誰が為の味③
――という訳で、時間が経つに連れて他の参加者も徐々に集まっていき、定刻となっていよいよ料理教室が始まった。
参加者は十三人。イゼベラと同じか下くらいの年齢の主婦達や、定年後の趣味を見つけに来た老婦人、最近一人暮らしを始めたという若い男性、コロナより歳下の少女まで……年齢層は様々であった。
本日のテーマは、飛び入りのコロナを除いても初参加が多いという事で、家でも簡単に作れる家庭料理とシンプルな物だ。
先ずは、全員にレシピが配られ、それに従って講師のイザベラが実習前の実演を行う。
単に料理を作るだけでなく、イザベラは初心者が疑問に思う初歩的な点についても詳しく説明していく。包丁の扱いから切り方、野菜の皮剥き、段取りの組み方や洗い物のテクニックなど、盛りだくさんだ。
注意と要点を説明した後は、各々が調理を始めていく。基本的な作業は極力一人で行うが、スタッフ達のサポートは手厚い。彼らは教室内を慌ただしく動いては、それぞれアドバイスをして回っていた。
『まぁ、お宅の息子さん、あの学校にご入学されたのですか?』
『そうなんですのよ。それでお昼のお弁当が必要になってしまって、イザベラ先生の教室を受講したんですの』
『ウチは育ち盛りの子供達が一杯で、本当に作るのが大変で――』
教室で最も年齢層が厚い主婦達は、隣と談笑しながらも手慣れた様子で調理を進めていた。スタッフ達がサポートやアドバイスをする回数も一番少ない。
調理の早さも他の年齢層とは段違いだ。やはり、これまで家事をこなしてきた年季の差がありありと感じられる。
「…………」
賑やかな主婦達とは相反して、コロナは黙々と一人で調理に取り組んでいた。その表情は必死そのもの。周囲の雑音などまるで聞こえていないようだった。
(手を加える前の下処理が疎かになれば、料理の味は根本から崩れてしまう……アタシが作る料理が不味いのは、多分それが原因の一つ……とにかく慎重に、慎重に、先生がやっていた通りに……)
魔法の鍛錬をこなす時並の集中力を以て、コロナは手を動かし続ける。
実演でイザベラが言っていたポイントは一字一句違わずメモしたし、何かする前には必ずそのメモを見るようにしている。計量一つ取っても尋常ならざる気迫で臨むコロナの本気度は、相当なものだ。
ただ、今回作る料理はコロナでも落ち着いてやれば十全にこなせる代物。イザベラやスタッフ達も目を光らせているため、滅多な事は出来ない。
まぁそれでも、時々変な切り方や、明らかに怪しげな挙動を見せてスタッフに止められていたりするが……特に目立った失敗もなく、コロナは調理を進めていく。
(――よしよし、ここまでは何とか……)
そして今は、細かく切った具材や調味料を加えた鍋を、火にかけている真っ最中だ。他の者達と比べれば若干遅れているが、手順的にはここまで概ね順調だった。
ただし、ここで安心することなかれ。下拵えが完璧でも、火加減を間違えれば台無しになる。故に、コロナはコトコトと煮える鍋の中身に細心の注意を払っていた――その時。
(……火……炎、か)
まるで何かに魅入られたかのように、石炭を燃やして揺らめく調理用ストーブの火へ、コロナの意識が吸い込まれる。
赤々と滾る炎の煌めきから、目が離せなくなる。
それに加えて、思考に靄が掛かったようなコロナの脳裏に、いつもと同じ内容のとある記憶が蘇り――
「コロナさん、大丈夫?」
そんな時、教室内を巡回していたイザベラがコロナに話しかけてくる。
時間にしてみればほんの数秒程度。虚ろな目をしていたコロナは我に返った。
「先生……は、はい。他のスタッフさんも見に来てくださってるので、多分大丈夫だと思います」
「あら、教室が始まる前にあんな事を言いに来るものだから心配していたのだけど、順調そうで良かったわ。念の為、味見させてもらっても良いかしら?」
「え? あ、味見ですか?」
味見と聞いて、コロナは思わず固まった。
「うっ……ど、どうぞ……」
とはいえ、ここで拒む訳にはいかない。言い淀みつつ渋々といった様子のコロナから了承を得たイザベラは、鍋の中身をスプーンで一口すくい、口の中に運ぶ。
(変な物は入れたつもりは無いけど、だ、大丈夫よね……?)
