霊列車の中に繋ぎ止められた。永遠に近い時間を、自分を呪った神々を守り続ける「用心棒」として。
「俺はただの番人じゃない。神々に飼い慣らされた、血塗られた罪人だ。……神野、お前のような無垢な人間が関わっていい男じゃないんだよ」
しんみりと、列車の揺れる音だけが車内に響いた。
黒錆の告白は、千沙子の胸を締め付けた。けれど、彼女の瞳に恐怖の色は一滴も混じっていない。
千沙子は、自分のふっくらとした温かい手を、ゆっくりと黒錆の方へ伸ばした。
「神様を助けたかったんですよね。やり方は間違っていたかもしれないけれど。黒錆さんは、誰かが消えてしまうのが悲しかっただけなんじゃないですか?」
その言葉が、黒錆の焼かれた喉の奥に、熱く、切なく響く。
千沙子の指先が、冷たい鉄のひび割れのような痣に、そっと触れた。
生きた人間の温もりが、呪われた皮膚を通じて、黒錆の凍った心臓を叩く。
「おめでたい奴だ。だが、そのおめでたさに、俺は……」
黒錆が言葉を飲み込んだ瞬間、千沙子の右腕が、これまでになく強く拍動した。
『千』の隣に、はっきりと『沙』の文字が、黄金の光を放ちながら刻まれていく。
「――千沙。そうだ、私の村には、神様を祀る古い川があった。そこでお父さんと、夕暮れまでお魚を追って……」
記憶の霧が、あと少しで晴れようとしたその時。
客車の奥から、不気味なほど冷ややかな鈴の音が、シャリン、と響いた。
「――おやおや、随分と賑やかな検札ですな」
その声を聞いた瞬間、黒錆の表情が一変した。彼は即座に狐面を付け直し、腰の霊剣に手をかける。
「……来たか。千沙子、俺の後ろに隠れていろ。これより先は、俺の『業』では守りきれんかれんぞ」
現れたのは、列車の「影」に潜む何者か。
黒錆の過去を知り、その罪を嘲笑うかのような存在が、二人の前に立ち塞がろうとしていた。
黒錆の過去に触れ、二人の距離がわずかに縮まった静寂。それを切り裂いたのは、規則正しく響く硬い靴音と、背筋を凍らせるような冷徹な鈴の音でした。




