木漏れ日の中で(終)
盛夏の頃。
陽射しを遮る木漏れ陽の下で、生まれて間もない赤子が母親の腕に抱かれていた。
母親は我が子を腕に抱き、愛おしげに漆黒の瞳を我が子へと落とし見つめている。一方見つめられる赤子は穏やかな寝息を立て、幸せそうに瞼を閉じていた。
ラスルがフェルナード領を訪問した折、カルサイトの両親は生まれる子をカルサイトの実子と認め、子の祖父となるサーガがその後見人となると約束した。
表向きラスルに冷たくしていたサーガも生まれる子の事は心配なようで、ラスルが一人魔物の巣くう森に戻り子を産むのを最後まで渋っていたが、最後にはセルジーナの口添えでラスルは森に帰る事を許可された。
魔物の巣くう森―――それこそがラスルが唯一安心して身を置ける安住の地。他人との接触を極力拒むイジュトニアの魔法使い特有の性質ともいえる。
魔物を拒むショムの木に囲まれた森のあばら屋で、ラスルは一人静かに腹を撫で、生まれて来る我が子を慈しみながら一日一日を大切に日々を過ごした。やがて時が経ち、己の腹が膨れるにつれ思うのは生まれ出る命と、尽き行く命。
あれほど渇望した死が、子を宿したという事実一つで覆され生を求めてやまない。
どんな形であってもいい、生まれる子の傍らで成長を見守って行きたいと、まさか生に対する執着が己を支配する日が来ようとは、ラスル自身思いもよらない事態であった。
今更ながらラスルを産み落とした事により、愛する夫の手を拒んだイシェラスの想いがラスルの脳裏を過る。
愛しい人の懐に飛び込むよりも、憎い男の血を引いてはいても子を捨てられない―――それが母親が宿した子に抱く自然な感情なのだろう。
今のラスルとて子と共に歩める人生を選択できる手段があるのだとしたら、たとえ悪しき道であったとしても進んでしまうやもしれない。こうして生まれた子を腕に抱き見つめているだけでその思いはとても強い物へと募って行くのだ。
だが、いくら望んでもそんな奇跡的手段は存在しなかった。
命の尽きる日が近付くにつれ、その瞬間が手に取るように分かってしまうのはあまりに切なく。辛くて酷な状況だ。
腕に抱く愛し子はラスルの面影すら知らずに成長するだろう。
しかしこの森を遠く離れたフェルナードの地で、父の姿を語り聞きながら大人になって行くに違いない。ラスルからすれば何一つ誇れる物の無い後ろ向きであった自分の面影よりも、祖父母の下でカルサイトの面影を語り継がれ、それを誉に思ってもらえる事の方が何よりも嬉しく思えた。それにカルサイトが生まれ育った地を彼と同じように彼の血を引く我が子が走り回る。同じものを見て感じてくれたならとその日を想像して幸せに浸るのだ。
その木は出会った当初、アルゼスとラスルが肩を並べ豆剥きをした木の下でもある。
輝く木漏れ日の下でラスルの膝を借り昼寝に興じたのはつい昨年の話だというのに、今となってはまるで何年も昔の出来事のように感じられた。あの日、共にこの場にあったもう一つの存在は天に召され、大切な二人を見守っているのだろう。
ラスルは他人の介入を嫌い、カルサイトの実家からもたらされる手助けを全て断り続け、身重の体でありながら魔物の巣くう森に一人で生活を続けた。
一度決断を下せば聞かないラスルだ。それを知るアルゼスは出産間近になり、ラスルの許可も得ず一方的に産婆を押し付けた。アルゼスの息のかかった者ゆえ、ラスルの出産は祖父となるサーガよりも真っ先にアルゼスの耳に入り、報告を受けたアルゼスはその瞬間全ての仕事を投げ出すと共も付けづに慌ててこの場に駆け付けて来たのである。
