【第25話】薬を飲ませる前に
天明六年、冬。
数日後。
華岡家の研究室には。
いくつもの帳面が開かれていた。
百二十九回目。
同じ薬液を使い。
大きな問題なく目を覚ました。
百三十回目。
同じ薬液。
同じ基準で与えたにもかかわらず。
呼吸が大きく弱くなった。
青洲は。
二つの記録を見比べる。
だが。
見ているのは。
その二つだけではない。
これまで積み重ねてきた。
百二十八件の記録。
その中から。
薬を与えたあと。
強く眠ったもの。
呼吸が弱くなったもの。
回復に時間がかかったもの。
危険と判断して中止したもの。
それらを。
一つずつ拾っていた。
「先生」
新吉が。
向かい側で帳面を読んでいる。
「これもです」
「どれだ?」
「七十四回目です」
青洲が見る。
新吉が指を置く。
「薬を飲ませる前から、あまり餌を食べなかったって書いてあります」
「その後は?」
「深く眠っています。それと……息がかなり弱くなったと」
「印をつけろ」
「はい」
新吉が。
紙の端へ小さな印を入れる。
「次」
帳面をめくる。
「これは……九十一回目」
「どうした?」
「飲ませる前から、あまり動かなかったみたいです」
「その後」
「眠りが深いです。起きるまでにも時間がかかっています」
「それもだ」
新吉が印をつける。
さらに。
帳面をめくる。
しかし。
そこで。
新吉の手が止まった。
「先生」
「何だ?」
「これじゃ分かりません」
青洲が覗く。
初期の記録だった。
そこに書かれているのは。
薬の種類。
使った量。
薬を与えたあとの変化。
それだけ。
「飲ませる前のことが、ほとんど書いてないです」
「ああ」
「こっちも」
別の頁。
元気。
その一言だけ。
「元気って……」
新吉が困った顔をする。
「どれくらい元気だったんでしょう?」
「分からない」
「先生が書いたんですよね?」
「ああ」
「先生でも分からないんですか?」
「書いてないものは分からない」
青洲は。
あっさり答えた。
新吉が。
少し驚いた顔をする。
「覚えてないんですか?」
「全部はな」
完全記録を使えば。
残っている情報を探すことはできる。
だが。
それでは意味がない。
青洲しか使えない力で。
過去を補っても。
新吉にはできない。
他の医師にもできない。
必要なのは。
誰かが帳面を開いた時。
そこに残された情報だけで。
同じように考えられることだ。
「書かなかったことは、後から比べられない」
青洲が言う。
新吉が。
古い帳面を見る。
「じゃあ、この頃の実験は失敗ですか?」
「違う」
「でも、比べられないんですよね?」
「全部はな」
青洲は。
頁を閉じなかった。
「足りなかったことが分かった」
「足りなかったこと?」
「それも結果だ」
新吉が。
しばらく帳面を見つめる。
「……見るものが、また増えますね」
「ああ」
「やっぱり」
新吉が小さく息を吐いた。
青洲は。
笑わなかった。
今度は。
自分が考える番だった。
薬を与える前に。
何を見るべきか。
答えそのものは。
蒼真の中にある。
2025年なら。
体重を測る。
血圧を測る。
心拍数。
呼吸数。
酸素飽和度。
血液検査。
肝機能。
腎機能。
必要なら。
心電図も取る。
患者の既往歴を確認し。
服用している薬を調べ。
麻酔に耐えられる身体なのかを評価する。
だが。
ここは。
1786年。
血圧計はない。
心電図もない。
血液検査もできない。
酸素飽和度など。
測りようがない。
肝臓や腎臓の働きを。
数字で並べることもできない。
「分かってるのにな……」
青洲が呟く。
「何がです?」
「いや」
何を見るべきかは。
分かっている。
だが。
見るための道具がない。
未来の医学を知っていることと。
未来の医療ができることは。
同じではない。
青洲は。
紙を一枚出した。
「新吉」
「はい」
「生き物が弱っている時、何を見る?」
「え?」
「難しく考えるな」
新吉が考える。
「餌を食べるか」
「他は?」
「動くか」
「他」
「息」
「そうだ」
「身体が冷たくないか、とか?」
青洲が。
顔を上げた。
「それも見る」
「まだあります?」
「ある」
「やっぱり……」
「嫌そうな顔をするな」
「増えると思っただけです」
青洲は。
紙へ書く。
食べているか。
よく動くか。
息は苦しそうではないか。
身体が冷えていないか。
痩せていないか。
足取りはしっかりしているか。
触れた時に反応するか。
そして。
前の日と違うところはないか。
新吉が。
それを読む。
「これなら、俺にも分かります」
「だからこれで始める」
未来の検査には。
到底及ばない。
だが。
1786年でも。
見ることはできる。
触れることはできる。
聞くことはできる。
