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第三章:傾国の遊郭車両と「名前」の香

 黄昏分岐駅を離れた神霊列車は、それまでの鉄錆の匂いを振り払うように、甘く濃密な香りに包まれ始めました。

 次に二人が足を踏み入れたのは、これまでの客車とは明らかに趣の異なる、朱塗りの豪華な車両――通称「遊郭車両」でした。


 真鍮の扉が開いた瞬間、千沙子の鼻腔を突いたのは、むせ返るような白檀の香りと、熟しすぎた果実が放つ甘い腐敗の匂いでした。

 シャラリ、シャラリと、無数の金銀の飾りが揺れる音が天井から降り注ぎます。床には雪のように白い毛皮が敷き詰められ、壁には極彩色の極楽浄土が描かれた屏風が所狭しと並んでいました。

 黒錆は、不快そうに狐面の鼻先をひくつかせ、霊剣の鞘を強く握り直しました。


「……趣味の悪い。ここは、神々の情念が煮凝にこごりになった場所だ。神野、俺の着物の裾を掴んでいろ。一度でもはぐれれば、その魂は千の欠片に引き裂かれて、この部屋の飾りにされるぞ」

「はい、黒錆さん……」


 千沙子は、黒錆の藍色の着流しの裾をぎゅっと握りしめました。先ほど黒錆から借りた上着の重みが、今の彼女にとっては唯一の現実的な重石でした。


 車両の最奥、幾重にも重なる薄絹のとばりの向こう側に、その「神」は鎮座していました。

 長い黒髪を乱した絶世の美女――に見えますが、その背中からは、意思を持つかのように蠢く巨大な蜘蛛の足が数本、生え出ています。名を、紅蓮花ぐれんか

 彼女の手元にあるキセルからは、瑠璃色の煙がたゆたっていますが、その煙は時折、人の泣き顔のような形を成しては消えていきました。


「おやおや。黄昏の駅弁売りが言っていた通り、美味そうな迷い子が来たものねえ」


 紅蓮花は、万華鏡のように色の変わる瞳――銀朱から受け取った「記憶の輝き」を宿した瞳で、千沙子をじろりと舐めるように見つめました。

 彼女の指先には、一筋の光り輝く「糸」が絡みついています。その糸からは、千沙子が忘れてしまった懐かしい夕餉の匂いと、誰かに呼ばれた自分の名前の響きが微かに漏れ出していました。


「それが、私の……?」

「ええ、そうよ。あんたが捨ててきた『名前』の残り、三文字目。これを返してほしければ、あんたの持っている『一番幸せな未来』をここに置いていきな」


 黒錆が、一歩前に出ました。

「ふざけるな。過去を喰らい、未来まで奪うか、化け物め。そんな不公平な取引など、俺の剣が許さん」

 黒錆の体から、肌を刺すような鋭い神気が放たれます。対する紅蓮花も、背中の蜘蛛足を鋭い鎌のように突き立て、車内の温度が一気に氷点下まで下がりました。


 しかし、その殺気の渦の中で、千沙子は静かに黒錆の裾を離しました。

 彼女は、自分の胸元で淡く光る「神野……千」という文字をそっと撫でました。


「紅蓮花様。……私は、未来を売ることはできません」


 千沙子の声は、震えていましたが、決して折れない強さがありました。

「だって、私の幸せな未来は、私だけのものじゃないから。お父さんや、お母さんや……それに、今隣にいてくれる黒錆さんと、これから一緒に作るものだから。勝手に売ったら、きっと怒られてしまいます」


「お前……」

 黒錆が、驚いたように千沙子を振り返りました。


 千沙子は、駅弁の包みの中に残っていた最後の一つ、少し冷めてしまったけれど、心のこもった「塩むすび」を差し出しました。


「未来はあげられませんが、今の私の『精一杯』なら、差し上げられます」


 紅蓮花は、馬鹿にしたように鼻で笑いました。

「そんな、腹の足しにもならない米の塊で、私の情念が癒えるとでも……」


 そう言いながらも、紅蓮花は千沙子の真っ直ぐな瞳に気圧されるように、そのおむすびを口に運びました。

 噛み締めた瞬間、遊郭車両を支配していた濃密な香気が一変しました。

 それは、飾り立てた美しさではない、ただの「日常」の匂い。太陽をたっぷり浴びた布団の匂いや、雨上がりの土の匂い。


「なんだ、これは。酷く、退屈な味だわ」


 紅蓮花の目から、一筋の涙がこぼれました。

「退屈で……温かくて……。ああ、忘れていたわ。私が神になる前、ただの女だった頃に、誰かに握ってもらった味に、そっくりじゃないの……」


 紅蓮花の纏っていた毒々しい神気が、霧散していきました。彼女は力なく指を開き、絡みついていた光の糸を千沙子へと放ちました。


「持っていきなさい。あんたの未来なんて、私には眩しすぎて、とても喰べきれないわ」


 光の糸が、吸い込まれるように千沙子の右腕へと溶けていきました。

 そこに新しく浮かび上がったのは、力強い筆跡の一文字。


「神野……千沙ちさ


 あと一文字。

 あと少しで、彼女は自分自身を取り戻せる。

 千沙子はふらりとよろけましたが、それを支えたのは、やはり黒錆の逞しい腕でした。


「勝手な真似をするなと言っただろうが。心臓が止まるかと思ったぞ、この大馬鹿者が」


 黒錆の怒鳴り声は、けれどどこか震えていました。彼は、千沙子を壊れ物を扱うように抱きしめると、狐面の奥で小さく、けれど確かな安堵の吐息を漏らしました。


 神霊列車は、次なる文字――最後の名前を持つ神が待つ、最果ての車両へと動き出しました。

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