君の中の知らない世界
翌日、願いは虚しく雨は降らなかった。シェルローザは執事が作ってくれた朝食を口に運びながら、どうやって昨日の鉄砲玉の誘いを断ろうか黙々と考えていた。
しかし、「体が弱いから」の一辺倒しか用意がないシェルローザに、代打となる言い訳は浮かばなかった。そうしている間に、シェルローザにとっては誠に残念ながら、予告通りにベルがやってきた。
「やっほー! きたよシェリー!」
「……こんにちは」
外は快晴。シェルローザの顔はどんより曇りだった。
宿屋は港から街を通り過ぎて坂を登ったところにある。昨日は車で十五分ほどは走っただろうか。距離にすれば四キロほどはあると思われる。屋外へ出ても歩く距離は二十五メートルがせいぜいのシェルローザにとって四キロは長距離に値する。その距離を昨日ベルは徒歩で帰っていった。同い年ならば運転免許などあろうはずもない。つまり移動手段は徒歩。この足だ。
行きはよいよい、帰りはなんとやら。
行く気はゼロなのに、当人よりも主治医と執事が乗り気だった。主治医が無理がない範囲での外出を勧めると、ベルは海にボートを出すと言い、執事は港に行くならいつでも車を出すと言い始めた。それらは口にした途端にトントン拍子で決定事項となる恐ろしい会話で、シェルローザは口を挟む隙がないまま海に行く話が進められていった。
「いかがなさいますか?」
執事が意向を尋ねる。が、出掛ける気満々のベルと、外出に賛成している主治医と執事を前にすると、断ることはできなかった。便宜上、治療の一環としてこの島に来ているし、主治医が勧めている以上、外出はしなければならない。
ああ、四面楚歌。
*
執事の運転で一日ぶりに海へ戻ってくると、ベルは車を出て、船着場を斜めに走って行った。
エンジンを止める前に飛び出したベルのせっかちさに唖然としながらも、シェリーも車から足を下ろして、ベルの後を追う。
船着場のコンクリートを海に沿って端まで歩くと、短い階段を下りた先に浜がある。遠くの浜で子供が泳いでいるのが見えた。シェリーの目には、その子供たちもベルと同様に自分とは真逆の子供に見える。きっとこの島の子供たちはみんなああなのだろう。
砂浜に下りると、足が一瞬沈む感覚がしてそのまま止まる。一歩目に出した足を慎重に踏みしめてから、もう一歩を踏み出す。そして砂を動かさないように気をつけて歩いたのに、五歩も歩くと靴の中に砂が入った。既に海に向かってボートを海に押し出しているベルを見ると、彼女は裸足だった。傍らには脱ぎ散らかされたビーチサンダルが放置されてある。その大雑把さにまたも唖然しつつ、神経質になっている自分が少しバカバカしくも思えた。一度砂が入ってしまったら諦めもついたので、足取りを気にせずベルに近付いていく。
ボートが水に浮いた感覚がわかると、ベルはシェリーを振り返った。ボートはみぎわをだいぶ通り越しており、ボートに乗るためには足が濡れてしまう位置にあった。
「シェリー!」
ベルの呼び声に、シェリーは少し迷った後、靴と靴下をその場で脱ぎ揃えてから、海に足をつけた。はじめは思った以上の冷たさにそれ以上入るのを躊躇ったが、その温度になれてくると足先で水をぱしゃりと小さく蹴りながら、少しずつベルに近付いていく。足の甲より上に水につけるのが怖くて少し立ち止まると、波が砂で足を沈めていく。その感触に少し興奮した。なにこれ、と。それは少し楽しさがあった。ちらと遠くで泳ぐ子供たちを見て、そのはしゃぎぶりを少し真似てみたくもなる。しかし、人の目のある場所であることを意識すると、大人しくあろうとした。
海水が足首より少し上につくくらいでボートに追いつき、ベルに促されるまま膝ほどの高さの縁を跨いで乗り込む。ベルははじめそうしていたように再びボートを強く押し、完全に離岸すると彼女もボートに飛び乗った。ボートが地面を離れたのがシェリーにもわかり、小さくぐらりと揺れた船に、転覆するかも、と大げさに考えて縁に捕まった。
「お昼までには帰るからー!」
ベルが執事に向かってそう叫ぶのに釣られてシェリーも海岸を見ると、まるでピンが垂直に突き立てられているようにまっすぐ立っている執事が、二人に向かってお手本のようなお辞儀をした。
