↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界No.1の外科医、異世界転生!?  作者: 阿門 甲斐吽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/23

【第22話】同じ病、違う答え


 天明(てんめい)六年(ろくねん)、冬(ふゆ)。


 朝(あさ)。


 華岡家(はなおかけ)の診療所(しんりょうじょ)。


「先生(せんせい)」


「何(なん)だ」


「これ、昨日(きのう)より増(ふ)えてませんか?」


 新吉(しんきち)が。


 帳面(ちょうめん)を見(み)ながら言(い)った。


「増(ふ)やした」


「やっぱり」


 新(あたら)しい診察記録法(しんさつきろくほう)。


 名前(なまえ)。


 年齢(ねんれい)。


 体格(たいかく)。


 主(おも)な訴(うった)え。


 発症時期(はっしょうじき)。


 食事(しょくじ)。


 睡眠(すいみん)。


 排泄(はいせつ)。


 脈(みゃく)。


 呼吸(こきゅう)。


 顔色(かおいろ)。


 活動状態(かつどうじょうたい)。


 前回(ぜんかい)からの変化(へんか)。


 そして。


 新(あら)たに。


 一(ひと)つの欄(らん)が加(くわ)えられていた。


「診察理由(しんさつりゆう)……」


「ああ」


「ここには何(なに)を書(か)くんです?」


「お前(まえ)が、なぜそれを調(しら)べたのか」


 新吉(しんきち)の眉(まゆ)が寄(よ)る。


「診(み)たことだけじゃ駄目(だめ)なんですか?」


「駄目(だめ)だ」


「どうして?」


「それを書(か)くための欄(らん)だ」


「……」


 新吉(しんきち)が。


 何(なん)とも言(い)えない顔(かお)をする。


 青洲(せいしゅう)は笑(わら)った。


「例(たと)えば腹痛(ふくつう)の患者(かんじゃ)に便(べん)のことを聞(き)いた」


「はい」


「なぜ聞(き)いた?」


「腹(はら)が痛(いた)いからです」


「答(こた)えになってない」


「ですよね……」


 新吉(しんきち)が頭(あたま)を抱(かか)える。


「医者(いしゃ)が覚(おぼ)えるのは、答(こた)えじゃない」


 青洲(せいしゅう)は言(い)った。


「答(こた)えを出(だ)すための考(かんが)え方(かた)だ」


 その日(ひ)の昼前(ひるまえ)。


 二人(ふたり)の患者(かんじゃ)が。


 ほとんど続(つづ)けて診療所(しんりょうじょ)を訪(おとず)れた。


 一人目(ひとりめ)は。


 三十代(さんじゅうだい)の男(おとこ)。


「腹(はら)を下(くだ)してしまって」


「いつからです?」


「昨日(きのう)の朝(あさ)からです」


 青洲(せいしゅう)は。


 新吉(しんきち)を見(み)る。


「診(み)てみろ」


「はい」


 新吉(しんきち)が男(おとこ)の前(まえ)へ座(すわ)る。


「何回(なんかい)くらい出(で)ました?」


「昨日(きのう)から六(ろく)、七回(ななかい)でしょうか」


「吐(は)きましたか?」


「いいえ」


「水(みず)は?」


「飲(の)めています」


 新吉(しんきち)は。


 顔色(かおいろ)を見(み)る。


 口(くち)の中(なか)。


 皮膚(ひふ)。


 脈(みゃく)。


 呼吸(こきゅう)。


 腹部(ふくぶ)。


 そして。


 記録(きろく)する。


「先生(せんせい)」


「どう思(おも)う?」


「腹(はら)を下(くだ)しています。でも、そこまで弱(よわ)ってはいないと思(おも)います」


「理由(りゆう)は?」


「水(みず)は飲(の)めている。吐(は)いていない。歩(ある)ける。脈(みゃく)も極端(きょくたん)に弱(よわ)くない」


「よし」


 青洲(せいしゅう)も診察(しんさつ)する。


 顔色(かおいろ)は悪(わる)くない。


 口(くち)の乾(かわ)きも強(つよ)くない。


 手足(てあし)も温(あたた)かい。


 脈(みゃく)にも。


 今(いま)すぐ危険(きけん)を感(かん)じるほどの弱(よわ)さはない。


 腹(はら)を下(くだ)している。