道中気ばかりが焦り、森に入って出くわす魔物も無意識に切り捨てここまで駆けつけて来たのだが―――アルゼスは目前に広がる穏やかで美し過ぎる光景に暫し見惚れ佇む。
「王子様―――」
伸びた影に頭を上げ眩しそうに目を細めたラスルに、アルゼスからは久し振りだなと自然に微笑みが漏れた。
アルゼスは躊躇なくラスルの傍らに腰を下ろすと、その腕に抱かれた赤子を覗き込む。
遠慮のない距離間とそれを受け入れるラスルの様子に、はた目から見るとまるで一家団欒の美しい一枚の絵の様にうつるが、この光景を目にする物は誰も存在しない。
「美しい子だな。」
赤子特有の白く柔らかな肌。その肌に溶け込みそうな程、繊細な銀糸を思わせる髪が風に揺れている。閉じられた瞼のせいで瞳の色は窺えないが、父親同様に深い紫を帯びているのだろうとアルゼウスは予想していた。
「難産であったと聞いたがよく頑張ったな。サーガ殿もお喜びになるだろう。」
生まれたのは男子。
揉める事無くカルサイトの代わりとして正当な後継ぎと認められるが、アルゼスにとっては無事に生まれてくれた事が何よりも喜ばしかった。
愛する女性の、そして今は亡き友の忘れ形見。
己が事のように喜ばしい出来事であったが、この先にある結末を思うと心の内には切なさが宿る。
「名は決まっているのか?」
「ウェゼライドという名を頂いているの。」
ラスルは生まれる前より宿る子の性別を感じ取っていた。
男でも女でも祖母となるセルジーナは受け入れ愛してくれるだろうが、サーガが最も深く望んだのは何の問題なくフェルナードの領地を継ぐべき後継ぎだ。
女児であっても相応しい婿を取れば後継ぎとして認められるが、腹の子が男子であるのが解っているのをわざわざ隠してサーガをやきもきさせる必要もない。ラスルが生まれる子の性別を告げるとサーガはさして興味もなさそうに頷いただけであったが、子が生まれる前に名を決め、魔物の巣くう危険な森に使いを出してまでラスルに名を伝えて来た。
フェルナードを継ぐ跡取りに勝手な名を付けられてはたまらないと思っての事やも知れないが、たとえそうであったとしても忌み嫌う魔法使いが産み落とす子を気にかけ、名を頂けたというのが嬉しかった。
寄り添うように肩を並べ、漆黒と瑠璃色に輝く瞳が無言のままで幼い赤子を見つめ続けていたが、ふとラスルが口を開く。
「今まで、いろいろありがとう。」
まるで別れの様な言葉に、アルゼスは心の動揺を隠しつつ視線をラスルへと這わせた。
「礼を言われる様な事は何もしていない。」
「この子に関しては沢山助けてもらったわ。」
「俺が勝手に押し付けただけで礼など不要だ。」
「それでも、それでもありがとう。」
漆黒の瞳を向けられたアルゼスは、まるで少年の様な戸惑いを覚え慌てて視線をラスルの抱く赤子へと戻す。
「色々ついでに一つ、頼みたい事があるんだけど。」
「何だ?」
「この子を―――フェルナードまで送り届けてやってもらえないかな?」
自分にはその時間が残されていないから―――
ラスルは理由を述べないし、アルゼスも確認はしない。それを察してアルゼスはただ無言で深く頷いただけだ。
はぁ……と、少し気だるげに、だが穏やかな微笑みを浮かべたままラスルは息を付き、アルゼスの肩にもたれかかる。
「王子様の為に、わたしに何かできる事ってある?」
「何だ急に?」
「お世話になりっぱなしだから、何かお礼でもって思ったんだけど。」
そんな物必要ないと言いかけ、アルゼスは息を吐き出しながら木漏れ日の降り注ぐ空を見上げた。
青葉の隙間からきらきらと宝石のように輝く陽射しが差し込み真っ青な青空が見える。
穏やかな時間。
