人魚姫は海を望む
日常が戻ったようだった。
ベルは海に飛び込み、学校の友達と遊び、遊覧船を見つけては驚かせて、遠泳できない下級生をボートに乗せてイルカのところまで連れて行く。宿に行かなくなった。
落下の後、どぼんと水柱が立つ。こぽこぽと空気の泡が空を目指す音を聞く。水の中で太陽を見上げている時、ここが自分のあるべき場所なのだと思う。この景色が目に焼き付くほどに見ているから。記憶と視界が重なる感覚。これが一番見てきた景色だ。
浮遊感の中で、シェリーのことを考えていた。
この蒼い景色をシェリーは見たことがない。
なら彼女はこれまで何を見て生きてきたのだろうか。
都会の景色も知らないことが多くて、空想からそのまま出てきたような少女。それは人魚姫と形容できる美しさにそう感じるからでもあるし、病気でほとんど外出できないという浮世離れした生活にそういう印象を持っているからでもある。
だからだろうか。強い拒絶に、傷付いたり腹が立ったりするより前に、感情をぶつけられたことに驚いて何も言えなかった。空想だったものがいつのまにか現実に足をつけて、急に手応えを持つ何かに変わったようだった。
ならば、あの時自分は何かを言うべきだったのだろうか。
ごぽ、と口から大きな泡を出した後、ベルは海上へ泳ぎ、止めていた息を大きく吸った。だけどまだ考え事は浮遊したままだ。もう一度飛ぶためにベルは陸に上がった。
再び崖に上がると人影が見えた。遠くからでもそれが誰だかわかったのは、白くふわりと揺れるスカートを着る人なんてこの島には今一人しかいないからだ。
その姿を見て、シェリーがこの場所に来るのを意外に思ったが、そういえば島に来てすぐ自分がこの場所を教えたことを思い出した。忘れていたわけではないけれど、彼女がここで飛び込みをしないのであれば忘れてもいいことだとは思っていた。
飛び込むことはできない。ならば、自分に会いに来たのだ。それがわかって、ベルはそのままシェリーに近づいていった。しかし、会話をするのに不便でない距離まで近付いても、まだ頭が整理できていない。あの日をなかったことにして、いつも通りにしていいかわからなかったし、それができないのならどうしていいのかわからなかった。
「ベル」
沈黙の後にそう呼ばれて、何、と答えた。シェリーの目はベルを見つめているけれど、何か言葉を一つでも零したら泣き出しそうなくらい、危うかった。それは間違いではないようで、シェリーの言葉は緩やかな時間を引き止めるように、少しずつ落とされていった。
「もう、私の言うことなんて聞きたくないかもしれないけど……」
「……そんなことないよ」
ベルの声も静かだった。シェリーが聞いたことがないくらい静かで、本当にそう思ってくれているのか、優しいから嘘をついてくれているのかわからなかった。それでまたシェリーは口を噤んで、やがて用意した言葉をその口に乗せた。
「私、ずっと考えたの、ベルに言われたことと、私がベルに言ったこと。……ベルに言われたこと全部本当だったの。だから……私、聞きたくなくて……ベルにひどいこと言っちゃった…………」
言葉が落ちるたびにあの日を思い浮かべて、堪えていたシェリーの涙腺が一本一本崩れていく。嗚咽が言葉を止めようとするのを無理やり声にして、ボロボロと涙を流しながらそれでも必死に伝えようとした。
「でも、私……」
息を止めて泣き止もうとするが、結局しゃくり上げてしまって何かを言うことを阻まれる。そんなみっともない状態でも、ベルは黙って聞いてくれていた。次の言葉を言えたのは、何分過ぎてからだろうか。
「私、ベルのことが好き……このまま会えないのなんて嫌……だから、」
息を止める。喉の奥でくっとしゃくり上げる。それを言うのを止めているのは嗚咽ではなく、臆病さだった。涙と共に伏せていた目を両手で拭い、やがて嗚咽も弱まってきた後、シェリーは再びベルを見て、丁寧に言った。
「私が病気を治したら、また友達になってくれる……? 私、ベルと一緒に泳いでみたいの」
涙声でそこまで言った時、シェリーは長年心に抱えていた心の傷がぽろりと落ちたのを感じた。それはカサブタが剥がれるのに似ている。ずっとそれを抱えていた気がした。ベルに会う前から、その言葉を聞いてくれる人を待っていた。だから、ただ言いたかっただけなのかもしれない。ベルが許してくれるかよりも、自分が本当に思ってることを声にすることがシェリーには大事なことだったのかもしれない。
私もみんなと同じがいい。それをずっと言いたかった。
その告白はベルの胸をじわと熱くして、さっきまでふわふわと漂っていた考え事を晴らしていった。何かを言うべきだったのかと悶々とした考えを取り払って、言葉はするりと出た。自分の言葉は自由なのだと、急に身軽になったように。
「勝手に友達やめないでよ。あたし絶交なんて言ってないからね」
悩みの影が晴れていく。あれこれと悩んで硬くなった心がひび割れて剥がれ落ち、元の心よりも柔らかくなっていく。
シェリーは泣き止まなかったけれど、ベルの言葉に声を出して笑った。嗚咽の中に笑い声が混じって、泣いてるのか笑ってるのか、シェリー自身にもわからなかった。ベルはいつか二人でボートに乗った時のように背中を撫でてやり、シェリーの嗚咽が止まるのを待つ。あの日をなぞるようにそうしたけれど、あの時よりも不安はない。
やがて落ち着いた後、海風がそよぐ崖に腰掛けた。話している間に傾き始めた太陽は、景色の彩度を落ち着かせていた。もう少し時間が経って夕陽になればここは絶景になる。
隣に座るシェリーはぽつりぽつりと話し始めた。この病気は体質的なものであること。大人になってから治った例もあること。室内に篭りすぎるのも体に毒なこと。——この病気は本当に治るのか、主治医に訊いた話だとシェリーは言った。
治す意思があれば、決して不治ではない。気持ちが少し前向きになったなら、クロッシェルへ戻るのもいいかもしれない。シェリーはそう話した後、少し考えてからベルを見た。
「——魚の塩焼きも一緒に食べてくれる?」
突然方向転換した話の流れに不意を突かれたが、祭で食べたいと言っていたことをすぐに思い出す。
「うん」
「私、はんぺんのコロッケ食べてない」
「ごめん、あたし食べちゃった」
あはは、と誤摩化すような笑い声の後、「でも毎年あるからさ」と体を前のめりにしてシェリーを見た。
「一緒に食べようよ。待ってるから」
待ってる。
なんてことないその台詞を特別なものに思いながら、シェリーは心の奥に刻み付けた。今この瞬間を、この情景を、自分の中にいつまでも鮮やかに残るように。
「うん」
治さなきゃ。
そう答えて、笑った。