 それは間違(まちが)いない。


 だが。


 身体(からだ)そのものは。


 まだ保(たも)たれている。


 自分(じぶん)の診立(みた)てを固(かた)めてから。


 青洲(せいしゅう)は意識(いしき)を集中(しゅうちゅう)した。


 視界(しかい)の隅(すみ)に。


 淡(あわ)い青色(あおいろ)の文字(もじ)が浮(う)かぶ。


【生命解析(せいめいかいせき)】


【水分喪失(すいぶんそうしつ):軽度(けいど)】


【循環状態(じゅんかんじょうたい):安定(あんてい)】


【全身状態(ぜんしんじょうたい):概(おおむ)ね良好(りょうこう)】


【重篤(じゅうとく)な変化(へんか):現在確認(げんざいかくにん)されず】


 青洲(せいしゅう)の判断(はんだん)と。


 大(おお)きな食(く)い違(ちが)いはない。


 それだけ確認(かくにん)すると。


 表示(ひょうじ)を消(け)した。


 休養(きゅうよう)。


 水分(すいぶん)。


 食事(しょくじ)の取(と)り方(かた)。


 悪化(あっか)した場合(ばあい)の再診(さいしん)。


 それを伝(つた)え。


 男(おとこ)を帰(かえ)す。


 間(ま)もなく。


 次(つぎ)の患者(かんじゃ)が入(はい)ってきた。


 四十代(よんじゅうだい)の女(おんな)。


「先生(せんせい)……腹(はら)を下(くだ)して……」


 症状(しょうじょう)だけを聞(き)けば。


 先(さき)ほどと似(に)ている。


 だが。


 青洲(せいしゅう)の表情(ひょうじょう)が変(か)わった。


 歩(ある)き方(かた)が遅(おそ)い。


 身体(からだ)に力(ちから)がない。


 頬(ほお)が落(お)ち。


 唇(くちびる)が乾(かわ)いている。


 声(こえ)にも。


 張(は)りがない。


「新吉(しんきち)」


「はい」


「診(み)ろ」


 新吉(しんきち)も。


 違(ちが)いを感(かん)じ取(と)ったらしい。


「いつからですか?」


「一昨日(おととい)から……」


「何回(なんかい)くらい?」


「もう……分(わ)かりません」


「吐(は)きましたか?」


「何度(なんど)も」


「水(みず)は?」


「飲(の)んでも……戻(もど)してしまって」


 新吉(しんきち)が。


 手首(てくび)へ指(ゆび)を置(お)く。


 その顔(かお)が変(か)わった。


「脈(みゃく)が弱(よわ)いです」


「続(つづ)けろ」


「小便(しょうべん)は?」


「朝(あさ)から……出(で)ていません」


「口(くち)の中(なか)は?」


「乾(かわ)いています」


「手足(てあし)は?」


 触(ふ)れる。


「少(すこ)し冷(つめ)たいです」


 青洲(せいしゅう)が聞(き)く。


「どう思(おも)う?」


「身体(からだ)から水(みず)が抜(ぬ)けています」


「それだけか?」


 新吉(しんきち)が考(かんが)える。


「……かなり?」


「そうだ」


 青洲自身(せいしゅうじしん)も。


 女(おんな)を診(み)る。


 脈(みゃく)。


 細(ほそ)い。


 先(さき)ほどの男(おとこ)とは。


 明(あき)らかに違(ちが)う。


 口(くち)の乾燥(かんそう)。


 冷(ひ)えた手足(てあし)。


 尿(にょう)が出(で)ていない。


 繰(く)り返(かえ)す嘔吐(おうと)。


 水分(すいぶん)を取(と)ることも難(むずか)しい。


 身体(からだ)から失(うしな)ったものに。


 補(おぎな)う量(りょう)が追(お)いついていない。


 このままなら。


 循環(じゅんかん)そのものが。


 さらに悪(わる)くなる。


 蒼真(そうま)だった頃(ころ)なら。


 迷(まよ)わない。


 血圧(けつあつ)を測(はか)る。


 採血(さいけつ)する。


 電解質(でんかいしつ)。


 腎機能(じんきのう)。


 酸塩基平衡(さんえんきへいこう)。


 必要(ひつよう)な補液量(ほえきりょう)を考(かんが)える。


 静脈路(じょうみゃくろ)を確保(かくほ)する。


 だが。


 ここには。


 点滴(てんてき)がない。


 血液検査(けつえきけんさ)もない。