昨日、似た流れで精霊を寝込ませた前科があるコロナの相貌に、極限の緊張が走る。これでもし、イザベラまで卒倒させようものなら、いよいよ事件だ。
「……うーん……少し味が薄いかしら?」
「そ、そうですか……ほっ」
だが幸い、コロナが危惧していた事態にはならず、彼女は深く安堵の溜め息を吐いた。
味以前に、自分の料理を食べた人が倒れるかどうか心配するのは、この教室でコロナぐらいのものである。
「塩を一摘まみ加えて、後、火もちょっと弱くした方が良いと思うわ」
「わ、分かりました」
「完成までもう少しよ。頑張ってくださいね」
そう言い残し、イゼベラは別の参加者の様子を見にコロナの元を離れた。
(よ、よかった……先生をエクスの二の舞にするのだけは何とか避けれたわね……)
気を取り直したコロナは言われた通りに塩壺から塩を鍋に入れ、火ばさみで調理用ストーブから石炭を抜き、火加減を調節する。
鍋の中身もかなり煮詰まってきており、そろそろ完成は近い。
(けど、アタシまた……)
しかし、料理の完成とは裏腹に、コロナはどこか思い詰めた表情で鍋をかき混ぜる。原因は、やはり先程の事だった。
いつもこうだ。コロナが料理をすると、必ずと言って良い程、どこかで意識を遠くへ飛ばしてしまう。本人も自覚はあるのだが、いくら集中しても治らない症状だった。
どれだけ忘れようと努めても、料理を通して昔を振り返る度、どうしても思い出してしまうのだ。あの忌々しい記憶を――
「……」
悲嘆に満ちたそんなコロナの横顔を、別の参加者の相手をしながらイザベラは遠くから黙って見守っていた。
◆◇◆◇◆◇
――その後、大きなトラブルはどこからも起きることなく、料理教室は当初の予定通り終了した。出来上がった料理を頂いてからはイザベラ直伝のテクニックを利用して洗い物を済ませ、本日は解散となった。
「ふぅぅ……」
後片付けを終えて他の参加者達と共に多目的センターを出たコロナは、すぐ傍の狭い路地裏で人知れず脱力した。時刻は昼を少し回った頃だが、相変わらず行政区の街並みに活気は無い。
(つ、疲れた……)
一息ついたコロナを襲う、魔法の鍛錬とはまた違った疲労や緊張感。慣れない経験に心身共にかなり削られていた。
作った料理はお世辞にもあまり良い出来とは言えなかったが、普段火を使わせれば焦がすか謎の暗黒物質を生み出すしかないコロナにしては、上々過ぎる出来だった。
(けど、今日のは比較的簡単な物だったから切り抜けられただけ。もっと別の物を作るとなると付いていけるかしら……)
とにかく、周りの足を引っ張らないように自分の方でもなるべく練習しておかなければならない。
帰りに新しい調理器具でも買っていこうかとコロナが考えていると、
「あっ、居た居た!」
つい先刻まで何度も聞いた女性の声が、コロナの耳朶を打つ。見れば、路地の入り口にイザベラが姿を現していた。
「イザベラ先生?」
「探したわよ。教室が終わるなり、あっさり帰っちゃうんだから……」
どうやらセンターからコロナの後を追いかけて来たらしく、イザベラは肩で小さく息をしている。