王都とは時の流れが違うと感じながらアルゼスは呟いた。
「名を―――呼んではくれぬか?」
「名前?」
ラスルはぼんやりとアルゼスの言葉を繰り返す。
「いつも王子様だろう? 時にはその役職から離れてみたい。」
出会ってから今までいつも『王子様』で、ただの一度も名で呼ばれた事がなかった。
最初は嫌味の様でいて、だがいつしかラスルがアルゼスを呼ぶ時は、それがアルゼスの本来の名であるかのように口にしていた呼びかけであったが、アルゼスの中には常に名で呼ばれたいという思いが漂っていたのだ。しかしその機会もないまま今日を迎えてしまった。
「アルゼス……」
これに何の意味がある? と言わんばかりに疑問に満ちながら低く発せられたアルゼスの名。
眉間に皺を寄せているであろうラスルを想像し、アルゼスは喉を鳴らして笑いを漏らした。
「何?」
「いや、女からはいつもアルゼス殿下やアルゼス様と敬称をつけ、甘い声で囁くように呼ばれているのでな。相手がお前なら呼び捨てであるのは当然予想できたが……声色に全く色気がないというのも新鮮でいいものだな。」
「色気がなくて悪かったね。そもそもわたしに色気を求めるのがおかしいんだ。それに王子様は役職から離れたかったんじゃないの?」
「ああそうだ、すまない。もう王子は止めてくれ。」
謝りながらも喉の奥で笑いが止まらないアルゼスに、不機嫌になりかけていたラスルの方からも小さな笑いが漏れた。
そうしてやがてその笑いが止まった時、ラスルは静かに呟く。
「わたしカルサイトを愛している。償いの意味での死なんか関係なくて、ただ純粋に彼の側に行きたいっていつも思ってた。」
「―――そうだな。」
ラスルの言葉にアルゼスは切ない想いを抱きながら頷いた。
「でもね、本当は―――本当はカルサイトを想う気持ち以上に、今はいつまでも生きていたいと強く願ってやまない。」
誰よりも強い思いで生きたいと願う。
自分が生きる事で多くの不幸をまき散らすのだとしてもかまわない。世界に巣食う憎しみの全てを背負ってもかまわないから……せめてもう少しだけ生まれた幼子の傍らにいたいと願ってやまない。
生まれた我が子を抱き、愛しい想いが募ると口にした事でラスルの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
そんなラスルの肩に腕を回したアルゼスは、赤子ごとラスルを胸の内に抱き寄せる。
「大丈夫だ、安心しろ―――」
アルゼスは胸に抱くラスルの頭に鼻を寄せ愛おしそうに摺り寄せると、大丈夫だと幾度となく頭を撫でつけては濡れたラスルの頬を拭った。
やがてラスルは漆黒の瞳を閉じ、伝う涙が終わりを告げる。
胸に抱く重みが増し、一つの吐息が事切れたせいで、穏やかな赤子の息使いだけがアルゼスの耳に鮮明に届いた。
アルゼスは二人を腕に抱いたまま、肩を震わせ何とも言えぬ切ない声を漏らしたかと思うと、瑠璃色に輝く瞳から惜しげもなく涙を零し、声を押し殺して咽び泣く。
何故、何故なのだろう。どうして運命はこれ程ラスルに厳しいのか。
幸せとは言い難い幼少時代。自ら死を望む程に酷な現状。愛する者を完全に受け入れる事すら躊躇し、失い―――そこから得た安らぎすらほんの僅かな時で終焉を迎えてしまう。
鼓動を失った胸に幼子を抱く。
そんな僅かな時間でも十分な生涯だというのだろうか。
アルゼスはラスルの腕から幼子が離れぬよう、二人の体温が常に触れあえるようにと、流れ落ちる涙にかまう事無く腕に力を込める。
この日の空は何処までも青く透き通り、爽やかな風が木漏れ日の下の三人を優しく撫でつけ続けた。