三、
月美が手にしていた資料から手を離すと、勇樹は用件を簡潔に伝えた。
「会議室で次の作戦のブリーフィングがあるとさ……十分後だ、それまでに支度してくれ」
「……わかった……と言いたいけど、海神さんも出るんでしょ?」
「あぁ。出るな……一応、戦術参謀だからな」
「なら出ない」
月美は勇樹のその一言を聞いて、即答した。
勇樹は別段、そのことに驚いてはおらず、むしろ、予想通りといった感じでため息をついた。
「まぁ、当然といえば当然、か」
「当たり前じゃない。私たち、あいつに命を狙われたんだから」
再び資料を手に取り、文面を眺める彼女の声は感情を抹殺していた。
月美のその態度で、一瞬、場の空気が凍りついたように感じた勇樹は、乾いた笑みを浮かべた。
もちろん、勇樹も彼を許したわけではない。しかし、彼が主導したという証拠もないため、疑惑の目を向けるだけにとどまっていた。
「……風森のことは適当にごまかしておくよ」
「ありがとう」
月美は勇樹に礼を言うや否や、手元にあった、読みかけの資料に再び目を落とした。
その変わり身の速さに、呆れを通り超えて感嘆しながら、勇樹は月美に背を向け、書斎をあとにした。
「んじゃ」
去り際、勇樹は手をひらひらと揺らし、その場を立ち去った。
月美はその背中に視線を送ることなく、ひらひらと手を揺らし、答えただけだった。
その頃、護は隠れ里の長の屋敷にいた。
しかし、当の屋敷の主は未だ、現れていない。
――九尾について話があるって言ってたけど……まぁ、気長に待つか
一方的に基本的に呼び出されて、その上待たされることには、もはや慣れっこだ。
なにより、九尾についての情報なのだ。どれだけの国に関わってきたのかわからない以上、それなりの準備もあるのだろう。
そういったあたりは、やけに人間臭いように思えるのだが。
ふと、部屋に近づいてくる気配があった。
どうやら、この屋敷の主が来たようだ。
「待たせたな、土御門の若君」
「いえ……お邪魔しておりました。里長様」
護は入ってきた老人に正座のまま、頭を下げた。
里長は楽にしてくれ、といって、護と対面する形で座った。
そこには、毛並みは立派ではあるが、色があせている狐がいた。そして、彼の後ろには九本の狐の尾がゆらゆらと踊っていた。
そして、その外見だけではない。彼から流れてくる雰囲気と神気と呼べるほど強力な妖気が、里長としての風格を表しているようにさえ思えた。
「……どうやら、まだ私の妖気になれないようだな」
「なにせ今の世の中、妖気はおろか、気脈に触れることが少なくなってしまいましたから」
それは同時に、瘴気に触れる機会も減ったということなのだが、本来の自然を感じる空間がなくなっているということでもあった。
効率が優先される現代社会において、それは仕方のないことではある。しかし、悲しいことではある。
そして、現代社会のこの環境は、護に、いや、あらゆる術者に影響を与えていた。
「……力の制御は、慣れてきたようだな」
「はい。おかげさまで」
護はそう言って、頭を下げた。
今の護は、半妖化してこそいないが、神通力を解放している。そうでもしなければ、目の前にいる老狐に気圧されてしまう。
それほどの力を持っている妖が、からからと笑いながら、半分は妖とはいえ、人間とこうして話しているのだから、人間に対して悪い感情を抱いてはいないようだ。
しばらく、微笑んでいた老狐だったが、ひとしきり笑い終えると、真剣な表情になった。
その表情に、護は自然と背筋を伸ばした。
「さて、九尾のことだったな」
「はい。よろしくお願いします」
「……ふむ……少し長くなるが、大丈夫かな?」
「問題ありません。むしろ、対価としては安いくらいかと」
「ほっほっほ。言いおるわい……では、はじめるかな」
老狐は静かに、しかし厳かに話し始めた。
九尾は、いや、神狐はそもそもインドから渡ってきた妖の一族。その一族の一員であった九尾が歩んだ道のりと、神狐の一部が日本に渡ってきた理由を。
はるか昔、釈迦――シッダルタがまだ目覚めた人となるよりもずっと前の時代。古代インドの王子が一人の美少女に出会った。
その美少女が神狐が人に化けた姿であることを知らず、王子は彼女を見初めた。
神狐もまた、王子を深く愛し、やがて二人は婚姻を結んだ。ここまでなら、よくあるおとぎ話に出てくる一節に過ぎない。
しかし、人間と妖とは住む世界がそもそも違う。
人間には人間の、妖には妖の規律がある。まして、それが、国を治める立場にあるものならば、それは重大なものだ。
王はそのことをわかっていた。だからこそ、神狐を大切にしたが、同時に国のことを思い、国のために全力を尽くした。
しかし、神狐はそれを理解することはできず、王の与えた快楽を覚え、そしてそれに溺れ、最終的にその国を破滅寸残まで追いやってしまった。
それを好機と見た他の妾たちは、神狐が人間ではないことを大臣たちに告発し、神狐を国から追いやった。
しかし、神狐からしてみれば、それはあまりにも理不尽なことであり、許しがたいものだった。
そのため、ありったけの呪詛をその国王に残し、自分の本来の姿を、白面金毛九尾の姿を国民に晒し、国を去った。
その後、九尾は人を、特に大国を束ねる権力者を強く恨むようになり、あるときは殷の紂王が后、「妲己」として、あるいは鳥羽天皇の寵愛を受けた姫、「玉藻前」として、多くの権力者に近づき、愛され、そして国を傾ける要因になったという。




