84話 ライバル
「――う、ん?」
泥沼の底からゆっくり浮上していくような感覚と共に、コロナは目を覚ました。
「……」
先ず、薄らと目を開いたコロナの視界へ飛び込んできたのは、真っ白な天井。次に、窓から黄昏色の混じった日差しが差し込む、四方を白いカーテンで仕切られた空間。
どうやら自分は、どこかの部屋の白いベッドに横たえられているらしい。
「……お、気が付いたか」
何故かやけに重い身体を動かしかけたその時。不意に少年の声が、すぐ近くからコロナの耳朶を打った。
頭だけ動かして声の方向を見やると……そこには椅子に腰掛け、舟を漕ぐエクスを膝に乗せて、手に持っていた本の頁を閉じるアクトの姿があった。
「アクト……」
「おはようさん。あれだけの消耗でよく復活出来たもんだ。てっきり夜中まで付き添わなければならないと思ったぞ」
「ここは……そっか、医務室。アタシ、ローレンと戦って……痛っ……!」
コロナは身体を動かして身を起こそうとするが、突如、総身を走った鋭い痛みでベッドに倒れ込んだ。身体が鈍く、だるく、鉛のように重い。まるで重力が何倍にも増幅したかのようだ。
「無理するな。痕が残らないように傷は法医師の先生が完璧に癒してくれたけど、魔力枯渇症寸前まで魔法を行使した上に、全身打撲や生傷だらけだったからな。しばらくは安静だとよ」
「そ、そう……リネアとアイリスは?」
「あいつらなら、お前を治療したその先生からの頼みで、薬品庫へ何かを探す手伝いをしに行ってる。そのうち戻って来るだろうさ」
ボヤけた意識がクリアになるにつれて状況を理解したコロナ。今度は負担をかけないように、彼女は改めてゆっくりと身体を動かしていく。そして、辛うじて上体だけは起こすことが出来た。
「あの先生の治癒術の腕前に感謝するんだな。これから大事な決勝戦を控えてるのに無茶しやがって。もし後に響いたらどうするんだ? 悔いの無いようにとは言ったが、怪我してぶっ倒れるまで戦えとは言ってないぞ」
「うっ……ごめん」
ぐうの音も出ない完全な正論を受け、コロナはしゅんと縮こまった。実際、最後の方はやり過ぎたという自覚があったのだろう。自分には何としてでも叶えなければならない望みがある。そのために、関係の無い所で足を引っ張られる余裕は無い。
……だというのに、何故かあの時間だけは、使命も望みも何もかもを忘れてしまっていた。後先考えず、ただ目の前の相手を全力で打ち負かしたいという思いで一杯だった。
ここで躓けば全て終わりだというのに、不思議と後悔はなかった。それどころか、妙な充実感すらある。これが、魔道士が持つ潜在的な戦闘本能なのだろうか……
「まぁ、煽った俺にも責任はある訳だし、説教はこの辺にしておいてと。思う存分殴り合ったことだし、ここからは言葉よりも言葉の時間だ。そうだろ?」
「……え?」
我が身の内に沸いた謎の感情の正体を掴めず困惑気味なコロナを他所に、アクトは隣のベッドと繋がっている仕切りのカーテンを開け放った。突然何だとコロナが見やると、そこには、
「ローレン!?」
清潔感のある白いベッドに上体だけを起こしてこちらを見つめるローレンの姿があった。頬には白いガーゼがあてがわれ、頭には包帯が巻かれており、一度の治癒魔法では完治しきれなかった事を物語っている。
「おはよう、コロナ。私なら先に起きてたわよ」
「い、居たのね……」
「ああ。コイツの方はお前よりも怪我が多かったけど、魔力枯渇は軽度だったからな。お前の三十分前には目を覚ましてたぜ」
「そうね。どこかの誰かさんが私を煽りまくるから、つい熱くなってしまって怪我が増えただけだもね」
「げっ!? お前、それを言うかよ……せめて、奮い立たせたと言って欲しいな」
ローレンの方も、身を挺した特攻が無茶だということでアクトからお説教を喰らっていた。あの戦い方では実戦に出た時、命が幾つあっても足りないと。まぁ、こちらはアクト本人が元凶のようなものなので、むしろ彼が謝るような流れになっていたが。
「えー、ゴホン!! さて……本題はここからだ。己を賭し、怪我してぶっ倒れるぐらい全身全霊で戦い、その果てに引き分けたお前ら二人の今後についてを、な」
「「!」」
咳払いで誤魔化したアクトは、複雑な関係にある少女らを、わざわざ同じタイミングで医務室で会わせた目的を切り出した。その話が出た途端、二人の反応があからさまに強張る。
そうして、アクトはこの決闘の発端となった昨日の出来事をコロナに話した。警備官達に口止めされていた事に加え、昨夜の時点でローレンとも口裏を合わせていたので、‟吸血鬼”との遭遇については上手く隠して。
