十、
その夜。護は珍しく、夜空を見上げることなく、眠りについていた。
目を開けると、護の眼前には白い炎の塊があった。
直感でわかる。これは護の魂の最奥に宿る、神狐の神通力。護が土御門家の、安倍晴明の血を引く唯一絶対の証明。
「……やっぱり、ここからはじめるしかないんだな……」
護はぽつりと呟くと、背後から近づいてくる気配があった。
振り向くと、そこには狐の面をかぶった人間がいた。いや、人間ではない。その存在が発している気配や全身から醸し出している雰囲気から、その人物が人間という枠組みで収まる存在ではないことがわかる。だが、護はその存在に敵意を抱かず、向き合い、一礼する。
彼は、護がこの力を制御する方法を教えるよう、土御門家の氏神である葛葉姫命から遣わされた神使だ。護は彼を「御使い様」と呼んでいる。
御使いは少しだけ首を縦に振り、面をわずかに上にずらし、その口元を外に出した。
「はじめるぞ」
「……はい」
護は近づいてきた存在の言葉にうなずき、再び炎と向き合う。
じっと、炎を見つめる。この炎を見つめていると心の奥底に、感じるものがある。気を緩めると、足がすくみ、その場に崩れ落ちそうになる。腹に収めたものが口から飛び出しそうになる。目から涙が、口からは絶叫が飛び出しそうになる。今すぐにでも此の場から逃げ出したくなる。
護はその感覚を知っている。自分よりも強い存在と相対した時に出てくる、防御本能を呼び起こす感情。それは、恐怖。
一度この炎に焼かれた経験が、それをより強く、そして鮮明に呼び起こさせる。
けれども、護はその場にとどまる。それどころか、炎に近づき、手をいれはじめる。炎は護の手を伝い、体へと燃え移る。けれども、護は炎から、いや、その場から離れようとはしない。それどころか、目を閉じ、ただじっと、その炎が自然と収まるのを待つかのように、目を閉じ、じっとその場に立っていた。その顔は、非常に穏やかなものだった。
「……ようやくこの段階まで来たか」
護が炎に包まれながら、静かに炎が収まるまで待っている様子を眺めながら、ポツリとつぶやく。
この修練を始めた頃は、過去のトラウマの影響か、炎の前にたつことも難しい状態だった。それが今、こうして炎に包まれてなお、平静を保ったまま立っていることができるようになった。
――これでようやく、次の段階へゆくことができるな
護が持つ神狐の通力は、護が生来持っている霊力と同じだ。ゆえに、その通力を術に用いることができる。つまり、今まで用いてきたものより、強力な祓除の力とすることができる。
だが、それを扱うにもやはりより厳しい修練を必要とする。
――大変なのは、ここからだぞ。若よ
体に燃え移った炎が収まり、こちらを振り向いた護を見て、心の内でそう呟いた。
夜の闇よりも深く、暗い闇の中。そこに紅の双眸がいくつも輝いていた。視線は全て、中央に向けられている。
そこには、何体かの異形がいた。九本の尾を持つ巨大な狐、蛇の尾を持つ猿のような獣、一軒家程はある蜘蛛、河川ほどの長さはあるムカデ、頭に牛のような角をはやした赤い巨人。それらは古来、民話や昔話の影に隠れ、伝えられてきた妖たちだ。
それ以外にも、病的に白い肌を持った黒いマントをまとう人間、狼のような顔を持つ人間、虎の体に白い翼を持つ獣、人間の顔を持つ猪など、日本には伝わっていない、明らかに海外の妖だ。
そして、その場には彼ら以外の異形が存在していた。それは、半魚人と呼ぶにふさわしい風貌だった。魚のように離れた目、耳まで裂けている口、首筋にはエラのようにたるんだ皮膚。およそ人間がこのような姿をしていれば、化物と呼ばれていても仕方のない風貌だ。だが、それらの異形はまだかわいいものだったと、その場に人間がいれば思うだろう。
彼らの背後にいる、巨大なもの。タコのような頭をしているが、その肌は水底に沈む藻やヘドロのように不快感を覚えさせる緑色をしている。胴体はかろうじて人間を模しているように思える。しかし、その皮膚は不気味に泡立っている。背にはコウモリのような羽を持ち、手と足は異様な長さの鉤爪が備わっている。
それは、護が夢で見た存在、旧支配者と呼ばれるものだった。
「……それでは、そろそろ仕掛けるとしよう」
「では、我らは帝を」
「我らは法師どもを」
「我らは人を」
九尾は口角を釣り上げ、言葉を発した。鵺は鋭い牙をむき出しながら、土蜘蛛と大ムカデはその目を赤く輝かせながら、鬼はその顔を憤怒に歪めながら、それぞれが狙う者たちを宣言する。海外の妖たちもそれに呼応し、自分たちがそれぞれ、襲撃したい存在を口に出し、咆哮を上げていた。
だが、旧支配者は妖たちの様子を、ただただ静かに見守るだけだった。
――九頭龍、といったか……こやつ、考えが読めぬな
九尾は、自分の意思を示さない旧支配者に対し、警戒するように睨みつけていた。