 正確(せいかく)な血圧(けつあつ)すら測(はか)れない。


 知識(ちしき)はある。


 必要(ひつよう)な治療(ちりょう)も分(わ)かっている。


 その治療(ちりょう)を支(ささ)えるものだけが。


 何一(なにひと)つない。


 青洲(せいしゅう)は。


 女性(じょせい)の手首(てくび)へ触(ふ)れたまま。


 考(かんが)えた。


 それでも。


 腸(ちょう)がまだ働(はたら)いているなら。


 使(つか)える。


 口(くち)から入(い)れた水(みず)を。


 身体(からだ)へ取(と)り込(こ)める可能性(かのうせい)がある。


 そこまで考(かんが)え。


 青洲(せいしゅう)は初(はじ)めて。


 生命解析(せいめいかいせき)へ意識(いしき)を向(む)けた。


 視界(しかい)の端(はし)で。


 青(あお)い文字(もじ)が静(しず)かに開(ひら)く。


【生命解析(せいめいかいせき)】


【全身状態(ぜんしんじょうたい):低下(ていか)】


【水分喪失(すいぶんそうしつ):大(だい)】


【循環維持能力《じゅんかんいじのうりょく》:低下傾向(ていかけいこう)】


【経口摂取(けいこうせっしゅ):困難(こんなん)】


【警告(けいこく):状態悪化(じょうたいあっか)の可能性(かのうせい)】


 やはり。


 自分(じぶん)の診立(みた)てと。


 大(おお)きくは違(ちが)わない。


「まだ飲(の)めるうちに戻(もど)す」


「先生(せんせい)?」


「新吉(しんきち)、準備(じゅんび)するぞ」


「はい」


「加恵(かえ)」


「はい」


「一度(いちど)沸(わ)かした湯(ゆ)を冷(さ)ましてくれ」


「分(わ)かりました」


「新吉(しんきち)。塩(しお)を持(も)ってきてくれ」


「塩(しお)ですか?」


「ああ。それと、甘味(あまみ)に使(つか)えるものを少(すこ)し」


 新吉(しんきち)が。


 不思議(ふしぎ)そうな顔(かお)をする。


「水(みず)だけじゃないんですか?」


「水(みず)だけよりいい場合(ばあい)がある」


「どうして?」


 青洲(せいしゅう)は。


 一瞬(いっしゅん)。


 言葉(ことば)を選(えら)んだ。


 小腸(しょうちょう)。


 ナトリウム。


 糖(とう)。


 共輸送(きょうゆそう)。


 そんな言葉(ことば)を並(なら)べても。


 新吉(しんきち)には伝(つた)わらない。


「腹(はら)を下(くだ)すと、水(みず)だけじゃなく身体(からだ)の中(なか)の塩気(しおけ)も失(うしな)う」


「塩気(しおけ)……」


「それに、少(すこ)し甘味(あまみ)を加(くわ)える」


「薬(くすり)なんですか?」


「薬(くすり)というより」


 青洲(せいしゅう)は。


 冷(さ)ました湯(ゆ)を見(み)る。


「身体(からだ)に水(みず)を戻(もど)すための工夫(くふう)だ」


 加恵(かえ)が。


 器(うつわ)を持(も)ってくる。


 青洲(せいしゅう)は。


 いつもの薬(くすり)を量(はか)る時(とき)に使(つか)う小(ちい)さな匙(さじ)を見(み)る。


 だが。


 手(て)が止(と)まった。


 現代(げんだい)の経口補水液(けいこうほすいえき)なら。


 組成(そせい)は決(き)まっている。


 水(みず)。


 ナトリウム。


 糖(とう)。


 その他(た)の電解質(でんかいしつ)。


 濃(こ)すぎてもいけない。


 薄(うす)すぎても。


 狙(ねら)った効果(こうか)にならない。


 だが。


 今(いま)ある塩(しお)は。


 現代(げんだい)の精製(せいせい)された塩(しお)とは違(ちが)う。


 甘味料(かんみりょう)も。


 一定(いってい)の純度(じゅんど)ではない。


 水(みず)の量(りょう)も。


 現代(げんだい)の計量器(けいりょうき)ほど正確(せいかく)には測(はか)れない。


 ここで。


 未来(みらい)の処方(しょほう)を。


 数字(すうじ)だけ真似(まね)するのは危険(きけん)だった。


「少(すこ)しずつ作(つく)る」


 青洲(せいしゅう)は。


 薄(うす)い塩気(しおけ)になるよう調整(ちょうせい)する。