あっ、とコロナが今更ながらに思い出す。余裕のなさから、帰り際に挨拶しておくのをすっかり忘れてしまっていた。
「す、すみません。何も言わずに帰ってしまって……」
「良いのよ。それより、初回の授業を受けてみてどうだったかしら? これからも上手くやっていけそう?」
「はいっ、勿論楽しかったです。他の人達も皆、良い人ばかりで、出来るなら続けていきたいです!」
イザベラの問いに対し、コロナは嘘偽りの無い感想を述べた。
実際、たった一回の授業だけでも、料理の腕は確実に上がった感覚はある。基礎的な知識も学んだし、もう昨日のような事にはならない……筈だ。
所属している学校が非常に特殊な場所であるため、毎週通うのは難しいかもしれない。が、叶うならなるべく両立はしていきたい。コロナはその旨をイザベラに伝える。
「……」
奇異な出会い方をしたとはいえ、所詮は知り合ってまだ数時間程度の関係だ。普通なら、そこで要件は終わりだろう。しかしイゼベラは、コロナの紅玉が如き赤色の瞳を見つめ――
「しっくりこなかった、って顔ね」
「!」
断言するかのように放たれた強い語気。微塵も疑いを持っていないようなイザベラの指摘に、コロナは思わず目を見開く。
それは、努めて表に出さないように隠していた彼女の本心。つまり、図星であった。
「すみません……」
「気にしないで。楽しかったのは本当のようだし、理由はもっと別にあるみたいだから」
あっさり見抜かれてしまったコロナに、取り繕って誤魔化す余裕などなかった。観念したコロナは浮かない顔をして謝るが、イザベラに気分を害した様子は特に無い。
「……私が、前の職を辞めてから料理研究家の道を進み始めて、もう随分経ったわ。古今東西に伝わるあらゆるレシピを試して、幾つもの料理を作ってきたけれど……一つ、はっきり分かった事があるわ」
「え?」
すると、イザベラは唐突に脈絡の無い話を語りだした。いきなり始まった持論展開にコロナは困惑気味な表情を浮かべるが、何か言いたげな彼女を目で制止してイザベラは話を続ける。
「料理はね、料理人の心を映し出す鏡なの。作る人の心遣いや気配り一つで、料理の味はがらりと変わってしまうのよ。たとえ技術は拙くても、作る相手への思いやりがあれば料理はきっと美味しくなる。逆にどれだけ優れた技術があっても、心が籠っていなければ真に美味しい料理とは呼べないわ」
「……」
「結局、人間のあらゆる力の源とは、心なのよ。ありきたりで何の証拠も無い話かもしれない。でも、それこそが真理なのだと私は思うの」
分かるような、分からないような、今一つ要領を得ない内容。しかし、そう語るイザベラは、自身の持論をまったく疑っていない様子だった。
そして、以前、同じ言い回しの言葉を、コロナはどこかで聞いた事があった。過去の記憶を探ってみるが、思い出せない。何か、大切な記憶だったという事だけがおぼろげに……
「それを踏まえて言わせてもらえば、コロナさん。貴女の料理は……まるで、絶えず誰かを怒っているようだったわ」
「――ッ!?」
刹那、コロナは先程とは比べ物にならない驚愕に襲われた。
(ど、どうして……!?)