ボートは進行方向に背中を向けている人が漕ぐ。それを知らなかったシェリーは奥に座っていた。ベルが場所を入れ替えるべく移動しようとするとボートが揺れるので、シェリーは及び腰になってボートにしがみつき、二人はしばらく浅瀬に留まっていた。
ボートのバランスを崩すまいとして、しゃがみながらじりじりと移動するシェリーに合わせてベルが対角線を守りながら足を運ぶ。ようやっと場所を交換したベルはオールを持ってよし、と鼻息を荒くして、まるで何かと競争するように力強く漕ぎ出した。
漕ぐ度に揺れるボートにはじめシェリーはおろおろとしていたが、揺れに慣れはじめると落ち着いてきた。天秤の針がもうすぐ止まりそうなときの皿に乗っている気分だった。
「海に入ったの、初めて」
ぽつりと零す。そうしながら、波にさらわれる砂が自分の足を沈めていく感触を思い出していた。
船の上では人の気配が遠くなる。海には壁がなく、船を出れば足場もない。海の中に誰かがいたとしても、水中ではこの声は聞こえない。そういう心地よい開放感と優しい孤独が混ざりあっていた。
だからそれはベルだけが聞いた独り言だ。島に来る時に船に乗ってきたので、シェリーの指す「海に入る」とは、海水に肉体を入れることだ。
「楽しいよ! あたし崖から飛び降りるの好き」
「崖から?」
「うん、行ってみようか? 海岸挟んで港と反対側にあるんだよ」
「……じゃあ、見るだけ」
「よしきた」
ベルは慣れた動きで方向転換し、沖を崖に向かって進んだ。海岸を横切る間に浜を見ると、執事が角砂糖よりも小さく見え、あらためて遠い場所に来たと感じる。この島は故郷からも遠く、ボートは毎日顔を合わせている執事たちとも遠い。少なくとも、呼んでも来ることはできない。叫んだとしても声は届かないかもしれない。そして不意に、どうして何も知らない女の子とボートに乗っているんだろうと考えた。
「リベルタ……?」
口に馴染みがない名前を呼ぶ時、その名が正しいのかとほんの少し逡巡する。この島で友達を作る気もなかったから、正確に記憶しているかあやしい。ベルは「はえ?」と気の抜けた返事をして、ベルでいいよ、と続けた。
「その方が呼ばれ慣れてるんだ。たまーに『ベル』こそがあたしの本当の名前なんじゃないかって思うくらい」
「そう……。ベルはよく、知らない人とこういうことするの? 初対面でボート乗ったり」
「旅行客に子供がいると学校の子たちに混ぜて一緒に遊ぶよ」
「社交的なのね」
「シャコ……? エビっぽいってこと?」
「ええと、人とよく交流するっていう意味」
「へー、そんな言葉あるんだあ。シャコ」
「しゃこうてき」
「おいしそう」
シェリーが吹出して笑ったのを見て、ベルも一緒に声を笑った。あはは、というおおらかな笑い声は泳いでいる子供たちまで聞こえてきて、彼らはベルが見慣れぬ少女と笑い合っている姿を見た。
*
崖の下は抉られるような形状をしており、おあつらえ向きの飛び込み台だ。海から見上げて、二階建ての屋根と同じくらいの高さだろうかと推測する。
「ここから飛び降りてるの……? 怖くない?」
「全然! 最初は怖かったけど一回できたらあとはへっちゃらだった。楽しいよ!」
「でも水の中に入ったら息ができないわ」
「慣れるよ。ずっと潜ってるわけじゃないし。そうだ! シェリーも飛んでみない?」
ボートに誘った時と同じくらいの勢いで尋ねるので、シェリーは慌てて首を振った。
「い、いい……いいわ。無理だもの」
「うーん……あっ、じゃあイルカは?」
「イルカ?」
「そう! この辺にいるの。一緒に泳ぐんだよ」
「へえ……」
シェリーの声色に、ベルは今までで一番関心の色を感じた。それまでただ流されるだけだった彼女に初めて自我を見た気がした。
行こう。そう言うと共にベルは返事も聞かずに沖へボートを向けた。
ボートはずっとベルが漕いでいた。ペースを崩さず疲れた顔も見せないので、シェリーは時計の秒針が一秒に一つずつ進むのと同じくらい当然の光景に感じながら、彼女と水平線を眺めていた。時折ぼんやりと間近で飛沫をあげる波を見下ろし、それに触れてみたいと思いながらも、身を乗り出したらやはり転覆するかもと心配してじっと動かずにいた。どれくらいの時間そうしていたのか、ふと思い出したように振り返ると、もはや浜辺の執事が見えないくらい海のど真ん中まで進んでいた。こんな場所まで来ているとは思わず、シェリーは慌ててベルを見た。
「こんなところまで来たの!?」