 そこへ。


 わずかな甘味(あまみ)を加(くわ)える。


 自分(じぶん)でも確(たし)かめる。


「濃(こ)くする必要(ひつよう)はない」


 新吉(しんきち)が聞(き)く。


「薄(うす)くていいんですか?」


「濃(こ)ければ効(き)くわけじゃない」


 青洲(せいしゅう)は。


 女(おんな)の状態(じょうたい)を見(み)る。


「今(いま)は飲(の)めることの方(ほう)が大事(だいじ)だ」


 まず。


 ほんの少(すこ)し。


 匙(さじ)で。


 口(くち)へ運(はこ)ぶ。


「ゆっくり飲(の)んでください」


 女性(じょせい)が飲(の)み込(こ)む。


 青洲(せいしゅう)は。


 すぐ次(つぎ)を与(あた)えない。


 待(ま)つ。


「気持(きも)ち悪(わる)くなりますか?」


「……少(すこ)し。でも、大丈夫(だいじょうぶ)です」


 さらに待(ま)つ。


 吐(は)かない。


「もう少(すこ)し」


 二口目(ふたくちめ)。


 また。


 待(ま)つ。


 新吉(しんきち)が。


 不思議(ふしぎ)そうに見(み)ている。


「先生(せんせい)。もっと飲(の)ませた方(ほう)が早(はや)いんじゃ?」


「一度(いちど)に入(い)れて吐(は)いたらどうなる?もう忘れたのか?」


「あ……」


「戻(もど)した分(ぶん)だけ、また失(うしな)う」


 少(すこ)し。


 飲(の)ませる。


 待(ま)つ。


 吐(は)かないことを確認(かくにん)する。


 また。


 少(すこ)し。


 急(いそ)がない。


 身体(からだ)が受(う)け入(い)れられる範囲(はんい)で。


 積(つ)み重(かさ)ねる。


 新吉(しんきち)が。


 帳面(ちょうめん)へ記録(きろく)する。


「飲(の)ませ始(はじ)めました。今(いま)のところ、吐(は)いていません」


「脈(みゃく)は?」


 新吉(しんきち)が。


 女性(じょせい)の手首(てくび)へ指(ゆび)を置(お)く。


「まだ弱(よわ)いです」


「呼吸(こきゅう)」


「さっきと大(おお)きくは変(か)わっていません」


「それも書(か)け」


「はい」


 補水開始(ほすいかいし)。


 少量摂取(しょうりょうせっしゅ)。


 嘔吐(おうと)なし。


 脈(みゃく)は弱(よわ)い。


 呼吸(こきゅう)に大(おお)きな変化(へんか)なし。


 これは。


 システムが残(のこ)した記録(きろく)ではない。


 新吉(しんきち)が。


 自分(じぶん)で診(み)て。


 自分(じぶん)の手(て)で残(のこ)した記録(きろく)だ。


 しばらくして。


 もう一度(いちど)。


 脈(みゃく)を取(と)る。


「先生(せんせい)」


「どうだ?」


「さっきより……少(すこ)し触(ふ)れやすいです」


「本当(ほんとう)に?」


 新吉(しんきち)が。


 もう一度(いちど)確(たし)かめる。


「はい」


 青洲(せいしゅう)も触(ふ)れる。


 確(たし)かに。


 わずかだが。


 先(さき)ほどより捉(とら)えやすい。


 顔色(かおいろ)にも。


 ほんの少(すこ)し。


 変化(へんか)がある。


 だが。


「まだ安心(あんしん)するな」


「はい」


「一(ひと)つ良(よ)くなったから、全部(ぜんぶ)良(よ)くなったと思(おも)うな」


 脈(みゃく)。


 意識(いしき)。


 呼吸(こきゅう)。


 尿(にょう)。


 飲(の)めるか。


 吐(は)かないか。


 全部(ぜんぶ)を見(み)る。


 さらに。


 時間(じかん)を置(お)く。


 少量(しょうりょう)ずつ。


 補(おぎな)う。


 女性(じょせい)が。


 やがて。


 自分(じぶん)から器(うつわ)へ手(て)を伸(の)ばした。


「もう少(すこ)し……飲(の)みたいです」


「ゆっくりなら」


 青洲(せいしゅう)は頷(うなず)いた。


 飲(の)みたい。


 その訴(うった)えも。


 一(ひと)つの変化(へんか)だった。


 さらに。


 時間(じかん)が経(た)った。


 女性(じょせい)が。