心中はこれでもかと搔き乱され、その表情に極大の動揺が走る。激し過ぎる感情で収拾が付かなくなり、コロナは自分が今、どんな顔をしているのか分からなくなっていた。
ただ、彼女を見つめるイザベラの驚いたような目……およそ人前でして良い顔では無いのだろう。
取り繕った嘘程度ならまだしも、出会ってまだたったの数時間、それも完全な赤の他人に、心の奥底に隠していたモノを見透かされたのだ。コロナの動揺も無理はない。
この‟怒り”は、まだ自分と親しい人間にすら打ち明けた事がなかったモノだったから。
「そういう、事なのね……貴女の料理から感じられたのは、焦げ付くような怒りだけだった。ただ料理が下手なだけの子なら、私もここまで気には留めなかったでしょう。でも、貴女のソレは、いずれ自分自身をも焼き尽くす危険な物よ」
理解しておきながら、コロナの地雷を踏み抜いた自覚はあったのだろう。イザベラは申し訳なさそうな表情で、それでも尚、忠告めいた言葉を述べる。
……料理をしていると、どうしても思い出してしまうのだ。かつて、確かに在った筈の幸せだった時間を。姉と二人で作った手料理を、大好きな両親に食べてもらう、家族と過ごした時間を。
とっくに分かっていた。何度も考えた事だ。この胸の内に秘めた怒りを燃やし尽くして、目的を果たしたとしても、後に残るのは燃え尽きた灰だけだと。
その先に、未来は無い……だが、それでも、絶対に許すことは出来ない。自分達の、家族の幸せな時間を一瞬にして奪った、胸の内を焼き焦がす「炎の記憶」だけは――
「っ……!!」
ギリ――コロナは歯を折れんばかりに強く噛みしめ、拳を出血せんばかりに握りしめる。そんなコロナの尋常ならざる葛藤と激情に気圧されたように、イザベラは彼女から反射的に一歩下がった。
そして同時に理解した。自分がどんな言葉をかけたとしても、この少女の怒りを消すことは到底不可能だと。当然だ、自分は彼女の家族でもなければ、友人と呼べる関係ですらないのだから。
ならば、今の自分に出来るのは……
「……貴女が抱える怒りが何なのかは、私には分からない。多分、私には想像も及ばない程のモノなのでしょう。けれど、料理中に余計な雑念を持ち込んでは駄目よ。料理をする時、常に考えるべきはたった一つなのだから」
あくまで、一人の料理人として接する事だけだ。
「だった一つ……?」
「そう。すなわち……料理を食べてもらう相手の事だけよ」
「……!」
「一度、しっかり考えてみて。貴女は、自分が丹精込めて作った料理を、誰に食べてもらいたい?」
抑えが効かない激情に震えるコロナを真っ直ぐ見据え、イザベラは問う。問いかける声色はどこまでも優しげで慈愛に満ちており、それでいてどこまでも真剣だった。
イザベラの持つ穏やかな雰囲気によって、少しだけ落ち着きを取り戻したコロナは瞳を閉じ、言われた通りの事を頭に思い浮かべようとする。心は引き出された怒りで煮え滾っていたが、頭の方は冷静だった。
そして、時間はそこまでかからなかった。コロナの脳裏に真っ先に浮かんできたのは……これまで、肩を並べて戦ってきた仲間達の姿だった。
(あぁ……そうよ。アタシ、何の為に料理教室なんて受けようって気になったのよ……)
勿論、料理が上手くなりたいというのも理由の一つ。だが、目的はもっと別にある。初めはそれを以て料理に臨もうとしていた筈なのに、すっかり忘れてしまっていた。
目的を果たすまで、この怒りは決して消えはしない。消してはならない。それは、自分がコロナ=イグニスという事の証明であり、今日まで生き延びてきた軌跡なのだから。
……でも、こんな何もなかった自分に手を差し伸べ、始まりの舞台に立たせてくれた彼らの前でだけは――
「……先生。初めて会った人にこんな事を頼むのは失礼かもしれませんが、お願いがあります」
瞳を開いたコロナは開口一番、決然とした様子でイザベラに要求する。必死に何かを訴えかけようとしている紅の双眸は、ある一つの決意に満ちていた。
胸の内で燃え盛る怒りの火勢は、まるで変わっていない。だが、先程までとは明らかに顔つきが変わったコロナを見て……イザベラは満足そうに微笑んだ。
「あらあら、何かしら? 話してみて」
「先生、私に――」
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