「不必要だったから敢えて教えなかったけど……そう、全部知ったのね」
「けど、それだけだ。お前らの事情はローレンから聞いた範囲でしか知らない。お互い、思うところは多々あるんだと思う。だが、力と力、魂と魂をぶつけ合った今なら、腹を割って話すことも出来るんじゃないのか?」
自分達の間を取り持つアクトの表情は、真剣そのものだった。これでは話を切り上げて逃げ出そうにも、身体はボロボロで上手く動かせない。動けないことはないが、誰かの手助けは欲しいところだ。
つまり、どうやっても対話の席から降りることは許されない。この場で相手と向き合わなければならない――アクトの思惑を悟った二人は、揃って押し黙ってしまった。
「……まぁ、そうだよな。話すと言っても色々と気持ちの整理が必要だよな。なに、時間はたっぷりある。俺は邪魔しないように引っ込んでおくから、ゆっくりやってくれ」
デリカシー希薄男のアクトにも、流石に強引過ぎたという自覚はあった。困惑する二人の心中を察してか、気を利かせたアクトはエクスを連れて部屋の隅に寄り、少女らの視界から消えた。
「「……」」
それでも、依然として二人は黙り続けたままだ。外野が消えたところでどうにかなる問題で無いのは勿論だが、決闘での影響の方が遥かに大きかった。
互いに全身全霊で臨んだあの戦いでは、余計な打算を抜きにして表裏の無い本音の想いをぶつけることが出来た。だが、平常時に移り変わるとどうしても抵抗がある。ただ――
(何やってるの、私……!!)
内面と表面の思いは往々にして違うもの。口には出さないが、ローレンはコロナとの対話を望んでいた。
(これ以上、無意味なすれ違いはしたくない! 機会はアクトが作ってくれた。ここで言わなきゃ、いつ言うっていうのよ……!!)
兎にも角にも、先ずは話の取っ掛かりを作らなくては何も始まらない。ロクに話のアテもなく、ローレンは物言おうとするが、
「今日のアンタは、今まで一番強かったわ」
「……えっ?」
出鼻を挫かれた上に、開口一番そんな事を言われ、ローレンは二重の困惑に襲われた。対するコロナは、ルビーのように鮮やかに燃えるその瞳で、彼女を真っ直ぐ見つめている。
「どういう、事……?」
「アンタの力は誰もが認めるところよ。だけど、アンタは昔から謙虚過ぎて、物事を難しく考える癖があった。悪い事ではないけれど、それが心理的なブレーキとして作用し、魔道士としての力を抑えてしまっていたのよ」
理性の壁が厚い。勿論、それは人としては美徳なのだろう。だが、人であると同時に彼ら彼女らは魔道士。時に他者を捻じ伏せてでも、時に世界の理すら捻じ曲げてでも、己が意思と欲望を貫く、強欲にして誇り高き者。
ただ、過ぎたる欲望は時として身を滅ぼすのも道理。欲望に身を委ねてしまえば、それは人とは呼べぬ‟ケダモノ”と化してしまう。それを防ぐのもまた、人間が当たり前に持つ理性だ。
理性と欲望、どちらも人間が生きるにはなくてはならないモノ。そして、この相反する二つの概念を、魔道士は上手くコントロールしなければならない。
ローレンの場合、強過ぎる理性が魔道士の原動力たる欲望――言い換えれば魔法の事象改変作用になくてはならない心の力を、無意識のうちに抑制していたのだ。
「これは他人が指摘しても自分で変えなきゃ意味の無い事。そして今日、アンタは自分の意思で理性の壁を一枚破ったわ。それを制御出来るだけの度量もアンタにはある。あの決闘が、アンタに更なる力をもたらす事は間違いないわ。自信を持って良いと思う」
「……」
確かに彼女の言う通りだと、ローレンは思った。コロナと戦おうと決めた時、この一年間……いや「校内選抜戦」で戦っていた頃からずっと感じていた、ちぐはぐの心と身体が突然、正しく噛み合いだしたような気がした。
それを意識した途端、今までになかった凄まじい魔導の冴えと、身体の奥底から湧いてくる全能感にも似た闘争の力を自覚した。そしてそれが、どれだけ忘れ去ろうとしても終ぞ消えなかった、憧憬への想いのお陰である事も……
「……そうね。もうこの想いを悪だとは思わない。決闘で折れそうになった時、私の心に火を付けた想い――貴女への憧れも、嫉妬も、嘘偽りの無い想いだから。……それでも、私は一つ謝らなければならない事があるわ」
「謝らなければならない事?」