 少(すこ)し落(お)ち着(つ)かない様子(ようす)で。


 身体(からだ)を動(うご)かした。


「どうしました?」


 加恵(かえ)が気(き)づく。


「その……」


 女性(じょせい)が。


 申(もう)し訳(わけ)なさそうに言(い)う。


「小便(しょうべん)がしたくなって……」


 青洲(せいしゅう)の目(め)が動(うご)いた。


 朝(あさ)から。


 一度(いちど)も出(で)ていないと言(い)っていた。


「立(た)てますか?」


「たぶん……」


 女性(じょせい)が。


 手(て)をついて身体(からだ)を起(お)こす。


 だが。


 立(た)ち上(あ)がったところで。


 身体(からだ)がふらついた。


「無理(むり)しないで」


 加恵(かえ)が。


 すぐに身体(からだ)を支(ささ)える。


 青洲(せいしゅう)は。


 その様子(ようす)を見逃(みのが)さなかった。


 立(た)つことはできる。


 だが。


 まだ。


 一人(ひとり)で歩(ある)かせられる状態(じょうたい)ではない。


「加恵(かえ)」


「はい」


「厠(かわや)まで付(つ)き添(そ)ってやってくれ」


「分(わ)かりました」


「ゆっくりでいい」


 加恵(かえ)が。


 女性(じょせい)の腕(うで)を取(と)り。


 身体(からだ)を支(ささ)える。


 一歩(いっぽ)。


 また一歩(いっぽ)。


 歩(ある)けてはいる。


 だが。


 足取(あしど)りは弱(よわ)い。


 新吉(しんきち)が。


 二人(ふたり)を見送(みおく)る。


「先生(せんせい)」


「何(なん)だ」


「小便(しょうべん)がしたくなったのは、良(よ)くなっているってことですか?」


「可能性(かのうせい)はある」


「可能性(かのうせい)?」


「まだ決(き)めるな」


 青洲(せいしゅう)は。


 女性(じょせい)が座(すわ)っていた場所(ばしょ)を見(み)る。


「尿意(にょうい)が戻(もど)っただけじゃ分(わ)からない。実際(じっさい)に出(で)るか。どれくらい出(で)るか。その後(ご)の状態(じょうたい)はどうか」


「そこまで見(み)るんですか?」


「そこまで見(み)る」


 しばらくして。


 加恵(かえ)に支(ささ)えられながら。


 女性(じょせい)が戻(もど)ってきた。


 先(さき)ほどより。


 わずかに表情(ひょうじょう)が柔(やわ)らかい。


「どうだった?」


 青洲(せいしゅう)が聞(き)く。


「少(すこ)しですが、出(で)ました」


 加恵(かえ)が答(こた)える。


 青洲(せいしゅう)は。


 女性(じょせい)を見(み)る。


「気分(きぶん)は?」


「さっきより……少(すこ)し楽(らく)です」


「歩(ある)いて、苦(くる)しくなったり、気持(きも)ち悪(わる)くなったりは?」


「少(すこ)しふらつきました。でも、吐(は)き気(け)はありません」


「分(わ)かりました。もう少(すこ)し休(やす)んでください」


 女性(じょせい)を。


 再(ふたた)び座(すわ)らせる。


「新吉(しんきち)」


「はい」


「記録(きろく)」


 新吉(しんきち)が。


 すぐに筆(ふで)を取(と)る。


 尿意(にょうい)あり。


 排尿(はいにょう)あり。


 量(りょう)は少(すく)ない。


 歩行(ほこう)は可能(かのう)。


 ただし。


 介助(かいじょ)を要(よう)する。


 歩行後(ほこうご)の嘔気(おうき)なし。


「歩(ある)いたことも書(か)くんですか?」


「ああ」


「小便(しょうべん)の記録(きろく)なのに?」


「患者(かんじゃ)の状態(じょうたい)の記録(きろく)だ」


 新吉(しんきち)が。


 青洲(せいしゅう)を見(み)る。


「尿(にょう)だけ見(み)てるんじゃないんですね」


「そういうことだ」


 青洲(せいしゅう)は。


 女性(じょせい)の手首(てくび)へ。


 もう一度(いちど)。


 指(ゆび)を当(あ)てた。


 脈(みゃく)は。


 最初(さいしょ)より。


 触(ふ)れやすくなっている。


 呼吸(こきゅう)も。


 大(おお)きく乱(みだ)れてはいない。


