人魚姫の解錠
ベルの遊び場と言えば海。一人になれば海に飛び込み、他の子供といる時はボートで島を回ったり、海中に潜ったり、岩場を目印にして競泳したりする。それらの遊びは毎日しても飽きなかった。時折島の裏側にある森まで探検することもあるが、断崖絶壁のため外からは入れず、内から攻めると毒蛇はいるわ獣はいるわ虫はいるわで外敵が多く深く進めないため、ほとんど遊ぶことができないのである。それでも毎年装備もなしに深入りした子供が毒を食らって病院送り、ということを一度は聞く。当然ながら海にも危険はあるが、海町で生まれ育ったベルは海との方が上手く付き合うことができた。
しかし大陸から客人が来てからというもの、海でベルの姿をめっきり見ない。人を牽引するように明るく奔放なベルがいない海は静かで、生活感が残る家から居住者だけを抜き取ったような違和感があった。
みぎわの人々からそう思われていることも知らず、ベルは今日も街を過ぎて宿へ向かった。
「美味しい! これロットさんが作ったの!?」
「はい。若い頃はお菓子作りを嗜んでおりまして」
「すごーい! なんでもできるね!」
「恐縮です」
シェリーの部屋で執事のロットが煎れた紅茶を飲み、宿のキッチンを借りて作ったクッキーを頬張る。その代わりに海で拾ってきた貝殻やシーグラスを広げたり、島の各所を巡った冒険譚を話したりして、シェリーやロット、主治医のクロウスを楽しませた。シェリーはベルの話を聞くうちに彼女への抵抗が弱まっていき、今ではベルの訪問を喜ぶようになった。
クロウスは毎日笑うようになったシェリーに、いい傾向だと言った。病気の改善がかんばしくなかったのは、現状、彼女の心因性によるものが一番大きいとクロウスはわかっていたのだ。学校に行っても友達が作れず、周りと同じようにできないシェリーはストレスを蓄積して、体に影響を出している。ビタミン剤を特効薬と思い込むプラシーボ効果で改善される病気もあるのだから、その逆も然りなのだ。
「ねえ、他にはないの? 冒険の話」
「うーんと……あ、海の幽霊の話ってまだしてないよね?」
「うん! なあに? それ」
シェリーにとって、ベルの話は未知の塊だった。それらは本を読んでもどこにもない。誰からも読まれているベストセラーの百倍も面白かった。一つ話し終わった後は、他には、他には、と次をねだる。父親の土産話を心待ちにしている無垢な子供のようだった。ベルの体験は全て新鮮なのだろうが、当人は生活の全てを大げさに彩って話すことはできず、やがて話も尽きてきてしまった。
「ねえ、今度はシェリーの話聞かせてよ」
「私……?」
「うん!」
「私は……部屋からあんまり出なかったから面白い話なんて」
「でも私はクロッシェルに行ったことないから、聞きたいなあ都会のこと。この島とどんなところが違うの?」
「ええっと……、人が多い……」
「うんうん」
「…………ええっと」
頭にクロッシェルの街並を思い浮かべるも、特徴を捉えることができず、シェリーは困窮してロットを見た。代わりに街の話をしてほしいと助け舟を求めてのことだったが、ロットは姿勢を正したまま身をかがめて、話し手の交代ではなく、アドバイスを渡した。
「お嬢様、たとえばどんな方がいるのか、ご自分と似た人からお話になってはいかがでしょう」
「私と似た人……」
言われて、少し考える。真っ先に浮かんだのは学校の同級生たちだ。名前も覚えてないし、ほとんど話したこともないけれど。
「……制服を着て学校に行くの。みんな同じ格好で。人数は……三十人くらいだったかな。年齢ごとに学年が分かれてて、同い年の子が集まるの。その中で勉強したり、色々な行事に参加したり」
「同い年で三十人もいるの?」
「あ、三十人はひとクラスだけで、私の学校は一学年三クラスあるから、実際は九十人くらい」
「九十人!? 私の学校の先生もみんな集めても足りないのに同い年だけで!?」
「うん。あと私の学校は私立だから、公立の学校も合わせるともっと……」
「ええええ!? それじゃみんなと友達になるのに何日もかかっちゃうね…!」
「……たぶん、みんなとは友達にならないわ。同じクラスの人の数人とか」
「えっ、そうなの?」
「うん、たぶん」
「シェリーも?」
「私は……ううん。学校にあんまり行けてなかったし、誰がいたかもあんまり覚えてなくて、クラスの子たちも私のこと忘れてるかも」
「えーそうかなあ」
自身の話となると、やはり心の癖で後ろ向きになってしまう。その主観は被害妄想も含まれているが、事実と真逆のことでもない。会った回数と話した回数は親密度に大きく影響する。やっぱり自分の話なんてつまらないと、その話の続きを噤んだシェリーにベルは言った。
「シェリーって人魚姫みたいだから、簡単に忘れないと思うけどなあ」
「、」
人魚姫。
話の文脈にない単語が飛び出てきて、シェリーは言葉を失った。自分への比喩とは理解しつつ、ひどく身の丈に合わないことを言われた気がして呆気に取られる。突然落ちた沈黙に釣られて目をぱちくりとしていたベルは、数秒の間を置いた後突然ハッと身を乗り出した。
「えっ! もしかしてクロッシェルにはお姫様みたいな女の子がいっぱいいるの!?」
「え、いや、……どうかしら」
ベルが動いたのをきっかけにシェリーも止まった時間を再び回し、しどろもどろに答えた。頭の中ではまだ人魚姫という単語を反芻している。学校のクラスの子たちを思い出そうとしながら、彼女達をおとぎ話のお姫様に重ねようとした。だけどそれ以前に、自分と人魚姫を繋げようとしてはずっと失敗しているので、シェリーはイエスともノーとも答えられなかった。
「そんな風に思ったことないから……」
ただ呆然とそう答える。その頬はほんの少しだけ色をつけていた。




