七、
月美は困惑していた。
いや、頭の中は至って冷静だ。今現在、自分の目から、耳から、第六感から感じ取ったもの、感じ取れるものを分析し、今の状況を把握し、どのように対処すべきか、コンピューターが演算を行うそれには劣るがそれくらいの速度で、思考を巡らせている。
しかし、困惑していることもまた事実だ。
原因は二つ。
一つは目の前にいきなり、魚と人間を足して二で割ったような生物が大量に現れたこと。もう一つは、その異形の存在と同時に、鬼が襲撃を始めたことだった。
――鬼は、妖側の勢力じゃなかったの?
九尾、妖側の勢力とは先日、和解交渉が成立し、互いの生活位相を侵犯しないよう、約定を交わしたはずだった。
しかし、いま自分が射ているのは、その約定を結んだ、もう一方の側の存在だ。
なぜ、こんなことになったのか、そして彼らが何を考えているのかは正直なところ、まったくわからない。
あるいは、という可能性はある。
人間側にも、この約定を快く思っていない存在は多い。それは、妖側でも同じことなのだろう。
しかし、それでも。
――急すぎる……いくらなんでも……
約定を結ぶことについて、快く思っていない存在が双方にあることはわかっていた。だから、裏切り者が出る可能性はわかっていたはずだが、その決起までは時間がかかると踏んでいた。
だからこそ、奇妙に感じる。
なぜ、ここまですばやく行動を起こすことができたのか。
そして、今まで動くことがなかった旧支配者の勢力が、なぜ今になって動き始めたのか。
いや、あるいは。
「……このタイミングを狙っていた?でも、そんなことが……」
互いの連携がうまくいっていない、襲撃するにはうってつけのタイミング。それを狙ったかのような行動。
まるで、先を読んでいるかのような行動だ。
あるいは、元々、こういう計画だったのか。
――どっちにしても、やることは変わらない!
ようやく、護が、人と妖の狭間の存在が、命を狙われる危険がなく、過ごすことのできる世の中になろうとしている。それをここで妨害させるわけには行かない。
月美はその思いを胸に、必死に鳴弦を鳴らす。
弓から鳴らされる、邪気を払う音の波は次々と鬼と深きものを消滅させていく。
しかし、現在の月美の処理能力では、この場を収めるには不十分だった。
そのため、幾度も鬼の振るう刀や爪、深きものの牙が襲い掛かってきて、その度に、紙一重での回避を要求された。
その途中で、大きくバランスを崩し、体勢を崩してしまった。
その瞬間が好機とばかりに、鬼と深きものはそれぞれの得物を月美に向かって振り下ろした。
――やられるっ!
月美はその瞬間、目を固く閉じた。
しかし、想像していた痛みや衝撃は全くない。
恐る恐る目を開くと、視界に、懐かしい背中が入ってきた。
「待たせた」
「……遅いよ」
互いに交わす言葉はそれだけでよかった。
護と月美は互いに背を預け、自分の持つ得物を構え、刀印を結んだ。
鬼たちと深きものどもは、二人との距離をじりじりと詰めてくる。しかし、不思議と二人の心は静かだった。
守りたいものが、頼りにしている存在がすぐ後ろにいる。それだけで、ほぼ絶望的と言える状態でも不思議と心が落ち着いた。
だからこそ、言わなければならないことがある。
護は、月美に背を預けたまま、振り向くことなく、声をかけた。
「……月美、俺はお前以外の人間にも、妖にも殺されるつもりはないぞ」
「……私も、私以外の誰かにあなたを殺させることなんてしない」
だから、ここで死ぬ気はない。
互いの約束を守るために。
その言葉を交わした瞬間、敵は一斉に襲い掛かってきた。しかし、二人は互いに振り向くことなく、向かってきた彼らを迎撃した。
護の手にしている霊剣が閃き、月美の弓が鳴弦を放つ。剣と弓から放たれた霊力は波となり、向かってきた敵を粉砕した。
しかし、衝撃波に耐えたものたちが次々に、手にした得物を振りかざし、あるいは己が体を使い、二人に攻撃を仕掛けてきた。
「……遅いっ!」
「甘いよっ!」
護は頭上から振り下ろされた爪を、刀を、棍棒を、すべて霊剣で受け流し、捌いていった。月美も、まるで後ろの状況が見えているかのように、前から繰り出された攻撃だけでなく、護が捌ききれなかった攻撃も、紙一重で回避した。
回避しながら、受け流しながら、二人の口は何かをつぶやくかのように、かすかに動いていた。
それに気づいたときには、もうすでに遅かった。
紡がれていた言霊はすでに完成し、二人の周囲には清冽な気の奔流が周囲を包んだ。同時に、護の周囲には炎が、月美の周囲には風が巻き起こり、近寄ってきた敵に襲いかかった。
「ナウマクサンマンダ、ボタナン、オンバ、ハラウンド、ソワカ!」
「……祓い給い、浄めたまえと宣る!」
二人が唱えていた呪文を結ぶ言霊を紡いだ瞬間、炎と風は激しさを増した。それと同時に、月美の風を受け、護の炎はより一層激しさを増し、周辺の敵すべてを飲み込み、消滅させた。
すべての敵対勢力が消滅したことを悟ると、二人はどちらからとなしにそっとため息をつき、手にした得物を収め、ようやく互いの顔を確認するように向き合うことができた。