 受(う)け答(こた)えも。


 先(さき)ほどよりはっきりしている。


 自分(じぶん)から水分(すいぶん)を欲(ほ)しがった。


 尿意(にょうい)が戻(もど)った。


 少量(しょうりょう)ながら。


 実際(じっさい)に排尿(はいにょう)できた。


 だが。


 歩(ある)くには。


 まだ支(ささ)えが必要(ひつよう)だった。


 改善(かいぜん)している。


 その可能性(かのうせい)は高(たか)い。


 しかし。


 危険(きけん)が去(さ)ったわけではない。


 青洲(せいしゅう)は。


 そこまで判断(はんだん)してから。


 意識(いしき)を集中(しゅうちゅう)した。


 視界(しかい)の端(はし)に。


 淡(あわ)い青色(あおいろ)の表示(ひょうじ)が開(ひら)く。


【生命解析(せいめいかいせき)】


【前回解析(ぜんかいかいせき)との比較(ひかく)】


【水分状態(すいぶんじょうたい):改善傾向(かいぜんけいこう)】


【循環状態(じゅんかんじょうたい):改善傾向(かいぜんけいこう)】


【経口摂取(けいこうせっしゅ):維持(いじ)】


【排尿(はいにょう):回復傾向(かいふくけいこう)】


【全身状態(ぜんしんじょうたい):依然低下(いぜんていか)】


【継続観察(けいぞくかんさつ)を推奨(すいしょう)】


「……そうだな」


 青洲(せいしゅう)が。


 小(ちい)さく呟(つぶや)いた。


 システムが。


 改善(かいぜん)を教(おし)えたのではない。


 自分(じぶん)たちが。


 患者(かんじゃ)を見(み)て。


 触(ふ)れて。


 聞(き)いて。


 記録(きろく)して。


 その変化(へんか)を捉(とら)えた。


 生命解析(せいめいかいせき)は。


 その判断(はんだん)を。


 後(あと)から照(て)らし合(あ)わせただけだ。


【使用者(しようしゃ)による経過評価(けいかひょうか)を確認(かくにん)】


【観察情報(かんさつじょうほう)との統合率(とうごうりつ):上昇(じょうしょう)】


 青洲(せいしゅう)は。


 表示(ひょうじ)を消(け)した。


 順番(じゅんばん)を。


 間違(まちが)えてはいけない。


 まず。


 患者(かんじゃ)を診(み)る。


 自分(じぶん)で考(かんが)える。


 判断(はんだん)する。


 その後(あと)で。


 システムを使(つか)う。


 それでなければ。


 この医術(いじゅつ)は。


 自分以外(じぶんいがい)へ残(のこ)せない。


「新吉(しんきち)」


「はい」


「今(いま)、何(なに)を治療(ちりょう)した?」


「腹下(はらくだ)し……ではないですよね」


「そうだ」


 新吉(しんきち)は。


 自分(じぶん)の記録(きろく)を見(み)る。


「身体(からだ)から失(うしな)ったものを、戻(もど)した?」


「その考(かんが)え方(かた)を覚(おぼ)えろ」


 青洲(せいしゅう)は。


 器(うつわ)の中(なか)の液体(えきたい)を見(み)る。


 これは。


 2025年(ねん)の経口補水液(けいこうほすいえき)ではない。


 成分濃度(せいぶんのうど)も。


 品質(ひんしつ)も。


 同(おな)じではない。


 そう呼(よ)ぶべきでもない。


 だが。


 考(かんが)え方(かた)は。


 未来(みらい)の医学(いがく)とつながっている。


 失(うしな)った水分(すいぶん)を補(おぎな)う。


 失(うしな)った塩分(えんぶん)も考(かんが)える。


 腸(ちょう)から吸収(きゅうしゅう)できる条件(じょうけん)を利用(りよう)する。


 一度(いちど)に無理(むり)をせず。


 患者(かんじゃ)の反応(はんのう)を見(み)ながら続(つづ)ける。


 未来(みらい)の完成品(かんせいひん)を。


 過去(かこ)へ持(も)ち込(こ)んだわけではない。


 未来(みらい)で知(し)った原理(げんり)を。


 1786年(ねん)で使(つか)える方法(ほうほう)へ。


 組(く)み直(なお)したのだ。


 その時(とき)。


 視界(しかい)の隅(すみ)に。


 小(ちい)さな表示(ひょうじ)が浮(う)かんだ。


【SYSTEM (システム)】