数えることもできる。
比べることもできる。
なら。
そこから始めればいい。
午後。
百三十一回目の実験に使う小動物を。
新吉が診ていた。
「餌は食べています」
「次」
「よく動いてます」
「次」
「身体も冷たくありません」
新吉が。
少し近づく。
「息も……普通だと思います」
「普通?」
新吉の動きが止まった。
「……またそれですか」
「何だ?」
「先生、普通って書いたら、あとで分からないって言うでしょう」
「分かってきたな」
「先生のせいです」
新吉は。
小動物の胸の動きを見る。
以前作った。
水滴の仕掛けも使う。
一定に近い間隔で。
水が落ちる。
その間に。
胸や腹が。
どのように動くのか。
新吉が。
じっと見つめる。
「息は乱れていません」
「深さは?」
「深さ?」
「百二十九回目と比べろ」
新吉は。
帳面を開いた。
前の記録を見る。
そして。
もう一度。
目の前の小動物を見る。
「……少し浅い?」
青洲は。
すぐに答えなかった。
「どうしてそう思った?」
「胸の動きが、前より小さい気がします」
「気がする?」
「……小さいです」
「俺もそう見える」
新吉が。
青洲を見る。
「じゃあ、悪いんですか?」
「まだ分からない」
「でも息が浅いんですよね?」
「浅いから必ず危ないとは限らない」
青洲は。
自分でも確認する。
呼吸は。
わずかに浅い。
だが。
乱れてはいない。
活動もある。
餌も食べている。
身体の冷えも。
目立たない。
「一つだけで決めるな」
「一つだけ?」
「息が浅い。それだけで弱っていると決めたら、他が見えなくなる」
新吉が。
以前。
青洲から言われた言葉を思い出した。
「決めつけた瞬間、見えなくなるものがある……」
「ああ」
青洲は。
そこで初めて。
意識を集中した。
【生命解析】
【対象生体情報解析】
【全身状態:概ね安定】
【呼吸状態:軽度低下】
【活動性:維持】
【薬物負荷耐性:判定不能】
青洲は。
最後の文字を見る。
判定不能。
当然だ。
システムは。
未来の検査機器ではない。
これだけの情報で。
この個体に薬を使えば安全だなどと。
断言できるはずがない。
「先生?」
「何でもない」
表示を消す。
「新吉。書け」
「はい」
新吉が。
自分の言葉で記す。
百三十一回目。
薬を飲ませる前。
餌は食べている。
よく動く。
身体に強い冷えはない。
足取りもしっかりしている。
息は乱れていないが、百二十九回目のものより胸の動きが少し小さい。
触れるとすぐに反応する。
新吉が。
筆を止めた。
「これでいいですか?」
「ああ」
「じゃあ、薬を?」
青洲は。
すぐには答えなかった。
小動物を見る。
呼吸が。
わずかに浅い。
それ以外に。
大きな異常はない。
この程度の違いが。
薬への反応に影響するのか。
しないのか。
分からない。
だから。
確かめる。
ただし。
百三十回目と。
同じ失敗はしない。
「少しでも呼吸が大きく落ちたら止める」
「はい」
「眠りの深さだけを見るな」
「息を見る」
「それと?」
新吉が考える。
「触れた時の反応」
「ああ」
「身体の冷えも?」
「見る」
青洲は。
薬液を確認した。
そして。
決めていた基準に従い。
実験を開始する。
「始めるぞ」
「はい」
薬液を与えた。
新吉が。
すぐに帳面へ目を落とそうとする。
「書くな」
「え?」
「今は見ろ」
新吉が。
慌てて顔を上げる。
「書くのはあとだ。変化を見逃すな」
「はい」
二人で。
小動物を見る。
しばらく。
変化はない。
やがて。
動きが。
少しずつ鈍くなった。
「先生」
「ああ」
「眠くなってきています」
「息は?」
新吉が。
水滴を見る。
小動物を見る。
もう一度。
水滴。
「……まだ大きくは変わってません」
「続けろ」
さらに。
時間が経つ。
小動物が。
身体を伏せた。
触れた時の反応も。
少し鈍くなる。
「百二十九回目と似てます」
「今のところはな」
青洲も。
呼吸を見る。
その時だった。
新吉が。
顔を近づけた。
「先生」
「どうした?」
「これ……」
青洲は。
すでに気づいていた。
呼吸の速さではない。
回数だけなら。
大きく変わっていない。
だが。
一回。
一回の。
胸の動きが。
投与前より。
さらに小さくなっている。
「息の数は、そんなに減ってません」
「ああ」
「でも……」
新吉が。
小動物を見る。
「息が、浅くなってる」
青洲は。
静かに頷いた。
「それを見逃すな」
回数だけではない。
数字だけでもない。
身体が。
どう変わったのか。
そこを見る。
百三十一回目。
投与前に見つけた。
小さな違い。
それが。
薬を与えたあと。
何を意味するのか。
青洲は。
小動物から。
目を離さなかった。