「え、うん。いつもは泳いでくるよ」
「大丈夫なのっ!? 高い波が来てひっくり返ったり、沈んだりしない!?」
「大丈夫だよ〜」
「ベルは泳げるけど、私は……! ッ、っげほ、げほ!」
興奮してヒステリックに捲し立てると、シェリーは激しく咳き込んだ。下を向き、ボートの縁に手をついてうずくまる。ベルは慌ててシェリーの前に跪いた。シェリーの手の横に左手をつき、右手で背中を撫でる。立ち膝の姿勢で、外の何かから守るようにシェリーの周りを囲った。
——息を吸えない。吐けない。胸につかえる違和感が呼吸をままならなくさせている。ああ、死ぬ。苦しい。呼吸器官が糸みたいに細く感じる。自分の外側はベルが背中を撫でていること以外何もわからない。涙がボロボロ落ちる……——
数分、そうしていた。シェリーにとってもベルにとっても長い時間だった。ようやっと呼吸ができるようになって、波が船をちゃぷんと揺らす音が聞こえてきた。
ベルの手はまだシェリーの背を撫でている。人の病気を軽く見ていたしっぺ返しを味わい、今も苦しげに浅い呼吸を繰り返しているシェリーに罪悪感を抱いていた。
戻ろうか。
ベルがそれを声にする直前、少し離れた場所で水が跳ねる音がした。ベルにとっては耳慣れた音。海から生き物が姿を現した時の音だった。
「あ」
その声に反応するようにシェリーが顔をあげる。波に揺れる海。少し離れたところに人が一人降り立てそうな足場がある。その辺りで、海から飛び出した何かが動くのが見えた。ヒレのようだった。海を切るように近付いてくる。咄嗟にサメかもしれないと感じてシェリーはベルにしがみついて短く悲鳴をあげた。
しかし、予想したような衝撃は来ず、ボートの脇でばしゃっと何かが飛び出しただけだった。きつく閉じていた目を開いてそちらを見ると、イルカが顔を出してこちらの様子を伺っている。それがあどけなく見え、シェリーは一気に肩の力を抜いた。
「大丈夫?」
「ええ」
拍子抜けした声を聞いて、ベルもホッとした。呼吸も先ほどよりは落ち着いている。が、突然現れたイルカにどうしていいか戸惑っているように見えた。
「触ってごらん。ほら」
シェリーの背中に当てていた手を滑らせて彼女の左手を握る。そして手本を見せるようにイルカの頭を撫でた。それを見て、シェリーも恐る恐る手を伸ばす。指先に触れた滑らかな感触と、触れても嫌がる様子のないイルカに、緊張が解けていく。指先でそっと撫でていたのを、今度は手のひらで触れて頭を撫でる。イルカは小さく鳴いた。
「可愛い」
その時ベルは初めてシェリーの笑顔を見た。
会話したり動いたり苦しんでいるのを見ながら、やはり絵や人形のような印象は消えなかった。それは笑った顔を見なかったからなのだと気付いた。
この子は本当に生きてるんだと、途端に胸がドキドキする。そんな感覚は初めてだった。シェリーと出会うまで、この島こそが全てと信じていたのに。こんなに綺麗な子も、胸のドキドキも、今初めて感じているベルは、自分にはまだ知らない世界があるのだと思えてならなかった。知りたい。彼女のことも、彼女が過ごしてきた場所も。
「お嬢様、大丈夫ですか」
不意に声がかかり、思考に飛んでいた意識を現実に戻す。声の方を見ると、ボートに乗った執事がいつの間にかすぐ近くにいた。いつの間に。
「咳をしているのが見えましたので」
「ありがとう、大丈夫です」
咳をしてから今になるまで十分も経っていない。普通なら直進で来ても二十分はかかるはずだが。
「おじいさん、いつボート出したの?」
「お嬢様が咳をしているのが見えてからでございます」
「漕ぐの早いね……」
「若い頃はボート漕ぎを嗜んでおりまして」
「へえ」
たしなむの意味がわからないまま相槌をうち、シェリーを心配して超特急でやってきたことだけは理解した。
戻りましょうか、と穏やかに言う執事にベルは反論はしなかった。シェリーの病状を知る人間が彼女の咳で素早く動く様を見たら、軽率にもっと遊びたいなんて言えなくなってしまったからだ。それでも、大人の目がなければ高く飛べるはずだった空を、ただ地面に足をつけて見上げるしかできないような気持ちはあった。
ベルは執事の中にも、自分が知らない世界があるのだと思った。それはきっと正しいもので、始まりよりも終了の合図が多い世界だ。そしてそれは、シェリーを守るための合図なのだろう。