【医療技術再構築《いりょうぎじゅつさいこうちく》を確認(かくにん)】


【超高速学習《ちょうこうそくがくしゅう》】


【既存知識(きそんちしき)と現環境(げんかんきょう)の照合(しょうごう)を完了(かんりょう)】


【実行不能項目《じっこうふのうこうもく》を確認(かくにん)】


【静脈補液(じょうみゃくほえき)】


【血液検査(けつえきけんさ)】


【電解質測定(でんかいしつそくてい)】


【代替手段(だいたいしゅだん)の構築(こうちく)を確認(かくにん)】


【経口摂取(けいこうせっしゅ)】


【臨床所見(りんしょうしょけん)による経過評価(けいかひょうか)】


【技術再構築(ぎじゅつさいこうちく):進行(しんこう)】


 青洲(せいしゅう)は。


 少(すこ)しだけ。


 目(め)を細(ほそ)めた。


 これは。


 治療法(ちりょうほう)を教(おし)えた表示(ひょうじ)ではない。


 青洲自身(せいしゅうじしん)が考(かんが)え。


 実行(じっこう)した方法(ほうほう)を。


 システムが。


 後(あと)から整理(せいり)している。


 それでいい。


 未来(みらい)と。


 同(おな)じではない。


 同(おな)じにする必要(ひつよう)もない。


 重要(じゅうよう)なのは。


 この時代(じだい)で。


 患者(かんじゃ)を救(すく)える形(かたち)にすること。


 夕方(ゆうがた)。


 女性(じょせい)の状態(じょうたい)が落(お)ち着(つ)いたあと。


 青洲(せいしゅう)は。


 新(あたら)しい記録(きろく)を作(つく)った。


 補水時(ほすいじ)に見(み)るもの。


 飲(の)めるか。


 吐(は)かないか。


 脈(みゃく)はどう変(か)わるか。


 呼吸(こきゅう)はどうか。


 意識(いしき)は保(たも)たれているか。


 口(くち)の乾(かわ)き。


 手足(てあし)の冷(ひ)え。


 尿意(にょうい)はあるか。


 尿(にょう)は出(で)たか。


 自力(じりき)で立(た)てるか。


 歩(ある)けるか。


 支(ささ)えが必要(ひつよう)か。


 新吉(しんきち)が。


 横(よこ)から見(み)る。


「これも、これから毎回(まいかい)?」


「必要(ひつよう)な患者(かんじゃ)にはな」


「また増(ふ)えましたね」


「ああ」


「覚(おぼ)えることばかりです」


「だから帳面(ちょうめん)にする」


 青洲(せいしゅう)は答(こた)えた。


 自分(じぶん)だけなら。


 覚(おぼ)えている。


 華岡蒼真(はなおかそうま)は。


 この治療(ちりょう)の意味(いみ)を知(し)っている。


 だが。


 華岡青洲(はなおかせいしゅう)だけが。


 できる治療(ちりょう)では意味(いみ)がない。


 なぜ。


 水(みず)を与(あた)えるのか。


 なぜ。


 少(すこ)し塩気(しおけ)を加(くわ)えるのか。


 なぜ。


 甘味(あまみ)を使(つか)うのか。


 なぜ。


 一度(いちど)に飲(の)ませないのか。


 そして。


 何(なに)を見(み)て。


 続(つづ)けるか止(と)めるかを判断(はんだん)するのか。


 それを。


 この時代(じだい)の言葉(ことば)で残(のこ)す。


 未来(みらい)を語(かた)らず。


 未来(みらい)の医学(いがく)を。


 再現(さいげん)する。


 青洲(せいしゅう)は。


 帳面(ちょうめん)へ。


 一行(いちぎょう)を書(か)き加(くわ)えた。


「薬(くすり)だけが、人(ひと)を救(すく)うのではない」


 病(やまい)を治(なお)すことと。


 命(いのち)をつなぐことは。


 時(とき)に。


 別(べつ)の医術(いじゅつ)だった。


 1786年(ねん)。


 華岡青洲(はなおかせいしゅう)の診療所(しんりょうじょ)で。


 未来(みらい)なら当(あ)たり前(まえ)になっている考(かんが)え方(かた)が。


 まだ名前(なまえ)すら持(も)たないまま。


 静(しず)かに。


 形(かたち)になり始(はじ)めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。