今度はコロナが尋ねる番だった。思い当たる節がなく疑問符を浮かべるコロナにこくり、と頷くと、ローレンは一瞬、どこか思い詰めたように……やがて、意を決したように、この一年間伝えられなかった言葉を告げる。
「イグニス家を再興する為に、貴女が必死で足掻いて苦しんでるって時に、何もしなかった。貴女の事情を深く知っているというのに、何もしてあげられなかった。魔道士も何も関係無い。一人の‟友達”として、私は貴女に酷い仕打ちをしてしまった……」
ずっと悔いていた。初めは純粋だった憧れが、次第に黒い嫉妬心を意識するようになり、全てを失った所から這い上がろうとするコロナの気持ちをまったく考えずに遠ざけてしまった。
あまつさえ、ゴタゴタと理由を取り繕って嫉妬心を誤魔化し、自身のプライドを守るために彼女を赤の他人と割り切ってしまうような真似もした。赤の他人なら、不特定多数が向ける感情として、この嫉妬を正当化出来ると思ったから。
……けれど、今なら分かる。一年前のコロナが、どれだけ切羽詰まった状態だったか。あれだけの力をつけるのに、どれだけ血と汗を流して己を鍛えてきたか。そんな彼女を蔑ろにしたあの頃の自分を、一発引っ叩いてやりたい気分だ。
才能や能力の隔たりが友人の仲を引き裂く、なんて話はザラにあるのだろう。だが、そんなものは言い訳に過ぎない。理由や経緯はどうあれ、自分がやった事は……最低の行いだ。
「思えばこんな事、もっと早く言っておくべきだったのに……ごめんなさい」
これは自分なりのけじめだ、許してもらおうとは思っていない――されどそこには、純粋な後悔と深い意識だけがある。コロナの正面に向き直り、ローレンは深々と頭を下げた。
今更謝っても遅いのは分かっている。どんな非難や罵倒を並べられようと甘んじて受け入れるつもりだ。首を垂れたまま、ローレンは悔恨の表情で酷く誹られるのを覚悟していると、
「頭を上げなさい。別に、気にしてないわよそんな事」
「……えっ?」
身を強張らせるローレンの両肩に、コロナはどこか呆れた、それでいて穏やかな表情でポンと優しく手を置いた。予想とは違ったコロナの反応に、ローレンは呆けたように顔を上げる。
「で、でも……」
「確かに、ちょっとショックだったわよ。でも、必要以上に冷たくしたアタシの態度にも問題があったわ。ごめんなさい」
申し訳なさそうに謝りながら、コロナは語る。一年前、チームとして共に戦いながら、ローレンが自分に向けてくる想いの正体については理解していた。そして、あの頃のローレンは自分を意識するあまり、周囲の大事なモノが見えなくなっていた。
それを気付かせるために、彼女がチームを離れた時も深くは止めなかった。来るべき時に備えて再び力を溜め直すために、自分達にはそれぞれの時間が必要だと思ったから。
加えて、友達をわざわざ不幸な目に遭わせたいという人間は居ない。まだ沢山のモノを持っていたローレンには、自分のような危なっかしい在り方を真似して欲しくなかった……だが、結果的にその行いが、自分達の溝を余計に深くしてしまった。
良い方法は他にあった筈だ。なのに、自分の事やイグニス家の事にばかり必死で視野が狭くなり、中途半端な関係をズルズルと引き摺ってきてしまった。要するに、分かっていたつもりで大事なモノが見えていなかったのは、お互い様なんだ――と。
「けどまぁ、アンタの口からその言葉を聞けただけでも嬉しかったわ。アタシの事を、まだ‟友達”だと思ってくれてるんだってね」
「あ……そ、それは……」
そう言って、鈴を転がすように笑うコロナ。心のままに発した自分の言葉を顧みて、ローレンは頬を朱に染めて俯く。こそばゆく緩やかな雰囲気の中、一枚壁があるような張り詰めた空気が解消されていく……
「ここまで色々あったけど……本当は上下なんて無い。道は違えど互いを認め合い、理想の自分へ辿り着く為に切磋琢磨するライバル。かつてアタシ達が目指したのは、そういう単純な関係だった筈よ。今からだって遅くはないわ」
「コロナ……」
優しく、されど力強き眼に見つめられたローレンは、長らく心に縛り付けられていた重石が取り除かれたような、淀んでいた心が澄み渡っていくのを確かに感じていた。
それは、自分がずっと追いかけ続けてきた憧憬――否。ようやくその隣に並び立てることが出来たライバルからの、何よりもの賞賛であった。
「だから、アタシ達のすれ違いは今日ここで終わり。それで良いでしょ?」
「……ええ。ありがとう」
ようやく、心の底から笑えた気がする――寄りを戻そうと提案するコロナに、ローレンは涙混じりの笑みを浮かべるのだった。




